その花を
忘れない。
「アイス、食う?」
そう言って彼が話しかけてきたのは、暑さも極限の季節だった。
彼の手にあるのはひとつ100円くらいのカップアイスのバニラ。”なんだコイツ”と思うも、その人懐こい顔が俺の警戒心を幾分かといた。
「そこのコンビニで買ったらさ。アイスクジやっててさー、当たりが出たんだよね。でも俺、2個もいらないから。な、いらない?」
暑い。確かにアイスくらい食いたい。でもどうしよう。
「・・・・・・・・その絵、少しは気に入ってくれたのかなぁ。ずっと、見てただろ。」
俺の目の前には、壁。正確にはコンクリートで出来た橋脚部分。その壁面・・・・・・なのだけど。
そこには花が描かれていた。大輪の。黄色い。花。
大輪とはいえ「華」と描くほど華美ではない。どちらかと言えば印象は野花に近い。それはすぐに彼の懐こい笑顔と重なった。
「これ、あんたが?」
描きかけの絵だというのは一目瞭然だった。まだ、輪郭すらはっきりしていない。大雑把に形作られている状態。下地に塗られた色もところどころ見えている。
足元には草むらに紛れるように、絵の具の入った缶がいくつも置かれていた。他に様々な大きさの刷毛が10本くらいと、筆洗代わりのバケツ。
「うん。・・・・で、アイス。いる?」
俺は差し出されたそれを、今度は躊躇わずに受け取った。
それが俺・成宮建(ナルミヤタツル)が彼・小野塚真司(オノヅカシンジ)と友達になったきっかけ。
「タツ!なんだ暇人だな。毎日くんなよ!」
笑いながら真司は俺にジュースを放って寄越す。知り合ってから一週間。俺はほぼ毎日ここに通っていた。真司の懐こい性格のせいか、会って次の日にはお互いを名前で呼んでいた。
真司は毎日毎日、ここで絵を描いている。聞いてみたら、夏休みに入ってからずっと通っているのだという。
かくいう俺はと言うと。
夏休みになる直前にここに越してきたため、友人と呼べる人が一人もいない上、宿題もないというかなりの暇人だった。だからと言って家でゴロゴロしているのも我慢がならず、今に至る。
絵を描きに来ている真司にとって、俺は邪魔でしかないのではないかと思う事も勿論ある。けど、真司が俺をそういう風に扱ったことは一度もない。待っていたように放って寄越されたジュースは、クーラーボックスに入っていたのだろう。程よく冷たい。
聞いてみたら、真司は一日の大半をここで過ごしていた。クーラーボックスは椅子の代わりでもあり、炎天下の中、彼の昼食や間食を常備しておく為のものでもある。今ではそのボックスに、俺の分のジュースやお菓子などもいれてくるようになった。毎日それでは申し訳ないから、俺も時々は差し入れを持ってここを訪れる。
偶に会話をするだけで、後は基本的に何もしていない。美術に素養があるわけでもない俺が、真司の絵に口を挟むこともない。ただ、見ている。後は傍の河に足を突っ込んで涼しさを得たり、その辺を歩き回ったり、ボーッとしていると夕方になる。
河の流れはゆるやかで、サラサラと流れていた。夏休みなのだから、近くの子供が遊びに来ても良さそうなものだが、一人としてみた事がない。真司に聞いてみたら、大体はプールに行くか、もう少し下流に行くのだという。
そうすれば近くにコンビニもあるし、ここより浅瀬になっていて遊びやすいのだそうだ。
「見えないけどここ、3メートルくらい進むと急に深いところがあるんだ。」
本当にいきなり、罠のようにそれはあるのだという。「一回、試しに入ってみたら、死ぬかと思った。」と、真司は笑い話にならない事を笑って話した。
目に見える穏やかな水流とは裏腹に、その部分は流れが速いのだと言う。
「だからタツも、それ以上は先に行くなよ。・・・・・・・助けられる自信ないからな。」
そう言って、真司は苦笑いした。
