僕は、その人に恋をした。
それは、ふとしたきっかけ。
何気なく覗いた、普段は入らない部屋。
その机の上に、ひっそりと乗っていた。
一枚の写真。
色褪せたその写真には、一人の青年が写されていた。
黒髪のその人は、こちらを見てはいない。
写真で言えば左方向を向いて、階段に何気なく座っていた。
雨が降っている。彼の手前に写された路面の水溜りが、絶えず波紋を作っているのがわかった。
彼の居る場所は、庇がついているようだ。彼自身が濡れているようには見えない。
やわらかそうな髪が、彼の前方から吹いてくる風にさらわれている。少し目を細めて、彼はその風の吹いてくる方向を見詰めている。右手が、顔にかかった前髪を払いのけた後のような、そんな位置にあった。
(誰かを、待っているのだろうか)
何となくそう思った。人待ち顔、そういう言葉が合うような。そんな表情をしている。
綺麗だ、と、素直にそう思った。
そうして。
そうして僕は、その人に恋をした。
会えないと分かりきっているその人を見るようになったのは、次の日からだった。
初め、僕はそれが幻覚だと思った。
僕が作り上げた幻。
実際、そうなのかもしれなかった。今でも僕には判断がつきかねる事がある。
それでも・・・・・・
「わ・・・・・・・!す・・すみませんっ!」
不意に曲がり角から飛び出して来た人影に、僕は思わず謝った。
絶対に回避不能な距離でもあったのだけれど。
僕は、その人にはぶつからなかった。
その影は薄く、緩やかにその黒髪が風に浚われる。
影は、こちらを見て、笑った。
それは、紛れもなく写真の彼だった。
精神では「あり得ない」と分かってはいても、僕の心臓は驚きや恐怖とは別の意味で早鐘を打っていた。
彼の瞳は僕を通り過ぎ、その先へ注がれているようだった。
僕が後ろを振り向いても、そこには誰もいない。
再び僕が彼のほうに向き直ると、彼すらもうそこにはいなかった。
それからは毎日のように彼を目撃した。
僕の周りに誰もいない瞬間に、彼は現れた。だから、他の人にも見えるのかどうか・・・僕には確かめる術がなかった。けれど、それで良かった。
彼には僕が見えている様子はなく、いつも僕の向こう側の「誰か」に手を振ったり、話しかけたり、隣で笑っていたりする。
彼が話しかけている「誰か」の位置に、恐らくピタリと僕があてはまるのだろう。
ただ、視線が上のほうである事から、その「誰か」は僕より随分と背が高そうだった。
彼は、写真とは大分印象が違った。
写真で観る彼は、儚げな印象が滲んでいる。
けれど僕の目に映る彼は、快活さを見せる。静かに笑う事はあるけれど、困った顔もするし、怒ったような拗ねた顔もする。くるくると変わる表情は、儚さからは遠い。
それでも時折見せる表情の端々に・・・どこか繊細さを思わせるところはあった。
神経質とは違うのだけれど、偶にその睫を伏せる所作をする。そのときは、どこか憂いを感じさせた。
それだけは、写真の印象に近かった。
そんな生活が一週間続いた。
僕は彼に会う為に、なるべく一人になるようにしていた。友人らは訝しがったが、一人を除いて詮索してくる事はなかった。皆、高校受験が控えていて忙しいのだ。塾だとか、家庭教師だとか。時間に追われて、他人に構っている暇すらない。
僕はと言えば、成績は中くらいで、その辺の公立には無難に入れ、私立は確実に受かるところにしか願書を出さないという体たらく。
周囲の人間ほど、机に齧りつく必要もないし、日々の勉強をいつも通りこなしていけばそれで事足りるのを知っていた。
親もそういう事には無関心だったし、僕自身、それでいいと思っている。
友人が
「お前、やればもっと出来るのに。勿体ない。」
と、少し寂しそうに言ったくらいだ。
