〜 トイレ 〜


朝から何処かぼうっと、注意力に欠けた様子を見せていたレイが席を立ったのは、放課後になるやいなやのことだった。
普段と違うその足の向け先、

「綾波さん……?」

怪訝そうな声を掛けたのは、同じクラスの山岸マユミだった。
展開されようとしていたのは、部活は、或いはいつもの遊び場所に行くこうかと笑顔を向け合う周囲と、同質の風景。
レイもマユミも揃って所属する部活を持たず、友人と語り合って盛り場へ飛び出していく性格でもない。寧ろ、放課後もぽつんと1人で、自宅かどこかへ消えているような存在だと思い込まれているのだから、目立ちこそせずとも、それは奇異なといって良かったろう。
だが、ここ暫くの二人は以前とは違っていた。
空いた時間を主に過ごすのは、静かに書物に向かい合って。そんなお互いの嗜好が引き寄せたのか、一日の授業が済んだともなれば連れだって図書室に通う習慣が出来上がっていたのだ。いつの間にかに。

「今日は――

帰るん、ですか……?
お一人でと、マユミが心細そうな声を出てしまったのは、それがあやふやな内に出来上がっていた習慣だったからかもしれない。
ここ数年のマユミには滅多に望めなかった、友達、らしきもの。
気付かぬ間になにか気に障ることをしてしまったのだろうかと、自信の持てなさがそこに出る。

「……いいえ。先に行っていて」

返事にそうではないと告げつつも、レイはいかにも気もそぞろの横顔だった。
友人の目の前をそのままぼうっと通り過ぎようとして、立ち止まりもせず、

「トイレに、行ってくるから……」

何処かぼんやりとした声だけを残して教室を後に。廊下を遠ざかっていく。
元々無愛想であるにしても、こうも無碍な態度をとる女の子でもない。というのが、マユミの持つレイの印象である。
それが結局、一度も顔を向けようとはしなかった。
後姿に、色素の欠けたショートカットが一歩一歩そっけなく揺れているだけだ。
ただその襟足、レイのほっそりとしたうなじ。垣間見えている白い肌が、恥じらったように赤らんでいたと目に残ったのは、マユミの気のせいだったろうか。
やはりどこか様子が違っていた。

―― あれは、あれね。<会館>の方にお花摘みね」
「……え、マナさん?」

二人の様子を見ていたのだろうが、つつつと寄ってきたこのクラスメイトの、やけに楽しそうな顔はなんだろう。
通学鞄を肩に引っかけて、もう後は身軽な足取りで帰るだけといった風情の霧島マナではある。

「ま〜何って言うかぁ? クール一本槍で鳴らしてらっしゃる綾波のレイさんも、ちゃんとオンナノコしてるのねぃ、っていうか」
「ふふん、態度から察しなさいよ、態度から。マユミもほんっと鈍いんだから」

彼女に続いて、同じくクラスの女子でも元気組の一人―― ともすれば騒がしく口さがなく、マユミには苦手なゴシップネタを会話に持ち込みたがる―― 惣流アスカまでが近付いてきた。

「あの全身で深く聞かないでって言ってる態度よ。可哀想に、マユミがいちいち聞くもんだから耳まで真っ赤にしちゃって。だいいち、朝からおかしかったでしょ、優等生」

したり顔で言う。

―― 溜まってンのよ」

意識してだろう。殊更に下品さを感じさせる口調だった。

「……な、まさか。あの綾波さんが、ですか……?」

かぁっと火照りだす頬に、マユミはようよう、つかえながらの反駁を返した。
綾波レイというあのひっそりとした少女が、アスカたちがあれこれ噂してみせる通りの理由でやるせなく熱い吐息をついているとは、想像し辛かったのだ。
少女として生まれ持った繊細なつくりの部分が、思春期ともなれば花開きだす。時には蜜に濡れて、持て余す火照りを宿すようになる。
そんな秘められた花の器官をマユミも持っているのだし、当然綾波レイも、ジャンパースカートの下にすらりと伸びた脚の付け根へ備えている筈だ。
その、薄いショーツの底に当たる場所を、常に静謐に佇む彼女がピンク色に染めて疼かせている? 綻びほどけた蕾の隙間に、後から後から湧きにじむとろみで、切なく涙させている?
まさか、だった。
少なくとも、マユミはそう信じた。それが、マユミが裡に育てていた友人綾波レイの偶像だったといっても良い。
しかし友人達にとっては、それこそがまさかであるらしかった。

