『夏の誘惑』



** 5 **
「うぉおおお、緊張しったー!」
「え?何が?」
「何って。斎木だよ!斎木有哉!!やっぱ近くで見ると違うな。綺麗な顔だとは知ってたけど、本物だな!」
「・・・・・・・・・・」
「あんな噂が流れちゃうのも納得出来るよなァ。はー。いるんだな、本当にあんな顔した人間って。同じ人間じゃねぇみたいだよ!お前良く同室で平気だな。俺だったら耐えられん!」
「そんなに・・・かなぁ、俺はあんまり意識した事ないんだけど。確かに綺麗な顔っていうか・・・でも顔の割りに掃除はやっぱり好きじゃないんだよな・・・。言った事はやるようになったけど。」
「稔・・・あくまで掃除視点なんだな・・・」
 夏樹はうんざりというか、がっかりしたような顔をした。テンションが一気に下がったらしい。
「でも稔、いいよなー。同室なんて。羨ましがる奴、結構いたろ。斎木と同室になるのって、難しいって聞いたしな。」
「は?難しい??」
「部屋割りは学校側で適当に決めてるらしいから・・・やっぱあくまで噂、なんだけどさ。」
 そこで夏樹は少し声を潜めた。
「・・・・・・・斎木と同室になるには、斎木の許可が必要だって。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・何それ。」
「なんだ、知らないのかよ。なんか良く知らないけどさー。斎木の家って資産家なんだろ?家柄とかそういうの関係あって、同室者が決められてる・・・みたいな話、入学の時に聞いたけど。」
 それから夏樹はチラリと俺を見る。
「ま、でも、稔が同室になれたわけだし、やっぱ噂なのかなー。今まで同室だった人たちがさ、すっげぇのばっかだったから信憑性あったんだけど。」
 ため息交じりに失礼なことを言う。でも俺は、”今までの同室者”が少し気になった。
「今までって・・・ダレ?」
「・・・あーーー、と。最初が三年の市谷(イチガヤ)先輩。父親が県議員でさ。ちょっと嫌味臭いとこあって、それが元で斎木が嫌がったんじゃないかって。で、二番目が一年の 針烏(ハリウ)。知ってる?E組なんだけど。父親が社長で。色白でちっちゃいんだけど元気ーって感じでさ。ま、コネズミタイプ?煩くて嫌がられたんじゃないかって。で、三人目が二年の相模(サガミ)先輩。やっぱり父親が市政に関わっててさ。ちょっとワイルド?な感じの人で、俺様タイプだから嫌われそうなんだけど面倒見良くてさー。意外と人気あんだよね。でもその俺様なとこが嫌われたんだろう・・・と。で。」
 そこで夏樹は言葉を切った
「四人目が、お前。」
 心底不思議そうな顔を向ける。・・・本当に失礼だ。
「・・・そんな不可思議な顔する程のことかよ。」
「だってタイプ違うけど他の三人って、家柄も去ることながら、顔もいいんだぜ?」
「夏樹・・俺をバカにしてるだろ。」
「いやん怖い顔v稔ちゃんもかわいいわよvv」
「・・・・・・・バカにしてるだろ・・・・。」
 実験室についた俺たちは、所定の席に着く。夏樹とは同じ班のため、隣に座った。いつもの席だ。
 大きなテーブルが二つあわさった形で、真ん中に向かいあうように洗い場が設けられている。ひとつのテーブルに六つの椅子。
 扉の近くには薬品棚と実験器具を入れる棚があり、俺たちの班はそのすぐ横のテーブルだった。
 まだ休み時間が終わるまでは少し時間があった。他のクラスメイトも集まりはじめているものの、まだ半数に満たない。
 俺はテーブルに教科書を置く。夏樹が話を続けた。
「噂の真偽は分かんないけどさ。その同室者三人とも、長くても一ヶ月しか同室じゃなかった、っていうのは本当だよ。だから、稔が入るまでは一人だったんだ。知ってるー?次の同室者はいつまで持つかって、密かに賭けになってるらしいよ〜。」
 悪戯する子供のような笑顔をして、夏樹は笑う。
「・・・・・悪趣味。」
「出た出た。稔の潔癖症。」
 からかうような夏樹の言葉は、いつもの事だ。
