(ああ、また、だ。)
蝉が鳴いていた。鬱陶しいくらいの大音響の中、熱気が立ち上るアスファルトには、緑樹の濃い影が落ちていた。
その中で、静謐を保つ空間がある。
他の人にはそんな風には見えないのかもしれない。けれど、俺にはそうとしか表現できない。
そいつの周囲には、時折、嫌が応でも他人を拒絶する空間が出来る。
他人・・・というより、現実空間の全てを、と言ったほうが正しい気がする。それを見るたびに俺は、(ああ、また。)と、そう思う。そして駆け出す。その空間をぶち壊す為に。粉々に、破壊する為に。
「祥夜(ショウヤ)!」
俺が声を掛けると、そいつはゆっくりとこちらを見て、それから少し笑ってから、今まで視線を向けていた先・・・頭より少し上の宙にまた目線を戻す。
蝉が五月蝿い。
「祥夜!」
俺は再び名前を呼ぶ。もう振り返らない。ゆっくりと彼の腕が、宙へ捧げられる。瞳を閉じる。強すぎる日の光を浴びて尚も、彼の雰囲気は冬の寒さを思い起こさせる。
「祥夜!」
俺は空に向かって上げられた、その腕を掴んだ。彼はやはり緩慢な様相で、こちらを見た。
「明津(アクツ)。部活は終わった?」
蝉が・・・・・・・彼に触れた途端、ピタリとなきやんだ。空間が捩れる。そんな錯覚を抱く。「行くな、」と、俺は呟いていた。
「 明 津 」
祥夜の声が耳に届いて、俺はその数秒の異界から解き放たれた。
蝉は変わらず声を張り上げている。
「明津。帰ろうか。」
祥夜は淀みのない螺旋を描いて、俺に背を向けた。家のあるほうへ、歩き始める。
「祥夜・・・いた・・・んだろ。」
俺はその背に、乾いた声を投げかけた。・・・いつもの事だ。
傾きかけた日を背にして、祥夜はただ、やわらかく笑っただけだった。俺も祥夜に続く。ふと、笑い声がした気がして、さっきまで祥夜がいた空間を、振り返ろうとして・・・・・
その場所が目に入る前に、祥夜の手が伸びてきて、顔の向きを戻される。
「帰ろう、明津。」
「・・・・・・ああ。」
振り返るな、という事なのだ。きっと。祥夜の視線が俺を通り越して、その空間を見ていた。
少し寂しそうで、少し、胸が痛んだ。
その視線が、俺のほうにゆっくりと戻る。真っ直ぐに目線をあわせてくる彼は、澱みない瞳と、淀みない口調で言った。
「帰ろう、明津。」
祥夜を虜にしてやまないモノを見たくて・・・俺は振り返りたかったけれど。
背を向けて歩き出した祥夜から、一瞬でも目を逸らしてしまったら、消えてしまうような気がして、俺はその空間を目にする事は出来なかった。
後方から、
笑い声が、したような 気が した 。
腕を伸ばせば、届く位置に彼の存在はある。
けれど。
その、骨ばった肩を抱いても、存在感を感じないのは何故だろう。
「・・・苦しい、明津。」
ひっそりとした、声。
「・・・・・・ん・・・ぅ・・・・・」
頤を捉えて、唇を重ねても。その感覚が消えない。
「あ・・く・・・・・・・」
キスの合間、祥夜の吐息が甘い声音と交じる。触れている部分に、汗が滲んだ。
苦しそうにしながらも、頬に赤みの差したその顔に、俺は嗜虐を覚える。
後頭部を押さえつけて、存在を確かめようと、何度も重ねた。生温い口内の感触と、体温。それでも、祥夜という存在が希薄で。どれだけ掻き抱いても、この手の中にいないような気がした。
「あく・・・つ。明津・・・・・・・」
抱擁と、キスの合間の声は、酷く頼りない。
締め切られた部屋の窓。傾く西日。このクソ暑いのに、カーテンが引かれている部屋は、薄暗く霞んでいる。
ああ、日の光が、欲しい。その中で、祥夜を抱きたい。
そうすれば。
そうすれば、少しは輪郭がはっきりするのだろうか。
祥夜ごしにカーテンに手を伸ばして、勢いよく開く。西日がザッと俺たちに降り注いだ。赤い夕日に赤い火。
緋色になった全てのもの達が、強い光の針となって刺し貫いて来る。
日を背にした祥夜の、翳りが濃くなった。俺は・・・ああ、失敗した・・・と、そう思った。
「・・・・・・駄目だよ、明津・・・・・・」
祥夜の腕が、首筋から離れようとするのを、俺は止める。
「明津・・・外から、見えるから。」
陰影がくっきりとした部屋の中で、祥夜の影を追っている気がした。腕を捕らえたまま、俺は更にキスを重ねる。
「あく・・・・・・・・ぅ・・・・・」
腰を引き寄せて、窓に押さえつける。カタカタと、窓が震えた。
祥夜を押し倒したベッドにも、赤い日は降り注いで。
どうして今日はこんなにも、日は赤いのだろう、と思った。
まるで。
血の海みたいだった。
今日もまた、彼は空を見上げて、腕を伸ばす。
(ああ、また・・・・・・)
同じ事を繰り返す日々。
「祥・・・・・・・」
呼びかけて、止めた。
彼はやわらかく微笑んで、その腕を下げた。そして「さよなら」と、呟いた。
俺は何も言わず、祥夜を後ろから抱き締める。
「・・・明津、人に見られるよ。」
そんな無粋な事を、祥夜は言ってみせた。
「・・・ありがとう、明津。」
彼の涙が、俺の腕に落ちた。その粒はパタパタと雨のように降ったけれど、祥夜の静かな悲しみが、音を発する事はなかった。
彼の涙は、真冬の雪を思わせた。冷たくて、でも、何故かあたたかい 雪 を。
祥夜に語りかける幾つもの魂を、俺は感じてきた。
見える事はなく、いつもそれは、祥夜を通してだったけれど。
祥夜はその度に、どんな往来でもひっそりとした空間を作り出す。そして語りかけてきたもの達は、その空間の中で・・・多分、癒されてゆくのだ。
最終的に、彼はいつも別れを告げる。その別れそのものに、いつも泣く。
祥夜にとっての死は、いつもそこにあった。
「明津、抱き締めててくれる?・・・ここに、いる事を、・・・証明してくれる?」
「ああ。」
俺がそう応えると、祥夜は嬉しそうに笑った。
この一瞬だけ、俺は彼の存在感を認識する事が出来る。
蝉の声はまだ煩く、まだ、夏は終わらない。
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