「澄まし顔で自分だけ人とは違いまぅ〜ってワケにもいかないわよ、そりゃ。優等生だってねぇ」
「そそそ、お人形さんでもなきゃお腹も空くし、シモの欲求にも駆られますわよん。ねぇ〜? アスカさん」
「そーそ、人として、当然のヨッキューよね」

きししと、ことさらに声を潜めて笑ってみせるマナと二人顔をくっつけて、わざとらしくアスカは頷きあう。
そしてちらりと、辺りの様子に眼をやってみせるのだ。

「ほらほら、優等生がと聞いて男共の目の色の変わること、変わること」
「……え? え、ええっ!?」

見やれば急に押し黙ったかの様子。くだらない話題に興じていた男子達いくつかのグループがざわりと集団を解いて、離れたそれぞれ、あたかも今唐突に用事を思い出したかの顔をして教室を出て行く。
―― まさかアスカさん、とマユミは焦った。

「わざと聞こえるように言ったんじゃ、ないでしょうね……?」
「んー、何の話かしらね。あいつらはあいつらでおトイレなんて珍しい話でもないし。オトコなんて始終サカってるもんでしょ」
「ある意味カワイソウよね、男の子のセーリっての?」

『やだ、いやらしぃ』と混ぜっ返すアスカに応じて、マナがぱたぱたと手を振ってみせる。

「うんうん、勿論リカイしてますよー。男の子って、朝からいきなり―― 全力でアレが主張はじめちゃってるくらいなんでショ? そんで、綾波さんみたいな美人さんが<会館>のトイレ使うかもって聞いちゃったら、そりゃもう、ねえ……?」
「ほんと可哀想よね。あんなに大勢で行ったって、どうせ優等生の入った部屋なんて一つだけだし。そもそも<穴>からじゃ運良く当たり引いたって、ほんとにあいつだか分らないないのに。……ま、夢見る分には自由よね」

うんうんと、また訳知り顔のアスカだ。

「お相手の正体が分らないなら、誰を想像しても勝手なわけよ。全員が全員、優等生と欲求不満解消しあったと思えばそれでスッキリするんでしょう」

だがそのアスカとてと、人気のほどを知るマナが矛先を向けないわけがない。

「アスカだってさぁ〜ぁ? やっぱうちのガッコでも一番二番の美少女なわけじゃない。男子達アコガレの」
「ん、まぁね。否定する気はないわよ」
「無いんだぁ。さっすがぁ〜」

リポーターごっこの気分でやっているのか、架空のマイクを握った拳を突き付けつつ、

「……その辺、人気者の先輩としてはどうなんでしょう? 校内ほぼ最強エリート天才美少女、ついでに男子のオナペット人気推定ナンバーワンアイドルのアスカさん」

調子のんな、こら。あいたっ、グーはやめてよアスカぁ。といったじゃれ合いに、じりじりとしだしたマユミを見かねた一声が、アスカの傍らから入る。

「……ほらアスカ、山岸さん本気で心配しだしちゃってるでしょ。からかい過ぎよ」
「分ってるわよ、ヒカリ」

えへん、と誤魔化しそのものの咳払いが置かれた。

「まぁ、女の子の常識よね。そこだけしっかりしとけば普通に安心だし」

しかし相手はあの綾波さんなのだ。そこが一番不安、とマユミは胸の内に呟いた。

―― 別の言い方すると、たしなみってやつ」

アスカが指折り数え上げる。
声は勿論、聞かせない。できるだけ我慢する。ハンカチを噛んでいれば良い。
<穴>からアレを突き出したりするだけじゃなくて、張り付いてずっと覗き込んでるような相手もいるのだから、迂闊なものを見える範囲にチラつかせたりしない。

