時折、キョウの眉根が苦しそうに歪んだ。その時のレンの表情も、同じように痛ましい。
ひっそりとした病室は、重苦しい空気の中、朝の光をひたすら取り入れていた。少しでもこの苦しさを、払拭しようとでもするみたいに。
シリアルは傍らにぼんやりと立っていた。ただ自分に出来ることは何もなくて、でも、ただこの場に居たかった。
レンにキョウを奪われるのは嫌だと・・・そう思った。けれどもそれは、レンも思っている事に違いなかった。
(・・・いや、そんな事はない・・・。だって、レンはキョウを手にしている。自分に奪われるなど、毛頭思っていない・・・。)
ただ、そうも思った。
二人を見ていると、それは自然なあり方のように思えた。一対のもののようにも見えた。「奪われたくない」という感情は、一晩のうちに形を変えつつある。それはどうしても彼らが、離し難いもの、に見えてしまうからだった。
塗り潰して描き変える事の出来ない、名画のように。
「シリアル・・・・・・」
うわ言が、息苦しさと静寂を破った。
「シリ・・・アル・・・・・・・」
キョウの目は、硬く閉じられたままだったが、確かにその声は彼から発せられた、彼の声だった。
弱々しく、けれども発音は明瞭なキョウの声は、シリアルの心中を確かに満たす。
レンが、ゆっくりとキョウから視線を外し、そして、シリアルを捉えた。
「君は・・・梗の何・・・・・・?」
その声音は厳しくも優しくもなく、事務的な淡々としたものだ。シリアルに注がれる視線も、どこか無機質で、それはキョウを慮っていた人間と同一とは思えない程だった。
「何」と聞かれて、シリアルに応える言葉など持ち合わせてはいない。海辺で見つけて、ここに連れてきて、そして・・・勝手に好意を持って勝手に付き纏っていただけ。それ以上でもそれ以下でもない。
言葉も分からず、殆ど意志の疎通すら出来なかった彼らは、友人という枠にすら留められない、知人以下の存在でもあった。
シリアルの感情では違ったものの、表面的には”恩人と怪我人”という図式にしかならない。どんなにキョウが笑いかけてくれたとしても、シリアルが懸命に彼と話をしようとしていたとしても、彼らはお互いの事を余りにも知らない。
「・・・・・・・何故、黙っているの。」
少しだけ、レンの声が重みを帯びる。投げられた視線がシリアルを射る。
「・・・・・・・・俺は・・・ここにキョウを連れてきただけ。キョウはここの患者。・・・それ以上も以下も・・・俺には分からない。」
レンが少し首を傾ける。疑問を示すように。
「質問を、変える。なら・・・シリアル、君にとっての梗は、何?」
レンの表情がまた変わった。瞳の奥に、明滅するような光。それはただひたすら、疑問への回答を求める子供のような好奇心を湛えている。
「俺にとっての・・・・・・」
自覚したばかりの自分の感情を、どう説明すればいいのか、シリアルには分からなかった。そしてそれは、彼に伝えていいものなのかも・・・・・・。
「・・・・・・・大切、だよ。とても、大切な・・・・・・・」
「そう。」
レンからは、満足したような笑みが零れた。それに不可思議さを覚える。
シリアルから視線を逸らし、再びレンはキョウを見る。浅く紡がれた呼気は、それでも確かなものだった。それを見届けると、レンは立ち上がる。
「君に・・・君に梗を、託してもいいだろうか。」
真っ直ぐに瞳を見てきたレンの表情はやわらかく、でも、その内にはいくばくかの憂いが感じられた。
「レンは・・・どこに行くの。戻ってこないの。」
シリアルのその子供染みた物言いに、ふとレンが笑う。その顔は、キョウに酷く似ていた。
「・・・・・・俺には・・・梗だけだった。俺の世界には梗しかいない。梗を生き延びさせる事だけが俺の使命だから。・・・俺一人では彼の孤独や寂静を、完全に癒すには足りない。」
「レン?」
「俺は梗さえ無事であればいいと思っていた。梗はいつも”下”を見ていた。いつか行ける事があれば、一緒に行きたいねと・・・そうも言った。それは可能性としては殆ど有り得ない事だった。何故ならそれは、俺が止めるから。あの空を突き抜ける事は、死を意味するに等しかったから。・・・・・・・でも、」
レンはシリアルのほうへ歩む。右手をそっと上げて、シリアルの頬に触れた。
レンの手はゾッとするほど冷たく、硬質だった。まるで、血が通っていないみたいに。
