そうだ。
死んでしまおう。
それがいい。
そう決めた時、向かいから歩いてくるスーツ姿の男性が目に入った。
背筋をピンと伸ばした、きっちりした社会人、に見えた。歩みにも淀みがない。靴底がアスファルトにあたる音も、一定のリズムを刻んでいる。
賭けをしよう。
そう、何となく思い立った。
もし、あの人が俺の嘘に騙されたなら。
そうしたら、俺は生きてみよう。
ドシン!
小柄な体が私にぶつかった。
「あ、すみません。」
彼と、目があう。
イマドキのワカモノ。
というのだろうか。襟足が伸びた髪。その毛先だけ色が違う。グレーだ。その割にピアスなどは開けていない。シャツに穴が開いたジーパンというラフな格好。
丁寧な詫びの言葉に、少しアンバランスな印象を受けた。
「いえ。こちらこそ。」
その場を去ろうとすると、「あの」と再度声がかかる。私はそこで、彼を更にまじまじと見た。
視線が空を泳いでいたかと思うと、ふと私にあう。一度目があうと、後は逸らされない。真っ直ぐ、という言葉がぴったりな目になる。
年は15・6だろうか。とにかく若い。30にもなる私には、その若さが懐かしいくらいに。
「・・・・・・・いきなりで申し訳ないのですが、あの・・・お金を貸してくれませんか。」
「え?」
面食らう。
でも私は、この、まだ少年と言っても差し支えのない彼の言葉を、聞く気になっていた。・・・今日という日だからこそ。
「あ、すみません。無理・・・ですよね。見ず知らずの、こんな俺にいきなりそんな事言われても、困りますよね。すみません。」
彼は焦った風に頭を下げると、すぐにその場を去ろうとしたので、私はそれを呼び止めた。彼は振り返って、驚いたような顔をした。彼が言葉を紡ぐ前に私が口を開く。
「理由を聞かせてくれませんか。後、金額を。」
銀行のキャッシュコーナーは目の前にある。彼がそれを見越して声をかけてきた事を、私だって気付かないわけじゃなかった。それでも。
彼は少し目を伏せると、思い切ったように話し始めた。それは凡そ、「嘘」としか思えないような内容だった。
「・・・・・初対面の方にお話することではありませんが・・・・・。先ほど、母が倒れました。うちは母子家庭で、貯えなどもなく日々の暮らしを何とか母のパートで賄っています。・・・・・・・・・入院費用と、当面の生活費が・・・・・・ないのです。」
「親類縁者は?」
彼は首を横に振った。予想通りの反応だった。
「・・・・・いいえ。母は父と駆け落ち同然で。その時に親との縁も切れたと聞いた事があります。そうまでして結婚した父と離婚してからも、母は実家に連絡する事も、ましてや帰ることなどしなかったようで。」
すらすらと彼から紡がれる言葉。用意された言葉。余りにも作り物めいた話に、俺は面食らう。嘘を吐くならもっとマシな話がありそうなものなのに。
「で、いくら欲しいんですか。」
彼はそこでまた驚いた顔をした。・・・・・その顔でなんとなく、彼はそもそも騙す気がないのだなと、私は感じはじめていた。
「・・・・・・・・・50、万・・・・・・・・」
ボソリと呟かれた金額は、社会人であれば誰でも用意出来そうな額だった。その微妙なラインの提示額は、更に彼への不審へと繋がる。
「分かりました。ちょっと待っていて下さい。」
私はすぐ傍のキャッシュコーナーに入ると、手際良く50万の金を用意した。備え付けてある”ご自由にご使用下さい”のボックスから封筒を一枚。それに金を入れてからその場を出た。
彼は少し呆然としながら、私を凝視している。私はその手に、50万が入った封筒を握らせた。
「出世払いで構いません。どうぞ。」
彼の目は私の目を探る。信じられない、という顔。
「・・・・・・・信じる・・・の?今の、俺の、話、を?」
「ええ。」
「何故。」
「貴方の話が本当か嘘かは問題ではありません。でも貴方には今、そのお金が必要なのでしょう?それを信じたからこそ、私は貴方にこのお金を渡します。」
彼の顔が歪んだ。
「・・・・・・・・・生きてて、いいんだ・・・・・・・・・?」
そう、小さく呟く。その意味は私には分からない。
「ええ。いいんですよ。」
それでも私はそう答えた。彼の口元が、少しだけ緩んだ。
「・・・・・・・金、ちゃんと返します。連絡先とか・・・」
そう言う彼に、私は誠意を感じた。この子を信じてもいい、という気持ちになっていた。けれど、私はその言葉を遮る。
「私はいつもここを通って会社に行きます。残業になる事もありますが、大体、この時間には。だから、会えた時に返してくれればいいですよ。」
「でもそれじゃぁ・・・・・・」
「では、こうしましょう。貴方の年齢を考えるに、就職してお金を貯めるまで、10年あれば十分な筈です。10年後、この時間この場所で50万きっかり返金して貰いましょう。約束です。それでいいですか?」
「・・・・・・・10年後・・・・・・・」
「ええ。10年後の今日に。」
彼はそこで、声をたてて笑った。何かを吹っ切ったような、それは晴れやかな笑みだった。
「分かりました!必ず。」
満面の笑みを浮かべて、彼は頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「・・・・・・・・」
返事をする代わりに私は左手で握手を求めた。彼はそれに応じ、私たちはその場を離れた。
彼の素直な笑みを見た時、私は彼の話の全てを信じてもいいとさえ思った。最後の最後で、私は人を救えたような、そんな気持ちになれたのだ。満足だった。
「ガンです。・・・・・残念ですが・・・転移が広がっていて、もう・・・・・・・」
医者にそう告げられたのは、先月。
やりたい事があった。仕事も軌道に乗ったばかりだった。自暴自棄になった私は、その日のうちに辞表を出した。それから半月。後輩に仕事の引継ぎをし、得意先への挨拶、上司同僚への挨拶、片付け。
急なことであったにも関わらず、会社は案外あっさりしたものだった。病気のことは話さなかった。余命は3ヶ月。そういわれたからだ。失業保険すら貰えない。今の貯えで、十分に生きていける月日。
誰も深く追求して来ない事に、自分の存在の軽さを感じた。そしてその事は、私の心を少しだけ落ち着かせた。私は私の存在が希薄だと知る事で、全てを諦められる気がした。
そして今日が出勤最終日だった。彼にあんな事を言ったものの、二度と、この道を通ることもないだろう。
私の時は、もう少しで刻み終える。
その私がたった今、10年後の約束を交わした。
自然と笑みがこぼれた。まさに明日をも知れぬ命の自分が、10年後に名も知らぬ彼と会う約束をするなど馬鹿げている。
もう、この世に未練などない、そう思っていたのに。それが今、少しだけ残念に思う事がある。
10年後、彼は本当に金を返しにくるのだろうか。
それを確認できない事だけが、私はただ残念でならない。