『抱擁』


 赤や青に光る。
 食いつくして、吸収しようとする圧倒的な力。
 M31アンドロメダ銀河。

 共食い銀河。

 俺も、母を食らって生き延びたんだろうか。
 母を見殺しにした、俺 は 。




 夏のあの日から、俺は度々弥栄の家を訪れるようになった。
「家に人がいたほうが、仕事さぼらないから。好きな時に来てくれると嬉しい。」
 と、弥栄は言った。最初は気を遣われているのだろうと思った。だから殆ど寄り付くことはなかった。
 それでも、窓から俺を見つけると、彼は声をかけて俺を招いた。・・・俺は、わざと彼の家の前を通るようになった。そうすると、8割がたの確立で、彼は俺を見つけた。
 人懐こい笑みを浮かべて、屈託なく喋る弥栄を、俺は煩わしいとも思わなかったし、嫌悪も感じなかった。それが自分でも不思議だった。大よそ、他人と関わることが面倒だった俺が、初めて自分から関わりたいと思った。そんな自分の感情を、時たま持て余す程・・・。

 弥栄が招かないと、俺は彼の家を訪れなかった。ただの通行人の振りをして、弥栄の家の前を通る。それ以上のことが、俺には出来なかった。
 単に、他人に慣れていないのに加え、弥栄が俺に社交辞令で「家に来て」と言ったのだと思っていたという事も、勿論ある。
 しかしそれだけではなく俺は・・・それ以上に自らドアホンを押す、という行為が出来なかった。誰も出てこない事を想像するのが、怖かった。
 母の記憶がフィードバックしてきて、呼吸が乱れた。目の前がグラグラして、頭の芯から衝撃を覚えた。視線が覚束なくなり、貧血と同じ症状が表われる。目は開いているのに、渦を巻きながら視野が閉ざされてゆく。頭の血が全部下がって、冷えていくのを感じる。
 そのことを弥栄に話したのは、出会ってから、半年以上経ってからだったと思う。弥栄は俺に話す事を強要したりしなかった。偶に、ふと思い出したように質問を投げてくるだけで、それも特に答えなくちゃならないという聞き方はしてこなかった。
 その時も
「・・・あのさ・・・迷惑?」
 と、唐突に言って来た。俺は弥栄が資料として使っている色辞典を何気なく開いて、居間の机でぼんやりしていた。それまで会話があったわけでもない。本当に、唐突だった。
「え?」
「いつも俺、成海を見つけて家にいれちゃうだろ。・・・迷惑だったかな。」
 声に出す代わりに、俺は首を横に振った。
「・・・・・そっか。良かった。正直、いつも俺が無理に引き止めてるんじゃないかと、そう思ってたからさ。」
「俺のほうが、邪魔してるのに・・・弥栄がそう思ってるなんて、思わなかった・・・。」
「邪魔じゃないよ。本当、成海が来てくれるようになってから、仕事の捗り方が違うんだ。・・・見張られてると思えば、さぼれないからな。」
 軽い調子で、弥栄が笑った。その手で、さっきから描いているエスキースを居心地悪そうに弄んでいる。それから、
「・・・成海からうちに来た事ってないだろ・・・。だから、本当は嫌なんじゃないかと思って。」
 そう、少し寂しそうに言った。俺は弥栄に誤解されたくなかった。ここにいられるお陰で、家以外にいるところが出来たのだ。それは俺にとって有り難い事だったから。
 だから、少しでも・・・話しておこうと思ったのが初めだった。
 そんな感じで、俺はポツポツと、途切れ途切れに自分の話をした。弥栄も、俺が父親と上手くいってないことは、薄々感じていたようだった。俺の話す事に、大きな反応は示さなかったが、俺にとってはそれがかえって話しやすかった。
 ただ、母親のことはなかなか話せなかった。チャイムのことは話したが、その理由までは話せなかった。「少し、トラウマがあって・・・」と、苦笑交じりに話すのが精一杯だった。弥栄に嫌われたくなかったし、正直、そんな話を聞かされても困るだろうと思ったからだ。
「良かったら。チャイム、鳴らしてみなよ。俺は絶対にここにいるから。心配だったら、電話かけてからでもいいしさ。あらかじめ外出する時は、電話入れるし、張り紙でも何でもしておくしさ。少しずつでも、慣れていければいいと思うんだけど。・・・・やっぱり迷惑かな。」
 遠慮がちな弥栄の申し出は、俺にとって願ってもないことだった。俺だって、このままでいいとは思っていなかったから。
 だから俺は、それを受け入れた。そして「ありがとう」という言葉と共に、自分を預けてしまったのだった。どこまでも自分を許容し、受容してくれる存在を知って、俺は必要以上に縋ってしまったのだ。それに気付いた時には、もうどうしようもないくらい弥栄に寄り掛かっていた。・・・・・・・どうにも、出来ない程に。
 最初は弥栄に戸口に立って貰って、それから、徐々にチャイムを押せるようになっていった。それでも、中に弥栄がいる、と分かっていなければ押せなかった。ましてや弥栄の家以外のチャイムなど、未だに押せる事はない。
 そんな俺を、弥栄は笑って「押せなかったものが押せるようになったんじゃないか。成海はちゃんと前に進んでるよ。」と、励ましてくれる。