「パンツは脱いで入っとくのよ」
「そーそ。相田君みたいな男子が居るんじゃねぇ……」
「そうね……。あんまり考えたくないんだけど、どこかで覗かれていたかもって考えると、ね」
「あれー? 委員長さんはもうちょっとオシャレな下着付けなきゃ。いつも地味―― じゃ、じゃなくて! おとなしいのばっかり履いてるんだもん。アスカみたいにいつもゴージャス路線だと一発で見破られるかもだけど、たまにはアピールしないと、ねぇ? 通じないんじゃないの?」
「もうっ、知らない。放っておいてよ」

密めたつもりでいて、身近であればとっくに衆知の恋。からかわれるヒカリは、また話がそれてるわよと、火照った顔で怒ったように。

「あたしだって、可愛いの選んだりしてる日の方が多い気がするんだけど……。まぁ、そこさえしっかりしとけば大丈夫なんじゃないの?」
「わざと自分が誰かバレるようにして楽しんでる子達もいるって聞くけどね〜」
「ソレは変態って言うのよ、マナ」
「ほほほう? 大変そうですね、校内唯一のハーフ美少女のアスカさんは」

マナがにやにやと揶揄して言う。
今度はアスカが真っ赤になる番だった。

「仕方ないもんねー。アソコのお毛々も金髪だったりしたら、一発でバレバレだもんねー」
「そうよ、だから剃ってるのよ! いちいち言うことじゃないでしょ、マナ」
「お聞きになって、ヒカリさん。剃毛ぷれいですわよ。マニアックですわね、変態さんぢゃないかしら」

とにかく騒いでいなければ収まらないのはこの年頃なら当たり前のことで、さながらそれを1人で体現しているようなマナだった。
またお気に入りの友人相手にウィークポイントを突いては、けらけらとはしゃぎ回る。
対照的に、クラスでも物静かな部類をレイと2人で代表するマユミの顔色は優れなかった。

「……あ、あの、綾波さんですけど……。分ってるんでしょうか?」
「なにが?」

消え入りそうな声でマユミは『……ヘアの、ことです』と続けた。

「その……、綾波さんも凄く個性的というか、分りやすい色の……」
「髪、してるよね」

マナは悪友のアスカ、そしてその親友ヒカリと順に顔を見合わせた。

「綾波さんってば、たしか……」
「まだ、なんて聞かされても不思議じゃないってイメージがあったんだけどね」
「少しは……じゃなかったかしら、たしか。……い、一学期の水泳の時には、だったようなってだけだけど」
「委員長、よっく見てるのねぃ。うんうん、たしかにこのマナちゃんのチェックでも、うっすらちょびっと生えてたのは確実ぅー」
「なんのチェックよ、なんの。はっきり分かってるって言うなら、いちいち聞かずに言いなさいよ」
「そういうアスカさんもしっかりチェックしてたみたいですけどネ。さっすがライバル♪」

だったらやっぱり……と。マユミは、寡黙な美貌から周囲に隙など無い怜悧さを印象づけていて、その実、割合に粗忽な友人を案じた。
皆が言うとおりなら、そしてマユミも聞いている内に確かにそうなのだろうと思いはじめたように、レイは敷地内に目立たぬよう―― しかし便利が良い配置に一棟分けておかれている<会館>へ、向かったのだろう。
今頃はもう、全て曇りガラスが使われている窓の数よりも多く、途中、他の誰かと極力顔を合わせずに済むよう設けられた<女子トイレ>入り口の一つから、個室のどれかに入っているのもかもしれない。
そして、後を追った男子達が同じように<男子トイレ>に向かっているのだ。
その内の誰か1人が、レイと同じ組み合わせの個室に入って――

マユミは、気付けばクラス中を見回して探していた自分に気がついた。
もう殆どの男子はいなくなっている。
内、どれだけが部活に出かけ、どれだけが大人しく帰宅した生徒だろう。
洞木ヒカリが気にしている鈴原トウジのジャージ姿もなければ、彼かアスカにいつも付き合わされている碇シンジの姿もない。
そして、最も警戒するべき―― 相田ケンスケの姿も見つけることはできなかった。


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