コートのポケットに忍ばせた音楽が、冷たい風を柔らかくする。
音の力。目には見えない確信のシグナル。
好きな音を、宝物のようにしまっておけるなら。
けれど、それは無理だから。音は風に乗り、手を離れ、耳から遠のいて行く。
どこまでも、どこまでも、どこまでも
「うん。安静にしてれば後は大丈夫だろう。若いからだな。回復も早い。」
クィルムの言う事は分かっていないのだろうが、ニコ、と笑みが返ってくる。
それから深く頭を下げた。
「キョウいるーーーーーー!?」
バタン、と大きな音を立てて扉が開き、シリアルが傾れこむようにして入って
来た。
午前中で授業を終えたシリアルは、直行で来たらしい。教材が入っているの
であろうリュックを背負っている。
「病院だぞ・・・・・シリアル」
咎めるように、クィルムが言った。しかしそれは柔らかい笑みと共に発せられ、
「仕方ないな」とでも言っているようだった。
「ごめん。」
シリアルはバツが悪そうにクィルムを見、それからキョウに視線を移した。
目が覚めたその人が、真っ先に言ったのは自分の名前だった。自分を指差して
「キョウ」
と言い、そしてシリアルとクィルムを指差して、問うような仕草をした。
だから、多分名前なのだろう、と二人は判断してそれぞれ同じように自分を
指差して名乗った。
するとキョウはやはりニコリと笑って、二人の名を順に呼んだ。
言葉という壁を前にして、それでも何とかコミュニケーションを取ろうとする。
キョウは仕切りに二人に頭を下げて、感謝の意を表した。
「シリアル」
嬉しそうにキョウがシリアルを呼ぶ。
シリアルは今年で17になったが、キョウは20歳近くだろうか。そんなシリアル
から見ても、キョウの世間知らずというか、よく言えば純粋さなのか・・・・は、
キョウを子供っぽくみせていた。
キョウの身長はシリアルより3.4センチほど高かったし、見た目は歳相応な
気がするのだけれど。
少し華奢だと言うのと、やはり態度が問題なのだろう。
ふと、キョウが自分の体が十分に動くのを確認するように、腕や足をゆっくりと
動かし、ベッドから降りる。
少しフラつくのを、シリアルが脇から支えた。
「歩くのはまだ、厄介だと思うんだがな・・・・・・どうにも歩きたがって仕方ない。」
クィルムが溜息を吐くように言った。
「せめて言葉が通じればいいんだろうけどね。多分、どっか行きたいところが
あるんだと思うんだけど。」
シリアルは、診療所に運んで来る途中の彼の表情を思い出す。何かの意志を感じさせる
瞳は、確かな生きる力を持っていた。だからきっとキョウは生き残ったのだろう、
とそう思う。
「けどなぁ。ちょっと動けるようになったと思って、おとといなぞ一人で外に
出て行こうとしたんだぞ?昨日だって目を離した隙にベッドから消えてるし。
監視が必要なほどだよ。まぁ食欲はあるし、少しくらいは構わないけどな。
病室に留めて欲しいんだよなぁ・・・。後一月もたてば、今ある鈍い痛みもひくと思うし。」
苦笑しながら医師の顔を見せるクィルムに、シリアルは同じように苦笑いを
返した。
「キョウは・・・・どこに行きたいんだろう。本当に、言葉がわかれば苦労しないのに。」
そう言ってからシリアルは思い出したような顔をして、クィルムを見る。
「あ、そういえば、アーフェライド先生、来た?何か言ってた?」
「昨日の夜にな。最近、医学発表の論文原稿を依頼されたとかで時間なかった
から、無理するなって言っておいたんだが。」
アーフェライドは医師としての側面と、趣味で民俗学やらを研究している。
だから、もしかしたらキョウの出身も分かるのではないか、と思ったのだ。
「で?で?分かるって?」
「えらく興味は持ったみたいだったけど。髪も瞳も黒で肌の色もこうだろう?これで
肌が黒ければ、海越えた南部の人種とかぶるらしいが・・・・・。違うしな。言葉も聞いた
