それじゃァ、続きはまた今度・・・と笑顔で言い残して菊千代が隣の座敷に戻ると、待ってましたとばかりに鐘や太鼓、三味線の音が鳴り始めた。客のご隠居と名雲屋は両手に花といった形で自分に背を向けるようにして座っており、その肩越しに菊千代の綺麗な立ち姿が見える。
華やかな座敷の様子を眺めながら呑むのも悪くないかもしれないが、初めての博打は思いのほか右近を疲れさせ・・・恐らく神経を集中しすぎたせいであろう・・・出来れば今はひとりで静かにぼうっとしていたかった。が、ご隠居と名雲屋、そして自分にも忘れずに流し目を送る菊千代姐さんと目が合ってしまっては、ここで自分ひとりが関係ありませんよという顔で襖を閉めるのは如何にも無粋で心苦しい。
律義者というか、お人好しというか、場の雰囲気を損なうことを案じ、開け放たれた襖を閉められなくなる右近。
と、
「梅は咲いたか、桜はまだかいな」
独り言のように呟く名雲屋の声が聞こえ、その両脇に侍っていたまだ年若い舞妓たちが揃って立ち上がった。
ふたりの動きに気づいた三味(しゃみ)の調子が、軽快なものへと変わる。
菊千代の後ろに回って振り返ったふたりの手には天井まで届きそうな幟のような棒が握られ、ひとりが三味の音(ね)に合わせて小走りに走り出したかと思うと、現われて来たのは吉野千本桜のごとき春爛漫の山。ふたりの持つ2本の棒には芝居小屋で使うような幕が巻きつけられていたらしく、右近の目の前にも桜の咲き誇る春山の景色が広がる。おお、これはまた見事な、と喜ぶご隠居の声に、華やいでいた座敷がまた一段と盛り上がるのが、幕を間に挟んだ右近にも感じられる。
光の加減では描かれた春景色を通してそこはかとなく向こう側が透けて見えるようだが、それでも右近が息を抜くには十分だ。また、ほのかであっても光を通すほどであるがゆえにお互いに相手を閉め出すような無粋さが感じられず、ちょうどよい距離感を保っている。
右近を気遣ってのことか、「花見」の趣向としてもともと仕込んであったものか、いずれにしても、こうした如才無さが名雲屋の評判を上げていることに間違いはない。そして、それを気配りと感じるか計算と見るかは受け手次第と言ってもよく。
だから、右近は迂闊に名雲屋を斬れないでいる。
優雅に舞う菊千代の姿に誘われるように季節はずれな春爛漫の景色が微かに波打ち、咲き誇る桜が舞い散るようで。
桜吹雪・・・か。
<その桜吹雪はいつ背負いなすったンです?>
<・・・右近様、この桜吹雪は一体いつ背負われましたので?>
<ああ、これは・・・子どもの頃に少し思うところがあってな>
そう、思いついたのは子どもの頃だった。
あの時は、どうしても桜吹雪でなければ駄目だと思い込んでいた。
まだもの心もつかない幼い妹の記憶に残るためには、妹が大好きな桜吹雪を自分の身体に消えない目印として刻むしかないと頑なに信じていたのだ。
しかし考えてみれば、突然8つかそこらの一文無しのガキが訪ねてきて桜吹雪の刺青をしてくれと懇願したところで、ハイそうですかと素直に承知してくれる訳が無い。そんな簡単なことも分からないくらい子どもで、切羽詰っていた。西国への出立が、明日に迫っていた。
『また来たのか小僧!帰れ帰れ!!』
彫師のところに通って5日目、右近が仕事場の戸を開けるか開けないかのうちに怒鳴られた。
『金なら後で払うから、なあ、頼むよ!俺、お侍様のところに奉公が決まったンだ、だから金はきっと払えるから、今日中に何とか頼むよ』
『金のことだけでとやかく言ってンじゃねえよ、いいかガキ、お前、自分の言ってることが分かってンのか?お侍ンとこに奉公に行くヤツが刺青者になってどうする?馬鹿言ってンじゃねえぞ』
『でも桜吹雪が無いままじゃ、俺、奉公に行けねえンだよ』
