その話を聞いたのは、夏休みが終わる2日前。
母が近所に挨拶周りをした、そのうちの一人から聞いた話だった。
俺がその学校に通うと知って、話題にしたらしい。
要約すると、廊下でふざけていた男子生徒が窓にぶつかり、ガラスが割れた。運悪くその下を通りがかった男子生徒にガラスの破片が降り注ぐ。更に運が悪かったのはそのガラスが、彼の視力を奪ったという事だった。
何の脈絡もなく、俺は真司を思い出した。その妹を思い出した。
視力を奪われた生徒の親は、執拗な程に相手を責めたらしい。その気持ちも分かるけれど、見ていて可哀相なほどの雑言を浴びせられているのを、話してくれた人は見たことがあるという。
憐憫の情を双方に抱いても、「もし自分の子が・・・」と思えば、情は被害者側に傾く。事故以前は親しくしていたものの、以後は疎遠になったとも話した。
母が
「何とも言えない話よね・・・・・」
と言った。
俺はその言葉を背にして、炎天下に駆け出した。
真司の元に。
真司は変わらず俺を迎えた。当然だろう。俺が何を聞いたか、彼は知らないのだから。そして俺も、それが真司の事なのかどうか、問う事はしなかった。
黄色の花は外側・・・こちら側に向かって明るさを放っていた。それはとても卑屈な人間には描けない絵だった。だから俺は、あの話は真司ではないと思う事にした。いや、どちらでも構わないと思った。
その時にはっきりと自覚した。俺は、この絵が見たくてここに来ていたのだと。暇だからとか、そういうどうでもいい理由ではなかったのだと。
この絵と、この絵を描いている真司を見に来ている。
シャツから伸びた長い腕と、力強く描き出される姿とを、俺は飽かずに眺めていられる。
「・・・・・・・・友達だったんだ。」
真司が言った。なんの前触れもない言葉だった。
「あいつは美術が好きで。絵を描くことが好きで。それで俺とも気があった。同じ部活で同じように絵を描いて、大学は勿論美大を目指してた。」
「描くものは全く違う。だからこそ余計に面白かった。お互い、お互いが持っていないものを持っていた。ただひとつ違うのは、あいつには才能があったという事。俺には決して得られない、越えられない。」
「憧れて止まないものを、あいつは持っている。」
真司の腕が大きくうねっている。そのたびに新たなラインが描かれる。ラインはそれだけに留まらず、形を作る。それは花の形。その一本一本・その手数のひとつひとつのどれをとっても無駄はない。
真司が花を生み出している。少なくとも俺にはそう見えた。
「・・・・・・・・真司にも、あるよ。」
そう言った俺に、真司が振り返った。刷毛を持つ手が止まる。
妹と似た、丸い目が俺を真っ直ぐに射抜いた。それから苦笑しながら
「ありがとう。」
そう、言った。
「明日で夏休みも終わりだな。」
再び壁に向き直った真司の背中を、俺はじっと見ていた。汗が滲んだシャツ、足の先から爪先・まるで踊るように使われる体。刷毛で描かれていると分かっているのに、花は真司の指先から溢れ出る魔法みたいだと思う。
「・・・・・今日で、この絵も完成する。」
振り返らずに真司は言った。
唐突に、触れたい、と思った。手の平を、真司の背にヒタリとあわせたくなる。そのまま腕を回して、抱き締めたい衝動に駆られた。
河のせせらぎだけが、俺たちを取り巻く音だった。時折は通る頭上の車の音も、今はない。空間が切り取られたみたいに、その場だけが世界から取り残されたみたいに。
触れたい。
抑えきれなくなるような感情が渦を巻いたその瞬間
「タツ。」
遮るように、真司が俺を呼んだ。
それが合図だったかのように、頭上の橋を渡る車の音がした。ザァと風が草を薙ぎ、土手の一本道を走り抜ける人の足音が聞こえた。切り取られていた空間は消えて、俺の行き場のない感情だけが取り残される。
「タツ。」
「・・・・・・何。」
「この絵・・・・・・・・・・・」
そこで真司は一旦口を閉ざした。
「・・・・・・・・何でもない。」
「なんだよ。」
「・・・・・タツと、知り合えて良かったな。」
「・・・なんだよ、今更。」
「一人でこの絵を描くのは、きっと辛かった。だから声をかけたんだ。お陰でこうして完成する。」
真司はゆっくりと振り向いた。その顔はとても晴れやかで。”ああ、やっぱりこれは真司の花だ”と俺は思った。
黄色の花を背負った真司は、その花そのままの笑顔で俺に言った。
「ありがとう。」
通夜に来たのは、ごく僅かだった。
学校の先生と思しき人と、近所の人と、親戚と。いくらか同級生もいたが、焼香を済ませると挨拶もそこそこに帰って行った。多分、真司を避けていた事に対して罪悪感を覚えているのだろうと思う。
最後に焼香したのが俺で、鈴香は後を追うようにして席を立って来た。
「ありがとうございます。」
気丈な声だなと、まず思った。真司のために紡がれる少女の言葉は、いつでもどこかに強さを滲ませている。泣き腫らした目は未だに濡れていて、その瞳の中で景色が・・・俺が、ゆらゆらと揺れていた。
その真司に良く似た目で、少女は俺にゆっくりと頭を下げた。二度目だな・・・と俺はぼんやりと思った。
そして明瞭に発音されたその言葉が脳内に届くのに、俺は数秒を要した。
「いや・・・・・・」
俺はそれ以上の言葉が出てこなかった。結局は、何も出来なかったのだから。
「・・・・・兄さんの目、あの人のものになるんです。」
鈴香の視線の先に、彼はいた。包帯を巻かれていて両目は見えない。介添えの人は誰だろう。母親にしては若い。もしかしたら病院の人なのかもしれない。無理を言って病院を抜けたのだろうから。
目が覆われている為、表情は窺い辛い。なのに、憂いを帯びて見えた。家族以外のこの場の誰よりも、彼は泣いているように見えた。
俺は願う。彼が再び筆を持つ事を。真司が願ったように。真司が焦がれたその才能を、再び開眼するように。
願いながら少しだけ、その姿を恨んだ。
真司を奪ったその才能と、その不幸を恨んだ。
何故、死ななくてはならなかったのか。
そう、思う。
方法はあった筈だ。命まで差し出さなくても良い方法が。
一緒に考えたのに。そうしなくて済む方法を、俺だって考えたのに。
けれどその思いも、あの絵を見た瞬間に打ち砕かれた。
真司は俺とは違う世界にいた。確かにこの世界にいたけれど、俺とは違うものが見えていたのだと思う。そして俺はそれに惹かれた。真司が見ていた世界に、そのものに。真司自身に。
夜にみたその花は、まるで光の花だった。明るく、輝く花だった。
絵の具に蛍光塗料が混ぜてあったのだろう。橋の下、それは誰に知られる事もなく、夜露に濡れた花のように色鮮やかだった。
その瞬間に、理解した。
真司には絵がなくてはいけなかった事が。
目を失うことは、死に等しかった事が。
そして真司にとって、焦がれた才能を潰してしまった事に対する重圧がどれほどのものだったのかを。