『白黒(モノクロ)変換』

 表と裏。白と黒。
 俺はあいつに勝てない。
 白は、黒を潰せない。
 俺が灰色になってしまう。
 もっともっともっと。
 白くならないと。白く白く。
 雪よりも、何よりも。
 白紙にならないと。
 なのに
 あいつは俺を汚そうとする。
 まっさらな紙を、ペンで塗り潰すように
 真っ白な塀に、落書きするように
 子供のような無邪気さで。
 いっそ救えない。救われない。

「関わらないでくれ!!帰れよ!!!」
 俺は、何度目かの罵倒を浴びせた。もう、何度この言葉を吐いたか分からない。あいつはただゆっくりと、首を横に振ったようだった。
 その瞳に、何が宿っているのか分からない。分かりたくない。知りたくない。どんな表情をしているのかなんて俺には見えないし、見たくもない。
 あいつはやっぱりゆっくりと、俺の方に歩んでくると、無理矢理頤を押さえつけて来て俺にその唇を重ねる。俺は逃れようと力を入れるが、がっちりと抑えられた肢体は思うようにはならず、「ああ、そういえばここ二日くらい、何も食べていなかった」という事を思い出す。
 喉元に流れる、生温い水分が気持ち悪い。息が苦しい。口の端から、水が滴った。
「・・・・・・・っ・・・・・ぅん・・・・・・っ・・・」
 やっと解放されると、あいつの溜息が聞こえた。俺は肩で息をする。
「水くらい・・・自分で摂取してくれ・・・・・頼む・・・から・・・・・」
 絞りだしたような声が、頭上でした。俺の視線の先には、あいつが右手に持っているペットボトル。清涼飲料水。
「なぁ、お願いだから・・・。これ以上、自分、を・・・・・・・・・が・・・・だからって・・・・・」
 ?聞こえない。ところどころが、壊れたプレーヤーのよう。・・・・・こいつは、何を言っている?
 相変わらず、こいつの顔は見えない。近くに居すぎて、顔を上げるのも億劫で。
 表情を知りたくない、その瞳の奥に見えるであろう感情を、知覚したくない。俺は目にしているペットボトルを毟り取るように奪うと、一気に飲み干した。
「これでいいだろ。帰れよ。」
「・・・・・・また、来るから。」
 長方形の扉の向こうに、あいつが消える。その一瞬、俺は思わず縋りたくなった。行くなと、言いたくなる。
「・・・・・・居ても、いいのか?」
 あいつが、半開きの扉の向こうからそう言った。逆光になったその姿は、やはり俺には良く見えない。
「何、言って・・・・・」
「今、お前。・・・・行くなって、言ったから。」
「!?」
 思っただけだと思っていた事を、俺は声に出していたらしい。俺が当惑した顔を見せたせいだろう、あいつは再び俺のほうに歩んで来る。あいつの後方で、一度開かれた扉が閉まるのを、俺はじっと見ていた。あいつではなく、扉を。
 ?
 違和感を感じた。
 俺は・・・・・そうして誰かを・・・いや。違う。
 俺がこいつを引き止めるのは、これで二度目、だ。誰かじゃない。同じように止めた。
 でも・・・・・・・

「前は、戻ってこなかったくせに。」
 俺はそう言った。そうだ。あの時は戻って来なかった。俺がどんなに引き止めても、どんなに叫んでも懇願しても。お前は戻って来なかった。振り向きすらしなかった。閉じられた扉は酷く切なくて、空しくて。一人きりの部屋に、もう誰も招くものかと誓った。こいつが出て行った扉に触れるのも嫌で、そこから出て行くのも嫌。
 だから、俺はここから出られなくなった。
 ・・・・・・ここ?
 俺は辺りを見回す。窓からの光が強すぎて、俺は目を細めた。よく・・・周りが見えない。
 俺の部屋の筈。白い壁、アパートの一室。ロフトベッドが一つ。CDコンポやテレビやビデオ。机、書棚・・・・・。雑然とした、俺の、部屋。

 こいつと、暮らしてた。
 ・・・・・・暮らしてる?

 思考が纏まらない。ああ、栄養不足だ。脳に栄養が回ってないんだ。だからだ。

「悪かった。」
 一言、謝られた。俺は不可思議に思う。お前が俺に何をしたと思う?それでも一度だって謝らなかったくせに。今更・・・そんな事で謝るのか?
 初めて会った時からそうだった。強引で、いきなり俺の部屋に来て。必死で抵抗したのに、罵倒したのに。お前が俺に何をしたと思ってる?俺がどれだけ傷ついたと思ってる?
 そうして無理矢理お前を必要とさせられて、好きなのか憎いのかさえ分からなくなって。
 それなのに。
 あっさりとお前は俺の前から去って行った。そうだ。二度と戻ってこないと、あの時に分かった。じゃぁ
「お前は・・・・・誰・・・なんだよ・・・・・・・」
 あいつは謝ったりしない。謝らない。

