『海の森』

 それを意識したのは、あいつのせいだった。
 それまで、「生命の誕生は海から」なんていうのは、勉強の中・知識としてしかないもので。生きる為に必要でもなく、進化の過程なんていうのも受験勉強でしか役に立った事はない。

「生物は、海から来たって。俺、100泳ぐのやっとなのに。おかしいよな。」
 そう言って、笑った影。

 高校三年の夏、あいつが死んだ。

 正確には違う。違うけど・・・・・。それは彼の両親が未だに死を認めず、行方不明者としての届出をしているから・・・・・というだけの事。
 あの夏から・・・・・もう五年になる。
 俺は昨年、何とか中小企業の面接に通り、広告デザインの職に就いていた。そしてこの夏、所長に無理を言って少し長い休暇を貰い、俺は本当に五年ぶりに・・・・・実家に帰って来た。

 あいつがいなくなってから、俺はここに戻ろうと思った事は一度もない。高校三年、丁度受験期の夏。
 それから後は勉強勉強で、そのまま県外の大学に進学し一人暮らしをはじめ、再三の両親や友人からの誘いを断り、結局これまで帰郷することはなかった。
 友達が疎遠になるのは早かったが、流石に両親とは疎遠にならない。連絡先は言ってあったし、2.3ヶ月に一回は必ず母が電話を寄越し、何かの折につけては季節の野菜だとか米が送られて来た。

 その両親からの願いを断っておきながら・・・今更、と思う。
 誰かが「死んだ人間には叶わない」と言っていた。俺もそう思う。
 だから今回俺が帰るのも、きっとそういう理由でだ。
 もう二度と追いつく事も、追い越す事もできない存在に。忘れ難く、その生を見せ付けた存在に。
 俺は、会いにゆくのだと、そう、自分に言い聞かせた。







「筧(カケイ)!」
「・・・・・・佐原(サハラ)・・・・・」
 蝉が電信柱に留まっている。五月蝿いくらいの鳴き声をバックミュージックに、級友はこのくそ暑い中、走って来て俺の横に並んだ。
「何だ、陰鬱な顔して。」
 明るくそう問われる。額には若干の汗が浮いていたが、息は切れていない。
 俺はゆっくりと、手に持ってた細長い紙を彼の前に差し出した。
 ヒラヒラと薄っぺらい紙切れは、風に煽られて揺れる。それを佐原は手に取り、そしてまじまじと見つめる。
「・・・・・問題はないんじゃない?」
「・・・・・どこがだ。ランクCだぞ?」
「この間のテスト、俺たち勉強したとこばっかだったろう。」
「それでこの点ってどうよ。」
「筧、何度も言ってるだろ。お前のは計算ミス。その注意力散漫なのさえ直せば、合格圏内!頭は悪くないんだからさ。俺見てたぞ?お前って見直ししないだろ。一通り終わると、寝てるもんな。」
「お前こそ余裕だな。俺なんか観察してる暇あんのかよ。」
 佐原が鞄の中を探り、俺が手渡した紙と同じものをひらつかせる。
「・・・・・・・・余裕だな。」
「余裕だよ。」
「・・・・・嫌味なヤツ」
「筧。」
「・・・・・何。」
「勉強、しよっか。テスト終わったばっかじゃ嫌かもしんないけどさ。この間の答案、見直すのもいいと思う。見てないだろ?」
 ニヤリと佐原は笑った。図星。
「よろしくお願いするよ。佐原センセイ。」
 俺は悔しさ半分で、そう言った。
「じゃ、どうしよう・・・・。うち来る?」
「あー行く行く。教わる側が出向くもんでしょ、普通。」
「アハハ。じゃ、待ってる。また後でな!」
 T字路で、俺は右に、佐原は左に。いつもの学校帰り。変わらない日々。

