赦される日など 永遠に 来ない 。
(・・・どうしよう。これから。・・・・・・・)
俺はぼんやりと住宅街を歩いていた。空は嫌になるくらい、俺の気持ちとは裏腹の快晴。真っ白な雲は食べられそうなくらいふわふわとしていて、どこまでも澄み渡った空をゆったりと流れていた。住宅の白壁も、クリーム色も、強い午後の太陽光を受けて、反射している。
父さんが帰宅しなくなって、丁度一週間が過ぎていた。
多分、出張なのだろう。家のカレンダーには先週から今日にかけて線が引っ張ってあり「大阪」と書かれていた。つまり、今日帰宅する予定になっている。
普段から、会話を一切しない関係は、同居人以下だった。まるで俺が見えていないかのように無視し続ける父親に、何かを期待してはいけないのだと・・・いつも思う。
もう、謝る事も疲れてしまって・・・。いつから俺は、謝る事を止めたのだろうと茫洋に思った。
父さんは、それでも世間体だけは気にする人だった。大学は通わせてくれているし、学費も生活費も何もかも、困るような事はなかった。暴力を振るわれた事もない。
”あの事”があって数年後、父さんは、俺に一冊の通帳を持たせた。無言で渡された、俺名義の通帳。何が何だか分からず、受け取ったのは中学にあがる頃だ。それまでは必要最低限の会話はあった。「給食費が欲しい」と言えば「これで払え」とか・・・その程度だったけれども。
訳も分からず受け取った通帳には、幾らかの金額が明記されていた。俺はそれをどう使ったらいいのか分からなくて、ただ持っていたのだが。それ以後、食卓を共にする事もなくなった。暗に「自分でやれ」という事なのだと気付くまで、そう時間はかからなかった。
俺はその通帳からお金をおろし、自分で買い物をし、自分で食事を作って食べた。最初の頃は父さんの分も作ってみたりした事がある。・・・それは、すぐに苦い思い出のひとつになった。
当然のように父さんは、俺の作ったものには一切手をつけなかったからだ。まだ小学校からあがったばかりの俺は、単に味が悪いからだろうかと思ってみて、色々試行錯誤してみた。あの頃はまだ・・・いつか赦して貰えるだろうと・・・いくばくかの期待が俺にはあった。
あの事・・・母の事があってからも、家庭訪問などでの先生への対応は柔和で、俺の事を話すのも、嫌そうな顔はしなかったから。普段どれだけ邪魔そうな顔をされても、厳しい表情を向けられても・・・あの一瞬だけで幼い俺は、父さんがまだ自分を完璧には嫌いではないのだと、そう、信じていたのだ。
だから中学にあがったばかりの俺も、まだ、少しばかりの期待を持っていた。
それが完全に打ち砕かれたのは、中学入学後、最初の家庭訪問の時だった。
帰宅の遅い父さんに見えるよう、俺は食卓にそのお知らせの用紙を置いておいた。次の日、それはゴミ箱に捨てられていた。
ただ、それだけだ。ただそれだけだけれども、もう父さんが、俺の事を一切話したくないのだと・・・そう理解するのには十分な結末だった。
担任にも連絡をしたのだろう。昼休みに入る前に俺は担任に呼び出され、
「どうしても家庭訪問は無理かしら?休日の日でも構わないし、時間も合わせるし・・・。せめて電話でだけでも少し、お話をしたいのだけれども・・・成海君から、お父さんに時間取れないか言ってみてくれないかな?」
そう言われた。だが、俺に何が言えるというのだろう。
「・・・すみません。父は・・・近頃とても帰りが遅くて。休日も出勤したりしているので、多分、無理だと思います。」
「・・・・・・・そう。大変なのは分かっているつもりだけれども。夜になっても私は構わないから、良ければ少しだけ、お話してみてね。」
そう言われて俺は頷いたけれども。
・・・・・・・・・言えるわけがない事を、俺は十二分に分かっていた。
家庭訪問がある中学の三年間、俺は毎年が苦痛だった。勿論学校側は俺の家庭事情を知っているわけで、やわらかく言われるだけなのだけれども。それでも毎年繰り返される問答に、俺はもう、嫌気が差していた。