そう言った友人・加藤治巳(カトウハルミ)が、詮索してくる只一人の人間だった。
余りにしつこいので、僕は渋々、「幽霊みたいなのが見える」とだけ言った。絶対バカにされるか呆れられるか・・・を想像していたのに、加藤の反応は僕には意外なものだった。
「お祓いに行く」とか「神社のお守り買ってきた」とか「清めた塩を持っておけ」とか。
次の日から、矢鱈言ってきた。お守りと塩を渡され、部屋の隅にも盛っておけ、と念を押された。
「・・・・・・信じるの?」
僕は思わずそう聞いた。加藤はそれに、いかにも心外だというような顔を見せた。
「お前が嘘ついてるか、ついてないか。それくらい友達として分かるだろ。・・・俺があれだけ言っても勉強しないんだから、そういう意味でストレス性の幻覚とかはあり得ないんだろうし。それとも何か?お前、幻覚見るような原因、ある?」
・・・・・・・即答できなかった。
幻覚の要因・・・・・・・。
あるとしたら、あの、写真。
僕は確かに、彼に会いたいと思ったのだから。
「・・・・いや・・・・・特に思い当たらないけど。」
僕のその一瞬の躊躇を、勿論加藤は見逃さなかった筈だけれど。少し、寂しそうな顔をしてから、それでも追求はして来なかった。
「なら、用心っつーか・・・。気休めでもないよりマシだろ。お守りとかさ。」
「怖い印象は受けないんだ。・・・・・・何て言うのかな・・・。」
僕は少し考えてから言った。
「ああ、そうだ。映画とか・・ドラマとかを見てるみたいな感じに近い。向こうは、僕の事は見えてないみたいなんだ。あらかじめあるものを、そう・・例えば記憶の残像みたいなものを見せられてる感じ。」
「・・・・・そうか。でも、何かあったら言えよ?俺だって、心配しないわけじゃないんだ・・・・・。」
「うん。ありがと。」
僕が笑うと、加藤も笑った。少しは安心したんだろうか。
そして10日目。
僕は、ある変化に気付いた。
彼の姿が、徐々に鮮明になってきているのだ。
最初は影のようだった。淡いフィルターがかかっているかのような状態だったのに、今では表情の機微が読み取れる。
笑う・困る、という表情でも、躊躇うように笑うとか、本当に楽しそうに笑ってる、とか。伏目がちに困っている時や、言葉を濁しているような感じや・・・・・。
そして一ヶ月を過ぎる頃、景色にも変化が出ていた。
一人になると、急に景色が変わる事がある。
40日を過ぎて、僕はもう既に彼の姿だけではなく、彼が過ごしたのであろう、その時の風景まで鮮明に見えるようになっていた。
彼は相変わらず僕の位置に、「誰か」を置いていて、その「誰か」に話しかける。
今は住宅になっている筈の場所に、空き地があったり、古ぼけた店があったりする。
僕が子供の頃に閉店した商店が、その場所にまだ残っていたりする。
僕はやっと気付いた。彼は、この町に住んでいて、そうして学校に通い、この道を通ったのだ。そういえば学校では殆ど彼を見たことがない。それは、彼が僕の通う学校にはいないという事だ。
どう見ても大学生くらいな彼が、中学校に足を踏み入れる事などないのだろう。専ら通学路で会うのは、そういう訳だったのだ。
学校で見かける時は、校庭だった。調べてみたら、区画整理で20数年前に敷地が多少移動している。彼を見るその場所は、かつては歩道だったのだろう。
そしてきっと彼はそこを通って、大学に通っていたに違いない。
「こんなところにいたのか。」
放課後、試験前で部活は休みで、校庭には誰もいなかった。その隅の木に、僕は寄り掛かっていた。思わず「あ」と声が漏れる。
彼の姿が、消えてしまったからだ。
僕が振り返ると、加藤がそこに立っていた。
「・・・・・加藤、今の、見た?」
僕は何の気もなしに聞いてみた。ただ、加藤の位置からは、彼の姿は見えなかっただろうな・・・とも思った。