「ただいまー」
「おかえり。どうだった?」
「ダーメ。ランクC!今から佐原に教えを請うて来る。」
「そ。頑張りすぎずにね。あんま根詰めても失敗するから。」
「不吉なこと言うな。」
 俺は、冷蔵庫からペットボトルを取り出して、良く冷えてるポカリを喉に流し込んだ。それから汗ばんだ手を、側にかけてあるタオルで拭う。
「頑張りどころっても言うわよね。応援してるわー。ついでにハイ、お菓子。糖分は脳にいいのよ〜。糖分しか栄養にしないんだから!」
 糖分しか脳の栄養にならない。母の口癖がまた出た。
「へいへい。」
 俺は手渡された、一口大に切られた焼きたてのパウンドケーキを、頬張る。
「どう?」
「いんじゃない?いっつもと同じ。甘すぎでもないし。これ、胡桃?」
「うん。今日は胡桃ー。佐原君にもね。今、タッパに入れるからおやつにしなさい。」
「オーケー。あいつ喜ぶわ、甘いもん好きだから。」
 幾ら暑くても、週に3回はおやつと称して何かかんかを作ってる。冷菓子もあるけれど、焼き菓子も多い。俺はある意味感心していた。
 台所作業ってのは、夏場はサウナみたいだと、俺は常々思っている。
 母親がケーキを切り分けてる間に、俺はジーパンとシャツに着替えて、必要なものをバッグに詰めた。ノートに筆記用具、この間返って来た答案用紙。
(こんなモンか。あ、この参考書で分かんないとこあったんだよなー。ついでにこれを聞いておこう。)
 プラス、数学の参考書。
 準備を終えて、俺は部屋を出た。台所のテーブルにケーキの入った容器が置かれている。
「じゃ、貰ってく。」
「はい、行ってらっしゃい。」
「ってきまーす。」
 俺は暑さに少々気だるくなりながら、家を出た。

 夏の風物詩、蝉の泣き声はひたすら響いていた。一人で黙りこくって歩いていると、何だかやけに大きな声に聞こえる。日差しが高い位置から降り注いで、俺は少し足早になった。
 土曜日の昼間である今は、近くの公園に親子連れが見られた。甲高い子供の声がする。公園の噴水の音が、少し遠くに聞こえてもいた。パシャパシャと、水の跳ねる音は、冷涼さを含んでいる。子供が水遊びをしているのだろう。
 前からはジョギングをしている男がやって来て、汗を流しながら俺の横を数瞬で通り過ぎた。良くあんな体力があると、感心する。そこまで考えてから、自分も部活を引退するまでは、ああして走ってた、と懐かしく思った。そんなに前の事でもないというのに。

