月の光は部屋に届いているけれど、電灯のせいでその風情はない。
ただ、寮監の痩身がやけに恐ろしく見えた。丸い・・・限りなく球に近いその月を
背にする寮監が、ただ恐ろしい。
声が出せない。
目が逸らせない。
僕は動けない。
「・・・・・・何故・・・・・・と思いますか?」
寮監の声はいつものように優しく、物腰も柔らかい。いつもと変わらない筈なのに・・・
そう思うものの、僕には何かがおかしく感じている。違和感。その言葉が一番ぴったりと来る。
僕はゆっくりと、寮監の問いに首を縦に振った。それしか出来なかった。
背の高い寮監は、僕と目線を合わせる為に屈む。
変わらない笑み。
彼の姿がふと浮かんだ。黄昏時、姿を消す彼の背中。
あの黄昏を、目の前の寮監に見た気がした。僕はゾワリと背筋が泡立つ。
「それは・・・・・その答えは、きっと貴方の中にあるのです。」
そう言った寮監は、僕ではない…僕を擦り抜けた、その遠くへと視線を泳がせていた。僕は、
瞳を閉じた。
(ああ、全てが。僕の日常という全ての事象がまるで虚構のようだ・・・・・)
(何もかもが分からない。)
まるで熱に浮かされているようだとも思った。ただ・・・・・恐ろしいのだと。感覚の全てがどこかに
行ってしまうのではないかと思う程に。
暑さの中、流れる汗は冷たくて、頭の芯だけがぼぉっと霞んでいるかと思えば、妙に感覚だけが
鋭くも思える。
寮監は何処までも柔和で、けれどもその背に闇を負っている。暗い、昏いモノを。
僕は目を開け、そして、何故か寮監に聞いた。
「マキアベリズムを、知っていますか?」
沈黙にこれ以上耐えられなかった。恐ろしくて、これ以上の闇を、見せられたくなくて。けれども
僕の問いは、更なる闇を招くだけで、何の逃げ道にもなっていないのだ。そんな事、僕は知っている。
彼に・・・・・会ったときからの必然みたいに。
寮監は表情を少し、闇より遠ざけて答えた。それは辞書や教科書のような的確なものだった。
「18世紀のフランス、政治思想家のマキャベリの『君主論』に出てくる単語です。国家という大き
な目的の為ならば、個人の思想など取るに足らない。そういった権謀術数主義の事を指します。」
「権謀術数主義……」
「それが、どうかしましたか?」
「いいえ、ちょっと……夏休みの課題を考えていたんです。」
僕は曖昧な返答をし、寮監はそれを信じたような素振りを見せる。
「勉強熱心なんですね。でも、戸締り熱心にもなって下さい。」
そう言った寮監は、いつもの寮監に戻っていた。
そうこうしているうちに学習会も終わり、夏休みが始まった。
僕は、他の補修生に交じって補修を受けてみたり、図書室に入り浸ってみたりして過ごしていた。
級友は皆、何とか補修を免れていたので、本当に暇な事限りない。
一週間に一度は両親からの電話を受け取り、相変わらず適当な返答を繰り返して、締めくくりは
いつも「大丈夫、元気だから安心して。」というものだった。
彼は・・・・・やはり姿を見せなくなった。帰郷しているのだろう。
そして僕は、何故だか落ち着かない自分を、不可思議に感じている。
ただ、其処に居た彼。
僕には何の関係もないと思っていたし、居ても居なくても、どちらでも構わない存在だと思っていた。それどころか、彼の存在が邪魔だと思う事さえあったのだ。
(何故、気付かなかったのだろう。)
存在だとか、邪魔だとか。そう、思った時点で、彼の所在を意識していたのだと。
僕は部屋の窓を見た。彼が出入りしている窓だ。
丁度外は黄昏時で、僕はふと、彼が一度だけ年相応の人間らしい側面を見せた時を思い出した。
それは、僕が恐らく最初で最後、彼に注意した瞬間だった。
その頃僕は、総会の資料作成だとか部会だとかで、彼が居る時間内に部屋に戻れない日が続いていた。その日も部屋に戻ったのは7時を回っていて、扉を開けた瞬間吹き込んできた風に、驚いたのを覚えている。
開け放された窓から、吹き込む雨風。窓のすぐ横にある机の上にも、容赦なくそれは降り注いでいた。
そして僕の、仕上がっていた課題は、やり直しを余儀なくされたのだった。水性で書かれていた
文字は滲んで、読める状態ではなくなってしまったのだ。僕はその日、30枚にも渡るレポートを
再び清書し直した。
その翌日、彼が帰る時間迄に何とか部屋に戻り、僕は言った。思えば、初めて僕が彼に話し掛けた
のも、この時だった。
「部屋に来ないでくれないか。」
開口一番、僕はそう言った。彼は突然のことに、面食らった顔を見せた。その表情が余りにも今ま
での彼とかけ離れて見えて、こっちが拍子を狂わせた程だった。
彼は「もう、二度と開け放したりはしなから。」と懇願してきた。僕はそれで、彼の再度の訪問を
許したのだった。
本来、ハイソサエティの彼にそんな事を言う資格など、僕には有りはしない。それどころか、彼が
一言教官にでも「嫌がらせを受けた」と言えば、叱責の対象になるのは僕だ。
でも、彼は誰にも何も言わなかったようだ。僕はそれを言った後、内心ビクビクしていたのだけれ
ど、数日たっても何のお咎めもなかったのだ。
そうして多少なりとも怒られることを予期して、その事ばかり考えていたので、彼の表情の事や、
彼が僕に懇願した事などは、すっかり忘れていたのだ。
思えばあの時の彼は、生きた表情を…何と言うか、僕に自嘲以外の表情を見せたのは、初めてだっ
たのではないだろうか。
僕はその時を思い出して、やっと、僕にとっての彼が屍ではなかったのだと、自覚した。
離れて、会わなくなって、そうして見える事もある。
そう、彼を屍にしたいと思ったのも、殺したくないと思ったのも、両方とも僕なのだ。
けれどもこの時僕は、夏という暑さに、そして彼に当に捕まっている自分を、無視していたに過ぎ
なかった。気付かない振りをする事で、自分の中で整合性を保とうとしていたのだ。
夏休みは、1ヶ月で終わる。8月の終わり、彼は帰ってくる。この部屋に。
僕の元に。