弥栄の家は大きい。
大きい、と言っても豪邸なわけではない。一人で暮らすには大きい・・・という意味だ。
一階には10畳ちょっとはあるだろうリビング。後はダイニングの他に和室。バス、トイレ。
二階には仕事部屋と客間ともう一部屋洋間がある。どの部屋も6畳〜10畳。
一般的な家庭の水準というのが俺には分からないけれど、この家が一人で暮らすには大きすぎるという事くらいは分かる。どの部屋を見ても、弥栄以外の人間がいる痕跡はない。
仕事の資料室に使っていたり、寝室だったりしていて、一人にしては物が多い。けれど、部屋数のお陰で家全体はすっきりしている。黒基調のものが多く統一感があるから、余計にそう見えるのかもしれない。
両親や兄弟の痕跡を俺は探してみたけれど、どれもこれも弥栄の物としか思えなかった。本棚に並ぶ本も、デザインや色彩関係・学生時代の教材やファッション雑誌。自分が手がけたポスターの資料やスケッチブック・・・そんなもので溢れていた。
DVD・ビデオ・CD・本も弥栄の好みと外れるようなものはひとつもない。弥栄はスポーツをしないから、そういう道具もひとつとしてなく、弥栄と別の好みを持つ誰か、のものは悉く見つからなかった。
(・・・いつから一人なんだろう・・・?)
自分が数年間、そのことに思い当たらなかったというのも、おかしな話だと思った。それだけ、弥栄と共にいるのが普通になってたし、弥栄が一人で居る事が普通に感じていた・・・という事でもある。
そして俺がどれだけ、弥栄を・・・見ていなかったか。どれだけ、自分の事しか考えていなかったか・・・という事だ。
「何してるんだ。成海」
背後から、弥栄の声が響いた。
「・・・・・何も。」
「探し物?何?」
「・・・なんでもないよ。暇だったから、なんか読むものないかと思って。」
俺は本棚の前で、物色している所だった。
「成海が読むようなもの、あったかなぁ。なるべく色んな本は見るようにしてるけど、仕事柄どうしても偏っちゃうからな。」
言いながら弥栄が入って来る。二階の洋間は、すっかり弥栄の資料室のようになっていて、本で溢れていた。
「これだけあれば、何かは見つかるだろ。仕事、終わったのか?」
俺がウロウロしている間、弥栄は友人が持ってきたという、ダイレクトメールのデザインをしていた。そう難しくはない仕事だと言っていたが、友人の事務所も忙しく、手伝って欲しいといくつか簡単な仕事を任されたと数日前に聞いた。
「休憩。」
俺は書棚のほうを向きながら、本を探す振りをした。デザインや配色辞典、フォトショップやイラストレーターなどのマスター本やテクスチャやロゴの本、時計や人形の本もある。それらに混じって、小説が散らばっている。
弥栄はあまり本の整理をしないらしく、分類ごとに纏まって本棚に収まってはいない。
ミステリやホラー、映画書評、文芸誌。雑多にそれらは棚に並んでいる。文庫もハードカバーもお構いなしだ。
弥栄が俺の真後ろに立っているのが分かった。俺は振り返らないまま、本を探している振りを続けながら言った。
「・・・お茶、淹れようか。」
「いい。」
首筋に、弥栄の指が触れて、俺は少し震えた。それを見逃すような弥栄ではない事を、俺は最近知った。
「・・・・・・・・」
弥栄、と言いたかったが、言葉が出てこなかった。俺は気付かない素振りで本棚を漁る。一冊の本を無造作に取り上げて、表紙を返す。
”人体のすべて”と書かれた本だった。表紙にはグラフィックで描かれた男性が、色々なポーズをとっていた。座っているもの、立っているもの。蹲っているもの走っているもの・・・。
弥栄の息が耳元にかかって、俺は少し身じろぐ。
本を捲る。項目ごとに分類された目次があった。第一章・目。第二章・手、腕。第三章・・・と、体の各部が章構成になっていた。
弥栄の腕が、俺の腰に回る。
第一章を捲ってみると、眼球の絵が飛び込んでくる。どういった筋肉が目の周りにあり、骨がどう組まれているか。目の構造がどうなって、物が見えるのか。まばたきによって変化する表情や筋肉の動き。そういったものが詳しく図解されていた。
首筋に弥栄の唇が触れた。俺は思わず声を漏らしてしまう。弥栄の手が俺のシャツの中に滑り込んできて、直に素肌に触れた。触れられた部分に熱を感じて、俺は腰を反らせる。
弥栄に寄りかかるような姿勢になってしまってから、しまった、と思う。弥栄の手が動いて、後は翻弄されてしまうから。最近はずっとこんな調子だった。
入梅前、八萬堂の景品旅行に行ってから、ずっと。前よりも回数が増えた事を、俺だって気付かないわけがない。
以前は一週間、毎日入り浸っていても全然手を出して来なかった時もある。せいぜい、2回くらいだった。けれど今は、弥栄の家を訪れると、必ず・・・こういう展開になってしまう。話をするよりも、抱かれている時間のほうが長い気すらする。
