『夏宵』
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しっとりとした朝露の空気は、照付ける太陽に溶ける。
乾いた暑い風は同じように乾いた砂を巻き上げるだけで、涼を得られるものではない。
学校としては若いとはいえ、冷房などあるわけがないし、ともすれば鬱陶しいくらいに蝉が鳴いていて、感覚的な 暑さを増幅させる。
「良くやるよなぁ・・・・・・」
俺は美術室の窓から、グラウンドを眺めて呟いた。
グラウンドではサッカー部と野球部が、それぞれの持ち場で練習を重ねている。その外円を、 陸上部がランニングしていて、自分の級友の姿もチラホラと見かけられた。掛け声とホイッス ルの音。靴底が地面を蹴り砂埃を空気中に振り撒く、その音。
太陽が思いっきり降り注いでいて、校舎の中にいる俺には分からない熱気がそこにあった。 俺は見てるだけでも更に暑くなりそうなグラウンドから目を逸らし、自身のキャンバスに 視線を移した。
外を見ていた眼はすぐには室内の暗さに順応せず、残像を生んだ。光の残像は一瞬尾を 引いた後、消える。そこにはいつも通りの美術室があった。
アリアスやブルータス、モリエール。それらの頭像や胸像に混じり四角や丸と言った形、 足だけ、手だけの石膏像が棚にぎっしりと収まっている。美術室は一階の角にあって、今 は俺しかいなかった。
休み明けには県展があるのだが、盆前の今日から出掛ける輩も多く、実質的に今日は 休みになっているのだ。おまけに運動部と違って、文化部は自主的な活動が多い。
美術部は基本的に先生から放任されていて、展覧会に間に合えばいつ描きに来てもいい 事になっている。先生曰く、
「描きたくない時に無理に来て描いても仕方ないし、どっちにしろ俺は盆以外は学校に いる。好きな時に来て好きなように描け。何かあったら準備室にいるから声を掛けろ。 ・・・・・・・・展覧会にだけは間に合わせること。」
という事だった。
美術室は第一と第二の二部屋あって、俺は今第一にいる。昇降口は東側にあり、その校舎の 西側の奥にあるのが第二美術室だ。更にその先、八畳程のスペースの部屋が準備室で、 教官室となっていた。多分今もそこでマイペースな野桐(ノギリ)先生は、絵筆右手にし 左手にパレットを持ち、外見からも性格からも想像できないような繊細な絵を描いている に違いない。
俺は自分のキャンバスをもう一回眺めた。形にならない幾重もの色が、ただ無造作に置かれて いた。進んでいないかと言うと、そうでもない。これが後に形になる。今はその前段階 なのだ。形が見えないだけで、実際はそこに、ある形が隠されている。・・・・・と言えば かっこよいのだが、お世辞にも上手いとは言えない俺の絵は、仕上がってもそう 大したものにはならない。
「あーーー暑い。」
俺は握っていた平筆を脇の机に置いた。全開に放った窓からは殆ど風が入ってこない。 入ってきてもそよりとしたなまぬるーい風で、いっそ暑さが助長する気がした。 先生にアドバイスを貰うような気分でもないし、俺はとりあえず描く事を放棄した。
机に突っ伏すと両腕で限られた空間が、余計に熱を篭らせる気がしたが、プラスチックで できた平机は少しひんやりとして気持ちが良かった。が、それもつかの間で、すぐに 俺の熱で机はぬるくなった。
(メモでも残して、もう帰ろうかなぁ。・・・でもなー・・。)
チラリと横目で見ると、まだ運動部が駆け回っている。まだ当分終わりそう にないと思って教卓の上の掛け時計を見ると、2時を少し回ったところだった。
(・・・・・・・暑い・・・・・・・)
一気に気力が失せた。一番暑苦しいとされる時間帯に、わざわざ日の中に飛び込む 体力も何も持ち合わせていない。
俺は取り合えずデッサン帳を閉じ、絵筆を洗い、パレットを新聞紙で拭き、片付けに 入った。少し涼しい時間になるまで、クロッキーをするもいいし、その辺に放ってある 漫画を読んでもいいし、とにかく時間を潰そうと思った。キャンバスの絵の具も まだ乾いていない。
外から運動部の掛け声と足音が聞こえて来る。俺は夏の暑さをひしひしと感じながら、 ただ座っていても流れてくる汗を腕で拭った。


