細く、息を吐く瞬間。
オルゴールの音色が、良く通って響くような開かれた場所。
湯気のたつ、温かな飲み物。
ヒヤリとした感触の、張り詰めた空気を連想させる金属。
その日はそんなものが彼の傍らにあった。
気温は低い。彼の吐く息が真白なくらいには。
朝の散歩を思い立ったのも気まぐれだったが、半ば後悔しそうになった。
流石に海風は冷たい。
浜には一人の人間もいない。海風や波打つ音が、遠くで聞く、少し大き
めの道路を行き来する車の音に似ている。
筒の中を、風が通るような、低く恐ろしい音。
小さな音楽をポケットに忍ばせて、そのくぐもった音を聞く。
片方でその音楽を奏でる箱を、もう片方でぬるくなってきた
缶ジュースを握りながら、浜辺を延々と歩いた。
偶にポケットからオルゴールを取り出しては、その音色を風に乗せる。
海風の音・波の音・砂を踏み締める音・息・遠くからゴォォゴォオと
トンネルで聞く反響音のような音が聞こえてくる。
もう、朝から活動している人たちの音。工場の音。車の走行音。それから
自然の音。
それぞれが交じり合った生命の音は、遠くからいっしょくたに
なって唸りを上げてここに届く。
(何だろう、何か・・・・・)
いつもの風景と感じが違って見えるのは、朝だからだろうか。しかし、それとも少し違う。
何と言うか、知っているのに知らないような違和感にも似ている。
(あ)
違和感の正体は、浜辺に延々とあった。
残骸。
木片や金属片。
船の骸、と思われるもの。
余り流れ着く事はないのだが、多少はこの浜辺にも流れてくる。
(どっかのバカが、海に出たのか。)
この時期の海は、荒れやすい。朝晴れてたと思っても、午後にはいきなりの
雷雨に見舞われることもしばしばだ。
天候が、海上ではとにかく変化する。陸が晴れてても、海の途中から荒れてい
る事も多い。大凡二ヶ月程、そういった不安定な時期があって、まさに今が
その時だった。
だから、海に出るものは極端に少なくなる。
余程の世捨て人か、自殺者か、酔狂者。
大金を積まれたって割に合わないのだ。出ようとする者など皆無と言って
差し支えない。
彼はゆっくりとその残骸の脇を通り抜けた。
船は、海向こうの国との唯一の国交手段だ。空を席捲した時代には、飛行機という
ものがあったらしいが、それは既に記述のみの絵空事のようなものだ。
彼が空を見上げると、良く晴れてはいたが、偶にバリバリと雷のような
音がする。
前時代の遺物・・・というものらしい。
良くは知られていない。ただ、空にさえ出なければ害を及ぼすことは殆どなく、
時折バリバリと音を立てているくらいだ。
兵器だと、教科書には書いてあった。
コントロールはおろか、撃ち落すことすら不可能になった兵器。
空に上がってこようとする物全てを焼き尽くす、そういったモノだと。
だから自分たちは、空を神に返したのだと・・・そう言ったのは哲学の先生
だったろうか。社会学の先生だったろうか。もう、彼は忘れてしまった。
(もともと、空に出ようなど人の傲慢だ。)
彼はそう思った。地のみでは足りず、空すらその支配に治めようとする行為は
彼にとって愚劣に見える。
ザザ・・・・・
寄せてはかえして行く波。今は穏やかだが、これらの残骸を生んだ時はどれ程
荒れていたのだろうか。
彼は海に出たことはない。だから、その世界を想像するのは難かった。
(?)
テトラポットの手前、何かが動いた気がした。
(手・・・・・!?)
彼は思わず駆け出す。生存者かもしれない。そう思ったからだ。
彼が近寄ると、見たこともない髪の色の人間が倒れていた。
漆黒の髪。
(闇の・・・・・色だ・・・・・・)
濡れた髪はその人の肌に張り付き、血の気の失せた額に、頬に、更なる翳りを
帯びさせている。
遠い東国には闇色の髪と瞳を持つ種族が居たと、歴史で習ったことはあった。
けれども既にそれは先史の種族で、純粋な種族はもういないと聞いている。
かつ、この辺りで黒髪は珍しい。
他国にはいるらしいが混血が重なり、瞳の色、髪の色の双方が黒く、黄色がかった
肌の人間はいないと聞く。
(この人も・・・混血だろうか。)
思わず額に掛かっている髪を掻き上げる。
(生きている。)
細くはあるが、息をしているのが分かった。
(助かるだろうか。クィルム先生のとこまで運んでみようか。あの人なら、
もう医院に来ている筈だ。)
彼はその人の腕を持ち上げて、自分の肩に回す。彼より身長の高いその人を持ち上げるのは
困難だったが、放って置くわけにはいかない。
ふ・・・・と花が開くようにゆっくりと、その人の双眸が開かれる。
その瞳も、闇。
彼は、思わず見惚れた。
「・・・**+−?」
耳慣れない言葉が、彼に向かって紡がれる。
「何?分からない。」
不安そうなその人の双眸は、彼自身を困惑の瞳で見詰めた。
「大丈夫。病院に連れて行くだけだよ、安心して。」
彼はそう言ってその人に笑い掛けた。すると、その人も緩やかに微笑む。
「+・・・*/・・+・・・−。」
何か、途切れがちに言う。それは彼には分からなかったけれど、その人は彼の行為が害あるもの
ではないという事だけは、判ったようだった。
彼はその人を支えて、病院へと向かった。
(闇色の髪に瞳。黄色がかった肌。かつて東国にあった島国は、既に海中に沈んだと史書には
記されている。その国の種族の特徴に、ぴったりだ。黄金の国と呼ばれたその国。)
彼は思いを巡らす。
(もう、存在しない国だし、種族としても散り散りとなって、他国の種族と混じり、今では
純粋な種族はいないとされているけれど・・・・・・。この人は、何処から来たんだろう。何しに
この時期、海などに出たのだろう。)
傷だらけのその人は、それでも気丈に、足を引き摺りながら彼の助けを借りて歩む。その人の息は
荒れていて、腹部からの血が彼の目に付く。
「もう少しだから、頑張って。」
彼は泣きたくなった。苦痛に歪んだその人の表情は、それでも彼の励ましを受けて微笑もうとする。
「大丈夫だ」とでも言うように。
何かの意志を、彼はその瞳に感じていた。まだ、死ぬわけには行かないというような、そういう
やり遂げるべき事を持った者の強い光。
白い小さな個人病院の前で。
細い糸が切れたように、その人は崩折れた。
彼は駆け出す。
「先生!クィルム先生!!急患だよ!!!!!」
その存在を生かす為に。