俺が生きてこれたのは、一重にあの人のお陰だ。
死のうと決心した俺を、ただひとつ、「信じる」という気持ちだけで名も知らないあの人は、俺を生かした。
50万。
それが俺の命の値段だ。でもその値は決して安くない。その50万には値がつけられない程の価値がある。それはあの人の価値だ。
名も知らない・住所も電話番号も、お互いの何ひとつを知りえない。
ただ、俺が「死のう」と考えた日、偶々すれ違ったのがあの人で、俺の見え透いた嘘を信じてくれたのもあの人で、50万という決して安くない金をポン、と貸してくれたのもあの人で。
俺は今も覚えている。
「10年後、この時間この場所で50万きっかり返金して貰いましょう。約束です。」
そう、柔らかく笑って言ったあの人の顔を。その低く穏やかなトーンを。
一瞬の会合。振り返ってみたあの人の後姿は、すれ違った時と変わらず背筋をピンと伸ばして、一定のリズムでアスファルトを響かせていた。
10年後、10年後。
俺はまたあの人と会える。それだけを信じた。その為にきちんと働いて、お金を貯めて、あの人と同じように背筋を伸ばして歩ける人間になりたいと思った。
10年という月日を、俺はその為に生きてきた。
「え?」
声をかけられて振り返ると、見知らぬ男が立っていた。
「・・・・・・ずっと立っていますが、誰かお待ちですか。」
濃紺のスーツに同色の細いストライプのシャツ。襟元もきちんと糊がついていて、男の首筋をすっきりと見せていた。
柔和な笑みは、どこかにあの人を滲ませている。だが、あの人ではない。年齢が若すぎる。
あれから10年。少なくともあの人は、30後半くらいにはなっているのではないだろうか。目の前の男の年齢は、どう見ても30前半。
「・・・・・はい。」
俺は短くそれだけ答えた。それ以上、男と話す気がなかったからだ。男にそれを気にした素振りはなく、俺の隣に立った。
「・・・・・・・・あの。」
「・・・・・・・なんですか。」
俺は幾分、ぶっきらぼうに言った。邪魔されたくなかった。この男と一緒では、あの人は気付かないかもしれない。
「・・・10年前、」
そう言われて、どきりとした。俺は男の顔をまじまじと見る。
「ここで、お金を借りませんでしたか。」
決定打。
「何故、それを。」
「ああ、良かった。実は貴方で3人目なのです。この質問をするの。いい加減、そろそろ帰ろうか迷っていたところでした。」
こんな所に突っ立っている人などそうそういないと思ったのですが、意外といるものなのですね、と男は付け加えた。
こんな所と男が形容したのは、キャッシングコーナーの真横だったからだ。街中とは言え、住宅街の一角にあるそれは、決して待ち合わせ場所に適してはいない。通勤・帰宅時にはそこそこの人通りがあるが、表通りから一本外れているので、昼間の人通りは少ない。
今は帰宅時間という事もあり、まばらではあるが途切れない人の波が足早に目の前を通り過ぎていた。
「それで、ええと・・・金額は50万。貴方の当時の髪型は襟足が少し長くて、毛先は灰色。間違いないですか?」
俺は男を凝視したまま、コクリと頷いた。すると男は、心底安心したように微笑む。その顔は、やはりあの人に似ていた。
「自己紹介が遅れました。貴方にお金を貸したのは兄です。私は弟で、兄から今日のことを頼まれていました。」
「・・・・・あの、人は?」
そこで男は、少し表情に翳りを見せる。
「少し遠くに行ってしまいまして。今日、これなくなってしまったのです。でもどうしても気になるからと言って。私がこうして代わりに来たのです。」
「転勤にでもなったんですか?」
「・・・ええまぁ。そんなところです。」
「そう・・・・・ですか・・・。」
俺は頭を垂れた。それが目の前の男に対して不躾な態度だったとしても、俺は落胆を隠す事は出来なかった。
10年。あの人に会う事を糧に生きてきたようなものだったから。
「・・・・・・・お金は・・・あの人に借りたものです。ですから、直接、お返ししたく思っています。」
男の影が、更に濃くなったように見えた。瞳の憂いが、俺の心を乱す。
「でもそれは・・・」
「無理、なのでしょう。あの人がそう簡単に約束を破るとは思えません。ですから、どうにもならない・・・今日、どうしても来れない事情があるのでしょう。・・・分かっています。」
「どうしてそこまで兄を?たった一瞬、ろくな会話もなかった筈です。」
「どうして?そう聞きたかったのは、俺のほうです。どうして俺のような人間に、50万という金を渡せたのか。でも、だからこそ俺はあの人を信じることが出来ます。決して、いい加減なことをする方ではないと。」
俺は男のその、憂いを帯びた目を真っ直ぐに見ながら言った。男の顔は泣きそうに一瞬歪み、それから嬉しそうに微笑んだ。
「兄も、貴方にお金を貸した事、決して悔やんではいませんでした。ただ、今日という日にこの場に来れないことをとても悔やんでいました。私には理解出来ませんでしたが・・・今の貴方を見ていると、兄の気持ちが分かる気がします。」
俺は持っていた鞄から、封筒を取り出して男に差し出した。
「あの人は、今、幸せですか。」
男は俺の問いに、俺の瞳を真っ直ぐに見返して答えた。
「ええ。とても。」
その顔はとても穏やかで、その声もとてもやさしくて、そしてそれはあの人にとてもよく似ていた。
「そうですか。」
男は俺から50万きっかり入った封書を受け取って、大切そうに鞄にしまい込んだ。それから俺の目を見返して同じように聞いてくる。
「貴方は?貴方は、幸せですか。」
「はい。」
俺は、淀みなくそう答えていた。
あの人に貰った命を、不幸せになど出来る筈がない。
これからも。
結局、男が名前を明かすことはなかった。あの人との繋がりも、途絶えてしまった。それでも。
あの人に会えなければ意味がないと、そう思っていたのに。
あの人が、俺の事を覚えていてくれた。覚えていてくれて、そして、会えない事を残念に思ってくれている。決してそのままにしないで、わざわざ弟を寄越してくれた。
それだけで、満たされる。こんな気持ちになれるなんて、思ってなかった。
この空のどこかに、あの人はいる。この場所から続いている、どこかに。
俺のことを忘れない、あの人がいる。
俺はゆっくりとその場を離れた。
背筋を伸ばして。
一定のリズムで、アスファルトを響かせながら。