目の前で無邪気にも眠られると、少々辛い。
背を丸めて、ぴったりと右の耳を床に押し付けて眠っている。
(・・・・・警戒されている・・・・)
とそう思う。
犬などがそうらしいと、何かで読んだ。
地に耳をつけていると足音などがいち早く分かるのだ。
今俺の前で無防備そうに眠っているこの人も、同じだ。俺に対して
の警戒を解いていない。
少しでも近づこうものなら、すぐに目を覚ます。
「起こしたか?」
と言うと、
「ううん、別に平気。」
と答える。
会話になっていない。
それでもこの人は、俺の部屋に来てはその辺で眠る。家だと眠れな
いのだと言う。
「兄貴と、母親と父親が煩いんだ・・・。眠れない。」
少々複雑な家庭にこの人はいる。
複雑と言っても、毎日皿が飛び交っているとか、相続権で揉めている
とか、実は養子だったとか、そういう面倒なことではない。
兄貴をはじめ、家族がどこかはじけている・・・ように話を聞いた俺は
感じた。
どこかがはじけっちゃってる兄貴に、俺は会ったことがある。
見た目は至極普通の人に見えた。
はじけていると言っても、世間一般のはじけ方とは些か違っていて、
警察に世話になるとか、家に殆ど戻らず、戻ってきたら金をせびる
とか、そういう人間ではない。
けれど、どこかが壊れている。
凡そ一日の大半を家で過ごしていて、グラフィッカーだか何だかよく
知らないが、絵関係の仕事をしているらしい。
この人が俺の家に来るのは、この兄貴の締め切り間近の時だ。
どれくらいの騒音なのかは知らないが、話に聞く限りではとにかく
煩い。
いきなり隣りの部屋から、物が割れる音やら、奇声やら地団駄踏む
ような音がし、果ては「・・・部屋に来るんだ・・・」とこの人は言った。
部屋に来られると、また大変らしい。
ウロウロウロウロ歩き回っては目障りな事この上なく、いきなり掴み
かかって来ては、「こういうポーズをとってくれ!!」と強要される。
一度など、「服が濡れた時の皺が分からない!」と喚いて入ってきて、
持っていたバケツの水をぶっかけられたと言う。
とにかく、はちゃめちゃな兄貴なのだと、この人は言った。
俺もそんなのが身内にいるのは、ご免被りたい。
それに対して両親の反応はとても薄く、兄貴の好きなようにやらせて
いるようだ。時には協力すら惜しまなくて、兄貴が「モデルはあいつ
じゃないと!!」と自分を呼ぶので隠れていると、それを見つけ出す
役が両親だと言う。
・・・・・疲れるだろう・・・・それは。
だから、締め切り前になるとうちに来る。大体2.3日。多いときでは
一週間近く泊まっている。
「兄貴って、どんな絵描いてんの」
と聞くと、酷く俯いて
「・・・18禁指定入ってそうなエロ絵」
と答えた。
それのモデルって・・・何をやらされているのか、想像に難い。
「女の子じゃなくてよかったな」
と気休めを言ったものの、とてつもないため息を吐かれた。
男であるが故の屈辱も計り知れないようだ。
そのせいだろうか、この人は酷く静かだ。
バイトで遅くなるせいもあって、面倒だからと合鍵を渡した。それまでは
俺が午前様になろうが、寒い日だろうが雨だろうが、玄関前でじっと待ってい
た。
幾らなんでもそれは酷だと思う。
俺は一人暮らしだし、何を要求されるわけでもないし、時にはご飯なんかが
作ってあったりしてあり難いくらいなので、鍵を渡したのだった。
まぁ、家庭的に複雑といえば、俺の方が複雑なのだが。別段この歳になってまで
親にどうこう言う必要もないと思うし、それぞれが幸せに生きているならそれで
いいと思う。
俺の親は、それぞれ恋人だか愛人だかを作ってそれぞれ家を出て行った。
結果、それでも俺を愛してくれちゃってる彼らは、毎月別々に金を口座に振り込
んで来る。
もう、既に彼らも各家庭を持っているから、滅多に会うことはない。ただ、金だけ
が一人暮らしには余りあるくらいに振り込まれてくる。
これも愛ってヤツの形なんだろうと、不器用だった彼らを想像しては思う。
この人の静かさは、鍵を渡して初めて気付いた。
何時に帰ってみても、いるのかいないのか分からないのだ。
居間に入って目視するまで分からない。気配とか、空気とか、およそないみたいだ。
生活感に欠けている、というのが一番しっくり来る。
冬でも暖房もつけずにその辺に転がってるし(毛布は掛けているが)、夏もその辺に