進学も自分で決めた。父さんに相談などしなかった。進学相談も、誰もが親と三人で行っているのを、俺は一対一で担任と終わらせた。父さんに報告はしなかった。それでも受験前には入学に十分な費用が口座に振り込まれていて、「進学はしろ」というメッセージのように受け取れた。
大学も同じだった。冬に入る前には大学受験の費用を含めた、相応の金額が振り込まれていて、後は何もなかった。「世間体のためにも大学に行け」というのが、父さんの意向らしいと・・俺は勝手な解釈をした。
この頃になると、もう、父さんと顔をあわせることも極端に少なくなっていた。
いきなり赴任になったらしい時は、一年くらい戻って来なかった事もある。
(・・・・・なんだ・・・俺、まだ期待してんのかな・・・・)
これまでの事を何となく思い出しながら、俺はそう思った。
父さんが望んでいると思われた高校進学、そして大学進学。それを俺は果たしている。深夜に出かける事もなく、振り込まれた金で豪遊する事もなく。そうしていい子にしていればいつか、赦されるのだと・・・まだ子供みたいに思っているのかもしれない。
(・・・・・バカか・・・・)
でも、誰かと一緒にいる気にもなれなかったし、何をする気にもなれなかった。友人と呼べる人間も、誰一人いない。いつからいなかったのだろう。もう、思い出せない。
そして、それでいいと思った。
ただ、 この まま 。
「・・・・・・ぁ・・・ぃ」
ふと、閑静な住宅街から、声が聞こえた。
「あ、バカ・・・・・・!」
声がしたほうを見ようとして・・・・・・・・・
バサッ !
視界が一瞬、黒に染まった。
「・・・んぷ・・・っ・・・」
顔にかかったものを、手に取る。それは、紙だった。A4版の紙が、降ってくる。風は余りないから、そう飛んではいない。が、軽いそれらは、漂うように俺の足元やそちらこちらへ落ちてくる。
幾枚も幾枚も・・・白い鳥が舞い降りてくるように。
手に取ったそれを観てみると、デザイン画・・・だろうか。幾本もの線が、人や物の形を描いていた。
「俺のバカ・・・・!!すみませんそこの方、それ、拾って下さい・・・!!」
声のほうを再度見て見たが、そこにすでに人はいなくて、家の中から階段を駆け降りるような音がしていた。俺はとりあえず、言われたままにそれを拾い始める。
鉛筆で描かれた線の集合。曲線、直線、波線。それらが幾つも幾つも重なり合って、線となり、形を作っている。元は白いただの紙だったろう、それら。
「すみません・・・・・・!」
出てきた男は、謝りながら自分もそれを拾い始めた。ジーパン姿にシャツというラフなスタイルは、およそデザイン関係の仕事の人間とは思えない程、洒落たところがなかった。
(それとも、美大生・・・なのかな。)
「あー・・・ありがとうございました!本当、助かりました。」
全て拾い終え、男は俺を真正面から見据えた。
「あ・・・いえ・・・・・・。」
そう言ってすぐさま立ち去ろうとする俺を、彼は呼び止める。
「・・・・・あの、大丈夫・・・・・ですか?」
「・・・・・・・・・え?」
俺が振り返ると、心配そうな男の顔がある。
そして何の前触れもなしに、俺は昏倒した。
目を開けてすぐに飛び込んできたのは、紙の山・・・だった。
ビックリするくらいの量だった。ベッドの回り全てが、紙に囲まれている。
「あ、目が覚めました?大丈夫・・・?」
上半身を起こすと、額に乗っていたタオルがパタリと落ちた。
「寝てていいですよ。これ、スポーツドリンク。軽い貧血みたいだったけど・・・どうですか?」
俺は礼を言いながら、男からペットボトルを受け取った。それをゆっくりと飲む。
体は水分を欲していたのだろう。内側から満たされていくような感覚が起こった。半分と少しを飲み干し、俺は息をつく。
