『恋ってなんだ !』3


 先輩が帰宅した後、俺は急いで着替えて、母には内緒で家を出た。阪井の家は、本当に近かった。俺の家から、三分ほどで着く距離だ。木造の二階建て、白い壁の家は、父親と二人で住んでいるというには大きなものだった。
 五時を過ぎた現在、暗くなると自然に灯るのだろう。外灯がほんのりと玄関を照らしていた。ただ、家の中の電気は点いておらず、暗い。
 ドアホンを押そうと手を伸ばした時、ガシャン、と物が割れる音がした。
『俺がいくら言っても・・・あいつは部屋から出てこなかった。これ、一応家の鍵。後、何かあったら電話して。・・・俺は近くの友達の家にいるから。これ番号。短縮に入れておいて。電話鳴っただけでもすぐに行く。』
 先輩の言葉が浮かぶ。
 コートのポケットに、借りている鍵が入っている。俺はそれを握り締めた。多分・・・チャイムなんて押しても無駄なのだ。
 ガチャリ。
 家の中はシンとしていた。
「阪・・・井・・・・?」
 何となく、声を出す。応答はない。玄関では観葉植物の鉢植えが横倒しになり、土が零れていた。靴箱から無造作に放り出された靴。傘は骨が折れて、もう使い物にならない。俺はそれらを避けて・・・面倒になった分は踏んで、階段を上った。
 ギシリ、と音がする。家の奥に位置する階段は、暗くて良く足元が見えない。それが変な不安を増長させた。
 確か阪井の部屋は・・・上がって右奥の部屋。先輩の言葉を思い出しながら、俺は進んだ。
 部屋の前で、深呼吸をする。
 ココン・・・・・
 戸を叩くと、衣擦れの音がした。阪井が中にいるのが分かった。
「・・・・・阪井・・・・・・いる・・だろ?」
 俺が声を出した途端、部屋の戸が開いた。俺は思わず身を固くした。
「せ・・・ぱ・・・い・・・・・・・・」
 僅かに外灯の光が差し込む室内から、阪井が顔を出す。呆然としたような、阪井の声が、耳の奥で反響するようだった。暗さで良く見えないとはいえ、阪井の表情は、いつもと変わらず、その後ろに見えている惨状さえなければ・・・普通の状態だと錯覚しそうだった。
「な・・・んで・・・。ここ・・・に。」
 途切れがちの声が、それだけが阪井の不安定を表していた。
「それは・・・・・・・!?」
 俺が何かを言う前に、阪井が俺を抱き締めてくる。
「あるわけない。こんな事。先輩がうちにいるなんて・・・夢・・・・・?そう・・・だ。きっと・・・これは・・・夢で・・・・・・」
「・・・・・ちょ・・・阪井・・・!落ち着け。俺は、・・・・・・・っ・・・・・・・・」
 阪井の唇が、俺に重なった。眼鏡が、カツッと音を立てる。
「・・・・・ん・・・・・・っ・・・・・さ・・・・阪・・・っ・・・・・ふ・・ぅ・・・」
 必死に突っぱねる。それでも、頑として阪井の身体は動かなかった。
「・・・かい・・・・・っ・・・阪井・・・・・・・!夢じゃねぇ!!違う・・・・・・!!・・・ひぁ・・・!」
 首筋に当てられた感触に、ビクリと身体が震えた。背筋がゾクゾクとする。
「・・・ッ・・・く・・・バ・・・バカ阪井ーーーーーーーーっっっ!!!!!木下先輩に頼まれたんだよ!いい加減気付け!!!」
 思いっきり・・・俺は叫んでいた。
「・・・・・・・兄さん・・・・・・?」
 そこで、阪井が俺を見据えた。かぁっと頬が朱に染まる。黒い瞳が、ゆらゆらと揺れた。
「・・・・・ほ・・・本物・・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・本物。」
 バッと、阪井が猫のようなすばやさで俺から離れる。その勢いで、本棚にぶつかった。数冊の本が落ちてきて、阪井にあたるが、その痛みすら阪井はもう認識していないようだ。
「すす・・・すみません・・・・すみません・・・!俺、何・・・なんて・・・こと・・・・・っ・・・」
 明らかに慌てている。
 その姿に、俺は思わず苦笑しそうになる。・・・無理矢理キスされたのに・・・何で俺はこんなに、落ち着いているんだろう。
「阪井。・・・・・・今日は・・・ごめん。・・・・・阪井にどういう顔して会ったらいいのか、俺は分からなかった。そしたら、今朝になって熱が・・・出て。お前がそんなに気にすると思ってなかった。・・・・・・・・・ごめん。」
「先輩が、謝ることじゃないです。・・・っていうか・・・俺・・・ 今 先輩 に・・・・・」
 阪井が顔を伏せた。
「・・・・・すみません・・・すみません・・・・・・・!」
 ガサ・・・ガサ・・・。室内に散らばった紙屑や本を、俺はもう避けずに進んだ。急速に外は暗くなって、だんだんと阪井の表情が見えにくくなる。
 棚の前で、阪井は蹲って、ひたすら俺に謝っている。
「・・・・・阪井。・・・・・・・阪井は・・・・・俺が何で・・・好き?」
 阪井の前に屈み、俺はそう聞いた。驚いた顔の阪井が、目の前にある。
「何で?」
 再び聞く。

「恋をしているからです。それ以外は、何もないです。」

 きっぱりとした答えだった。その時俺は・・・阪井を・・・抱き締めていた。
「阪井、阪井・・・・・。」
 俺は、お前を受け入れられるか分からない、と、そう耳元で呟くように言った。
 阪井は「はい」と、小さな声で答えた。それ以上、言葉はなかった。
 泣き出したいような感情だった。何でかは分からない。何も分からなかった。
 ただ、阪井を嫌いではないと思った。小さな動物でも抱えているような気持ちになって、それは恋ではないと思う。

「先輩・・・俺は、貴方に恋してるんです。・・・初めて見たときから、・・・ずっと。」
 そのままの姿勢で、どれくらいいたのだろう。ポツリと阪井は呟いた。
「俺は、恋をしているんです。」
 「好き」とは言わなかった。それが阪井らしかった。感情を押し付けようとしない言い方だと思った。それは、阪井が生きてきたうちで、感情を殺す事を覚えてしまった証明のようにも思えた。
「ああ、知ってる。知ってる・・・・・」
 それしか言えなかった。遂に俺は・・・自分の頬に伝うものが止められない事を知った。これは何だ。・・・・・・阪井に感じるこの、痛ましいような・・・やるせない思いは。
 分からなかった。やはり何も分からない。
 阪井の右手が、俺の背に回って、数回やさしく撫でられた。それは酷くあたたかさを伴っていて、それが余計に苦しかった。

 すっかり夜の闇に閉ざされた部屋で、俺たちはそのままでいた。
 俺は・・・・・・

「貴方に恋してます。」

 阪井の声が、頭の中で繰り返されていた。


20041211

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