『何ゴチャゴチャ訳の分かンねえこと言ってやがる。商売の邪魔だってンだ、おい、辰、そいつつまみ出せ』
師匠に呼ばれ仕事場の奥から仁王のような大男が現われたかと思うと子猫をつまむように襟首を掴まれ・・・表に放り投げられるかと思いきや、仁王は自分を引き摺(ず)るようにして歩き出した。暴れても喚(わめ)いても切々と訴えても、仁王は何も聞こえないかのように無言で歩いていく。
引き摺られながら見上げた空が青くて、そこに桜が綺麗に咲くのが見えてくると、妹の笑顔が重なって何だか泣きたくなってきた。
不甲斐ない自分、不憫な妹。
幼い妹に何の望みも残してやれないまま、自分は明日遠い西国へと旅立つのか。
『・・・・・・そんなにお前、桜吹雪背負(しょ)いたいのか』
どのくらい歩いたか分からないが、気がつくと茶店の赤い毛氈の上にちょこんと座らされていた。手には団子の串を持たされている。初めて聞いた仁王の声は思ったより若くて、ぶっきらぼうだったが冷たくは無かった。何とかしてくれそうな気配がして、必死に縋りついた。
『このままなンの手がかりも無いまま生き別れじゃァ、いくら俺が大人になって稼ぎが出来て迎えに来たって、下手すりゃ一生会えねえかもしれねえ。そんなの真っ平ご免だ、この世でたったふたりの兄妹なんだぜ。頼むよ俺を妹に覚えておいてもらいてえンだよ、妹は桜吹雪が大好きなんだよ、まだ3つで細けえこたァ分からねえが、桜の絵を見て桜たァ言えるくらいの知恵はある。俺、明日にはお侍様について江戸を離れなくッちゃならねえンだ、だから今日しかもう残ってねえンだよ』
『そうか・・・、なるほどな』
仁王は根気よく半泣きの子どもの言うことに耳を傾けて子どもなりの道理を理解してくれた上で、出来ることと出来ないことを訥々と説明してくれた。
今日中に桜吹雪を背負わせることは出来る。
だが、それは刺青を彫ってやるというのではない。今日中に桜吹雪の刺青を彫ることは出来ない。なぜなら、刺青は肌の上に刷毛で絵の具を塗っているのではなく、肌の下に針を刺して絵の具を入れ込み、その無数の色の点で肌を埋めていって絵にしていくため、とても1日やそこらで出来るものではないからだ。つまり、右近が最初に頼みに来た時ですら、明日の出立に刺青を間に合わせるには既に手遅れだったのだ。
『・・・だから、刺青は無理だが、ちょいとお前さんの背中や二の腕に桜吹雪の絵を描いてやることは出来る。小せえ妹に覚えさせるだけならそれでも十分だろ?』
それは有難いが、その桜吹雪は風呂に入ったら絵の具が流れておしまいではないのか。
それでは困るのだけど。
だからと言って仁王の申し出を断ってしまったら何も無しだ。
とにかく、仁王の言うことを聞けば、とりあえず今日のうちに妹に桜吹雪を見せて覚えさせることは出来る。
でも、その先はどうしよう。
『・・・・・・・・・』
じっと瞳をこらして仁王を見返しながら考え込んでいると、自分の不安を察したかのように仁王が懐から一枚の紙切れを取り出した。
広げて見せてくれたそれは、あの青空に鮮やかに咲き誇る満開の桜のように綺麗で。
『絵が描けたら、これをお前さんにくれてやる。桜吹雪の下絵だ。刺青はお前さんが大きくなっていつか妹を迎えに来るまでに背負っておけばいいじゃねえか。但し、彫り上げるまでに半年くれえかかるだろうから、それを忘れるンじゃねえぞ』
そうか。
この絵をもらえるなら、大丈夫だ。
例え仁王とこれっきり会えなくなっても、この絵の通りに誰かに刺青を入れてもらえばいいのだから。
ここで漸く右近は安堵した。
安堵したら腹が減っていることに気づいた。団子はひとつだけ食べて、残りは妹へ土産に持って帰ってやろうと思って茶店のお姉さんに懐紙をもらおうとしたら、仁王が毛氈の上に置いてあった団子を包んで懐に入れてくれた。