 佐原、と表札が出ている家の前でチャイムを押そうとした瞬間、ドアが開いた。
 びっくりした俺は、一瞬身を後ろに下げる。そこには満面笑みの佐原の顔があった。
「びっくりした?」
「・・・・・しないよ。」
「そう?」
 見透かしている顔で、佐原は俺を招いた。玄関のすぐ左手がこいつの部屋で、人の気配などはすぐ分かる。それで、悪戯心を発揮したに違いない。
 普段は大人びているのに、こういうところのギャップが、俺と佐原を友達という枠にしているのだと思う。
 部屋の中央には、普段はないテーブルが置かれていた。勉強する為に佐原が持ってきたのだろう。俺は手前の座布団に、遠慮もなく座る。その右手では扇風機が回っていた。温い空気を循環させて、その首を俺と佐原と交互に向け続ける。
 俺はバッグから必要なものを取り出し始めた。
「・・・・・佐原?」
 じっと俺のほうを見ていた佐原が、ビクリと身じろぎした。
「どうした?俺、何か変?」
「いや、本当に勉強しに来たんだなーって思って。」
「・・・・・そりゃ、ジュケンセイですから?教えてくれんだろ?あ、そうそうこれ。忘れないうちに。」
「おばさん手製?今日のは何入ってんの?」
「胡桃。ちょっと食ったけど美味かった。」
 そう言いながら笑った俺を、佐原はまたじっと見る。少し・・・居心地が悪い。
「お前、好きだろ?」
 急くように、言葉を発した。
「・・・うん。ありがとう。相変わらず仲良いね、筧のうちは。」
「お前は、俺の中学の頃の荒れようを知らんから、そんな事を言えるんだ。」
 俺は、中学までは別の県にいた。父親の転勤と、家を買った事でこの町に来たのだった。
「筧が?荒れてた?」
 そういえば、そういう話はした事がなかったと、思いつく。
「まぁ、二年から・・・三年の前半くらいまでかな。何かもう、スゲー嫌んなって。今思えば馬鹿みたいだったと、そう言えるけど。」
 卓上に答案用紙と筆記具を置きながら、俺は言った。
「そういえばあの頃からだな、母さんがケーキ作り始めたの。」
 俺はふとそう思い出して、笑った。そうだ、確かそれまではお菓子らしいお菓子なんて、作って貰った記憶は数える程しかない。
 あの頃の母さんも父さんも、悩みに悩んで。父さんなんて転勤の話も出てたから、余計に頭抱えてたって、後から母さんに聞いた。いつも仏頂面だった父さんが、極力笑うようになったのも、確かこの時からだ。
「そうそう。後から母さんに、”父さんは不器用だっただけで、いっつも機会を狙ってたから。ある意味いいきっかけだったわよね。”なんて笑ってたけど。・・・・・担任に聞いたら児童相談所とか、会社休んでまで行ったとかでさ、ほんと、笑い話じゃなかったよ。」
 一通り、勉強材料を出し終え、俺はシャープペンを手にした。じっとりとした手に、それは張り付くようだった。
 俺の話を、佐原は真剣な表情で聞いている。何となく、引っ込みがつかない。
「皿が割れない日、怒声が飛び交わない日、・・・・・・なかったからな、あん時。」
「そっか。だから筧は・・・少し大人びて見えるんだ。」
「?俺が?」
「うん。何となく。他のヤツだったら怒りそうなとこで、筧は踏みとどまるだろう。杉山に嘘つかれた時も、お前、怒んなかった。」
「あー・・・あれなー・・・・、正直、ちょっと堪えたけどな。でも、あいつ謝ってきたし・・・・・・」
「未だに友達してるもんな。」
「ま、ちょっと最初の頃は向こうもギクシャクしてたけどな。最近やっとかな。」
「ほら、やっぱり。」
 佐原はそう言って柔らかく笑った。俺は、こいつのほうが大人びて見える。というか・・・嫌な言い方をすれば、諦観しているように見える。
「そうかな、佐原、買い被ってないか?」
「ま、とりあえずこっちは普通みたいだから、さっさとやるか。」
 そう言って佐原は俺の向いで、俺が出した答案用紙を人差し指で数回叩いた。
「頼みます。センセイ。」
 俺はこの時、佐原の中にある黒いものに気付いてやれなかった。
 あいつは多分何度も・・・俺に救いを向けて来てた筈なのに。


「・・・じゃ、俺そろそろ帰るわ。」
 六時を回って、俺は立ち上がりかけた。
「夕飯・・・・」
「いや、母さんに言って来なかったしさ。この時間だともう作っちゃってるから。」
「・・・・・・・そう。じゃ、また今度。」
 佐原が少し、縋るような顔をしたのが気になった。
「どっちにせよ、佐原のうち、おばさんまだ帰ってないだろ?お前が作んの?」
「いや、今日は出前かな。月末で忙しいんだ。」
「なら、うち来る?一人分くらい何とでもなるし。いっつも作りすぎて朝食にまで晩のおかずが出て来るくらいだからな・・・・・」
「アハハ。おばさんらしいや。・・・・でも、遠慮しとく。・・・・・・兄さんが・・・帰ってくるから。」
「そっか。今日早いんだ?」
「ああ。」
 笑った表情が暗く見えたのは、宵闇のせいだろうか。
 夕暮れの空気は、昼間のそれより大分やわらかい。空は明日も快晴と告げるような、綺麗なグラデーションだった。
「じゃ、またな!今日はありがと!!今度こそ見せてやるから、集中力!!」
「楽しみにしてるよ。」
 そして、俺たちは別れた。