放置されていた漫画を読み尽くし、教壇の抽斗に入っていた画集を眺めていた俺は 時間という感覚が麻痺していたらしい。気づいた時には五時近くになっていた。
グラウンドを見ると、一人も人がいない。
(・・・・・・おかしいな。まだ終わる時間じゃない筈だけど。)
そう思った。大体は片付けも含めて六時は過ぎる。それとも、お盆前で早めに切り上げた のだろうか。それにしては美術室に野桐先生も来なかったし、早く帰るように促された 記憶もない。もっとも本を読んでいる時のみ殊更集中してしまうきらいがある俺は、 言われたものの生返事を返したのかもしれない。
(でも・・・おかしい・・・・・)
それにしても静かだった。まるで校舎の中に俺一人しかいないような錯覚に襲われる。 夏の日差しも夕方になって緩んだものの、暑いことに変わりはなかった。吹いてくる 風の生ぬるさも変わらない。ただ、聞こえていた他人の声や音がなくなっただけで、 随分とひっそりとし、ともすれば涼やかささえ感じられた。
(帰ろう。) そう思った瞬間、何かを忘れている気がした。それはとても大切なもので、忘れては いけない・・・・・けれど俺はその突っかかりを感じながらも明朗とできずに いた。
とにかく帰る準備をしようと決めて、出しっぱなしになっていたキャンバスを自分 の名前の書いてある棚に戻そうとした。その時、開け放してある前の扉に人の影を見た。 俺はふ、と条件反射でそちらを目をやった。
そこには一人の生徒が立っていた。美術室に入ってくるわけでもなく、廊下から俺のほうを じっと見ていた。
制服から男だと判断したものの、やたら綺麗な顔をしている。かといって女くさいという わけではない。身長もそこそこにあるようだし、半袖から覗いた腕は明らかに男の 硬質さを感じさせるものだった。
こんな生徒がうちの学校にいたら、女子どもが騒ぎそうなものだが、俺の記憶にはない。 俺があれこれ考えている間も、そいつは俺の方を見ていた。
「・・・・・何か用ですか。」
しょうがないので、俺が口火を切った。上級生かどうかの判断すら付きかねたが(学年 校章をしていなかった)、どちらにせよ初対面の人間相手にため口を使う気はない。 俺は相手の返答を待った。
彼は、凡そ見たこともないような艶然とした笑みを浮かべた。俺に右手を真っ直ぐに 伸ばし、手招くような所作をする。
俺は・・・ギクリとした。
思わず彼に歩み寄ろうとしたものの、彼の・・・影がない事に気づいてしまったからだ。 前進しようとしていた足は、後退した。暑い筈の室内が、一気に冷えた気がする。 そして、彼もまた、俺の表情の変化に気づいたらしかった。
『・・・・・・欲しくない?才能。』
彼はそう言った。妙に響く声で。
『俺ならあげられるよ。今の君には描けないものが、描けるようになる。』
才能・・・。努力だけでは賄えないものがあることを、俺だって知っている。 けれどもそれは
「いらない。それは・・俺の力ではないから。」
途端、彼の顔が歪んだ。泣き出しそうな顔。
『・・・・・そう。』
つまらなそうに、彼は俯いた。差し出していた右手をゆっくりと下げる。それから 上目使いで俺を見た。それは、確かに男相手だと分かっていても、妙に色を 帯びた目だった。
『・・・・・なら・・・なら、俺は・・・・・?』
意図は計り兼ねた。俺が訝しい顔をすると、彼は左手を差し出して再び口を 開いた。
『俺のことは・・・いらない・・・?』
首を少し傾け、彼は俺を誘う。
何・・・・・言って・・・・・・
言葉は、音にならなかった。俺は金縛りにあったように動けなくなり、自分の意志が 摩滅してゆくような感覚に陥った。
神経と肉体の分離というのは、こういう状態なのだろうか。
確かに俺は動けない、と頭で認識をしているのに、体が前進していることを視覚が 証明していた。
影のない少年の、無言の圧力。
差し出された、左手。

左には、魔力が宿るらしいよーーーーーーーー

そう言ったのは、誰だった?

右と違って、左はマイナスを現わすんだ。善に対する否定だよ。
だから左は魔の力の象徴なんだ。

誰だった?

お前、そんな事ばっか良く知ってんだな。
まぁ・・・・・好きだから。
面白れぇヤツ。
馬鹿にしないのは、藤村、お前くらいだ。
沢下の好きな事なんだろ?馬鹿にしたら呪われそうだ。・・・・・好きな事を馬鹿に されるのが頭に来ることくらい、俺だって知ってる。


サワシタ!!


その名を思い出した途端、俺は自分の体を取り戻した。
けれど。
その時には既に俺は彼の手の内で、彼は俺の右腕をその左手で掴み・・・・・
艶然と、微笑んで見せた。

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