右近を連れて一旦彫師のところに戻った仁王は、師匠である彫師に何事かを頼んで許しを乞うと自分の長屋へ右近を連れて行き、そこで桜吹雪を描いてくれた。絵師になるために江戸に出て来たという仁王は、絵だけでは食べていけないことに気づいて彫師のところに弟子入りしたのだと言っていた。
右近が退屈しないようにと並べてくれた絵は、般若や毘沙門天、昇り竜に唐獅子牡丹等々。どれも見飽きることの無い迫力と美しさで今でもはっきり覚えている。そして、お守り袋にしまった桜吹雪の絵も色鮮やかに美しく・・・いつか本当に刺青を入れる時には仁王に頼みたいと強く願ったものだ。
だから、長雨で大井川宿に足止めを食っていた時に偶然仁王、もとい、今や名人と呼ばれる腕になっていた彫師の辰と再会した右近は迷うことなくその白い肌に咲かせる桜吹雪を辰に任せることにしたのだった。
そう言えば、辰のところで知り合った男の昇り竜は出来上がったのだろうか。
今宵、初めての丁半博打で何とか不恰好な姿をさらすことなく済んだのも、彼のおかげだ。
辰の仕事場でしか会ったことが無かったが、一体何者だったのだろう。
あの日、濡れそぼった雨具を脱ぎもせず、稲垣の家から自分を追いかけてきたという相手は土間に膝をついて帰ってくるよう訴えた。
辰が針を刺す手を止めるのを待って起き上がり、背中に咲き始めた桜吹雪を曝したまま土間に降りて相手よりも更に深く頭を下げた。
もう、稲垣の家には戻らない。
その戻らない覚悟を見せるためにも、自分を諦めてもらうためにも。
これで良かったのだと思う。
どんなに言葉を尽くすより、もう堅気には戻らない覚悟を決めたというひと言と、背中の桜吹雪が相手を納得させた。
残念そうに名残惜しそうに立ち去る相手と入れ違いに入って来たのが、あの男だった。
男は戸口で中の話が終わるのを待っていてくれたらしく、軒先から零れる雨に着物の肩が少し濡れていた。
そして、立ち聞きするつもりじゃァなかったンですがねと前置きして男は言った。
『堅気に戻らねェお覚悟たァどんなモンかは存知ませんが、名人彫辰(ほりたつ)の桜吹雪を背負いなさるなら壷のひとつも振れねェと格好がつきませんぜ』
『え?』
思いもよらぬことを言われて意味が分からずに聞き返す右近へ、男は笑顔で手を伸ばすと握っていた拳を開いた。
咄嗟に手を出す右近の手のひらに転がる賽ふたつ。
『まァ、ちょいとその賽をこっちの湯呑の中に放り込んでごらんなせえ』
慣れた様子で卓袱(ちゃぶ)台の上から湯呑を取り、右近に持たせようとした男の手を静かに遮る辰。
『いいんですよ、若。こいつは別に壷を振りたくッて桜吹雪を背負うわけじゃァねえンですから』
有無を言わせぬ辰の声の響きに大抵の者ならば引き下がったであろうが、若と呼ばれたその男は違った。
笑顔のまま辰を真っ直ぐ見返し、右近の前へ湯呑を置く。
『なァに、そいつァ分からねえぜ、辰。堅気に戻らねえと言って何をどうして食っていくおつもりかは知らねえが、壷を振って生きていくのもありえねえ話じゃねえ。ま、それだけを生業(なりわい)にするかどうかは別として、せめて賽を取りこぼさねえくらいには壷を振れなくッちゃ、背なの桜吹雪が泣くってモンだぜ。ああ、誰が泣かねえでも俺は泣くね。辰の桜吹雪、ただのハッタリで背負うだけなら勿体ねえ』
辰に答えながら、その瞳には右近も映っている。
自分が映っている、と右近が気づいた途端、ふたりの視線がぶつかり・・・男の両眼から笑みが消えた。
『そんなのァ覚悟たァ言わねえ。物の弾みってンだ』
その男の言葉にハッと胸を衝かれる右近。
右近の顔色が変わったのを見て取った辰が男を軽く睨む。
『こいつの事情も聞かずにそいつァ言い過ぎですぜ、若』
睨まれた男の瞳には逆に微笑みが戻る。