「まだ、見てるのか。」
僕は頷いた。
「何十年前なんだろうな。まだ、ここが歩道だった頃みたいなんだ。その、通りの向こう側に小さな商店があったの、覚えてる?」
「俺がここに来たのは、3年前だから。」
「ああ、そっか。・・・・・僕が子供の頃、潰れちゃったんだけど。あったんだ。夏にはアイス買って貰ったのを覚えてる。・・・・・その商店で、その人は友達とアイスを買って、そしてこっちに気付いて走ってくるんだ。僕はその人が見ている”誰か”で、何か多分応答してるんだと思う。その人は何か言いながら笑って、こっちにアイスの入った袋を渡す・・・・・・。」
「・・・・・・・なぁ・・・やめろよ・・。」
「僕は・・・・・いや、その”誰か”は、その袋を受取って、後はアイスを食べながら、立ち話とかしてるんだ。暑い日ざしの中、緑の影が濃く落ちてて。僕は・・・」
「なぁ、やめろってば。」
「僕は・・・・・その”誰か”になりたいと、思った・・・・・」
「やめろって、言ってるだろ!?」
加藤の両腕が、僕の首筋に絡んだ。
「僕は・・・・・オカシイだろうか。ねぇ、加藤・・・・・。現実と、幻覚の境が、僕は・・・・・・。それとも、これは僕の願望なんだろうか・・・・・?」
加藤の肩口で、僕は遠くを見ながら話す。加藤の体が、少し震えていた。
そしてポツリと一言「行くな」と、言ったようだった。
「ごめんね。」
それは、突然の事だった。
彼の焦点は、僕にきっちりと重なっていた。
”誰か”ではなく、”僕”を彼は見ていた。
「ずっと、大変だっただろう?・・・・・ごめんね。俺も、どうしたらいいのか、ちょっと迷ったんだけど。」
そう、彼は言ってほんの少し寂しそうに笑う。
「・・・・・・・・”藤(トウ)のとこに行くから”って、そう、伝えてくれるかな。・・・・・・・・・・ありがとう、って。」
僕が頷くと、彼はとても嬉しそうに笑った。
ずっと望んだ事だった。
誰かではなく、僕に話し掛けてくれる事。
ああ、なのに何故。
僕はこんなにも悲しいのだろう。
こんなにも。
涙が止まらないんだろう・・・・・・・。
以後、彼を見る事はなくなった。
直感でそれが分かったから、自分は泣いたのだと、後で気がついた。
彼を見るようになってから、49日目の事だった。
僕はその日、泣きながら家に帰ると、すぐに彼の写真を見た部屋へ向かった。
滅多に近付く事のないその部屋は、いつものようにひっそりとしていた。
障子越しに声を掛けると、その部屋の主の影が動き、スラリと障子が開かれた。
僕は少し見上げた。部屋の主は泣いている僕を見て、少しだけ驚いた顔をして、それから中に入るように促した。
僕は泣きながら、部屋に勝手に入った事を謝って、これまでの経緯を話した。途中で躓きながらだったけれど、何も言われず、静かに次の言葉を待ってくれた。
怒られるかと思ったが、そんな事もなく、ただ、気配が少しずつ変わっていくような気がした。それは、怒りでもなく憂いでもなく。
あまりにもひっそりと、静かで。すんなりと受け入れ難い話である筈なのに、自然に僕の話を受け入れているような。
そして僕は、彼が伝えて欲しいといった事を、伝えた。
「・・・・・・・そうか。」
一言だけが、それに対する応答だった。
部屋の主・・・・・僕の祖父は、その皺の多い骨ばった手を、僕の肩に乗せた。そして
「・・・・・ありがとう。」
僕に、そう言った。僕は祖父の瞳を見た。その時、「ああ、そうだったんだ」と、思った。
僕の位置にいた”誰か”。それは、祖父だったのだ。
根拠があったわけじゃない。けれど、それは確信だった。
彼の隣りで笑い、怒り、共にその時代を歩いた存在。それが、祖父だったのだと。