「ほんと稔って、顔はアバウトそうだし、行動も割りと大雑把に見えるのになぁ。押さえるとこは押さえるよな。結構融通きかねーし。ま、そういうとこ、いいと思うけどさ。あんまり斎木にそれ、押し付けるなよ?噂が本当だったらお前・・・寮追い出されるかもしれない。」
 語尾が真剣味を含んだ。夏樹の目が、俺を心配している。こういう顔をするという事は・・・周りに他の人がいるから憚っているんだろうが・・・・。噂が、ほぼ、真実だという証拠みたいなものを、夏樹は掴んでいるという事だ。
 夏樹の情報源は凄い。父親が記者だというのも過分に遺伝しているのかもしれないが、どこで仕入れてくるのか分からないくらいだ。
「・・・分かった。気をつけるよ。でも斎木、いい奴だよ。ちょっと変わってるけど。」
 俺は夏樹を安心させるように、笑って見せた。
 チャイムが鳴った。五時間目が始まる。急にクラスメイトが5.6人、ばたばたと実験室に入ってきた。直前にならないと移動しない生徒も多い。
「あ!」
 一瞬声が耳に入った。その方向・・・自分の真後ろを振り向こうとして・・・・・・・
「稔・・・・・!!!!」
 次の瞬間には、夏樹の声。クラスメイトが集まってくる足音。ざわめき。何かが割れる音。そして先生の怒声。
 生温い、ドロドロした感触が、頬を伝っている。
 痛み。
「・・・っ・・・あ・・・・・・・」
「阿佐ヶ谷、大丈夫か。保健室行くから。立てるか?」
 先生がこちらを覗き込みようにしている。俺は、かすかに頷いた。
 血が流れている事は分かったが、状況が飲み込めない。先生はてきぱきと、後片付けを委員長に任せ、俺を保健室につれていくべく準備をした。
 俺が立つと、制服のあちこちから細かいガラス片が落ちた。クラスメイトの浅生(アソウ)が、俺にしきりに謝っている。それで、ああそうか・・・と思ったのだった。
 浅生と他4.5人が一緒くたになって実験室に入ってきて、俺の後ろを走り抜けたのだ。その時、棚に腕があたったか何かしたのだろう。浅生が小さく声をあげた。俺はそれに振り向こうとして・・・。
 今はガラス片になってしまった、ビーカーだかフラスコだかを、頭から被ったのだ。いつもなら、扉が閉まっている筈だった。何の不運なのか。
 普通に座っていれば真後ろで割れただけだったろうが、よりにもよって俺は、椅子を引きっぱなしの状態で座っていた。だから、棚との距離が十分でもなかった。
 俺は、浅生だけが悪いわけじゃないと思い、一言「気にするな」と言った。先生が目は痛くないかと聞いてくる。それにも大丈夫だと答える。
 後頭部の辺りがズキズキしていた。だが、大した傷ではなさそうだ。保健室に行くすがら、俺は落ち着いてきた頭でそう思う。夏樹のほうが余程取り乱していたのを、思い出しながら。
 先生が保健室の戸を叩いてから、開けた。引き戸はガラリとした音を立てて開く。
「どうしました。」
「阿佐ヶ谷が、ガラスで怪我をしまして。診ていただけますか。」
 状況を説明してから、保険医は俺の髪を分けるようにして、傷を見た。
「目に見える範囲でガラスはないみたいだけど。・・・頭以外で痛いとこは?あるか?」
「特には。」
「消毒するから。後、レントゲンは撮って貰うように。ガラスが中に入ってたら大事だからな。今日すぐに行くこと。」
「先生、私は戻りますが・・・阿佐ヶ谷は大丈夫そうですか?」
 保険医が、そう訊ねた化学教師のほうに向き直る。
「傷自体は深くないし、大丈夫だと思いますが。一応病院に行かせたほうがいいでしょう。早退手続きなどはこちらでやりますので。」
「では、すみませんがよろしくお願いします。」
 そそくさと化学教師は出てゆく。今日は実験どころではないかもしれない。これから後片付けと、叱責を下さなくてはならないわけだし。・・・俺はそのお小言を聞かないで済む事を、少しだけ安堵した。当事者であるのだから、ほっとしている場合ではないのだろうけど。
「有哉、起きてるか。」
 え?
 俺はドキリとした。アリヤ?・・・斎木?