 それが、永遠の別れだった。





「清隆(キヨタカ)が来てませんか。」
 そう言って佐原の兄さんがうちに来たのは、もう、午前一時を回っていた。
 佐原の兄さんを見たのは初めてだった。スラリとした長身の、佐原に似た薄い茶色の瞳。大人特有の硬質さと、厳しそうな雰囲気が印象的だった。細いフレームの眼鏡は彼にとても似合っていて、ともすれば軟派な印象を与えそうな部分を、払拭していた。
「義人(ヨシト)!」
 母親に呼ばれた俺が、最初に受けた印象は、そんな感じだった。俺は、丁度というか・・・珍しくまだ風呂にも入らずに机に向かっていた。
 勉強をしていたというよりは、何となく佐原が気になって仕方なかったというのが現状だった。
「清隆・・・・・・来てない・・・ですか・・・・・」
 どこか、疲弊した表情と声だった。白いYシャツはよれていて、汗が滲んでいる。着の身着のままで家を飛び出して来たのが分かった。母さんが俺の横で不安そうな顔をしていた。
「義人、来てない・・・よね?」
「・・・・・・どうかしたんですか。佐原・・・いなくなったんですか?」
 瞬間、佐原の兄さんは泣き出しそうな顔をした。それは俺の返答への落胆以上のものを感じさせた。
「・・・・夜分・・・すみませんでした。・・・・・・・失礼します・・・・・・・。」
「待って下さい!!」
 踵を返して走り出す彼を、俺は必死で追いかけて呼び止めた。
「母さん!心配しないで!俺、ちょっと出て来る。何かあったら電話入れるから!」
「あ、ちょっと!!義人!」
「平気!!」

「待って!!待って下さい!!」
 声はしんとした夜の闇の中、やたら響いた。それでも素知らぬ顔を決め込んだ住宅街は、変化のないまま。
 これでも陸上部だった俺は、短距離なら少しは自信がある。何とかその腕をとって、俺は彼を止まらせた。
 彼の腕は、汗でぐっしょりとしていた。けれど、その体温は怖いくらいに冷えて感じた。俺は、逃がすまいと、その腕を離さない。
「佐原・・・佐原は・・・・・!!俺、夕方までは一緒だったんです!」
 その言葉を聞いて、彼は漸く俺を振り返った。・・・・・彼は泣いていた。
「君のところじゃないのなら、後は・・・行くところなどないんだ・・・。」
「そんな事ないですよ。佐原は友達も多いし・・・後輩のとこだって考えられるし。」
 言いながら、俺も有り得ないと思っていた。確かに佐原は友達が多い。週末に遊びに行く程度の人間なら。ただ、泊まりに行くとなると・・・どうだろう。俺は佐原が俺のうち以外、他人の家に遊びに行ったという話を聞いた事がない。
「有り得ないんだ・・・・筧君・・・・・。」
 頬を伝う涙はそのままに、彼は言った。
「そん・・・・な・・・じゃぁ、どこ・・・に・・・・・」
 彼は、ひっそりと泣きながら笑った。電灯の下、俺の目を真直ぐに見た薄茶色の瞳は、佐原に本当に良く似ていて。
「あの時ですら・・・・・清隆は、君の名前しか呼ばなかった・・・・・」
「え?」
「・・・・・多分、筧君なら・・・他の行き場所を知ってるかとも・・思ったんだけど。」
「俺が?」
「・・・・・知らない・・・・?」
「・・・・・・・・・ごめんなさい。」
 あまり込み入った話をした事はない。いつも他愛のない会話の応酬で、家出する時どこに行くとか、将来の夢すら俺たちは・・・・・・・。
「そう。本当、すまなかったね。まだ、うち両親共帰ってなくて。こんな時間にいなくなるような子じゃないから。・・・・・警察に、届けてみるよ。」
 彼の覚束ない足取りは、酷く頼りなくて。俺はつい
「俺も行きます」
 と、言ってしまったのだった。

