ポォン
午後9時を回っている。寮室のベルが鳴る。
僕は、開けっ放しの鍵の事を知っていたし、わざわざ開けに行くのも億劫で、
窓際に座りこんだまま、おざなりな返事のみをした。
ピ・・ポォン。
「入りますよ。」
入り口近くのマイク部分から一声あって、扉が開かれた。
背の高い、ひょろりとした寮監は、肩口まで伸ばした黒髪を後ろで
一つに束ね、細い黒縁の眼鏡を掛けている。
寮監は入ってくるなり、少々複雑な表情をした。僕はその顔を捉えてから、しかし
気にする事も無く、再び窓の方に向き直った。
「・・・窓が開けっ放しですね。・・扉も・・・。不用心ですよ。」
言いながら寮監は、僕の方に歩み寄る。
それから、僕の横に立ち、僕と同じように窓の外を見る。
「何を見ているのですか?」
寮監の問いに、僕はただ一言を返した。
「月」
寮監は僕の方を見る事も、不可思議な顔をする事も無く、ただ
「ああ、そうですね。とても綺麗な月だ・・・・。」
そう言った。
梁のような月は、それでも柔らかく、辺りをぼんやりと照らしている。太陽とは
違い、全てを明確にする事を拒むかのように、まるで夢の中のような空間を
その『夜』という空間に作り上げている。
僕は彼の事を考えていた。
その窓の向こう側に消えて行く彼を。
何時も、この『夜』という刻と空間が形成される前に去って行く彼。それに意味
があるのかなんて知らない。所詮彼は住む世界の違う人間だった。
言葉を交わせる存在でも、近寄れる存在でも無く。ともすれば、その存在すら
視覚に捉える事も無かっただろう。
(・・・・僕を見さえしなければ・・・。)
そして僕がそれに気付く事さえしなければ。
無視をすれば良かったのだろうか。あの視線を。その先にいる僕自身を。
(・・・不可能だ・・・・。)
そんな事は、もう起こり得てしまった後に考えても無意味な事だし、幾ら鈍感
でもあの視線に気付かないほどの人がいるのか・・と思う程彼は僕を見ていた。
その事には勿論、僕の友人達も気付いていた筈だ。何も言わないのは、彼が
偏にハイソサエティだから・・という事に尽きるだろう。
ランク付けされた社会から逸脱したかった大人達は、逆に子供をランク付けされた
檻の中に閉じ込める。
矛盾は、何処にでも存在する。そしてその矛盾こそ、今の彼と僕の関係を生み出している。
それは、良い事なのか、それとも哀しい事なのか・・・。
「では、きちんと戸締まりをしてからお休みになって下さいね。昨今、無用心で
すから。」
寮監の声が、思考の中にいた僕を現実に引き戻す。
僕は寮監を見上げて、軽く頷いた。寮監は、瞳を細めて静かに笑った。
「では、扉の方は閉めておきますから。」
一部屋一部屋のキーコードが入力されているカードを、寮監は胸ポケットから
取り出す。
「本当に戸締まりはきちんとして下さいね。見逃したと知れたら、私は職を
失ってしまいますので。」
寮監は、尚も静かな笑みを湛えながらそう言い、部屋から出ていった。
バタン。
扉の閉まる音。
ピッ。
寮監が、外からカードシステムにアクセスする音が聞こえた。
通常は防音されているので、外の音は聞こえたりしない。
しかし、カードシステムは、中と外とで連結している為、外からのアクセス音が
中に聞こえるのだ。
カードシステムとは、カードキーで寮室を開く為の機械だ。四角いボックスの形
をしている。カードキーの差し込み口と、0から9までの数字キーが並ぶ。
寮監が、その数字キーを操作している音が聞こえてきた。
音に変化は無い。規則ただしく、ピッピッと4.5回聞えて来ると、静かに鍵の
掛かる音がした。
窓からは、涼しい風が入ってくる。空は漆黒の闇に、一つの柔らかな光。
その周りを囲むように、無数の光の粒。
地上に眼を向けると、黒々とした木々が何処まで続いているのか分からない。
実際には隣列しているだけの木々も、夜という空間の中深みを帯びている。先の
見えない黒いだけの空間。
悪寒が、僕を襲った。
先程の彼を思い出した。
屍。
彼にはその言葉がぴったりだ。生ける屍の事をアンテッドと言ったろうか?しかし
それとはまた違う気もした。そう、唯の屍なのだから。
しかし彼は生きている。その不具合。其れが僕の精神に、何かを働きかける。それとも
僕こそが狂っているのか。だから、彼が例え普通だとしても、僕にはそう見えないだけ
なのか。
そんな事は分からない。
僕はそっと唇に手を当てる。
(・・・・・何だって言うんだ・・・・・。)
彼の行動の意図も、何も見えない。そもそも他人の意図を読み取ろうなど、浅はかな
考えなのかもしれない。分かった振りは出来ても、真実は分からない様に。彼の
意味不明で、突飛な行動に付き合っていたら・・・振り回されていたら、僕の今回のテスト
は散々な結果を迎えることは明らかだ。それだけは避けたい。補修など、まっぴら
ごめんだ。
(家に帰るわけではないけどさ。)
僕はこの休み中、家には帰らない。この寮棟には、様々な理由で何人か帰らない生徒が
残る。
両親の問題だとか、孤児だとか、もしくは授業単位が足りなくて、既に補修決定
の輩などだ。
僕はそのどれにも当てはまらない。ただ、帰らないのだ。
何度か親から電話を受け取った。最後に、終に僕は
「どうしてもこっちの図書館で調べたいものがあるんだ。」
などと嘯く程だった。
勿論、親も其れが嘘だという事位承知しているだろう。しかし、一つ溜め息を吐いた後に
諦めたように言った。
「冬には、帰ってきてね。」
その言葉はどこか寂しく響いた。
夏は灼けるような暑さを抱えて、僕はその熱に浮かされて行く。
それは、確実な早さで僕を捕らえて離そうとしなかった。