弥栄が居ない。
それを、俺はきちんと知っている。
弥栄は凄く心配そうな顔と、申し訳なさそうな顔をしていた。
俺に何度も「大丈夫か。まだ間に合う。」と、再三・・・・・本当にしつこいくらいに聞いてきた。
俺はその度に「大丈夫だから。」と言い、終いには「弥栄、何度も同じ事言わせないでくれる・・・・!?」と、半ば逆ギレを起こした。
弥栄はそれでも不安を滲ませた表情を見せ、ゆっくりと俺の背に腕を回す。逃れようとする俺を、有無を言わせない力で抱き締める。
だから俺は諦めて、その優しさに溺れてしまう。これでは駄目だと、一体何度思ったんだろう。思っては毎回、それでも俺を許容する弥栄に甘える。何て悪循環。
だから、だから、これでいい筈なのに。
弥栄は今日から3日間、秩父の四萬部寺(しまぶじ)での撮影に同行している。
いつも友人の事務所から委託を受けて仕事をしている弥栄だけど、そのツテで偶に撮影の助言もしている。デザイン的な視点からのアドバイスを求められるからだ。
そんな事は滅多にはない、と弥栄は言っていて、俺はそれを信じていた。だが最近、滅多になかったわけではなく、弥栄が断っているからだと知った。
それはほんの些細な事で、やはり余り友人が来る事のない弥栄の家に、偶々その事務所の友人が来たのがきっかけだった。俺はいつも通り弥栄の家に居て、・・・・・隠れていた。他人と会うのが、嫌だったから。俺は余り人と関わりたいと思っていない。・・・それが、トラウマと関係があろうとなかろうと。
弥栄は玄関先でその友人と話をしていた。家にあげようという気はなかったみたいで、友人のほうでもそうそう長居をする気はないようだった。何となく気になって、居間にいた俺は耳をそばだてる。居間は玄関脇すぐの所にあって、周りが静かでさえあれば大よその会話が聞き取れた。
「だから、それは断ったじゃないか。」
弥栄の少し苛ついた声が聞こえる。それを友人は何とか宥めようとしているようだった。
「頼むよ。どうしても俺のほうでも都合がつかないんだ。クライアントはお得意様だし、断ったら会社として凄くダメージでかいんだよ。」
「佐々とか、林野だっているだろ?どうしても駄目なら、外部に依頼すればいいだろう。」
「そうもいくかよ。言ったろ、”お得意様”だって!下手な人間は送りたくない。佐々は別の仕事いれてるし、林野はあの会社のイメージじゃない。向き不向きがある事、お前も十分承知してるだろ??頼む・・・!礼は弾むから・・・!!」
「・・・・・そう言われても困る。」
「何でだよ。お前、いっつもだよな?前の化粧品の時も、結局撮影には立ち会わなかったし、理由が何だっけ・・・・・・ええと・・・そうだ、『撮影現場が遠いから』って。・・・・・・あんなチャンスな仕事・・・断る気が知れなかったよ俺は。」
「その話はもう、いいだろ・・・・・。とにかく、秩父で撮影って事は、二日は帰って来れないだろう。場所だって見なくちゃならないし・・・。泊まりでなんて尚更行く気ない。」
ガツッ、とそこで音がした。弥栄が玄関の戸を閉めようとしたのを、友人のほうが止めたらしい。
「待て・・・!お願い・・・・・!しーめーなーいーでーーーー!!」
泣き出しそうな感じの、情けない声が響く。弥栄が溜息をついた。
「俺は無理。家、空けられない。」
「たーのーむぅぅぅぅぅ。お前にとってもチャンスになると思うし!大手携帯電話会社の企画だぞ!?成功すればお前の顔も名前も覚えて貰える!前ポスターの仕事やった事あったろ?その話したら、先方でもその仕事覚えてて。お前になら任せたいって言ってるんだよーーー。」
「・・・・・・!?何だそれ!?既に俺の名前出してんのかよ!!」
「・・・・・・・・・ごめん・・・・・・・!!」
「・・・ごめんて・・・」
「だから、お前に断られると・・・本当に今後の仕事に差し支えるんだ・・・!死活問題なんだよ〜〜〜@@」
「・・・・・・・・・・とにかく、今は無理だ。」
バタン、と扉が音を立てて閉まった。俺は居間の戸口で、だんだんと高鳴る心臓を抑えられずにいた。
弥栄が仕事を断っているのは、・・・・・・俺の せい だ。
俺はほぼ毎日弥栄の家に来る。1〜2日、間が空く事があっても、3日も4日も空ける事はない。
(・・・・・・・・秩父・・・・・・そんなに遠くはないけど・・・・・・。)
玄関の外で、戸を叩く音がしている。俺の心臓があわせるようにドクドクと鳴った。
俺は、緩慢な動作で居間と廊下を隔てている戸を開ける。弥栄が俺のほうを見る。
「・・・・・・・・弥栄、仕事、受けなよ。」
その時の俺がどんな顔をしていたのか、分からない。弥栄は・・・俺を見て酷く辛そうに眉を顰めた。
それから数日、俺と弥栄、弥栄と友人、で押し問答が続いた。仕事を進める声が2。弥栄は殆ど押し切られる形で、承諾したのだった。
「・・・・・・・まずは撮影場所の確保・・・は先方で大体すんでるらしいけど・・・・・前日入りして色々準備があって、二日目は撮影。・・・・・・これが何時になるか分からないから、もしかすると泊まりだって。・・・・・まぁ行ってもでも二泊三日。旅費諸々はあのバカが持つ。・・・三日後には戻れるから。」
「うん。平気だって言ってるだろ。・・・そういう顔、するなよ。弥栄のほうが平気そうじゃないよ。」
俺は・・どんな顔をしてるんだろう。弥栄はやはり、少し辛そうな表情を見せる。
秩父に行く前日、その電話は掛かってきた。
「・・・・・・・はぁあああああああ!?」
弥栄の、不満たっぷりの声が、居間に響く。準備のいい弥栄は、明日の用意は既に終えている。その電話は、21時を回ってから掛かってきた。
「ちょ・・・・ふざけるな・・・!何で急に・・・え!?・・・・・悪いじゃなく!・・・何だって!?今日、変わった!?何だそれ!普通に有り得ない!!・・・・・・分かってる。それは・・・分かってるよ。・・・お前にあたっても仕方ない。」
やがて弥栄は諦めたようになり、電話を切ると俺を振り返った。憔悴・・・というか・・・何というのだろう・・・複雑な表情のまま石膏で固めたみたいだった。
「・・・・・何?」
「・・・・・・・・・・三日。」
「?」
「三泊四日になった。一日目はCM撮影。二日目にポスターだってさ。効率悪い。向こうで決定した女優の時間的都合が合わないんだと!全く・・売れてるからって足元みやがる。・・・・・・・・・大丈夫か、成海。」
「何、言ってんだよ。大丈夫だってば。」
なぁ、俺どういう顔してる?・・・・・弥栄に・・そういう表情・・・させるような顔・・・してるのか・・・・・?
