あ つ い − !
今まさに、俺の中にある言葉はそれだけだった。流れる汗は、こめかみから顎まで伝う。大腿から足首に向かって流れる。腕の内側を伝う汗も例外なく、どこまでも重力に逆らわない。従順過ぎる程で、嫌気が差した。
「片倉ー。」
ボクッと頭上で音がした。鬱陶しく思いながら、机に突っ伏してた顔を上げる。
「今は何の時間でしょう。」
俺の頭に降らせた、丸めたノートを片手にして、その男は眉を顰めつつ俺を見下ろしていた。
「・・・・・・・・補修・・・・・・・数学の。」
「よくできましたー。で、他の生徒はサッサと課題を終えて、涼しい家路についたわけですが。」
茶化すように、男・・・数学教諭である至冬(シトウ)先生は口角をあげ、けれども目は笑っていない顔で言った。
「だってー・・・・・暑すぎる・・・それしか考えられないよ、兄さんーーー・・・・・。」
「俺と片倉は、兄弟ではありません!」
キパッと至冬先生は言った。茶化しに茶化しで返したのだが、やはり明らかに目が据わっている先生に、それは受け取ってもらえない冗談だ。
「先生を舐めてますかー?片倉君ー?」
「暑いだけー!先生も、そんな格好してて暑くねぇの?真夏なのにギッチリ長袖なんて着ちゃってさー」
至冬先生はいつも通り、長袖の白いYシャツに袖を通していた。それなのに涼やかな顔・・・今は俺に対して怒っているらしいので、幾分歪んでいるが・・・をしているのは解せない。汗を流しているのも、拭いているのも見た事がない。
「・・・・・先生、変温動物・・・・・?」
俺は反射的にその腕を掴んだ。
・・・・・・・ヒヤリ・・・・・・・・・。
そういう表現が、凄くピッタリだった。俺は驚く。
ただ、少し体温が低い・・・という程度ではなかったからだ。
「せ・・・・・・」
青ざめたような顔で、至冬先生は腕を引いた。俺はついその腕をぎっちりと掴み返してしまう。
「離・・・離しなさい、片倉!」
咎めるような先生の声が、近くの筈なのに遠くに聞こえた。
「・・・・・・先生・・・具合・・・悪いのか?こんな・・・・・・・」
凄く・・・冷たい。氷とまではいかないけれど、俺の熱を持った手が、その涼を欲するくらいには・・・そう、人にとって心地よい冷たさなのだ。でもそれは、冬の冷え性の人間のような冷たさで、真夏に似つかわしくない。最早体調が悪いとしか、思えない。
「・・・・っあ・・・・・・・片・・・倉・・・・・・ッッ!!」
ガタン、と音を立てて、先生が崩れるように膝をついた。
「ちょ・・・・っ・・・先生!?至冬先生ッッ!?!?」
俺は驚いて立ち上がった。掴んだままの先生の腕が、俺が立った事によって持ち上がる。
「離せ・・・。腕・・・を・・・・・・」
蒸気した顔を、先生は俺に向けた。俺は呆然として立ち竦む。掴んだ腕をそのままに、俺は左手でその頬に触れた。
やはり、冷たい。
腕よりは温かいが、それでも冷ややかさを感じる程には冷たかった。
「アンタ・・・何、無理してんだよ!?これ、普通じゃねぇよ!!」
「い・・・から・・・・・・離・・・せ・・・・・・」
そう言うと、至冬先生は昏倒した。
「気にしなくていい。」
保健の唐沢先生は、吐き捨てるようにそう言った。何だか、滅茶苦茶機嫌が悪い。いつもがいつもなだけに、それが手に取るように分かった。
「でもさー・・・そんなに体温が低いってのも・・・まじで大丈夫なのかよ?」
ジロリ、と厳しい目線を唐沢先生は俺に向けた。
「持病なだけだ。至冬先生にはその事を聞いてる。後は任せておけ。明日には元気だから。」
「・・・・・・ふーーん・・・・・」
俺は納得できないまま、保健室を追い出された。何だか責任の一端が俺にある気もして、