そのまま転がっている。
ここには純粋に寝に来ているから、転がっている姿以外余り見たことがない。
帰宅して電気が点いていたことも殆どないし、「ただいま」と言ったって返答があった
事もほぼない。
起きていないからだ。
だから、話しをすることも本当に少ない。
つまり俺はこの人の寝顔しか知らないに等しい。
家のことにしたって、1年もかかって知ったことだ。ポツポツと聞いたことを何とな
く知っているだけだ。
高校の頃から、この人はそういうところがあった。
俺たちは同級生というヤツだけれど、静かな人間、目立たない人間というタイプ
だ。かといってイジメの矢面に立たされることもなく、ただひっそりとそこに、
自然にいる人だった。
特に親しかったわけでもない。けれど、思えばこの頃から俺はこの人が気になってい
たのだと思う。
大学に上がってまもなく両親が家を出て行き、入れ替わるようにこの人が来た。
警戒もなく家に上げてしまったのは、俺がこの人に関心を持っていたからだと・・・
今ならそう思える。
そして、現在・・・とても辛い。
関心があったと自覚してからは、殊更。
目の前で眠っているこの人に、何もできないという歯がゆさ。
据え膳も何もあったものではない。
とにかくこの警戒を解いて欲しいものだと、近頃とても思う。
「んーーーー・・・・」
身じろぎする。俺はやはりその様子を見ているしかなく。
ガクリと肩を落とす。これ以上ここにいては精神衛生上よろしくない。2階に上がっ
てしまおう。
寝返りをうつ。右手を下にして寝ていたこの人は、仰向けになる。両手が両耳の
位置まで上げられて、中途半端なバンザイの格好になった。
何だか子供を見ているようで、不意に笑いがこみ上げる。
・・・・って。
何だ・・そうか。とっくに警戒なんて消してんだ。俺だけが、引きずっていたんだ。
やはり同じような本で俺は、「安心して眠っているポーズの一つは、赤ちゃんのように
腕を上げているものだ」と書かれていたのを思い出した。
俺は少しだけ、近づいてみる。
寝顔を覗き込むと、微かな寝息が聞こえた。
不意に抱きしめたい衝動に駆られて、自制。自制。自制。
・・・・・結構辛い。
(・・やっぱり2階に上がろう・・・)
馬鹿みたいだ、自分。不毛だ。
それでも離れ難くて。少しだけ、髪に触れる。
髪の先に触れたまま、その髪にキスを落としてみる。
この腕にしたいと思う感情を、どう表現したらいいんだろう。
それをしてしまったら、この人はもうここへは来なくなるだろう。
不意の悲しさを覚えても、どうしようもない。
自覚。
「俺は・・・・成・・お前が・・・好き・・・らしい・・・・・」
そして呟き。
「らしい・・・って何だよ・・・。バカじゃん?」
こげ茶色の双眸が、間近にある俺の顔を見ていた。
(聞かれた!!)
俺は瞬間、離れようとした。けれど、成が首根っこを押さえつけてそれを制する。
「聞かせろ。らしいって何だ」
ああ、忘れてた。寝起きの成は、覚醒してないくせにやたら強引なんだ。
「成、目ぇ据わってるぞ。何もしないから、寝てろ。どうせ昨日も殆ど寝てないんだろ。」
「ああ、そうだよ。兄貴の締め切り近くて、寝てられない。変なポーズをまた取らされた。
同性のっつーか、他人の前で脚開いたりさせられる身にもなれってんだよ。だからヤなんだよ。
プロならモデル無しで描けってんだよ、バカヤロウ。ってか、いっそ自分で鏡でも見やがれ。」
・・そして寝起きの成は支離滅裂で、会話にあまりならない。
「待て。モデルって・・・女役なのか!?」
じっとりとした目で、成は俺を見る。
「他に何がある。エロ絵なんっつーのは普通そうだろう。男を描いてどうする。女の方が主流だ。
それを見て、各自妄想を膨らませるものだろ。お前だってエロ本くらい読んで知ってる筈だ。」
「・・・あるけどさ・・・・意外だった。」
成は確かに華奢だけど、身長は170超してるし骨格だってしっかりしてるし、凡そ女の持つ
柔らかさには遠い。
「取りあえずの形が分かればいいんだよ、兄貴は。人体の腕や脚がどこまで動くのか、それが
分かれば問題ねぇんだよ。いいから、質問に答えろ、健也(かつや)。」
・・・・話は逸れなかったか。寝ぼけて、忘れてくれればいいものを。
俺は思わず目を逸らす。それを成が両手で頬を抑えて来て、自分に向かせる。
(ああ、クソ!)