『言葉が過ぎるのもお節介なのも承知の上さ。だがなァ、辰。刺青だけは立派で堅気でもねえ極道でもねえと言われりゃァ、世間様は何と見る?遊び人の旗本の三男坊あたりが伊達や酔狂でやっちまったと思うくらいが関の山だろうが。そちらさんも、桜吹雪を見られる度にイチイチ身の上話をするつもりじゃァねえでしょう?』
諭すように語る男の声に耳を傾けながら、右近は自分が口で堅気に戻らないなどと言うばかりで、実のところは何の覚悟も決められていなかったのだと思い知らされる。桜吹雪はあくまでも妹との再会を約するため、また、恩義ある稲垣の家で無用の諍(いさか)いを起こさないための決別の証であって、それが自分自身の人となりまでも変えるものではないと思っていたのだが、それは言うなれば右近の勝手な思い込みであって。
刺青だけは立派で堅気でもねえ極道でもねえと言われりゃァ、遊び人の旗本の三男坊あたりが伊達や酔狂でやっちまったと思うくらいが関の山・・・か。
確かに、会う人ごとに身の上話をしていくわけにはいかないし、話したくない相手からの余計な詮索を避けるためにも、壷くらい振れた方がいいかもしれない。それに、稲垣の家で勤めていた間の蓄えがあるとは言え、何もせずに遊んで暮らしていけるほどの余裕はない。この先、妹を養っていくにしても嫁入りの支度をしてやるにしても、金は要る。そして何で稼ぐかは・・・寺子屋で子どもに勉強を教えたり、傘貼りしたり、用心棒でもするか、などと漠然と考えていた・・・それってまるきり堅気じゃないか。
堅気には戻らないなどと偉そうに稲垣の家の者を追い返しておきながら、この様(ざま)は何だ。
壷のひとつも振れなくては、稲垣の家に対しても義理が立たない気がする。
『まァ、そうは言っても、こちらがどうにも不器用で賽が壷に入らねえかもしれませんがね』
軽く挑発するような男の言い方が、考え込んでいた右近の意識を外に向けさせる。
男は右近の手のひらから賽を取ると指先に挟み、湯呑を内側が見えるように右近の方へ向けると、ゆっくりとした動きで両手首を捻って湯呑を畳に伏せた。
カラ・カラコロ・カラン。
賽が陶器の湯呑の内側を軽やかな音を立てて転がる。
何だ。これなら直ぐにも出来そうだ。
と右近が思ったその時。
男は伏せた湯呑を開けて賽を取るともう一度構え直し・・・顔を右近の方へ向けたまま、今度は目にも止まらぬ早業で畳に壷を伏せた。
カラカラカララン。
まばたきも出来なかった。
『素人さんがここまで格好つけるこたァねえですがね。ま、気が向いたらちょいと振ってみてごらんなせえまし』
目を丸くして見ている右近に笑いかけ、男は出て行った。
辰は、黙っていた。
湯呑を開け、男が残していった賽を見よう見真似で人差し指、中指、薬指の間に挟み、湯呑を持って構えて手首を捻る。
カン!
カラカラカラカン。
ひとつの賽は湯呑には収まらず土間に飛び、かろうじて湯呑に入った賽も勢い余って畳に転がっていた。
悔しかった。
何だか理屈抜きで悔しくて、何度も繰り返した。
男があの日、辰のところに昇り竜を頼みに来たことを知ったのは、随分後のことだった。
2、3度くらいしか顔を会わせたことはなかったが、会うと男は挨拶代わりに「ひとつ振ってごらんなせえ」と笑顔で言い、右近は辰が手を止めるのを待って起き上がると湯呑を壷代わりに振って見せた。男は右近の筋がいいと褒めながら、いかに見栄え良く壷を振るか、腕や顔の角度など、丁寧に所作を直してくれた。
『賽の目がどう出るかなんて気にするこたァねえ、お前さんが背なの桜吹雪に負けねえくれえパッと華やかに壷を振って見せてくれりゃァ、それだけで客は満足するってモンだ』
男がそう言ってくれたことの意味は、その時は分からなかった。
が、今はその言葉の有り難味が分かるような気がする。