いたたまれない。唐沢先生が大丈夫だと言うなら、大丈夫なのだろうけれど。
保健室のドアを背にして動かないでいると、ガラっと戸が開いた。
「ほら、さっさと帰る!補修は明日に持ち越しな。」
「・・・・え!?何それ!?!?」
「補修だったんだろう。今日はもう無理だからな。」
「何で唐沢先生に言われなきゃなんねーわけ!?」
「・・・・・・・・俺は、何でお前が補修に残ってるか、知ってるつもりだが?」
俺は返答に詰まった。
「あんまりあいつに無理させないでくれ。夏は・・・良くないんだ。」
「・・・・・病気に?」
「・・・・・・・・そうだよ。」
「分かったよ。じゃ・・・。」
俺は不承不承、その場を後にした。
「帰ったぞ。」
唐沢は、ベッドの端に座って声を掛けた。
「・・・・そう。」
か細い声が、唐沢の耳に届く。それに少し安堵し、リモコンでクーラーの調節をした。最大に温度を下げる。
「だから、教師なんて無理だって言っただろう。」
「・・・・・・すまない。」
目を伏せて神妙そうな顔をしている至冬を見て、唐沢は溜息を吐いた。幾ら申し訳なさそうな顔をしても、この至冬という男の頑固さを唐沢は知っている。それでも、教師を辞める事は考えてないに違いない。
「ホラ。やるよ。」
唐沢の腕が、にゅ、と至冬の前に突き出される。当惑した至冬の瞳が、唐沢を見た。
「やるって、言ってんだよ。」
「・・・・・・・いや・・・・俺は・・・・・」
「そういうセリフは、倒れなくなってから言ってくんない?生徒に触れられただけで昏倒するなんて、尋常じゃないね。・・・・・不審に思ってたぞ、片倉。」
至冬は顔を伏せた。
「まぁ、今までバレなかった事が不思議なくらいだし?俺としては一人くらい、知っててくれる人間がいてもいいと思うけど。」
「・・・・・・それが、片倉だって?」
「・・・・・お前、片倉の気持ちには気付いてるんだろ?」
「どういう、事だ。」
「あれ?気付いてない?片倉のお前が来る前までの成績、知ってるだろ?」
「・・・・・・・。それで俺は、職員会議で吊るし上げを食らった。」
「は?・・・・ああ、お前の教え方に問題があるとか何とか言われたのか?」
「そんな、直接的ではないけど・・・まぁ、似たようなものだ。だから補修までしてるっていうのに、あいつは・・・・・」
「興奮すんなよ。また倒れるぞ。って、・・・マジで気付いてないのかよ。」
「?」
片倉京理(カタクラ キョウリ)。その生徒のことを、至冬は思い返してみる。
片倉は数学で、常にトップクラスの生徒だったらしい。他教科は並以下だったが、理数系・・・特に数学という分野においては、片倉の成績は良かった。
至冬が、受け持つまでは。
至冬が教鞭をとり始めてから、片倉の数学の成績は下がった。寧ろ後ろから数えたほうが早い。他の、基礎解析や統計と言った教科の成績は下がらなかった為、至冬はその責任を問われ、矢面に立たされていた。
「・・・・・・もしかして、嫌われてるのか。俺は。」
そう言えば授業態度は・・・悪くはないのだが、上の空な感じがする。補修もいつもダラダラとしてて、なかなか進まない。
「・・・・・・・もう、いいや。何か癪だし。ホラ、いいからもう。さっさとしてくれ。」
「だから、俺は!」
「クォーターだろうがなんだろうが、いるものはいるだろ!?いらなくなるに越した事はねぇけど、それが今んとこは無理なんだから、貰っておけ!片倉には明日も補修だって言っておいてあるんだからな。お前がいなくちゃ話にならん。」
「・・・・・・分かったよ・・・・・・・・ごめん。」
自分の目の前に伸ばされたその、腕に。
至冬はゆっくりと、歯を立てた。