...6Episode

長い休みが終わる。
けだるい始業式も、1.2人の貧血者を出して終わった。
必ず集会とか朝会で倒れる人間というのはいる。学園長の話はその度に中断されるものの、 決して短くはならない。

「イシュ、今度のHR(ホームルーム)席替えだってよ。聞いた?」
「ううん、知らなかった。そうか、今度は窓際じゃないといいなぁ」
「何で?気に入ってたじゃん」
「ん・・・・・何となくね。身が入らないんだ。」
空を見る度、彼の事を思い出してしまう。そんな自分を僕は無視できなくなりつつあった。
侵食。
僕は早く彼に会いたい。「夏休みは長かった」と、そう彼に伝えてみよう。聞きたい事を聞い てみよう。学則では許されない事だけれど、僕は彼と仲良くなりたいのだ。多分。
きっと、あの屍のような存在の笑顔を見たいのだ。笑う姿を見た事がないから。自嘲的な笑み ではなく、声を立てて笑ってみて欲しい。
あのブルーライトが柔らかく日に反射し、口元を緩める様はきっと綺麗だろう。



終業式後、寮に戻った時には既に彼はいなかったが、夏休み明けの今日は違った。
僕が寮室に戻ると、彼は既に休み前と変わらずそこに居た。
当たり前の事だと思う。反面、どこか不可思議さを伴う。長い休みは、僕という人間の感覚を 変えた。

この時の僕は、後から何が待ち受けているかなんて考えてもいなかった。
僕の変化が、何を齎すのか、僕のこの逃避的思考が彼にどんな衝撃を与えたか。
僕にはこの時、本当に分からなかった。
彼が・・・・・本当に望んでいたものは・・・・・


夕暮れが差し迫る。
彼はずっと横になったままで、僕は彼に伝えようと思っている事を伝えられないでいた。
彼の寝顔を横目にしながら、哲学の授業を思い出す。夏休みの補修で、フラリと気まぐれで 出た授業だ。



「・・・・・であるから、レーゾンデートル、つまり存在意義というものは彼にとっては正に この瞬間にあったというわけです。さて、以前皆さんには自分のレーゾンデートルを考えて 見てもらいましたね。いずれも匿名で提出して貰ったものです。その中にも、この著作者の ように「ある一瞬」において自らのレーゾンデートルを確立したと言っていた人もいました。」
そこで老年の先生は、一呼吸置いた。
「では、次のページ。ザインとゾルレンについて話しましょう。これもレーゾンデートルに 関わるものです。存在とは何か、もう一度社会を見直し、自分を見直す。補修のレポート課題 にもなります。良く考えてください。」



そう、あの時の授業は、存在意義についての授業だった。
レーゾンデートル。
その一瞬にそれを確立したと言ったのは・・・多分彼だと直感的に思った。勿論何の確証がある わけではない。

『マキアベリズムって知ってる?』
『権謀術数主義のことですよ・・・・・』

ケンボウジュツスウシュギ。
国家の為には、個人犠牲を厭わない。ならば、彼の言う権謀術数主義とは何だろう。
・・・自分の・・・事だろうか・・・・・。
それを僕に問い、僕の部屋を訪れる彼は、僕という個人の考えなど無視して自分の思うままに 行動している。
彼のレーゾンデートル。
それはこの場所にあるのだろうか。
・・・・・・その考えは、一種の自惚れだと思った。途端に恥ずかしくなって、僕は顔を赤くした。

ふと、身じろぎする音がして僕は彼を見た。彼はこちらを見て、笑った。
あまりにも静かで、それは赤く翳った室内では異質に見える。そしてその笑みには、やはり 密やかな自嘲が交じっている。
伝えるなら、今だ・・・と思った。喉の奥がカラカラと乾いて、言葉は上手く出てこようと しない。
彼が行ってしまう。僅かな音だけを立てて彼は起き上がると、窓に手を掛ける。
聞きたい事も沢山あるのに。寮監の事や、彼自身の事。僕の部屋に来る訳。そして・・・・。

