分からないと思う。
ずっとずっと、そこには雨が降っている。
その事を。
ただ、分からない・・・と思う。
6月を過ぎる頃の雨の日。彼の調子はすこぶる悪い。
精神的に不安定だと言う意味で。
特に日常生活に差し障りがあるようには見えないが、悪い・・・という事
だけが明確だ。
大概は皆気付かない。そういう風に悪い。
そして次の日には必ず大学を休む。
1日だけだけれど、一年に一回その時を迎えないといけないか
のように、彼はそういった状態に陥るようだった。
高校の二年から続きで、大学も一緒で何となく見ているが毎年
そうだ。何かの儀式のように、鬱とは違う何かが、彼の心を揺らがせている。
「もう帰れば?ノートくらいとっておくけど。どうせ後の聴講は二教科で
俺と重なってるだろ。課題の提出は後日でも問題ねぇと思うし。何だったら
提出だけでもしとくけど?」
彼がペットボトルの口を閉めながら、そう言った俺のほうを向いた。
「何、言ってんの?俺別に具合も悪くねぇけど。」
「いや、そうじゃなくてさ。・・・・・言うと怒るだろうと思って、ずっと言わな
かったけど、お前この時期なんか・・・無理してるだろ。」
「は?何それ。」
「今日は本当におかしい。必要以上に明るいし、・・・・時々眉間に皺
寄せてんの、自分で気づいてるか?」
そう言った俺を驚くように見て、その後一瞬泣きそうな顔をしてから、彼は
普通を取り繕おうとする。
「気のせいだろ。俺だって年中同じテンションなわけじゃねぇし、それに
考える事だってないわけじゃないんだから、眉間に皺くらい寄ってる
事もあるだろ。」
「・・・・・悪かった。そういう顔、させる為に言ったんじゃ、ないんだ。」
彼の顔は歪み、普通の表情をしているつもりなのだろうけれど、視線を
泳がせがちに落ち着かない。
ともすれば、本当に後一息で泣きそうな顔と言って良かった。
「だから、何言って・・・・・・」
言いかけた彼の顔に、曇天の空から遂に雨粒が落ちてきた。
「あ・・・・・・・」
彼が俯く。口元を押さえる。彼の持っていたペットボトルが、手から放たれて
地面に乾いた音を立てた。
「・・・・弐子(にし)?」
「何でも、ない。何でも・・・・・」
「バカ!無理すんなっつったろ!!顔、白いぞ!?」
バラバラと大粒の雨が降り注いでくる。その辺を歩いていた生徒も、足早に
校舎へと向かってゆく。
「お前のせいだ。こんな事で・・・ダメになるなん・・・て・・・・・・」
立ち止まったままの弐子が、視線を天に移し、落ちてくる雨を辛そうに眺めた。
++++++++++++++++++++++
こんな、雨の日だった。
藤 有智(とう ありさと)を失ったのは。
封書が届いたのは一週間も経ってから。やはりその日も雨で、彼女は濡れた
傘を折りたたんでから、俺に一通の封書を差し出した。
「初めまして。沢谷 美貴(さわたに みき)と言います。彼、藤 有智とは以前
付き合っていました。」
もう、2年近く前ですけれど、と彼女は付け加えた。
喪服の黒さがやけに目立ったのは、彼女の色の白さのせいか、くすんだ雨の景色
のせいだろうか。
酷く虚ろなままの意識で、封書を受け取る。
「藤からそれを受け取ったのは、一ヶ月前です。何故直接貴方に宛てなかったのかは、
私には分からなかったけれど、何となく・・・・貴方を見て分かりました。藤は恐れ
ていたのでしょうね。」
「?」
やはり彼女の声は遠くに聴こえた。目の前にいるのに、よくそれが理解できない。
「・・・・貴方は、余りにも線が細そうだから。怖かったのだと思います。自分が傷つ
くことよりも何よりも、傍にいられなくなる事が。それ以上に、貴方が壊れそうに見え
たのでしょうね。・・・・・だからって昔の彼女にこんなことを頼む、藤も藤だと思う
けど。私と付き合っていた頃から、変な人でしたけど。・・・・・・・・・・・いえ・
・・友達に戻ってからも、おかしかったわ、そういえば。」
よく、喋ると思う。つらつらと並べられる言葉は、それでも俺の耳を通り過ぎて行った。
「一目、顔を見たかったけれど・・・残念ね。」
藤の遺体は見つかっていない。ただ、転落の跡が残っていて、二週間に渡る捜索も無駄に
終わって。
誤って、クレバスに落ちたのだろう・・・・というのが大体の見解だった。
藤は、アマチュア写真家というやつだった。
しかも雨ばかりとっている、アマチュアの中でも一風変わった人間で知られていた。
俺は、藤の写真を見て初めて雨というものが、こんなにも厳しく、優しく降るものだと
知ったのだった。
偶然見た彼の写真に惹かれるまま、展覧会に足を踏み入れた。
いろいろな雨の形。
展覧会のタイトルは『晴れ間』となっていたが、晴れている写真などは一枚も
なかった。
並列しているパネルの景色は、どれも雨が降っている。