   あいつは。

 眩しさに目をやられながら、俺は目の前の人間の顔を見ようとした。なんだろう。酷く見辛い。・・・・・いや、見えない?
「・・・・・無理、しなくていい。」
 そう、言われた。温かい手が、俺を包む。そんな事、あいつはしない。
 不意に泣き出したくなって、俺は両手で突っぱねた。それでも尚、抱きすくめられる。その強引さは少し、あいつと重なった。・・・こんなやさしさを得た記憶は、どこにもないけれど。
 ああ、だったら本当にこいつは誰なんだろう?
 あいつでないのなら・・・・・・?
 友達?こんな人、居ただろうか。いや、そもそも俺に友達なんていたか?
 あいつと・・・いや、あいつがここに住むようになってから、俺は誰かと話したりしただろうか。外界と・・・かかわりを持っていただろうか。

 駄目だ。
 わからない。   分からない。

「無理、しなくていいから。」
 そう、もう一度言われた。こいつは、一体誰なんだろう ?

 ふと、思い出す名前があった。俺はその頼りない記憶を音にする。

「浩哉(ヒロヤ)」

 俺の背に回っているそいつの腕が、ビクリ、と震えるのが分かった。その気配が、哀しいものに変わるのも、俺は感じたけれど。
 それが何故なのかは、分からなかった。

「また、来るね。」
 そう言うと、そいつはゆっくりと俺から離れた。そして今度こそ、その長方形の扉の向こうへと消えた。
「浩哉じゃ・・・なかったのかな・・・・・・」
 俺はその四角を見詰めながら、ポツリと呟く。
「浩哉」
 もう一度発音してみる。何だか嬉しくなる音だった。
 けれど、その姿を思い浮かべる事も、自分との関係を思い出す事も、俺にはなかった。ただ、その名前だけが。酷くあたたかく、やわらかいもののように感じていた。
 そして、少しだけ俺は泣いた。
 その名前は嬉しくて仕方ない筈なのに、同じくらいの哀しさを、俺は覚えていた。



「・・・・・兄さんは、俺の事を”浩哉”と呼んだんです・・・・・。」
「・・・・・・・そう。」
 目の前の人間は、彼から視線を逸らし、床を見ながら言った。その瞳の中に、憂いが潜んでいる。
「多分、もう・・・戻らないのでしょうね。」
 俺はそう言って、下方から、目の前の彼へと視線を移した。俺達の視線は交錯する事なく、ただ、あの白い病室にいる人間へと、思いを馳せる。
「浩哉・・・・・それは自分の名前なのに。」
 床を見ていた彼は、今度は机にその目線を移動する。それから重そうに口を開いた。
「・・・・・それくらい、ショックだったのでしょう。・・・・・どんなに冷たくあしらっていても、浩哉にとってあの子は大切だった。・・・多分、一番失いたくなかった人間だったのでしょうから。それが・・・自分のせいで、あんな事になったのですから。」
「・・・・・・・・兄さんのせいじゃ・・・ないって・・・」
「直接的ではなくても、浩哉を追って、そしてあの子は車に轢かれてしまった。それを浩哉は見ているんです。・・・浩哉は戸惑っていたのでしょうね。相手が異性だったなら、きっともっと・・・優しくできたのでしょうに。最後の最後まで、浩哉はあの子に優しい言葉の一つもかける事はなく、そして、あの子は死んでしまったのですから。」
「・・・・・・・・・・兄さんは・・・・・・・ううん。もう、いいんだ。そうですよね。先生。兄さんは誰も失っていない。兄さんは、自分にあの子を投影する事によって、初めて自責から解放されたんでしょう?そう、思って・・・いいんですよね・・・・・?」
「・・・そう思わないと、俺達は救われないでしょう・・・?もう、誰も、浩哉の目に明確に映る事はないのでしょうから。」
「・・・・・・・・・・・そう、ですね。」



 浩哉。浩哉。浩哉。
 そう、これは好きな人の名前。
 きっとそうに違いない。
 それは・・・あの、扉を出て行って戻って来なかったあいつの名前なのかもしれない。
 だから俺はこんなに嬉しいのに、こんなに悲しく感じるのかもしれない。
 いつも来てくれる彼の名前では、なかったのだ。
 じゃぁ、彼は何と言う名前なのだろう。今度聞いてみようか。
 ・・・・・今まで勘違いしていた事を、謝らないと。

 だって俺は、あいつに負けないように、白くならなくてはならないから。
 憎悪も侮蔑も、嫉妬も羨望も。そういうものから無縁になって。
 そうしたらきっと、またあいつに会う事があっても、今度こそ、決別する事ができる筈だから。
 もう二度と、汚されなくて済む筈だから。

 「浩哉」

 俺は今ひとたび、その名を音にしてみる。
 少しだけくすぐったくて、そして寂しい。

 ああ、まだ駄目だ。まだ。あいつは名前だけで俺を汚す。


 俺は、白くならないと ――――――――――――――

 あの子に、ならないと     ―――――――――。




書き終わり・20040819*****