< 注意 >



この話には痛い描写が含まれています。
烏賊同文。






─ 異種遭遇 ─

「Event Horizon」



書いたの.ナーグル




















「うっん…っはぁ、ああっ」

 苦しげにマユミは呻いた。堅く閉ざされた瞼から涙がにじみ、痛々しく眉根が寄る。
 汗みずくになった体に振り乱された髪の毛が淫靡に絡みつき、彼女を大人びて見えさせた。
 いや、そうでなかったとしても、今の彼女を15になったばかりの少女だとわかる人間はまずいない。よく見ればまだ幼さを残した少女だとわかるだろう。
 しかし、彼女の雰囲気はあまりにも淫らだった。
 さながら蜜で濡れそぼつ甘い淫華。
 匂い立つような色気は成熟した女性のそれだ。熟れた果実のような果汁に溢れた肢体が艶めかしい。

 決して大きいとは言えないが、年齢平均と体つきに比べれば豊かに張った乳房が激しく揉みしだかれる。その愛撫はあまりにも乱暴で、まるでむしり取ろうとせんばかりだった。そのたびに、顔を歪ませてマユミは喘いだ。

「ふぁ、ひゃぅん…う、ぅくっ、ん、うっ、うっ、うっ、うぅっ。
 む、胸を、いじら、ないで……ひっ、ひどい。
 …痛い、痛いです。ひぅ、ひゃぅぅ」

 本音の苦痛に顔を枕に埋め、シーツを強く掴んでマユミは苦痛を必死にこらえる。
 そんな彼女の様子に底意地の悪い笑みを浮かべ、男は赤黒いナメクジのような舌を、屹立したピンク色の乳首に這わせた。散々に弄ばれているのに、いまだに色素沈着のない綺麗な乳首が舌に絡み取られていく。

「やっ……はっ、ふぅん、ぅぅ」

 形を保ったまま火照った乳首が柔肉にうまる。瑞々しい乳房を襲う刺激に、マユミは鼻に掛かった泣き声を漏らした。
 男は舌先から根本までにかけてゆっくりゆっくり、味蕾の一つ一つで味わうように唾液をなすりつけていく。

 ぺちゃり、ぐちゅ、ちゅる…。

 綺麗な楕円を描く乳首と乳輪を一息に吸い付かれ、コリコリと舌で転がされる鮮烈な感覚にマユミの体が激しく痙攣した。肌に粟を生じさせながらも、彼女は寒さではなく暑さを感じる。
 恥辱に耐えながらも、マユミはガムシロップの風呂に浸かったように甘くとろけていく。惚けた目は力無く虚空を映し出していた。
 敏感な体に強烈すぎる刺激。嫌悪しても陵辱される恐怖に興奮してしまう。
 彼女の心に濃密な霧がかかっていく。

「あ、うううっ。ううぅ、うぅ、う。いや、こんなこと、いやぁ、信じられない…うぁ、あぁぁ」

 この刺激は、もはや苦痛と言い換えても過言ではない。
 男が体を動かす衝撃が、ズンと重くマユミの芯を揺るがした。衝撃の原因たるグロテスクな一物がぬらぬらと濡れ光りながらマユミの淫唇から半分引き抜かれた。滴らんばかりに溢れた蜜が、結合部から漏れ落ちてシーツの上に染みを作る。
 そうでなくとも2人の体から流れた汗を吸って重くなったシーツは、蜘蛛の糸のようにマユミの体にまとわりついた。

「ひぃぃん、ひぅん! ひっ、ひっ、ひっ、ひぃ。
 あうぅ、ひっ、死ん、じゃいます…お義父様、もう、もうか…勘弁して、下さい。ああ、奥に…」

 上に乗った義父の体を押しのけようとするように、仰向けになっていたマユミの裸体が弓なりに反り返った。膣奥の敏感な部分…Gスポットにグロテスクな亀頭が鍵盤を叩くようにぶつかる。

「はひっ。ひっ、ひぃっ。やぁぁ、もう、いやぁぁ…」

 引きつった首筋が官能のうねりにぶるぶると震え、涎が口元の黒子の横を流れ、滴のような汗がこぼれ落ちた。一際紅くなった頬に負けないくらい熱を持った息が溢れた。
 そして秘所はきつくゆるく吸い込むように一物を締め付けた。柔らかい襞が同化せんばかりに絡みつく。

「うおっ、締め付けおる。この、商売女が」
「ひ、酷い、です。そんな、こと…あふっ!? く、んんっ、んああっ!
 ひゃぅん、ひゃう! ああん、あんっ! っ…っ…っ!!
 はぁぁ…こんな、こんなのぉ」