 佐原の家は、別れた時と同じだった。ただ、しんと静まり返った家は暗く、玄関の電気が点けられた時、俺は少しホッとした。
 夏の熱気だけを内包して、俺たちの足音だけが生き物の気配だった。
 ふと見えた佐原の部屋にもうテーブルは出ていなくて、布団が敷かれてた。一度眠る振りでもしてから、出て行ったのだろうか。良くは見えなかったが、掛け布団は捲れて、乱れていた。シーツの皺が、濃い陰影を作っている。
 まだ出て行ってから時間が経っていなければ、温かいかもしれないと、俺は佐原の部屋に踏み込もうとした。それに気付いた彼が、俺を引き止めた。
「電話は・・こっち。」
 有無を言わさない雰囲気に気圧されて、俺は小さく「ハイ」と呟いた。
 居間の電話から、両親の職場と、警察に電話を掛ける彼を、俺はただ見ていた。それ以外にする事はなかった。何も出来る事がないと分かっていても、俺は着いて来ずにはいられなかった。
「ごめんね。・・・・・俺ももう落ち着いたから・・・送ろうか?遅いし、ご両親も心配してるだろうから。」
「いえ、さっき携帯から電話入れましたから。ああ・・・そうか、俺の携帯から電話すればよかったですね。帰りがてら。気付かなかった。」
 佐原がいないと言われた時点で、何かがおかしかったのだとしか思えない。
「いや・・・俺も家に携帯置いちゃってたし、焦るばかりで混乱してて。きっと、まともに話せなかったと・・・思うから。」
 それからすぐに佐原の両親は帰って来て、俺はいたたまれなくなって、結局彼に送られて帰途についた。その時には既に午前三時を過ぎていた。
 家では母と父が心配そうな、泣きそうな顔をして待っていた。一通りの経過を話しても、二人とも黙ったままだった。こういう時の言葉の無意味さを、二人は知ってるのだろう。慰めも、佐原が戻ってこないのなら虚しいだけ。


次の日、駅一個先の海。その堤防の側で、佐原の靴と思われる片方だけが見つかった。
『俺、100泳ぐのやっとなのに。おかしいよな。』
そう言って笑った佐原の顔だけが、俺の脳裏に浮かんだ。







「・・・・・筧・・・・・君・・・・・?」
 声を掛けられて、俺は振り返った。
「人違いだったら・・・すみません。」
 男はそう言って頭を下げた。
「佐原の・・・・・?」
 それは、佐原の兄さんだった。彼はそう答えた俺を、あの時と同じ薄茶色の瞳で真直ぐに見て、ゆっくりと笑った。

「お盆休み?」
「ええ、まぁ。随分・・・帰ってなかったんで。」
「そう。じゃぁご両親、喜ぶだろうね。」
 駅からの道を、並んで歩いた。五年分の歳月では、彼はあまり変わっていなかった。この、蝉の声と一緒に。
「佐原・・さんは、会社帰りですか。」
「うん。」
 夏用の薄手のスーツを着た彼は、俺に佐原が成長したらこんな感じだったろうと思わせた。
 急速に、俺は佐原を思い出していた。公園は小さくなっていたり、家が建て替えられていたり、空き地だったところに家が建っていたり。風景に差異はあるものの、そこは紛れもなく俺が三年間いた地で。
 そして、佐原に良く似た人物。
 その全てが相乗効果を生んで、俺は錯覚しそうになる。夏の暑さはじっとりと絡みつくように俺を、引き戻す。
「では、ここで。」
「じゃぁ。ご両親に、よろしく。」
 決められた文句を言い残して、彼はゆっくりと左手に折れていった。

「ただいま。」
 俺が帰宅すると、母親は作っていた手製のケーキを片手に、迎えてくれた。明らかに俺の為に作ったものだった。あの時と同じ、胡桃入りのパウンドケーキ。
「本当、全然帰ってこないのだもの。」
 些か増えた小皺が、五年を長く感じさせた。
 七時前には父親が帰って来て、にこにこ笑って俺の頭をぐしゃぐしゃにしてくれた。「バカ息子」と言った声は、震えていた。
 白髪の増えた父親もまた、五年という月日をその身に刻んでいた。
 久しぶりで囲む家族の夕食は気恥ずかしく、とても温かかった。帰る気にならなかった理由も、帰らなかった理由も、二人は聞かなかった。
 あの時から逃げるようにここを出た俺を、二人共、責めない。俺にはそれが辛く、そして有難かった。心底、感謝したい気持ちになっていた。

