『夏宵』
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「藤村!!藤村ッッ!!!」
確かに藤村の姿を見たのに、今はどこにもその姿を見つけられなかった。
沢下はとりあえず暗い第一美術室の扉を押し開いた。音のない静けさ。それは 奇妙な不安を生む。
「藤村?」
ザリ、と扉と床の擦れる音がした。それ以外には何の音もなかった。 生ぬるさを通り越して、暑い空気が室内に充満している。
(・・・・・おかしくないか?)
そこで初めて沢下は気づいた。・・・・・音がなさすぎるのだ。少なくとも 警官は四名はいた筈で、野桐もいる。他に運動部顧問の先生が三名残っていた 筈だ。
美術室に入って、ピタリと閉じられた窓を開いた。夜の風は少しだけ室内の 暑さを緩和させる。窓から外を覗いても、音・声はなかった。
グラウンドが沢下の目の前に広がっている。左側を見ると中央通路がなんとなく 見えた。あそこでさっきまで野桐と話していたわけで、すぐに警官が野桐を呼んだ から、話し声が聞こえてもおかしくなかった。
(昇降口のほうに移動したんだろか。)
結構白状だな、と沢下は思った。視線を美術室に戻しながら、窓を施錠する。
(・・・・・やっぱり気のせいだったか?)
野桐の肩越しに見えた藤村。
廊下に立って、こちらを見ていた。その唇がうっすらと開かれて、そして
「サワシタ」
名前を、呼ばれた気がしたのだ。
「タスケテ」
そう・・・・・言った気がした。
(とりあえず戻るか。)
沢下は第一美術室の出入り口に向かった。歩く音だけがやたら響いて、それは 神経を逆撫でた。
『・・・・・』
声が聞こえた気がして、沢下は窓のほうを振り返る。やはり誰もいなかったが、 何かの気配を感じた。
(神経過敏になってんのかな・・・・・。)
踵を返す。
「・・・・・・・ッ・・・・・!!」
沢下は、声が出せなかった。何故か頭の中では「ああ、人間って本当に 恐いときって声が出ないんだー」などと呑気に思っていた。それは1種の 恐慌状態が齎す逃避思考であるとまで、考えた。
第一美術室の入り口から50センチくらい空けて右側に、棚がある。 そこは石膏像などのモチーフが並んでいるガラスケースだ。そのガラスに 制服姿の生徒が映っていた。
丁度、自分のすぐ後ろにいるような位置に、彼は映っている。
自分の周りに人がいない事くらい、沢下は分かっている。いるわけがない のだ。さっきまで自分の他に美術室に人がいなかったのは明白な上、先生 ならまだしも生徒はもう、本当に自分以外残っていない。
しかも、見たことのない顔。
沢下が全学年の生徒を記憶しているわけはないが、ちょっといないくらい の綺麗な顔をしている。同じ校内にいたら目にとまるだろうし、一度 見たら忘れそうにもない。
(・・・・・やばい。)
沢下に霊感などと言うものはない。見えたことなどないし、 そういう話は好きで良く読んだりしているが、実際に起こるとそれは 別物だった。
視線が逸らせない。
(・・・・・・まさか。)
そこで思ったのは、藤村の事だった。
「・・・・・・っ・・む・・・ら・・・!!」
名を、呼ぼうとしたが、歯が噛合わなくて言葉にならない。 走ってもいないのに呼吸が困難な気さえした。
『君が、いるから』
響く声で彼が言った。何のことか、沢下には分からない。そして、それを 考えている余裕も、全然なかった。
「・・じ・・・っ・・・藤村ぁ・・・・・ッッ!!!」
沢下がやっとで名を呼ぶと、彼が秀麗な顔で笑った。
『大丈夫、君を、消してしまうから。』
ガラスに映る彼はとても綺麗で。それが一層の恐怖を招く。
「藤村を、どうしたッ!」
一度声を発してしまえば、後は堰を切ったようだった。とにかくなにかを 話さないと余計に怖い気もしていた。
すぅ、と彼が身を引くと、ガラスに全身が映る。その足元に、彼に寄り添う ようにしている藤村の姿が見えた。
「藤村!!!」
叫べる限りの声で呼んだ。外の人間に少しでも自分の声が届けばいい、と 思っていたせいもある。けれどどこまでも周囲は静かで、足音が美術室に 向かって来る気配もなかった。

彼が屈んで藤村を誘う。左手で藤村の頬に触れ、そのまま唇を重ねた。
藤村がそれに応え、そのまま彼を組み伏せてゆく。
「藤村!藤村ッッ!!このバカ!!!目ぇ覚ましやがれ!・・・・・・」
藤村の下で彼が、沢下を見ておかしそうに笑った。
沢下の中で何かが弾けた。恐慌状態が極限を越したのかもしれないし、 それ以上に憤りを感じたせいかもしれない。
「・・・・・ッの・・・・大馬鹿野郎ーーーーーッッ!!!!!」
沢下はズカズカと美術室を歩くと、二人が映っているガラスの前で止まった。
「・・・・・きだって言ったくせに。」
バン、とガラスに手を付く。いっそ割ってしまいたかったが、それは恐くて できなかった。
「俺のこと、好きだって言っただろうが!!!!藤村のばかーーーーーー!!!」
言った瞬間、藤村が沢下のほうを向こうとした。
その時、少年の顔が歪んだのを、沢下は見た。瞬間
ガシャン・・・・・・ッ・・・・・・
ガラスが砕けて沢下の周りに散らばる。沢下は思わず身を引いた。
「・・や・・・藤村っ!」
ガラスは沢下の足元に、ガシャガシャと音を立てて落ちる。露出した手足に細かな 傷を残しながら、ガラスはこれ以上はないというくらいに粉砕した。
「藤村?・・・・やだ・・・・・俺、そんなに力いれてねぇって・・・・・・ 藤村・・・・・・・・・」
粉砕したガラスは何を映すこともなく、沢下は呆然とした。あたりを見回しても 何の気配もない。
美術室から外に出てみると、警官と思われる声が外から聞こえた。
(・・・・・戻って来ちゃったんだ・・・・・追い出された・・・・・・)
そう漠然と思った。
廊下の窓を開けると、声は一層はっきりと聞こえた。
「だから、生徒が」
「今校内見てますから」
野桐と警官が自分の事を探しているのだと分かったが、沢下は出て行く気になれなかった。
霞のかかったような頭で、再び美術室に足を踏み入れる。開け放したままだった 扉から中に入ると、外にある街頭で室内はほんのり明るかった。
石膏像の並んでいるガラスケースを見てもいつも通りで、ガラスも割れて いなかった。
ただ、自分の手足についた傷が、生々しく残っていた。
「・・・・・・・ッ・・・・・・」
沢下は膝をついた。溢れてくるものが止まらなくて、警官が自分を見つけるまで ただその場に蹲っていた。

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