「・・・何。」
 カーテンで遮られたベッドの方から聞えて来たのは、多少くぐもってはいるものの確かに斎木の声だった。
(・・・本当に保健室に来てたんだ。やっぱり具合悪かったのか・・・)
「お前もついでだから早退しろ。で、ついでに一緒に病院に行って来い。」
「何それ。命令?ってか・・・何?誰かいるの?」
 どうやら、本当に今まで眠っていたらしい。
「なんだ、本気で寝てたのか。お前の同室の阿佐ヶ谷が、怪我したんだよ。」
「・・・・え・・・・・・!?」
 ザッ、と勢い良くカーテンが開かれた。瞬間、斎木と目が合う。彼は心底驚いたような顔をして、俺を凝視した。
 拭き取られてはいたものの、俺の頬にはまだ血の跡が残っていた。保険医が今まさに消毒しようとしていたところで、血を抑える為に頭にはガーゼやティッシュが山となっていた。それは当然のように真っ赤に染まっている。
 斎木の顔が、明らかに青くなった。白く・・・といった方が適切かもしれない。
「血の割りには、全然大した事ねーよ。そんな顔してみせるな。阿佐ヶ谷が不安がるだろう。」
 くだけた保険医の言葉は、斎木との親密さを思わせた。なんだか釈然としない思いが湧く。
「・・・あ・・・ああ・・・・・。」
 呆然としたような顔だった。だか、保険医に言われて少しは安心したのだろう。あっていなかった焦点が像を結んでいるようだった。
(あの時の顔みたいだな。始めて会った、高架橋の。)
 俺は漠然とそう思った。
 斎木の薄い色の髪が、エアコンの風に揺らいでいる。焦点を結んだ緑の瞳は、俺を凝視したままだ。
「聞えてたか?ついでにお前も内科行ってこい、って言ったんだ。」
「あ、うん。」
 斎木の生半可な返事に、保険医は少し肩を落とした。
 手際よく消毒液を取り、傷口を消毒する。結構沁みたが、我慢できない程ではない。自分で傷を見ることは出来ないが、本当に大した事はなさそうだ。
「阿佐ヶ谷、保険証とかは持ってるか?」
 ガーゼをあてて、包帯を巻きながら聞いてくる。頭痛に似た痛みがするが、やはりそう酷いものではなかった。
「コピーなら。親に持たされたので。」
「とりあえずそれでいい。有哉は・・・持ってるわけないよな。・・・ま、お前はいいや。そのまんま行って。カードとか持ってるだろ?」
 斎木は無言で頷く。その仕草は、まるで小さな子供みたいだった。頼りない・・・そんな感じ。大の男に使う例えじゃないけど。
 保険医は俺に包帯を巻き終えると、有哉のほうを見ながら言った。
「阿佐ヶ谷、そこの総合病院でレントゲン撮ってもらって。後、有哉頼むな。なんか調子悪そうだから、内科にでも放ってきて。早退届けは・・・」
 言いながら保険医は机を漁り始める。そして引き出しの二番目から、早退届けの束を出した。
「ここにサインだけして。後はこっちでやっておくから。ほら、有哉も書いて。」
 まるで自動人形のように、斎木は渡されたボールペンで綺麗な楷書を書いた。それだけは俺もちょっと驚いた。斎木の字を意識してみたのは初めてだったが、こんなにしっかりした楷書を書くのは、なんだか意外な気がした。


 病院に着くまでの間、斎木は一言も話さなかった。どこか上の空な様子で、偶に俺のほうをじっと見た。その理由を問いたかったが、有無を言わせないような・・・聞き辛い雰囲気が斎木の周囲に漂っていて、俺は口を開けなかった。
「じゃ、俺はこっちだから。」
 レントゲン室は一階の奥で、内科は二階の表示が出ていた。受付を済ませた俺たちは、それぞれの待合室に移動する事になる。
 俺が歩き始めようとすると、斎木が呼び止める。
「・・終わったら、ここで待ってるから。阿佐ヶ谷のほうが早く終わっても、ここで待っててくれる。」
 やはり、有無を言わせないような、そんな言葉尻だった。俺は子供を相手にしているような気持ちになる。斎木はそう思わせるような、どこか縋るような目をしていた。