何故だろう。
こうして近くに居るのに、とても遠く感じるのは。
弥栄が・・・遠い。
「創世記には各国で色々な伝承があるとこの間話しました。今日もその続きを講義します。」
俺は、大学がとても好きなわけではないが、何となく取れる講義の全てを取っていた。順調に行けば次に進級する頃、卒業単位の3分の1強を取得出来る程だった。
今受講している社会学の授業も、時間が空くのが勿体ないからと、穴埋めでとったようなものだったが、聴いていると意外と面白かったりする。色々な授業は、偶に弥栄の本棚と重なった。
仕事柄なのだろう。様々なジャンルの本が弥栄の家にはある。宗教的なものも、呪術的なものも、そういえば、創世記に関してもあったなと俺は拙い記憶を手繰る。
講師は教壇の前で、参考資料を片手に説明を始めていた。
「聖書では神が天地を創造し、古事記では混沌とした世界が、天地が分かれた事によって陸海・昼夜が出来たとされています。古代エジプトではゲブ・シュー・テフヌト・ヌトの四神が争い、それぞれが大地・空気・蒸気・天となったとされてると・・・先日はここまででしたね。」
確認するようにゆっくりと、老齢の講師は室内を見回しながら言った。
社会学、と銘打っているものの、実際は”宗教社会学”が正しい。
「今日は、中国の創世についてです。」
そう言って彼は、手にしていたプリントを配り始める。教室には、30人に満たない学生がいるだけだ。全体の人数を考えると、人気のない講義だと思う。確かに、社会に出るにあたっても、何か資格を得るにあたっても、全く意味のない講義だった。その上、単位が取り易い、という類のものでもない。老齢の講師は、ああ見えて結構きつい採点をする。レポートだってあるし、夏休みなどの長期休みには課題も出される。
(ここにいるのは本気で暇か、酔狂な連中だけだよな・・・)
俺はそう思う。
中国の創世記は、弥栄の家で暇つぶしに読んだ事があるものだった。
巨大な卵の話。その中に詰められた混沌。陰陽・男女・動静・・・表裏一体のもの。
その卵の中にいた大男・・・盤古が混沌を様々なものに分けたという話だ。
盤古は日々背丈を延ばし、ついには天地が九万里離れたという。
盤古が死ぬと、彼の体はあらゆるものになり、遂には彼の虱が人間になった・・・という凄い話だ。
(天地を分けた・・・か。九万里の背丈ってどんなだ。)
最初読んだ時、俺はそう思ったのを覚えている。
そういえば、ハイヌヴェレの話は、女の体が大地になり、様々な植物などを生んだとされていたなと・・・なんとはなしに思い出す。
講師は一通りプリントを配り終えると、講義を始めた。多分、今日でこの創世記の話を終わらせ、あとは考察に入るのだろう。
様々な地球観・・・そしてそれが宇宙を考察するに至る過程。それがギリシャ神話とつながる事・・・。プリントを見ると、そういう方向に講義内容を持っていくつもりのようだ。
(・・・終わったらレポートだな・・こりゃ・・・弥栄の家で資料漁ろう。)
「天地が開けると、陽(あきら)かで清らかな部分は天となり、暗く濁れた部分は地となりました。盤古の体は一日に一丈伸びたと言います。それにあわせて、天は高さを増し、地は厚みを増しました。そうして天地は九万里・・・即ち4万5千キロという広大な距離を持つに至ったのです。」
九万里の距離。天地の差。綺麗なものを天に。汚いものを地に。それを分かつものはなんだったのだろう。盤古が分けたものは、なんだったのだろう。
ふと・・俺は弥栄を思い出す。最近の弥栄は本当に変だ。・・・また、弥栄の家にいったら、俺は抱かれるのだろうか。抱かれる度、遠くなるような気がする。それは弥栄も感じている事なんじゃないだろうか。だから・・・ああいう抱き方をするんじゃないだろうか・・・・・・。
どんどんどんどん離れてゆく。一度、肌を重ねる度に。
(だとしたら、天に近しいのは弥栄なんだろうな。俺は・・・弥栄といられないという事だ。)
不意に泣き出したくなった。講師の言葉は、もう殆ど聞えなかった。弥栄に会いたい。会いたいのに、会ってしまったらまた離れてしまう気がした。近くに居るのに、心が離れる気がする。
そんなのは嫌なのに・・・・・。
何故そうなってしまったのか、俺には分からない。弥栄は変わらず優しいけれど、でも何かが違う。どうすればいいのか俺は分からなくて当惑して・・・そして流される。
序所に分かたれる天地。本当に、混沌は分けられて良かったのだろうか。
混沌としたままでも別に問題はなかったんじゃないだろうか。・・・俺が変わろうとしなければ、弥栄も変わらなかったんだろうか。
俺は弥栄に縋ったままで、弥栄は俺にずっと優しくて。ずっと受け入れてくれて・・・満足に仕事ができないままで・・・・・・?俺は・・社会に出ることも出来ないまま・・・?