「・・・・・弥栄、・・・・そこに、いる?」
 初めて彼の家のチャイムを、俺は押そうとしていた。
「いるよ。」
 扉のすぐ向こうから、くぐもった声が響く。俺はホッとして息をひとつ吐く。
 人差し指が震えているのが自分でも分かった。何気ない行為のひとつなのに、俺にはバカみたいに難しかった。
 呼吸が整わない。走ったわけでもないのに、動悸がした。心臓が早鐘を打っている。
「・・・・・・成海、大丈夫だよ。絶対に扉は開くから。俺はここにいるから。」
 事情は何も知らないのに、弥栄はそう言った。俺の言葉の端々から、想像力の逞しい弥栄の事だから、何かを察しているのかもしれない。
 どこまでも緩やかで、やさしい声音だった。
「うん。」
 俺は素直に彼に答える事が出来る。扉に手を当てる。自分がチャイムを押して、そして弥栄にこの扉を開けて貰わなければ、俺は中に入る資格を得られないのだ・・・と、そう思った。思う事で、自分を鼓舞した。
(大丈夫だ・・・。大丈夫。)
 それでもチャイムを鳴らそうとすると、気分が悪くなった。
「・・・・・や・・・さか・・・・やさ・・か・・・弥栄・・・・・・・!!」
 無意識で俺は名前を呼んでいた。間をおかず、弥栄が出てきて、俺を抱き締めた。
「無理しなくていいから。・・・悪かった・・・・・・」
 謝る必要なんかないのに、弥栄は俺を小さな子供をあやすみたいに・・・どこまでも優しかった。震えが止まるまで、ずっとそうしていてくれた。

 何度かそういう事を繰り返して、やっと、俺はチャイムを押した。弥栄の根気強さは、他人の俺にどうしてそこまで、と思う程だった。
 ピンポン
 鈍く軽い音が響いた瞬間、俺は吐いた。その場に蹲り、胃の中が空になるまで。
 自分の服が汚れるのも気にせず、弥栄は俺を抱えた。その横顔は、具合の悪くなった俺より、余程切迫していた。
「無理させて悪かった・・・。ごめん・・・ごめん、成海・・・・・・」
 泣き出しそうな・・・苦渋に満ちた声が、弥栄の本心を俺に伝えた。俺は苦しいのに・・・苦しいのに、泣き出しそうなくらい、嬉しかった。自分をこんなに心配してくれる人がいると知って、俺は、怖いくらいに幸せだった。