 俺が頷くと、安心したように笑う。斎木のことを綺麗、と表現した夏樹の気持ちが、少し分かる気がした。確かに彼の顔は整っている。そう認識させられる笑顔だった。



「特に問題はないですよ。ただ、念のためという事もありますから、頭痛が続くようだったり痛みを感じたらまた来て下さい。」
 レントゲンの結果はあっさりと出た。医師は撮ったレントゲンをライトの入った半透明のボックスに掲げ、傷口などの説明をした後、そう告げた。
 既に俺は痛みは感じていない。医師も俺が思ったとおり、傷は浅いと言った。一週間もすれば殆ど目立たなくなる程度のものだという。
 俺は挨拶を済ませ、早々に辞去した。もしかしたら斎木はもう診察を終えて、待っているかもしれない。
 俺の意に反して、斎木はその場所にはまだいなかった。来る気配もないので、初診受付の前にある長椅子に腰掛けて待つ。
 病院は静かだった。器具のぶつかる音や、紙を捲る音。人の足音。そんなものが白い空間にある。それは人がいる、という証明なのに、声の存在が殆どない。人はいるのに声がないというのは、変な感じがした。
 午後の三時になろうとしている。ここに患者は一人としていない。俺がレントゲン室を出る時、すれ違いに呼ばれて入った人がいたが、その人も今はどこにいるのだろう。他の科には患者がいるのだろうか。
 総合病院は相応に大きく、入院患者もいるはずだったが、病棟が別なのだろう。見かけなかった。今、俺の目に触れる人間と言えば、窓ひとつ隔てた向こうの、受付の女性と、その奥にいる3.4人の事務員だけだった。彼らは無駄な話をすることなく、黙々と手元を見ている。書類を処理しているのだろう。何かを書いている。音がないわけではないが、余りに静かで、そのペンを滑らせる音すら聞えてきそうだった。
「阿佐ヶ谷」
 いつの間にか、斎木が傍らにいた。
「待たせた。・・・薬を受け取ってくるから、もう少しだけ待っててくれないか。」
「・・・ああ。」
 俺が返事をすると、斎木は笑った。白い、静かな空間に似合う、静かな笑みだった。
 斎木は俺に背を向けると、隅にある薬局に向かう。既に用意が出来ていたのだろう。斎木が声をかけると、薬剤師が薬をもってすぐに戻ってくる。そして説明を始めたようだ。俺はぼんやりとその様を眺めていた。
 斎木が俺のほうに小走りで戻って来た。やはり、なんだか子供に懐かれているような・・・そんな感覚が湧く。


 夏の太陽は暑く、地面を焼いていた。ジリジリとそれは俺たちの頭上から降り注ぎ、そして、体力を奪っていく。けれど、時折吹く風は既に夏の暑さを内包していない。秋のそれになっている。乾いた、心地よい風。
 寮に向かって俺たちは無言で歩く。寮までは15分も歩けば着く距離だ。
 時折、斎木の視線を感じたが、俺は知らないふりをした。何故、そうしたのかは分からない。
 寮の玄関に入ると、外とはまったく違っていた。ひんやりとした空気が、その中にはあった。俺たちのほかには、管理人しかいないであろう寮内は、閑散としていて、病院と同じように静かだった。
 管理人室を覗いてみると、最初の頃と同じようにそこには誰もいなかった。相変わらず鍵もかかっておらず、無用心なのも変わりない。
 階段を上がり、いつも通り鍵を差し込み扉を開ける。俺に続いて斎木が入ってきた。それを確認してから、俺が鍵を閉める。斎木は良く鍵をかけ忘れるので、施錠は大体俺が行っていた。
 斎木は無言のまま鞄を投げ出し、制服のまま、ベッドに潜り込んだ。
「・・・斎木、皺になるぞ。せめて着替えたらどうだ。」
 俺は一応声をかけてみたが、斎木からは返答が得られなかった。・・・そんな気はしていた。
 机の脇に鞄を置いてから、斎木に近寄る。いつもより、荒い息遣いが聞えた。
「・・・やっぱり、無理してやがったろ。・・・バカ。」
「・・・倒れたって、阿佐ヶ谷が俺を運べるとは思えないしな・・・」
 皮肉を言えるなら、大丈夫かもしれないが、熱が高そうだった。