「・・・・・・・あの、写真・・・・・」
僕がそう言うと、祖父はゆっくりと立ち上がって、引き出しからそれを出した。
古ぼけた写真、その裏を僕に見せる。
「藤」というサインと、日付がそこに明記されていた。
「藤(フジ)・・・・・?」
祖父はゆっくりと首を横に振った。
「トウ、と読むんだ。」
『トウのとこに行くから』
彼の声が、鮮明に思い出される。
「これは、若くして亡くなった写真家の撮ったものだ。写真の男は弐子(ニシ)。・・・・・大学時代の、友人でね。」
祖父の顔が、一瞬歪んだ。
「・・・・・・・・・好きだった・・・・・・?」
僕の問いに、祖父は答えず、ただやわらかく笑った。
「・・・・・・・そうか、逝ったのか。弐子。」
自分の孫のその突拍子もない話を、彼は受け入れた。
あの頃の事を思い出す。「感傷だ」とか「思い出だ」とか、そう言っていた弐子は、結局、藤を忘れる事はなかった。それは、あらゆる意味で。
そんな不変なものなど存在するわけがないと、彼は否定し続けた。
藤だって、弐子の幸せを望んでいる筈だと、諭した。
けれど弐子は結局、誰とも一緒にはならなかった。頑なだと思ったが、そうではない事が分かった。
本当に弐子は、藤が忘れられないのだと。死んだ人間には、誰も叶わない。時が忘れさせてくれる筈だと、そう思ったが、弐子に限っては当て嵌まらないだろうとも、本当はどこかで分かっていた。
そして、弐子にとっては、それで幸せでもあったのだと。
彼は、目頭を押さえる。胸の奥の痞えが、どこかで軽くなった気がした。
「不変は・・・・・あるんだな。弐子。」
『約束するよ。いつか・・・藤の撮った写真を見せるから。』
そう言っていた弐子と疎遠になったのは、大学卒業後、10年としない間だった。
そして先月・・・・・その写真は送られてきた。
驚いた。けれど、あいつらしいと思った。
それを自分の孫が見つけ、その軌跡の一部を見た事は、何かの縁なのだろう。
「本当に・・・お前じゃないみたいな写真だな。弐子。」
彼は写真を前に、静かに笑った。
『そうだろ?』
そう、弐子が隣りで笑った気がした。
「何だったのかなぁ・・・・・」
「さぁ。」
僕のぼんやりとした独り言に、隣りに座っていた加藤が応じた。
屋上には誰もいなくて、晴れた空が広がっている。生温い風が、延々と雲を運んでいた。
「でもそれから、お前、爺さんとギクシャクしてないんだろ?・・・カメラ、教わってるってこの間言ってたじゃないか。」
「うん。」
「お前の爺さんってあれだろ?有名なカメラマンだろ?80過ぎても現役っつー記事、どっかで見た。」
「・・・・・うん。」
「じゃ、あれかな。その為に、来たんじゃねぇの?お前の為って言うより、友人の為・・・。孫と上手くいかない友達の為にさ、橋渡しになったんだろ。」
「そうかなぁ。」
「そうなの!それでいいの!!そうしとけ。」
「・・・・・・・うん。」
「・・・・・・・・何だよ・・・・・俺が悪いみたいだろ。」
加藤はバツが悪そうにそう言って、僕の頭をボンボンと軽く叩いた。
僕はフェンスの向こうを見ながら、その景色を思い出す。溢れた涙で風景はぼやけて、彼らが過ごした風景と、どこかで重なる気がした。
僕が大学に上がる前に、祖父が亡くなった。
亡くなる直前まで、僕にとって師であり、祖父は現役だった。
前日、何かを察したのだろうか。祖父はあの彼の写真を、僕に手渡した。そして一言
「私は結局、最後までこの写真に勝てなかった。」
と漏らしたのだった。
シャッターを、押したいではなく、押さずにおられない、でもなく。
ただ、それが自然で、必然であるという瞬間。
意識とは別のところ。
何よりも、不変で確かな。
僕には撮れるだろうか。
その瞬間が訪れるのだろうか。
まだ 分からない。