「狂ってしまったから。もうあそこの装置では、どうにもならない程に。俺たちだけが知る、地上にある最後の遺物。・・・あれがまだ、使えるかは分からないけれど・・・・・・・・梗が、それを望むなら。・・・・・君を生かす事を、望むなら。」
レンの手が、シリアルから離れる。
「俺が人だったら良かったのだろうか。血の通う人間なら、梗はこんな無謀な事はしなかったんだろうか。空を抜けて、この地の人間を救おうなど・・・考えなかっただろうか。」
「・・・・レン・・・・・・?」
困惑の表情を向けると、レンは微笑した。そしてそのままシリアルの横を擦り抜ける。その背に、声を掛けた。
「レン、良くは分からないけど・・・。キョウだったら君がどんな存在であったとしても、救えるものを救いたいと、そう願うと思うよ。・・・そしてそのキョウやさしさは、君が与えたものだと、俺はそうも思うよ。」
扉が開かれ、レンがその向こうへと脚を踏み出す。
シリアルは、彼を止めたい、と思った。腕が自然と伸びて、彼の肩を掴もうとした。しかし、彼の何にも触れる事が出来ないまま、扉は病室を隔絶した。
残ったのは扉の閉まる瞬間「そうだな。」と言って振り返ったレンが、寂しそうに笑った、その微かな気配だけだった。
病室にクィルムとアーフェライドが来た時には、レンの気配も影も、何もかもがすっかり消え去っていた。
取り残されたシリアルがキョウの傍らで、二人に経緯を説明した。それは何と言っていいのか分からない、たどたどしいものだったが、レンが二度と戻らない事だけは確かに感じ取れた。
それから二日後、キョウはその漆黒の瞳にシリアルを宿す。
「シリアル・・・・」
変わらない優しい声音が、シリアルの耳に音楽のように響く。シリアルはあの日聞いたオルゴールの曲を思い出した。
クィルムもアーフェライドも一致した意見の元、レンの事はキョウが回復するまで伏せようという事になった。シリアルとの一件で飛び出したキョウだから、レンの話を聞いたらまた、無茶をするに違いないという見解からだ。
最も、言葉の通じない中で、どれだけ正確に伝えられるか・・・そういった問題があったのも事実なのだけれども。
それから普通に歩けるようになるまでの時間は早く、何事もなく、流れていった。
誰もレンの名前を出さないし、今までと変わりない。キョウはやはり何処かに行きたそうな素振りを見せてはいたけれど、前回で懲りたのだろう。無理をしないで回復を待っているようだった。
入院中の退屈を凌ぐためか、それともやはり不便だと思ったのか・・・キョウは暇さえあればクィルムに言葉を教わっていた。時にはシリアルも加わり、身近な単語から、挨拶、そういったものを少しずつ話せるようになっていった。
歩けるようになった二ヵ月半後・・・キョウは日常的な会話を問題なくこなしていた。
ガシャン
キョウの手から、カップが落ちた。中に入っていたミルクが床に広がる。破片が交じり、原型をなくしたカップに、キョウは視線すら注いでいなかった。
「・・・・・・・キョウ?」
シリアルが、声を掛けるも、キョウの耳には届いていないようだった。
キョウの視線の先には、テレビがあった。丁度ニュースの時間で、キャスターが淡々と記事を読み上げている。
『・・・・昨夜未明に夜空を覆った発光は、今だ原因不明で解明の糸口すら見つかっておりません。政府間の発表によれば、過去例を見ない現象であり人体への影響もわからない事から、早急に対策機関による調査が――――――――――』
そんな内容だった。
画面に釘付けになっていたキョウが、呟くように言った。
「シリアル・・・レンが来たの・・・・・・?」
それは確信を含んでいた。それ意外有り得ないのだと、はっきりと知っていて吐き出された言葉のようだった。
キョウの頬を、涙が伝う。それは本当の意味で、二度とレンには会えないのだと・・・・・・言葉よりも明確に語っている。
シリアルはかける声も見つからないまま、静かに泣き続けるキョウを抱き締めた。その瞬間、堪えきれない何かが堰を切ったのか・・・。キョウは声を上げて泣いた。それは叫びにも近かった。
キョウの腕がシリアルの背に回り、きつく抱き止める。それはまるで、失ったものを取り戻そうとしているかのように。失ったものを、埋めようとするかのように。
シリアルはそんなキョウを見て、彼がしにきた事をレンがやり遂げたのだと・・・・・・・それだけを理解した。