「薬は?・・・ああ、これ、食後に飲むタイプか。気が利かない医者だな。」
 俺は勝手に斎木の鞄から、薬袋を取り出して確かめる。
「解熱剤があるけど。病院で飲んだ?・・・斎木?」
 返事がない。俺が顔を覗き込むようにすると、不意に斎木が俺を引き寄せた。
「!?」
 咄嗟のことで反応が遅れたが、俺は両手を着いてなんとか斎木の上に倒れこむのを防いだ。
「・・・・・斎木?」
「・・少し、安心した・・・」
 斎木は、何故か困ったような顔をして笑う。それから俺を解放した。
「俺は大丈夫だよ。」
 斎木は俺を見てから、すぐに布団を被った。
「ごめん、少し寝る。夕飯は食べるから、起こしてくれる。」
「・・・・・ああ。」
 有無を言わせない斎木の言葉。
 斎木の白い肌が、病的に見えたのは初めてだった。色素の薄い髪が、ベッドやシーツに溶けてしまいそうに見える。
 この暑い中、斎木は熱のせいで寒いのだろう。丸まるようにして眠りに着いた。
 俺はぼんやりと外を眺める。日差しは序所に蔭りを帯び、夏の終わりを告げ始めていた。随分と日が短くなってきた・・・と思う。
 夕日が沈むまで、俺は斎木のベッドの傍に腰掛けて、ぼんやりとその様を眺めていた。


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 ふと、目が覚めた。そしてちょっとビックリした。
「・・・・・・・何、してんの。斎木。」
 すぐ傍に、斎木がいたから。
 ベッド添えつけの階段に足をかけ、俺を覗き込むようにしている。窓を背にした彼の顔は、月光を受けてくすんで見えた。
「・・・・・寒いんだ。・・・いれて。」
「え、ちょ・・・」
 やっぱり否応なしだった。こっちの反応はおかまいなし。返答など、聞く耳も持たないらしい。
 斎木は俺の布団に潜り込むと、丸まった。
 正直・・・・暑い。
「まだ、熱あるのか。」
 俺はいいながら、目の前の斎木の額に触れた。少し、熱い。でも、昼間に比べると大分下がったようだった。
 斎木が猫のように擦り寄ってくる。傍から見たら、変で気持ち悪い光景だろうなぁ・・・と、寝ぼけた頭で思った。
「・・・阿佐ヶ谷・・・・・・。」
 寝言のような呟きで、斎木は俺を呼んだ。首筋に、斎木の唇が触れる。熱のせいなのだろう、普段より熱い吐息がくすぐるような風を起こす。
「な・・・斎木・・・!?」
 斎木の両手が、俺を抱き締めた。彼のやわらかな髪が、頬に感じられる。
「少しだけ・・こうさせててくれ・・・。お願いだから。お願い・・だから・・・・・。」
 声が、泣き出しそうに震えていた。俺は、想像する事しか出来ない。諦めたように自分のうちにいる父の愛人の話をした斎木。・・・母親はどうしているのだろう。そういう家庭にいて、斎木はどうやって生きてきたのだろう。どうして寮にいるのだろう。
 色んなものを諦めてきたんだろうか。全部、隠しながら。自分は大丈夫だと、言い聞かせながら。
 病気になった時、傍にいてくれた人はいるだろうか・・・。
 ひとつとして、斎木には聞けない事だった。同室になって、俺はそういう事を偶に考えてはいたけれど。絶対に、聞けない事だった。
 俺は、斎木を抱えるようにして、そのやわらかな髪を撫でる。少しビクリとしたようだったが、やがて安心したように力を抜いた。
 肩口に、雫が流れているのが分かった。斎木は、少し泣いている。そう思った瞬間、どうしようもなく寂しいような・・切ないような気持ちになった。
 いつの間にか、斎木の緑の目が、俺を真っ直ぐに見ていた。まるで子供のように曇りのない、ガラスで出来た目みたいだった。
「夜の色だ・・・・・」
 言いながら、斎木が俺の髪を梳いた。細い指の間を、漆黒が擦りぬける。
「夜は、怖い。けど、阿佐ヶ谷がいると、そうでもない。」
 子供のように無邪気に、彼は笑った。月の光が斎木の顔や瞳を照らしている。俺は始めて斎木を綺麗だ、と思った。

INDEX 06