 今のマユミはまともな言葉を話すことも出来ない。拒絶を口にしたいのか、それとも純粋な快楽に声を喘がせたいのかもわからない。
 喘ぎ喘ぎに体を小刻みに痙攣させ、罠に捕らわれた兎のように無力に、ゆっくりと義父が腰で「の」の字を書くのを受け入れていた。義父は肉棒の全てで、マユミの膣を全て犯そうとするように殊更ゆっくりと腰を動かす。快楽の狭間に囚われた虜囚…それが今の彼女の呼び名に相応しい。

「あぐぅぅ、んぅぅ…くぁぁ………ぁ…ぁぁっ。ふぅ、ふっ…ふっ……くぅ、んっ」

 正座した後、痺れた箇所を執拗につつかれた感覚が似ているかも知れない。ただし、それは不愉快なものではなく、ひたすらに心地よい物だったが。
 ズクンズクンと音がしそうなほど芯を貫かれて、細胞一つ一つがばらけ、快感という蜜の壺の中に浸されていく…。普段なら嫌悪を抱くだけの加齢臭も、どこか愛おしい。
 ぐちゅりぐちゅりと淫靡極まる水音を響かせながら、涎を垂らして悶えるマユミの顔は決して美術館に飾られることのない淫らな美の女神だ。

「くくくっ、どうした?
 もっと声を出せ。声を殺すな。
 そんなことではモモコに相手してもらわないといけないぞ」
「……ぁっ、ぁぁっ。そ、それは…ダメ……。す、すみません。
 ああ、出します、声…出しますから。あうあぁぁ!
 ひっ、ひんっ。きつい、あああ、くるし…ううぅ。
 わ、わたし…私を、もっと、好きにして下さいっ、ああ、い…い……ゃ。
 ううっ、もっと、もっとぉ」

 一瞬の躊躇の後、マユミの足が獲物を捕らえる蜘蛛の足のように義父の腰に絡まり、南京錠のようにしっかりと締め付ける。そのままマユミはぐいぐいと腰を押しつけると、自ら円を描くように腰を動かした。
 重みに苦しみ切なそうにだが一生懸命マユミは腰を動かす。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁぁっ…あっ! あ、あん! あはぁん!
 気持ち、良いです…」

(だめぇ、こんなの…でも、ああ。もっと、もっとはげしく、はやく。動いて…ください)

 覚悟を決めた彼女だが、皮肉にも義父は動きをより緩慢にしていく。
 強烈な刺激だが、ゆっくりゆっくり…気が狂いそうなほどゆっくりとした義父の動きは、淫らに改造されたマユミを本当の絶頂に至らせてはくれない。その手前の状態にいつまでも彼女を捕らえ続けた。

 いかせてほしい!

 それだけを考えてマユミは体全体で義父の体にしがみついた。体中をぴったりと密着させ、背中に回された彼女の手は愛おしげに弛んだ体をはい回る。
 一瞬、醜くえぐれた脇腹の傷を手が撫でたとき動きが止まったが、すぐに何事もなかったかのようにマユミの愛撫は続けられた。快感の涙にカモフラージュした悲しみの涙を流しながら。

(いや、いやなの。こんなの、こんなこと。でも、でもっ)


 愛憎、悲哀、恐怖。

 様々な感情がマユミの心を千々に乱す。
 嫌で嫌で仕方がないのに。殺したいほど憎んでいるのに。
 この男に犯されることを受け入れないわけには行かない自分がいる。
 そして、熱病のような快感に犯され、ただ甘い声を上げて身悶える自分を見つめる冷静な自分がいた。

「生意気にも…い、おおっ。ミミズ千匹カズノコ天井とは、まさに!」
「ふぁ、ああっ! ―――っ!?」

 吸い付くように絡みつく肉襞の感触に堪えきれなくなったのか、唐突に義父は腰の動きを円運動から、杭打ち機のような激しい前後運動に切り替えた。先ほどまでのような無駄口を叩くことなく、食いしばった口元からは絞め殺された豚のような呻き声が漏れる。血走った目がゆさゆさと激しく揺れる乳房を睨み付けた。
 彼の好みからすると些か大きいが、彼は迷うことなく桃色の乳首を口に含んだ。

「ひゃっ、ああん、胸…いやぁぁ。そんな、舌で…あぎぃっ、か、噛まないで…下さいぃ」

 マユミの悲鳴を無視し、舌先でコロコロと転がし、甘がみしながら彼は痺れそうな刺激が股間から全身に広がる感覚を楽しんだ。
 そして左腕は下腹部に伸び、控えめに盛り上がったクリトリスを指先で摘み、押しつぶすように力を込めた。