「成海・・・・。」
「?・・・・・な・・・何・・・・・・・・っ・・・!?」
俺はソファに座ってたのだけれど。弥栄が俺の肩口を掴んで、そのまま倒した。背に回された腕が、俺の後頭部を捉える。
「・・・ちょ・・・・・弥・・・栄・・・・っ・・・・・ん・・・・・!!」
そのまま、深い口付けをされる。急な行為に、息を継ぐのが苦しい。それでも何とか息を継いで、俺は同意するように弥栄の首筋に腕を絡めた。
「・・・・・・・いい?」
弥栄が、どこか辛そうに聞いて来る。・・・・・・何で?
「・・・・・・・そういうの・・・いちいち聞くなってば・・・!」
幾分か上がった息の合間に、俺は答えた。弥栄が少しだけ、笑った。
(今日が・・二日目。・・・・・・帰ってくるのは、明日。)
学校が終わり、俺は弥栄の家の前でぼんやりしていた。昨日は流石に来なかった。だが・・・・今日は何となく来てしまった。余程の用がない限り、毎日のように通っているこの家に、自然と足が向いてしまう。
俺は家を見上げる。ピタリと閉じられた窓も、人の気配のなさも。俺を拒んでいるかのようだった。
チャイムを押したって、誰も出て来ない。分かっているのに、俺は玄関の前に立ってしまった。膝が震える。その揺れは大きくなって、俺は立っていられなくなる。息が上がる。呼吸が苦しい。
弥栄のくれた合鍵が、俺の右手の中で固まっていた。俺の右手は開かない。
左手で、右手をこじ開けようとしたのだけど、どうにも上手くいかなかった。汗ばんだ手のひらが、その形のまま接着されたみたいだった。
(・・・・・・やだなぁ・・・・・なんで・・・だろ・・・・・・何で・・・・・・)
怖い。
怖い。
チャイムを押してはいけない。中には誰もいない。誰も。
『何ですぐに誰かに言わなかった!?』
『何で連絡しなかった!?』
『お前が悪い。お前しか気付かなかったのに!!』
『 お 前 の せ い で 』
記憶 が。
『お母さん・・・・・!お母さん・・・・・!!』
恐らく、前から兆候はあったかと―――――
もう少し、早ければ助かったかもしれませんが
お気の毒です
「・・・・・っ・・・ひ・・・・・あ・・・・・・あぁ・・・・・」
右手が、開かない。
チャイムも押せない。
怖 い 。
「・・・さ・・・や・・さ・・・っ・・・・・・弥栄ぁっ・・・・・・・!!」
「・・・・・・・・・成海・・・・・・・・!」
ガシャン、と門扉の開く音がした。重いものが落ちる音がそれに重なる。俺が顔をあげるより前に、弥栄が俺を抱きすくめた。
「や・・・さ・・・・・・・?」
「成海・・・成海・・・・・・!」
動悸が治まってくる。身体が弛緩して、ふ、と右手が開いた。鍵がタイルに落ちる音が高く響いて、俺は弥栄に腕を回す。
「・・・・・弥栄・・・・ぁ・・・・・・・」
涙が次々に溢れてくる。どうしてだろう。どうして俺はこんなに弱いんだろう。
「ごめん・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
ひたすら謝る俺を、弥栄はただあやすように、抱いていてくれた。
「・・・・・・・弥栄、何で?帰宅明日・・・・だよな・・・・?」
家に入り、落ち着いてから俺はそう尋ねた。
「撮影終わってすぐ、上がってきた。・・・・・・そんな顔するなよ。ちゃんと仕事はしてきたから。」
「・・・・・・・俺、そんな・・・変な顔、してる?」
「・・・・・・・・・・・してないよ。成海は俺に気を遣ってるかな、だったら嬉しいなって、俺が勝手に思ってるだけ。」
弥栄がいつものように、優しく笑う。
「俺は、独占欲強いし、成海に関しては自惚れてるからねv」
「何、言ってんだよ。」
俺も思わず笑った。
やっぱり俺は甘えてる。弥栄はどこまでもそれを許容して、どこまでも俺を受容する。
駄目だと思うのに・・・まだ、俺は
いつかこの手を離せる日が来るのだろうか。
いつかこの腕を解く事が出来る日が。
俺には先が見えない。
・・・・・・・・・弥栄のいない 先 が