 部屋は五年前とほぼ変わらない状態であった。「何を捨てていいのか分からないから、この機会に片付けなさい」と、言われた。「戻ってきてもいい」と母親には言われたが、今の職場のこともある。俺は言葉を濁しながら、首を横に振った。
 変わらない部屋。進学の際に置いて行った、参考書や塾のテキスト。机に備え付けられている棚に、それは収まっている。懐かしさと共に、テキストを引き抜いてみた。すぐ横にあったファイルが一緒に抜け出てきて、プリントがばさばさと散った。
(あーあ・・・・)
 俺は屈んでそれらを拾う。答案用紙をファイリングする癖があって、そのファイルもその一つだったらしい。散らばった答案用紙の点数を見て、俺は苦笑する。
 そして、ドキリとした。
 それはあの日、佐原に教えて貰った時の、答案用紙・・・・・のようだった。
 男にしては綺麗な楷書が、少し、垣間見えた。佐原らしい、ちょっと神経質な細い線の。
 俺はその答案用紙を見直した。表は何のことはない、俺の汚い字が羅列していて、先生の採点は赤で成されている。まだマシだった、生物学のテスト。
 その字は、裏に書かれていた。きっちりとした、真直ぐに横に走らせた字。
 左隅で自己主張する事もなく、あいつの笑みみたいにひっそりと。

 涙が 溢れた。

 俺は嗚咽を上げながら、止められない涙を流した。





 一駅先の海。余り来た事はない。海水浴場まではもう少し先だったし、高校の頃の夏は、殆ど部活で過ごしたからだ。
 佐原らしい人間の靴が見つかったと聞いてからは、余計に。
 海水浴場なら別なのだろうが、夏の堤防に人影は皆無に近い。テトラポットに寄せては返す波を、俺はぼんやりと見ていた。
「・・・・・靴が見つかったのは、あの辺りだよ。」
 俺は、ビクリとして振り返った。いつの間にか、佐原の兄さんが立っていた。
 彼が指差した先は、海に向かってコンクリートの道が出っ張っている。周囲を固めているテトラポットが、波飛沫を絶え間なく作り上げる。
 俺は、彼に導かれるようにそこへ向かった。
 その中央より少し先まで来たところで、彼が口を開いた。
「何故・・・戻ってきた?」
「・・・・・・五年って、一区切りじゃないですか。それだけです。」
「そう。」
 そして彼は、あの日の佐原に似た笑みを見せる。
「俺は、何も気付いてやれなかったから。多分、俺が一番近くにいたのに。」
「負い目がある?」
「・・・・・・・・正直、あの日、夕食をやっぱり一緒にすれば良かったとか、そういう事は・・・暫く考えましたが。」
 それでも、どうにもならなかっただろうか。と俺は思う。
 近くにいた家族が気付かなかったのだ。佐原が家を出て行ったのに、この人は気付かなかったのだ。
「筧君のせいじゃ、ないよ。」
 ひっそりと、彼は言った。
「・・・・・・・」
 少し、目を伏せる。
「君がいたら、あの日じゃなかったかもしれないと・・・ただ、それだけの差だ。」
 俺は目を見開いた。それは、断定された死を思わせた。
「何故・・・・・・・」
 そんな事を、とは続けられなかった。彼は不意に俺の腕を掴んで抱き寄せ、耳元でこう言った。
「清隆は・・・弟は、俺にヤられてる時すら、君の名を呼んだ。・・・君が・・・好きだったんだ・・・・・・・・」
 呆然とした。その間に彼は俺から離れ、そして。