「あう、あうぅ、あああうぅぅぅぅっっっ」

 ビクン、ビクンと大きくマユミの体が跳ね上がり、クリトリスを摘んでいた指先にトロリとした蜜が擦り付けられた。

(くず女の癖に、ここは、相変わらず! くそっ、もう少し楽しんでいたかったが…)

 腰の動きがよりいっそう激しくなり、グチョグチョグチョと溢れる蜜が水音を立てて茂みを湿らせ、泡立ちながらシーツにこぼれ落ちる。
 彼も限界が近いのだ。

「ほれ、いくぞ、いくぞ」

 ぎっ、ぎっ、ぎっ…ギシギシギシギシ

 乱暴な動きにベッドのスプリングとマユミが悲鳴を上げた。

「ひゃああぁぁぁん! うぁっ、あっ、ああっ、お義父様、お義父様ぁ。
 ふ、深い、当たってる…ぬ、抜い…ううっ。
 ああ、ああっ、く、苦しい…。ああっ……くっ。
 はぁあ、んくっ。い、っちゃう…わたし、うぐぅぅ」

 義父の体重に肺の空気を押し出され、顔を紫色にしてマユミは喘いだ。邪念を貯めた義父の体は重い。ぐちゃぐちゃと乱暴に膣の中をかき回されたマユミの体が、痙攣したように震えた。全てが性感帯になったように高ぶったマユミの体は、相手のことを思いやらない義父の交合であっても激しく反応した。
 背中に回された手が爪を立てないようにぎゅっと握りしめられる。義父の手が指の隙間から乳肉が漏れるくらい強く乳房を掴み、噛み切らんばかりに強く乳首を噛みしめた。
 耐えがたい痛みと痺れるような快感にマユミの呼吸が一瞬止まった。
 銀の滴をこぼしながら反射的に上体を起こして義父の首筋に顔を伏せ、マユミは深い溜息のような息を吐いた。ビクンビクンと空しく痙攣する。

「ああ、やめて…なかっ……は、い…や、です。う、はぁぁ!?」

 マユミの意志に反し、肉襞はヒクヒクと蠢き、義父の浅黒い肉棒を締め付けた。ビクン、ビクンと義父の体が小汚く痙攣し、悪魔に呪われた…いや祝福された白濁液がマユミの胎内に溢れんばかりに吐き出された。
 腹の奥が熱く重くなる感覚でそれを悟ったのとほぼ同時に、マユミもまた体を弛緩させて長く切ない悲鳴を漏らした。

「あぁ、あん、ああっ、あんっ…………ひっ。うあ、おあぅ。
 ひぅ……い、きゃあああ〜〜〜〜っ!」

 自分の意志で止められない震えが走った刹那、突き放すように手と足をほどき、彼女は力無くベッドに横たわった。そのまま顔を横に背け、荒く激しい息を吐きながら汗の滴が溜まった胸を上下させる。

「ああ、はぁ、はぁ、はぁ、あ…はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……はぁん」
「………ふん。この売女が」

 荒い息を吐きながら、義父は毒づくことを忘れない。つい先ほどまで、蝶の蒐集家が蝶に耽溺するようにマユミに溺れていたことを否定するように乱暴に立ち上がると、汗も拭かずにベッドから下りた。急な動きとおもりから解放されたことでベッドが大きく軋み、蜜で彩られた肉棒が引き抜かれた刺激にマユミの体が小さく震える。

「ひ、ひゃぅ」

 眼鏡の奥の小さく震える目で義父の背中を追いながら、思い出したようにマユミは熱い滴を溢れさせた。眦を通ってこぼれた滴がシーツに新たな染みを一つ、二つ。

(また、また…こんなこと、私は)

 どんなに嫌悪しても、時には舌や唇を噛みしめる苦痛で耐えようとしても、どうしても最後はこうなってしまう。
 自分の体なのにままならない。自分が自分でないみたいだ。
 快楽の虜になって自ら腰を押しつけ、しがみつく。
 そして今もジンジンと響く痺れに身を委ねている。
 あの瞬間だけ、今の自分の境遇と狂気じみた悲しみを忘れていられる。

(やめないで…私を、正気に戻さないで)