良いわけがない、と思う。俺は弥栄の負担になりたくない。弥栄が働くように、俺も働いて、弥栄の力になりたい。
一緒に仕事の愚痴を言ったり、飲んだり、そういう普通のこともしてみたい。
そう・・考えている。弥栄に庇護されているだけの俺では、いつまでも弥栄と同じ視点にはなれないだろう。弥栄の足枷でしかないなんていうのは、絶対に嫌な事だった。
それに、大学卒業後、ちゃんと就職をして実家を出たかった。
父親からずっと渡されたままの通帳。それは大学生の今も、一月を暮らすに十分な金が振り込まれ続けていた。それを机の上に置いて、そしてひっそりと家を出たい。
もう、父さんとの関係が修復不可能なことは分かりきっていた。こうして世間体を保つ事でしか、繋がりを持てない。それは最早親子というよりは義務のみの関係だった。
今も父さんは家にいない。一年の殆どを出張先か・・・もしくは誰か相手がいるのだろうと思う。カレンダーには出張・名古屋、と書かれて矢印が10月後半まで続いていた。
ああしてひっそりと俺に出張先を伝えているのだと気付いたのも、最近の事だ。
別に、あんな居間のカレンダーに自分の予定を書く必要などないのだから。手帳にでも記しておけば、十分な話だろう。なのに父さんは、あえて居間のカレンダーに自分の予定を書き込んでいる。
出張前の冷蔵庫に、食材が不必要に入っているのに気付いたのも、ここ数ヶ月のことだ。あれは、俺の為に買ってあるのだ・・・と。
父さんも、いつまでも怒っているわけではないのだろうと、こういう事に気付くようになって思う。けれどそれでも、もう戻す事が出来ない。それはお互いが感じている事だった。
だから、俺はちゃんと就職して、通帳を返そうと思っている。今度は俺が、その通帳に金を振り込む番なのだから。
こんな風に感じられるようになったのは、一重に弥栄のお陰だ。弥栄が根気強く俺を社会に溶け込ませてくれたから。
弥栄という窓があったからこそ、俺はそこから外に出てみようと思えるようになった。時間はかかったけれど・・・こうして、父さんや弥栄に目を向けて、気付ける事も多くなった。自分ばかりに向いていた目が、周囲にも向けられるようになってきた。
気付くと、講義が終わるところだった。やっぱりレポートが課される。以前みた本を、弥栄の家で探そうと思った。・・・また・・・同じことにならないようにしないと、と思う。俺は弥栄の家に行くたび、ここのところずっとそればかりを考えている。
抱かれるのが嫌なわけじゃなかった。ただ・・・違和感を感じるのと、離れていくような感覚が日に日に増大している気がして
・・・・・・・それが怖い。
「弥栄の両親は、どうしているんだろう。」
会ったら聞いてみようか。思い切って・・・。
そして俺は知る。弥栄の両親も妹も・・・もうこの世にはいない事を。
大学生だった弥栄が、どうしても都合で当日一緒に行けなかった旅行。一日遅れで行くはずだった場所へ・・・誰もたどり着く事はなかった事。
家中の全てのものを処分して、家族の痕跡全てを消して。
弥栄はたった一人でそうして生きて来た。
俺は弥栄に滅茶苦茶にされそうなくらい、抱かれた。壊れると思った。
けれど、実際壊れそうだったのは弥栄のほうだった。
俺は、万能だと思っていたんだ。弥栄には耐えられない事も、辛いことも、乗り越えられない事もないように思っていた。
弥栄がしてくれたように・・・俺は弥栄の混沌を分かつ事が出来るだろうか。
弥栄を抱くことが、出来るだろうか――――――――――