 そのまま、海へと消えた。

「・・・・・あ・・・・・・・うわぁぁぁああああああああっっ!!!」
 俺は、声の限りに叫んだ。
 声が嗄れるまで・・・・・叫び続けた。





 病院のベッドは白く、壁も床も白く。余りの白さに目が痛い。
「気がつきましたか?」
 看護婦も・・・白い。声を出そうとしたが、上手く出なかった。傍らで両親が揃って心配そうな顔を見せていた。
「まだ、声は無理でしょうから。無理に出そうとしないで下さい。」
 まだ若い看護婦は、やわらかく諭すように言う。
「いるものはある?書いてくれればいいから。」
 母がそう言って、父がペンと紙を俺に手渡す。俺は起き上がってそれを受け取ると、ペンを走らせた。
『佐原さんは?』
「・・・・・・・大丈夫よ。」
「あそこは漁港だから。気付いた漁船が、すぐに助けてくれて大事には至らなかったらしい。」
 母の言葉を受けて、父がそう答えた。
 俺は、安堵した。少なからず、あの人に憎悪を抱いた。でも五年目のそれは、多分五年前のそれより薄い。どうせなら生きながら償えと、俺は思っていた。
 それが一番残酷であると、本当は俺自身が知っていた。
「お前は・・・・・」
「お父さん。」
 母が制止する。俺は、父の言いたい事が分かっていた。
『死のうとしたんじゃない。佐原さんは・・・あそこに俺を案内してくれて。誤って転落したんだ。俺はどうしたらいいか分からなくて・・とりあえず・・・』
「叫んでたって言うのか。」
 父が苦笑した。母も、苦い顔を作っている。
「大事にならなくて・・・・・本当、良かったわ。」
 涙が滲んでいた。


 2日後にはすっかり喉の調子も良くなり、俺は未だ検査入院をしているという彼を見舞った。
 程よく気温の保たれた室内は、夏という時を幻覚にする。
「両親に、泣かれた。」
 そう、彼はポツリと言った。
「そりゃそうでしょう。」
 素っ気なく答えた俺に、彼はひそりと笑った。
「・・・・・・・・・・何も、聞かないのか。言わないのか。」
「言いませんよ。」
「・・・・・見舞いなど・・・・来ないと思ってた。」
「普通は来ませんよ。」
 フフ、と彼はやはり静かに笑う。
「筧君を・・・・・清隆はずっと呼んでた。どんな事をしても、俺の名前は呼ばなかった。」
 窓の外を彼は見る。
「・・・・・・ここに俺がいるという事は、やはり、拒まれたと・・・そういう事なんだろうな。」
「俺でも、突っ返されたと思いますけどね。」
 不思議そうな顔をする彼に、俺は一枚の紙を突き出した。
「・・・・・・・・・そうか。・・・・そうだろうな。好きな人間を、道連れにするような奴じゃない・・・・・・・」




『海から生まれたのに、おかしいよな。』
『それに深海には未だ、近づけないんだ。いくら泳いだって無駄だ無駄!』
『お前、水泳やりたくないだけだろ。』
『ご明察。でも、まぁ、面白いとは思うよ。』
『面白い?』
『生物。俺、海洋学とかある学部狙ってんの。』
『初耳だ・・・』
『珊瑚とかさ、テレビで見たとき、海の中にも森があんだと思ったね。』
『・・・詩人発言だ!アハハ、見たいんだ?』
『笑うな。言ってる俺が恥ずかしかった。・・・・・実物をね。』
『お前頭いいから大丈夫だよ、・・・・・佐原。』




 静かな嗚咽を漏らし、彼は泣いた。目の前で泣かれるのは二度目だな、とぼんやりと思った。
「生きて・・・くれますか。」
「・・・・・・・・・勿論だ。」
 嗚咽交じりに、彼は頷いた。
「殺される時は、君に。」
「まさか。殺しませんよ。」
 それが、一番の贖罪。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
 俺は、その佐原に良く似た顔に、重ねるだけの口付けをした。
「ちゃんと生きてるか、見に来ます。」
「・・・・・待ってるよ。」


 空は快晴。
 俺は病院からの帰り、海に寄った。
 先ほど彼に見せた紙・・・答案用紙を破いて、巻く。散り散りにそれは海風に煽られ、舞い、誘われるように海の向こうへ消えた。

  俺はまた、少しだけ泣いた。














”深海を見てくる。行ってきます。”









書き終わり・20040202*****