 弥栄が「もうやめよう。」と言った時も、反対したのは俺だった。弥栄が俺のためを思ってそう言ったのが分かったから。
 何度か吐いて、その度に弥栄は俺を心配した。苦しそうな俺をみていられないとも言った。そう言った弥栄のほうが、俺の何倍も苦しそうな表情をしていた。
 ・・・俺はもしかしたら、自分を心配する弥栄の姿がみたいだけなのかもれしれない。俺は酷い人間なのかもしれない。そう思っても、俺はやめられなかった。
 三ヶ月・・・そんな事を繰り返して、そして俺はやっと何とかチャイムを押せるようになった。
 弥栄は自分の事のように喜んでくれて、そして、俺を抱き締めた。俺はその肩口に顔を埋めて、弥栄の背に腕を回した。
「ありがとう・・・・・・・。」
 たった五文字の言葉を、こんなに大切に発音したのは、初めてだと思った。
 そして
 そのまま俺に口付けてきた弥栄を、俺は、拒めなかった。

「・・・・・ん・・・・・・っ・・・・」
 突然の事に、俺は脳が麻痺したように思考が働かなかった。何が起こっているのか理解するのにも、暫しかかった。
「あ・・・ふ・・・・・・・」
 ただ息が苦しくて、体が酸素を欲して口を開く。弥栄の顔を間近に意識して、始めて自分がキスをされているのだと気付いた。
「や・・・・・」
 名前を呼ぼうとしたその瞬間、体が離れた。
「ごめん・・・・・」
 間髪いれず、弥栄は謝罪した。俺の目を真っ直ぐに見て。俺は呆けたように弥栄を見返していた。
「・・・ごめん・・・ごめん・・・・俺は・・・・・・・・」
 ああ、あの、苦しそうな顔だ。と思った。俺を心配する時の、あの、顔だ。
「弥栄・・・・・・」
 俺は辛うじて名前を呼んだ。どうしたらいいのか分からなかった。俺の中には何もなかった。嫌悪も侮蔑も。・・・・・・好意も何も。
 ただ、弥栄を失いたくないと思った。弥栄の苦しい顔を、これ以上見たくないと思った。俺は今までさんざんこういう顔を弥栄にさせて来た。もう、これ以上はいらない。
 俺はゆっくりと弥栄の頬に触れた。自分でも何故そうしているのか分からなかった。右腕が自分のものではないように勝手に動いて、そして弥栄に触れたのだ。
「・・・・・・・弥栄。」
 俺は、もう一度名前を呼んだ。弥栄は苦渋に満ちた顔に当惑を含ませ、俺を見ている。
「弥栄。」
 俺はそのまま弥栄に口付けた。やはり、自分で動いたような感覚はなかった。体は勝手に動いていた。俺を繰る誰かがいて、俺はそれだけの人形みたいに。
「・・・・ぅ・・・ふ・・・・・・」
 弥栄が遠慮深く俺の頭を抱えて、深いキスをしてくる。酷く恐れるように、やはりそこには当惑が含まれていた。俺の体はそれに応え様と、角度を変えて、息を紡ぎ、口を開いた。俺の舌が弥栄を捕らえると、弥栄がそれに応える。
「ふ・・・ぁ・・・・」
 意識は妙に冷めていた。体だけが別物みたいに熱くて、慣れない行為を必死で続けようとしていた。頭の中は真っ白だった。何故こんなことをしているのかも分からなかった。不快ではない。ただ、それだけだった。




 弥栄が耳元で「好きだ」と呟いた。くすぐったくなるような、甘い・・・けれどもやはり苦しそうな声だった。俺は何も答えなかった。
 弥栄の手が俺のシャツの中に入ってきても、その唇が俺の首筋をなぞってきても。
 体が反応を繰り返すだけで、俺の内側はどこまでも冷えていた。
 弥栄を失いたくない。
 その気持ちだけが、熱を持った別の動物みたいに、弥栄に応えている。
 自然と震え、愛撫に反応する仕草を繰り返し、五感の全てを支配している。
 ただその、ひとつの
     たったひとつの 感情だけ が。