事がないと言っていた。」
クィルムがキョウに視線を投げる。キョウは少し不思議そうな顔をした。
「アーフェライドも初めて見たってさ。キョウと同じ特色を持っている人間は、
記述に残っている限りでもう1世紀は前に一人。ただ、自分が知らないだけかも
しれないから少し捜してみると言って帰って行った。」
「悪いことしちゃったかなぁ。殆ど寝てないんだろ?余計な仕事増やして・・・・」
「どうせなら、俺に謝ってくれ。アーフェライドは何だか楽しそうだったからな。」
「勿論クィルム先生にだって感謝してるし、出世払いでいいって言ってくれても
やっぱり悪いことしてるって思ってるよ。・・・・・・本当に。」
「そうじゃない。」
「?」
「・・・・・俺だって、アーフェライドと会うのは久々だったんだよ。・・・・なのにキョウの
話で終わっちまった・・・・・。」
とぉーーーくを見るようにクィルムは視線を窓の外に投げ、気落ちしたような表情を
見せる。窓の外は快晴で、それが余計にクィルムの表情を寂しそうに見せた。
シリアルは二の句が告げず、そんな会話を知る由もないキョウは、二人の複雑な表情を
見てやはり不思議そうな顔をしていた。
「クィルム先生んとこ、黒髪の人間がいるんだって?」
小さな街だ。キョウは動けるようになって度々病院の庭などに出てしまうため、友人
からそれを訊ねられるようになるのは、そう遅くなかった。
「シリアルは会ってるんだろ?先生と仲いいもんな。」
そんな事を言われる度に、シリアルは不愉快になる。それを隠す事もできず、ついつい
「いたからって、何だって言うんだよ。」
と怒ったような口調になる。
キョウに関しての感情コントロールがうまくいかない。それに自覚はあるものの、何故
なのかは分からなかった。
キョウは、シリアルが病院に行くと嬉しそうに笑う。静かに、余り声は立てない。
「雛鳥の刷り込みみたいだな!」
と、クィルムがこれまた楽しそうに笑った。
「・・・・・・・・何それ」
「あ?知らないか?雛鳥は、一番最初に見たものを親鳥だと思ってついていくってやつ。」
「・・・・・・俺、親鳥なわけ?」
言いながらキョウを見ると、やはり懐こい笑みが返ってくる。
「・・・・・・・・・でかい雛鳥・・・・・・・・・・・・・・」
ベッドに座っているキョウの髪に触れる。出会った当初は海水でごわついていたが、
今はサラサラとしていた。
くすぐったそうに声を立てて笑うキョウは、歳より幼く見える。
不意に体の奥のほうが痛い気がして、シリアルは何かを壊したい衝動に駆られ、キョウから
手を引いた。
そんな気配を察してなのか、キョウがシリアルに触れる。ニコリと笑って、シリアルの
頭を撫でた。
それはまるで兄が弟を誉めるかのような、宥めるかのような所作だった。瞬間、シリアルは
その手を払いのける。
パシッと軽い音がして拒絶されたキョウの手は、引っ込みがつかず、そんな行動を取ってしまった
シリアルは当惑した表情をしていた。自分でも、何をしてしまったのか分からない・・・という風に。
「シリアル?・・・・ore、nanikakinisawarukotosita?」
キョウが、問うように何か言った。クィルムが二人を少し離れたところから見ている。そして
軽く溜息を吐いた。およそ、クィルムには似つかわしくない反応だった。
「違・・・・っ・・・・・。」
手を伸ばして、心配そうな顔をしているキョウを見て、更に訳が分からなくなる。
キョウの手が自分に触れ様とする前に、シリアルは身を引く。
「ご・・・・・ごめん・・・・・・っっ!!!!!」
それだけ言って、一目散にその場から逃げ出した。扉は激しく開閉の音を響かせる。追おうとするキョウを
止めるかのように。
実際に、ベッドから降りたキョウを止めたのは、クィルムだった。