「ひとつ・・・・分かった事がある。」
僕はそう、切り出した。

彼は窓に掛けていた手を外し、僕の方を振り返るとほんの少し首を傾げた。一瞬だけ、 ブルーライトの瞳が翳る。
「君がいない間、僕にとって君がどんな存在なのか、分かった気がする。」
僕はそう言って笑った。
そして、彼は明らかに表情を歪ませた。痛切・・・・・と言っていい。
「どうして・・・・・そんな顔をするの。」
彼はポツリとそう呟く。そして黙って僕を見詰め続ける。
空気の色が、濁った気がした。いや、淀んだのかもしれなかった。
目が、彼から離れない。離したい。自分の体がまるで他人のもののように感じられて、 神経の全てが機能を停止したように、僕は微動だに出来ないでいる。
彼の瞳は、どこか僕を責めた。
空を、思い出す。
動いているのは雲、そしてこの地。空が動いているわけではなく。

宵闇は、闇に変わる。茜は紫へ、紫は群青へ、群青は黒へ。
それはほんの2.30分の間の変化だった。永年の時をすごしたような気もしたし、逆に至極 一瞬の気もした。
感覚は狂い、僕は何かの過ちをはっきりと理解した。そう、彼に向けてはいけないものを、 僕は向けたのだ。

梁のような月がその姿を鮮明にし彼の影を伸ばす頃、彼はゆっくりと僕に向かって歩んで来る。
月を背にした彼を、僕は動けないまま真正面から捉えた。
彼の姿は逆光で、シーリングライトの点いていない部屋は暗く、表情は分からなかった。 ただ、クッ・・・・と笑ったような気がした。それは矢張り自嘲めいて聴こえた。

彼の右手に、月が握られている。いつからだろう・・・。ぼんやりと僕はそれに視線を落とした。
多分今までもずっと懐中に納めていたのだろう、と漠然と思う。
僕は彼の意に添わなかった。その言葉の伝え方すら、僕は間違えた。
彼が一歩近づく度、僕は虚無を感じる。
月が・・・彼の手にある。鋭利な月。それは僕の生命を容易く奪えるもの。
虚構の月。
目の前に彼が立っている。ゆっくりと・・・目を閉じた。
鈍い痛みが肩口に走った瞬間、彼が頚動脈を狙ったのだろう、と分かった。
闇色のドロドロしたものが、僕の肩口を伝って滴る。僕は立っていられなくなって、そして 扉に背を付いた。痛みが、体を走って行く。鈍い痛みは痛烈となり、滴る液体は止まらない。
空間が歪み、彎曲し、頭の芯からグラグラと視界は揺らぐ。手で押さえた傷口からは生暖かさ を感じ、なのに体がだんだんと冷えていくのが分かる。
その感覚は僕を更に非現実へと招く。痛みからの逃避かもしれなかったが、認識は 出来なかった。
僕は彼を見据えたまま、体の自由が利かなくなるのを他人事のように思っていた。痛みは 僕の顔を歪ませるけれど、体を軋ませるけれど。それらは何処かに留まってしまって、感情という 場所にまで届かない。
扉に背を預けて、僕は座り込んだ。視線だけは彼に預けたまま。息が上がってくるのが分かる。
体と心がバラバラに刻まれた気がした。でも、今の僕にそれは大した事ではなかった。
彼に・・・言いたい事がある。
どうしても、言わなければならない一言が。

逆光を受ける彼の表情は矢張り曖昧で、僕はだんだんと朦朧としてくる意識の中、彼の事だけを 考えていた。
呼吸をゆっくりと整えて、僕は彼をしっかりと見た。

「ごめんね。」

それだけ、僕はやっと言えた。
「どうして・・・・・・・」
悲痛な声が聞こえた。痛みを負ったのは僕だけれど、彼の痛みは計り知れなくて、それは僕の比では なかった。
どうして・・・・・
僕は矢張り間違えたのだと、意識が閉ざされる一瞬、彼の首筋に月があるのを見た時に 思った。


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