「落ち着きましたか?・・・びっくりしました。急に倒れるから。顔色悪そうだなと思って呼び止めたんですが、あのまま別れなくて、本当に良かった。」
男がやわらかく笑う。
「・・・・・・・すみませんでした・・・・・・・」
「いえいえ。こちらこそ、具合が悪いのに手伝わせてしまって。俺のほうにも否があると思いますし。でも、拾って頂いてとても、助かりました。締め切り間近のものだったので。」
「でも、ダメですよ。この暑い中、水分の補給もなしに歩いてたんじゃないですか?」
「・・・・・・・・具合が悪くなっているとは、その・・・気付かなかったもので。」
我ながら、バカな事を口走った、と思った。笑われる。
「連日、30度を越す暑さですよ・・・!?気をつけないと、また今日みたいに倒れますよ。」
男は笑わず、心配そうな顔を向けてくる。それに俺は些か驚いた。普通、こういう反応が返ってくるものなのだろうか・・・。比較できるものがないから、俺には良く分からない。
「・・・ああ、この紙、気になりますか?」
俺が視線を泳がせているのを、部屋中に広がる紙束を不思議がっているためと思ったのだろう。男はそう切り返した。
「お仕事の・・・ですか?」
他人との会話になれていない俺の言葉は、どこかぎこちない。
「これは、悪友からの預り物で。会社を経営しているのですが、今度移転をするとかで・・・。倉庫のものを少し預って欲しいと言われて。60000枚くらいあるそうなのですが・・・・・・。この暑さでしょう。クーラーだけではと思って、少し風をいれなければと、窓を開けるのに全部に重しを乗せたのはいいんですが、机の上の自分の原稿には乗せるのを忘れてしまって・・・で・・・あの惨状に・・・・・」
確かに、紙束の上には辞書やら画集やらが乗っかっていた。
「そういえば。どこかに行く途中とかでした?なんだったら、送りますが。」
「あ・・・いえ・・・・・」
「遠慮しなくていいですよ。丁度仕事明けだし、具合の悪い人をこのまま、熱中に放り出すのも、俺が心配でしょうがない。」
にっこりと、微笑まれた。それに俺は当惑の表情を返す。どこに行くつもりもなかった。どこに帰ればいいのかも、分からない。
今日、父さんが帰宅する。それが分かっていて、何となく・・・家を出たのだった。自室にいれば顔をあわせないと分かっていても・・・いたたまれない気持ちが胸中を占めた。だから・・・・。
俺が言葉に詰まっていると、向こうが先に口を開いた。
「別に用事があったわけではないなら、好きなだけ休んでいて下さい。ここには俺一人だから、気兼ねはいりませんし。気分が良くなったら、自宅まで送ります。」
そして、再び笑う。
「もう少し眠ったほうがいいかもしれませんね。まだ、顔色が悪い。」
「でも・・・・」
「いいから。まだ、日差しも強い。・・・大丈夫ですよ。捕って食ったりしませんから。」
ふざけた調子で彼はそう言って、俺をベッドに横にした。そしてすぐに部屋から出て行く。部屋は軽くクーラーがかかっていて、適度に涼しい。紙の束に囲まれたベッドは、まるで俺を守るみたいに微動だにしない。俺は目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。
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(・・・・・訳ありっぽいなぁ・・・・・・・)
一階に降りた俺は、仕事疲れのため、ソファに寝転がっていた。
必要以上の無表情。必要最低限の受け答え。その瞳が微かに揺れていた。一瞬、泣き出すのかと思った。
倒れた彼を抱えた時、あまりの軽さに驚いた。高校生くらいだろうか。それにしても軽い。夏にしては白い首筋がグタリと腕の中で傾ぎ、弛緩した体はピクリとも動かなかった。それに酷く狼狽した。死んだかと思ったのだ。浅い息遣いが聴こえた事に、どれだけ安堵したか知れない。
(家に帰りたくない感じ・・・かな。具合が悪い事に気付かないくらい、ってどんなだ・・・・)