暗くなる前に真司も片付けを始めて帰宅する。それと一緒に俺も帰宅する。何が面白いわけでもない。だから俺自身、本当に暇潰しだった。
暇潰しだと・・・・・・まだこの時は思っていた。
その日も俺は、ぼんやりと何をするでもなく真司が絵を描くのを見ていた。橋の下で日陰になっているとはいえ、暑いものは暑い。動く事すら億劫で、俺はただジッとしていた。
真司のすらりとした腕が、シャツの袖から伸びている。その指が刷毛の柄に絡む。アクリル絵の具で作られた大量の色。それは真司の足元にいくつもの缶となって収められている。その一缶に刷毛を入れ、腕全体で描く。いや、体全体で・・・と言ったほうが正しい。
時にはクーラーボックスに上がったりもする。それでも手の届く範囲には限界がある。壁面は10メートル近くあるんだろうか。高さも15メートルくらいあるんじゃないかと思う。橋としては小さいほうだけれど、絵を描く場所としては大きいだろう。
だから、真司が描いているのは、橋脚の一部でしかない。横に伸びていく事は出来ても、高さはいかんともし難い。
「梯子とか、使わねぇの?」
そう、聞いたことがある。真司は描いている絵そのままのような明るい笑顔で
「夏休み中しか描けないんだよな。それ考えると、あんま時間がないんだ。それに・・・・・・俺の手の届く範囲で描きあげたいんだ。そういう・・・そういう絵にしたいんだ。」
と、良く分からない事を言った。
「・・・ふーーーん。ゲイジュツカの考えることはわかんねぇな。俺だったらこんだけスペースあったら、全体埋めたいけどなぁ。」
「ははっ。タツらしいなぁそれ!」
「なんだよ。俺ってそんなグローーーォバルなイメージなわけ?」
「っていうか、ゴローーォバルなイメージ。タツだったら自分の体に絵の具つけて、壁面転がるように色置くんじゃねえ?」
そう言って、真司は笑った。
「・・・なんだそりゃ。真司の俺のイメージって・・・」
「暇潰しにここにきて、ゴロゴロしているイメージだ!」
「・・・・・・・・まんまだな・・・・・・・。」
真司の笑みは、そのまま描いている絵に繋がる。黄色の花。その花がなんという花なのかは知らない。知らないが、それは真司の花なのだとそう思った。
車どおりも少ない、田舎道のような橋の下。そこに咲く明るい花。
男を花に例えるのは些か本意ではないのだけれど。それは美しいとか綺麗とかいうものではなく、素朴でただひたすら明るいものに見えたから。だから、いいだろうと俺は思った。
「ああ、でもそうだな。それもいいかもしれないな。」
「え?」
「この絵の続きを、タツが描くのもいいかもしれない。」
にやりと真司は歯を見せて笑った。
「俺に絵心はない!」
「キッパリ言うなぁ。ま、気が向いたらさ、意外と楽しいかもよ?」
「見てるだけでいい。」
「ま、気が向いたらさ。」
言いながら真司は再び絵に向き直った。壁面の花は、最初の頃よりも大分形を整えていた。様々な色が組み合わさり、それでも基調の色は変わらず、そして明るさを保ったまま。
「ほんと・・・お前の花、だよなぁ」
そう低く呟いた俺の声は真司には届かなかったのだろう。彼は黙々と真剣な眼差しをそれに向け続けていた。
「あの・・・・・」
おずおずと話し掛けられた。目をやると、中学生くらいの女の子が立っていた。目の丸い、まだ幼さを残した顔。
一本道の土手。後少しで真司がいる橋にたどり着く・・・というところだった。水の流れる音と、周辺の家からもれ聞こえる生活の音。風がないので草のそよぐ音はしない。照りつける太陽が地面に濃い影を作っていた。そのせいで、橋が作る影はより暗く、その下にいる真司の姿もここからでは良く見えない。
「兄と・・・親しいのですか。」
兄、と聞いて一瞬迷った。真司の・・・妹?