その中で咲く、紫陽花の青。濡れた枝葉をいっぱいに広げた樹の緑。降り続ける雨の中を
飛ぶ鳥。水溜りに映る景色は揺らいで、緩やかな波紋を作っている。
小雨からどしゃ降りまで、様様な雨の顔。
人物は一人も映っていないのが、かえって雨という景色を厳かにみせていたように思う。
「気に入った?」
後ろから声を掛けられて、ビクリと肩を震わせた。
「ああ、ごめん。驚かせたかな。」
振り返ると、20代後半くらいの中背の男が一人、こちらを見ている。俺は何と言ったらいいのか
分からなくて、
「はぁ」
とだけ答えた。
「雨ばかりで、退屈じゃない?君くらいの子って、余り見ないから。それとも、美術科か
何かの生徒?」
「違います。それに、退屈じゃないです。雨がこんな風に見えるなんて、知らなかったです。」
「そう。それは良かった。」
彼は嬉しそうに笑った。
「気に入ったのがあったら、あげるよ。もっとも、いるなら・・・だけれど。」
「いいん・・・ですか・・・?」
「うん。明後日搬出だから、その時に来るといいよ。明後日は大丈夫?」
「はい!」
藤との付き合いが始まったのは、それからだった。
俺は、ビルの上から撮った写真を選んだ。向いのビルに映る雲の切れ間、その青空の断片。
一瞬のシャッターチャンスを逃していないその写真を、俺は受け取った。
俺はその時に初めてその人が藤 有智だと知り、悪戯した子供のようにそれを明かした彼は、
やはり嬉しそうに笑った。
++++++++++++++++++++++
「籐と俺の間に、何があったというわけじゃない。」
「・・・・友人という枠を越えるよう事は、何もなかった。」
・・・表向きは、と目の前の友人は言った。
精神的なことなど、所詮は誰にも分からない。弐子は、自分の感情すらよくは分からない
ようだった。そんな顔をしていた。
「ただ、それだけだよ。お前が心配するようなことはない。ただ・・・何となく、一年に一回
くらい、思い出してもいいと思ってるだけなんだ。」
それは、感傷、というやつなのだろう。それで弐子が満足するなら、納得いくのなら、そ
れは必要なことなんだろう。
年に一回、儀式のように。
「悪かったな。無理に聞いて。」
俯いて言う俺に、弐子は軽く笑いながら答える。
「いや、まさか気付かれてるとは思ってなかったけど。嬉しかったよ?ありがとな。」
それから、空を見上げた。
「ああ、小降りになってきたな。授業もサボっちまったなー。誰かにノート貰わないと。」
苦笑いをする。
「失礼ついでに、一つ聞いていい。」
「何?」
「・・・手紙。言いたくなかったら言わなくていいからさ。何か書いてあったのかと思って。」
まるで自分の死を予見するかのように遺されていた手紙の存在が、俺は気になっていた。
「ああ。別に。写真が入ってた。『勝手に撮ってすまない』っていう、走り書きと一緒にね。」
弐子が空を真っ直ぐに見る。雨は止みそうだった。
「自分で打ち明ける事ができなかったんだろ。そういうとこ、繊細な人だったからさ。隠し撮り
みたいにして撮ったから、嫌われんじゃないかって思ったみたいだけど。そんな事ねぇのに。
すげぇよ?俺じゃないみたいだったからね。人の目を通してみた自分って、結構違うもんなんだと
初めて知ったよ。」
ふと、雲が切れて青空が覗く。
「天気雨になったなー。」
まだパラパラと降る雨を見ながら、弐子が背伸びをした。
・・・・きっと、弐子は分かっているのだろう。その写真を弐子本人に渡せなかった彼の、本当の理由を。
その写真を見た弐子なら。
雨しか撮らないと言ったその人。でも、弐子、彼はお前を撮りたいとか撮りたくない
とか、そういう視点で撮ったんじゃないと思う。
ただ、瞬間にシャッターを押したんだ。自然に。
だから弐子、お前はそうしてずっと覚えているつもりなんだろう?それを枷とも思わずに。ただ、ずっと。
何となく、俺はそう思った。同じ、カメラを持つ人間だからだろうか。
俺も籐 有智の写真を見たことがあったけれど、弐子のように感じたことはない。ただ、変わった視点で
雨を捉える人だと思った程度で。あえて人物を撮らない絵は、少々無機質にも思えたから。
「授業、次映像だろ。お前には必修だろ。早く行かないと始まるぞ。」
「・・・ああ。」
すっかりと晴れた空には、夏の空。
重くなった腰を上げて、弐子の後を追った。
・・・その場所は、消えないのだろう。
雨の降り続ける場所。
俺には分からないけれど、ずっと、雨の降っている場所が弐子の中にあって、それは忘れない為の場所
なのだろう。
その事を少し、羨ましく思う。
「今度、その写真見せろよ。」
後学のために、と俺は付け加えた。
恥ずかしそうに振り向いた弐子は、俺に向かって苦笑しながら
「そのうちな」
と言った。