『夏宵』
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『 フ ジ ム ラ 』
呼ぶ声が聞こえた気がした。誰を呼ぶ声なのか。誰が呼んでいるのか。 彼には分からなかった。
ただ、それはあまりにも痛切な声だったので、彼は思わず声のしたほうを 振り向いた。
「尚志(タカシ)、何してるんだよ。こっちだってば。」
ぐい、と腕を引かれて、視線は元に戻る。

夏草の匂いが妙に鼻についた。暑さでじっとりとしている割に空気は乾燥し ていて、不愉快だった。
「五萩(イハギ)、待てってば。今、誰かの声が・・・・・」
「気のせいだろ。」
五萩と呼ばれた人物は、機嫌悪そうに眉を顰める。そのまま尚志の腕を ぐいぐいと引っ張って先へと進む。

『フジムラ』

「・・・・・気のせいじゃないよ、やっぱり。」
尚志は声のしたほうを見た。ただ延々とのっぱらが広がるだけの空間で、 空は赤く揺らいでいた。夕日が沈むまで、もう少しのようだった。
「ほら、誰もいないだろ。すっきりしたか?」
苛々したような五萩の声を受けて、尚志は首を傾げた。
空耳にしてはやけにはっきりとした発音。
「なぁ五萩、どこ行くんだよ。」
「・・・・・ずっと一緒にいられるところ。」
「?何だそれ?」
「ずっと一緒にいようって言ったろう。忘れたのか。」
五萩のきれいな顔が、少し歪んだ。夕日を浴びたその顔が一瞬、尚志には 恐ろしく見えた。
「・・・・・・・・・・」

『一緒にいたいと思ってる。』

何かの記憶が交錯した。
「あ・・・・いや・・・それ・・・五萩じゃない・・・だろ・・・?」
「何言ってるんだよ、尚志。俺だよ。」
(・・・おかしい。)
はっきりとしない。頭に霞がかかっているようで。
「ちょっと・・待て・・・・・待てってば!五萩!!」
引かれている腕をふりほどき、尚志は立ち止まった。

『フジムラ』

「尚志!」

「俺は、尚志じゃないッ!!」
言った後に、はっとした。
『フジムラ・・・・フジムラ・・・・・!』
訳もわからないまま、呼ぶ声のするほうへ走った。
「尚志・・・・・・!!」
途端に周りの闇が濃くなる。闇は幾本もの束となって彼を襲う。
「なぁ、こっちに来てしまえよ尚志。」
見てもいないのに、五萩が笑っているのが分かる気がした。 それは歪んで顔に張り付いているような笑みだと、漠然と感じる。
(五萩・・・・・・?五萩って誰だ!?)
(俺は五萩なんて知らない。・・・俺は・・・俺は誰だ!?)

『藤村!!!』

それは耳慣れた声。闇の中で、その声だけが本物のような。
(誰だ?この声は誰の声だった?)
「来いよ。おまえはもう逃れられないんだから。」
真横に、闇に近しい顔があった。細い白い腕が、顔が、闇から生えている ようで、それを無視するようにして彼は前を向いた。そしてひたすら走る。
「また・・・・・・俺を置いていくのか・・・・・・?」
その声の余りの悲痛さに、少しだけ振り返ってしまった。瞬間、五萩の 両腕が首にかかった。
「・・・・・・・ッ!」
空気が吸い込めなくなり、彼は膝を着く。
「・・や・・・・め・・・・ッ・・・・」
言葉ははっきりとしたものにはならなかった。首を締める手は強く、ほどけそうに ない。
薄く目を開けて、五萩を見た。
(・・・・・ああ、そうか・・・・・・・)
『藤村』
声のするほうを少しだけ見てから、五萩に視線を戻した。
右手を伸ばして五萩の頬に触れた。
(・・ずっと。ずっと泣いてたんだろうか。でも、俺は・・・・)
「・・ごめ・・・・俺は・・・尚志じゃ・・い・・から・・・」
(一緒にいることは、できない。)
藤村は、そこで意識が遠くなるのを感じた。
(・・・・・沢下・・・・・・・―――――――)




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