胃が重くなるような感覚がした。自分の憶測が、外れていればいいけれど・・・と、思う。
(俺も、少し寝ないとな・・・二日くらい・・・寝て・・・ない・・・・・・)
はっとして、目が覚めた。傍らの気配が、ビクリと緊張したのが分かった。
「・・・・お前・・・・・・」
「すみま・・せん・・・あの・・・」
「・・・あ・・いや・・気分は・・・どうですか・・・?」
「大丈夫・・です。ありがとうございます。」
「・・・・・・・・あーーー、ごめん。やっぱり苦手で。敬語、外してもいい?君も、好きなように喋っていいから。」
「え・・あ、はい。」
少しの混乱を見せて、彼は応じた。
「良かった。ありがとう。出来るだけ、仕事以外では使いたくなくて。」
そう言った俺に、彼は不思議そうな顔を見せる事もなく、興味がなさそうな無表情のままだった。
「家に送るよ。もう、九時を回っている。ごめんな。もっと早く起こして、送るつもりだったのに。俺まで寝てしまって。・・・・電話したほうがいいかな。心配しているだろうし。」
「・・・・・・・いいえ。大丈夫です。」
やけにきっぱりした答えが返ってくる。それで俺は何となく・・・彼と親の関係を察してしまった。
「送りも・・・大丈夫です。お陰様ですっかり良くなりましたし、これ以上のご迷惑は掛けられません。」
しっかりとした受け答えは、育ちのよさを思わせた。ただそれはどこか儀礼的で、機械を相手にしているような気持ちにさせられる。
「でも」
「本当に平気です。ありがとうございました。」
頑なな一言に、俺は二の句が告げなかった。彼は名前も告げず、俺の家から去っていった。
それでも俺は、どこかで待っていた。そのために・・・あんな事をしてしまったのだから。
自分でも何故あんな事をしたのかは分からない。何故、彼ともう一度会ってみたいと思ったのかも・・・・。
ただ、このままにしていいか・・・迷ったのは確かだった。彼の瞳が揺れた時。泣き出しそうに見えたとき。倒れた時の、力なく冷えた体。閉じられた瞼、薄く開かれた唇から・・・漏れた一言。子供が、親を呼ぶ、頼りない・・・・・・・・一言。
しかし彼は二度、この場所には来ないかもしれない。あれは、無意味な行為になるかもしれない。
だが、俺にはある程度の確信があった。しっかりとした受け答え。律儀そうな挙措。
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それから2日後、俺は再び男の家を訪れる事となった。
「バックに、紛れ込んでしまっていたみたいなんです。」
そう言って、俺はおずおずと一枚の紙を取り出した。それはあの日飛ばされてきた、デザイン画の一枚。
「わざわざありがとう。時間があるなら、お茶くらいどう?丁度今休憩取っていて、誰かと話したかったんだけれど。」
俺は少し驚いた。実は、怒られるかと思っていたから。あの日、「締め切り間近の」と言っていたこの原稿は、必要な原稿だった筈で・・・・。
でも、目の前の男は、にこにこと笑っている。良く分からないが・・・他意はなさそうだ。
「ナンパじゃないよ。安心して。」
男はふざけた調子で笑う。思わず俺も、笑ってしまう。こうして誰かと話していて笑ったのは、どれくらいぶりだろう・・・と思う。
「今日も暑いね。また、倒れたりしてない?」
「そうそうそんな事ありません。大丈夫です。」
彼は俺を招き入れる。その事に俺は、当惑以外のものを感じていた。それは、嬉しさに程近い感情で・・・。俺はそう感じている自分自身に、驚く。
こうして、俺を受け入れてくれた人が、今までいただろうか。自分の家にすら、俺は居ていいのか分からなくなっていたから。父さんの拒絶は、そのまま家からの拒絶だから。
けれども、少なくとも今、この瞬間だけは・・・この家に居ていいのだ。それを、この目の前の男に赦されているから。
そう、今、この時だけは。