「ああ・・あの・・・すみません・・・・・」
話しかけた事をまるで恥じるかのように、少女は踵を返した。それを呼び止める。すると、おずおずと、まるで人と接する事を恐れるように再びこちらを見た。その様子は、およそ真司とは似ても似つかない。真司なら、構わずに誰とでも仲良くなりそうなのに、この少女にそんな気配は微塵もない。寧ろ話しかけた事すら後悔してそうな表情だった。
「君、真司の妹?何か用だったんじゃないの?」
俺はなるべく優しい声を作った。そうじゃないと逃げ出しそうな雰囲気を少女は纏っていた。
「・・・・はい。・・・兄と・・・話をしている人を久々に見かけたから・・・・・・。あの・・・兄に何か・・・・・」
その瞳は、怯えとは違う色を宿していた。尋問されているような、そんな気持ちになる。
「え?」
どういう意味?と問おうとしたところに、声がかかる。
「鈴香(スズカ)!」
ビクリと、少女が震えた。「兄さん・・・」と呟く。その目には当惑と安堵の両方がみてとれた。
「鈴香、彼は大丈夫だよ。俺の友達・・・だから。心配しなくてもいいよ。」
「ともだち・・・・・・」
鈴香と呼ばれた少女は、まるで始めて知った言葉のように、一語一語を確認しながら呟いた。
「なら・・・いいの。」
そこで少女は少し笑みを見せた。その顔は真司の笑みと重なる。ああ、兄妹なんだなと思わせられる笑みだった。
「すみません。」
俺に向かって丁寧に頭を下げて、少女は今度は振り返らずに去って行った。真っ直ぐな道を真っ直ぐに歩く少女を、真司は目を逸らさずに見送っていた。それに不可思議を感じないわけではなかったけれど、俺は何も言えずにただ彼の横に突っ立っていた。
「・・・・・鈴香のああいうとこ。俺、ほんと凄いと思うんだよなぁ」
感嘆を交えて真司がそう言ったのは、橋の下に戻って少ししてからだった。右手に持った刷毛の手は止めず、視線も絵に向けたまま。まるで独り言のように切り出した。
「俺が、タツに苛められてると思ったんだろうな。普段は物静かなんだ。・・・俺の・・・・・せいでさ、鈴香も学校で友達出来なくなって。それまでは普通の子だったんだ。良く笑ったし、結構クラスでも中心的な存在だったんじゃないかな。」
スイ、と刷毛が左から右上に動く。その滑らかさを俺は目で追う。全身目いっぱいを使って、真司は今日も花を描いている。
最初に出会った頃より、使う刷毛も細いものに変わってきていた。繊細なタッチを描く為だろう。
「友達が離れていって、一人になって。それが俺のせいだって分かってるのに、俺を一度も責めた事がない。それどころか、俺が同学年の奴とかに苛められてるとさ、すぐに駆けてくるんだ。先生呼んできたりするのも鈴香だった。周りに誰もいない時は、自ら突っ込んできた。・・・・・・・・やりきれないよな。兄としてはさ。」
静かな、泣きそうな声。
「鈴香の傷が増える度、俺は自分の居場所を見つけられなくなる。ここにいていいのかと思う。あんなにやさしい子を俺は知らない。俺は・・・・・・鈴香の居場所を作ってやりたい。鈴香は分かってるんだ。きっと。何も言わないけど。」
俺は何も言えなかった。どんな事情があるのかも、何があったのかも、何も聞けなかった。ただ真司がまるで懺悔でもするかのように吐き出す言葉を、聞いていた。
夏休みは後5日ほどで終わる。
真司の絵も完成間近だった。鮮やかな花が誰のために描かれいるのか、俺は分かった気がした。