「駄目だ。走ったりなんかしたら、治るものも治らない。それだけはどんな状況でも医師として
阻ませて貰うよ。」
厳しい表情のクィルムを見て、キョウが泣きそうな顔をする。
「datte・・・・ore・・・・シリアル、シリアルninanikasitanodesuyone?・・・hotteokenai・・・・・。」
俯く。
「俺らには、キョウの言ってることは分からないけどな。お前が今、シリアルを心配してるのは
分かる。大丈夫だ。シリアルが一番分かってる。・・・・大丈夫だ。分かるか?」
「シリアル。ダイジョウブ?」
キョウが、意味が分かるのか分からないのか、クィルムの言葉を反芻する。
「また、ここに来るから。」
クィルムは、シリアルが去ったほうを人差し指で指してからキョウの方へと指を滑ら
せて、
「戻ってくる」
そうゆっくりと言った。
「先生、
コンコンと戸が叩かれて、看護婦が顔を覗かせる。
患者さんが見えてます。午後の診療、始められますか?」
ショートカットの彼女は、少々申し訳なさそうに言った。
「うん。すぐ行く。」
「お願いします。」
看護婦が去った後に、クィルムはキョウの両肩を掴んだ。そして視線を真っ直ぐに合わせて、
少し厳しい顔をしてみせる。
「いいか。絶対にここから動くな。今傷が開いたら、大変なことになる。言葉が通じなくても
それくらいは分かるだろう?」
言い聞かせるようにそう言ってから、クィルムは病室を出た。
一抹の不安を、抱えたまま。
「あれ、シリアルじゃない。どうしたの?珍しい、こんな時間に。」
病院の前でウロウロしていたシリアルを呼び止めたのは、長いブロンドを一つに束ねたモデル
のような人物だった。
「リィム先生・・・・?先生こそ、珍しい・・・・・・」
通常は夜勤のリィム・ユーベルに会うのは、大体夕方を過ぎてからだ。
淡い青の瞳としなやかに伸びた手足は、全体的に猫のような印象を与えられる。ゆるりとした
白衣に身を包んでいても、そのプロポーションが良いことは歴然としていた。
何故医師などをやっているのか疑問に思ったことがあるが、リィムを見ていると好きでやって
いる事がありありと分かり、シリアルは結局それを聞いてみたことはない。
「何?アーフェライドに用?だったら、後のほうがいいかもよ。今、仮眠中。いい加減
限界が来たみたいで、それで私がこんな時間にいるのよ。」
コロコロと笑いながらリィムが言った。
「ああ、そうなんですか。」
若干の気落ちを見せるシリアルに、リィムが言う。
「私、今から昼なんだけど。シリアルは?もう食べた?」
「いえ・・・・まだ、です。」
「じゃ、一緒に食べようか。奢るよー。丁度ランチタイムまだやってるし。」
「え、でも。」
「あ、いいのいいの。給料も入ったばっかだし、今日はサッカスもいないから。」
サッカス・アガーセクタは、リィムの彼氏だ。同じ診療内科医をしている。浅黒い肌の、精悍と
いう言葉の似合う人物で、性格もさっぱりとしている。
ある意味その大雑把とも言える性格がクィルムと合うらしく、飲み友達だと聞いたことがある。
シリアルも、数回会った事があった。
「さ、行こう。」
半ば強引に手を引かれて、シリアルは少々遅い昼食をリィムと摂ることになった。
「あの・・・・・、バカ!!」
苛々した感情を、隠す事もせずに言葉を発した。傍を通った看護婦が、驚いたような顔をしてから
足早に通り過ぎて行った。
かけておいた筈の窓の鍵が開いていて、閉め損ねたのか隙間から冷たい風が病室に入って
来ていた。冷やされた病室で、無意味に暖房機が鈍い音を立てている。
目を向けると、ベット脇に置いてあった筈の靴と、隅にある衣紋かけに
かけてあったジャケットがご丁寧にもなくなっていた。
空になった病室を前にしてクィルムは眉間に皺を寄せ、そのまま足早に病室を後にした。