「俺はお前が好きなんだよ。恋愛対象として。これでいいか!!」
半ばヤケクソである。
「・・・なんか告白された気がしない・・・。怒られてるみたいだ・・・・」
成はムゥ、と不機嫌そうに表情を歪ませた。
「もういいだろ。俺は2階に上がる。」
「良くないだろ、俺の返答聞かないの。」
「分かり切ってる事を聞く気はない。」
「何が分かるんだよ。お前は俺か。」
「普通、分かるだろ。」
「普通って何だよ。どうせ俺の家庭は異常だ。」
「誰もそんな事言ってねーだろ、お前少し目が覚めてからもの言え」
「覚めてるよ。きちんと話してるだろ。」
「ちょっと支離滅裂だ。」
「そんな事ねぇ。」
言って、成は俺の首筋を掴んでいる手の力を強めた。
「返答、聞かねぇのか。」
「忘れてくれ。お前だって安眠の地がなくなるのは、困るだろ。」
ギッと睨んでくる成。
「聞かないなら、もういいや。」
成は両腕を俺に絡めて、そのまま唇を重ねてくる。
「・・・・!?・・・・・・」
その後俺に回した腕を解き、再び床に横になると毛布にくるまってしまう。
「・・・ちょっ・・・・成!!寝るな!!」
「え−−−、聞かねぇっつったの、お前だろ。バカ健也。」
「聞く。聞くから寝るな。」
「傲慢バカ。もう気が逸れた。眠い。」
「一言だろー!?」
「・・・おやすみ・・・・」
「違うだろ!」
「ぐぅ」
「おい、成!」
「あー、煩い。安眠の地を提供してくれんだろ。」
そうして薄く目を開いて俺を見る。途端に目が見開く。
「あーーーーー!!今日、今日ジャンヌダルクの日じゃん!!ギャー、もう九時半だよ!!
何でもっと早く起こさねぇ、健也!!」
「・・・知るか・・・」
「電気、電気点けてくれ!!金なくって映画見に行けなかったんだよーーー!」
ガバっと勢いよく起き上がった成は、先程の事など意に介さないようにテレビに向かう。
俺は電気を点けに立ち上がった。成を見ると、テレビに噛り付くようにしている。
溜息を吐きつつ、電気のスイッチをオンにした。暗かった室内が明るくなる。
「・・・・・健也。」
「・・何。」
「知ってたから。」
「何を。」
「・・・お前の気持ち。」
「・・・・・あ・・・・・・・?」
「俺は、気付いてたよ。お前って、鈍感直情。言葉少ない分、顔に出てんだよ。」
「・・・悪かったな。」
沈黙。
成は画面を見たままで、俺は背を向けたままの成を見ながらソファに座る。
柔らかさが心地よいソファは、いつもと違って何故か落ち着かない。テレビの音だけがやたら
耳につく。
ポツリと、成が言った。
「・・・何で分かんねぇかな。」
「?」
「・・・そう親しくもなかったのに、お前んちに来た理由。」
「・・・分かんねぇよ、普通。」
「分かれ。」
「無茶苦茶な。」
俺は成の横に腰掛ける。成がそっぽを向く。
「テレビ、観ろよ。」
「隣に来んな。」
「いいじゃん、別に。」
「良くねぇ。」
テレビからは喚声。様々な声。音が入り交じり、交差し、意味の成さない形を生む。
「成。」
「何だ。」
「好きだ。」
「・・・・・」
「付き合ってくれますか。」
「・・・・・」
「成。」
「・・・・・・・・うん・・・・・」
テレビの音が無意味なものとなって、感覚がただ一人の人間に向けられる。
一億分の一の確立。出会い。そして動く感情。想い。
「ここはそれでも安眠の地になるか?」
そう聞く俺に
「寝る時間は減りそうだ。」
と成は笑って答えた。
そして一言。
「安息の地には変わりないさ。」