 弥栄を失いたくない。




 「共食い銀河ってあるんだね。・・・・・・・俺みたいだ。」
 俺はそう言った。テレビ画面は無意味につけられた番組を、ただ映し出していた。教育番組だろう。「特集 銀河」とかいう、天体もの。
 小マゼラン雲に形成途中の星を捉えたとかで、今回の特集が組まれたらしい。銀河の説明などを交え、番組が進んでいる途中だった。

 M31アンドロメダ銀河。
 二つの伴銀河を吸収しつつある共食い銀河。
 衝突・合体を繰り返して成長してゆく。伴銀河から恒星を剥ぎ取り、強引なまでの吸収を繰り返し。やがては全てを奪い、融合してひとつになってしまうのだろう。

 弥栄は俺をじっと見ていた。返す言葉を、慎重に選んでいるみたいだった。
「・・・・・食うわけじゃないさ。・・・一緒になるだけだろう。」
 説明は小マゼラン雲に移って行く。
 小マゼラン雲には45億歳の老いた星から、まだ500万歳の若い星まで、7万個もの星が存在しているのだという。
 そしてこのような伴銀河は、より大きな銀河を形成するための材料と考えられている・・・と説明が加わった。
「餌みたいなもんじゃないか・・・」
 俺はそう言った。
「たとえが悪いだけだ。」
 と弥栄は言った。
「星は生まれるんだ。生まれて、別の星と関わって、大きくなっていく。・・・・宇宙も銀河も、成長しているんだ。きっと。」
 別のものと関わって、人間と同じように。銀河という生命が。宇宙という生き物が。

   弥栄が後ろから、俺の肩を抱き寄せた。ベッドがぎしりと軋んだ音を立てる。
 肩口に寄せられた唇に、体がひくりと反応した。
「・・・・・・・・ごめんな。」
 俺は、失敗したんだと思った。弥栄の苦しい声を聞いて、俺はやはり弥栄を苦しめているのだと知ったから。
「でも、嬉しい。ありがとう。」
 弥栄の素直な声は、俺の肩から力を抜かせた。弥栄を抱き締めたい・・・と思った。真っ白な心に、浸透するものがあった。それが何なのかは分からなかった。

 テレビは銀河の説明を続けている。画面に映し出された小マゼラン雲は、綺麗な青を滲ませていた。赤や金、青白い数々の光が、闇から空を救っていた。
 7万もの光。
 いつか、大きな銀河になるのだろう。
 それは俺の知らない程、遠い先の・・・遠すぎる程先の未来。
 俺は弥栄の腕に自分の腕を絡めた。

 弥栄を、失いたくない。

 刷り込まれたように。寧ろ、それだけは生まれた時から持っていた思いみたいに。
 俺はそう思う。

 俺が幼さから母に負った罪と、それ故に続く父親との確執を知って尚、弥栄は俺の側にいてくれるだろうか。
 それさえ叶うなら。
 俺は伴銀河のように、弥栄という存在に吸収されてしまっても構わないと、ぼんやりしてきた頭の中で思った。

「余り、哀しい事は言わないでくれよ・・・」
 そう、弥栄が言ったのを、何となく耳にした気がした。
 美しい星空がぼやけて、俺は弥栄の腕の中で、眠りに落ちた。





 母を見殺しにした俺の
 たったひとつの願いを、この空は聞き届けてくれるのだろうか―――――

 

INDEX  † 60000  †  80000




20051211
70000HITありがとうございます。
60000からの続きとして、この話を。
出会いと初めて、を書こうと思ったのはいつだったか。(苦笑)
銀河については、突っ込まないであげて下さい。
・・・・お願いします・・・・・。