「あうっ、うっ、ううっ、ふぐっ」

 正気に戻り、先ほどまでの痴態を浮かべていた自分を思い返してマユミはさめざめと泣いた。

 タオルを腰に撒いたままの姿で、泣きじゃくるマユミを小気味よさそうに義父は見ていた。だらしなく股を開いたまま、黄ばんだ精液を狂女の涎のように秘所から垂らす姿がよく似合っている…などと最低なことを考える。
 既に日常となった風景だ。身も世もなく、犯されたことで泣きじゃくるマユミを見て楽しむ。彼には最高の娯楽と言えた。


「…ほら受け取れ」
「う、ううっ。あ、ありがとう………ございます」

 にやにや笑いを浮かべたまま、汗みずくの彼女の上に無造作に高額紙幣をばらまく。
 お前は淫売だ。
 そう彼女の心に刻み込むためだ。

 マユミを余計に苦しめるためなら彼は何だってするつもりだった。実際、彼から見ればマユミは自分の体を売っているのとかわりはない。たとえ妹の身の安全と引き替えだったとしても、大した違いがあるわけではないのだ。

 そのうち、外で適当な浮浪者を拾ってマユミを抱かせてみるか。あるいは犬でもあてがうか。
 いずれにしても、もう少しマユミを楽しんでからだが。
 東西を弁えない夢想に、彼は顔を歪めた。本当に楽しくて仕方ないのか、その笑みは恐怖さえも感じさせる邪悪で満ちていた。

(いいざまだ。あいつの娘が俺に抱かれて腰を振る)

 泣きながらマユミが紙幣を拾い集めるのを見るのは最高の余興だ。














 散々になぶられて、いじめられて1年がすぎた。
 あの男は、わざわざマユミが嫌がるようなことを好んでしたがった。キスされるのを嫌がっていると気がつけば、唾液にむせるほど濃厚なキスを行い、屈辱を感じて後背位を泣くほど嫌がれば、わざわざ後背位で犯すことを好んだ。
 どこか狂気さえ感じさせる執拗さだった。
 いずれは先の夢想のように、彼女の人としての自我が壊れてしまうようなことだって平気で行っただろう。

 その才覚で実業家として、政治家として社会的な成功をしたが、その実、その全ては親の七光りで受け継いだ物と見られてしまう。彼自身の成功と見られない。決して満たされることのない、底なしの壺みたいなものだ。

 そんな精神的充足が得られないことが彼を暴走させてしまったのか。
 今となっては答えを知る由もない。それに、マユミは知りたくもない。
 暴走する理由を知ったからって同情するなんてまっぴらだ。
 過去がどうあれ、彼はマユミを憎しみで思う様弄び続ける憎い相手に違いがないのだから。





 あれは誰にも言えない生活が始まってから半年ほど経った頃だったか。


 溜息をつきながらマユミは変わってしまった自分の体に困惑した。

 三面鏡に映る白い裸体を言葉もなく見つめる。
 母が残してくれた数少ない遺品。母はどんな思いでこれを残してくれたのだろう。

 鏡に映った自分が、死んだ目をして見つめ返していた。

 上着を脱ぐたびにこぼれ落ちる重い乳房は、豊かに成長していた。
 ただ大きくだらしなく垂れているのではなく、成熟しながらもツンと軽く上向いた形を保っている。乳首は桜の花びらのように薄いピンクを保ち、下品でない大きさの乳輪は淡く色づいていた。
 数ヶ月前までサイズがぴったりだった制服は、既に少しきつくなっていた。
 太ったわけでは勿論ない。
 ふくよかではあるが太っていると言うほどではない。いや、柔らかな脂肪は最高級の羽布団のように薄く彼女の体を覆って、大人びた色気で魅力的にしていた。

 受け入れがたい事だが、未成熟な少女の体から大人の女に変わろうとしている。

 丁度第2次成長期に重なったこともあるだろう。あの男を受け入れたことで体が馴染む…つまりは大人の体に急速に成長していっているのだ。
 今や匂い立つような色気が衣服のように彼女の体を包んでいた。普段は地味な衣服に身を包み、生真面目な心の鎧で隙間無く全身を包んでいるから周囲にはばれないが…。
 性格がもっと明るく、よく目立つ女性であったとしたら、どれほどの人の目を引いたことか。がさつで粗野な男だったら、体の一部をさぞ堅くして、彼女を薄暗い物陰に引きずり込む方法がないか無い知恵を絞ることだろう。

(…どうして、こんなことに)

 鳥肌の立った体は温もりを求めて精神に抗議をしている。
 あの男の愛撫が欲しいというように。舌を温もりを。
 マユミの全身は、あの男の指と舌が触れていないところはない…というくらいに弄ばれた。
 義父の言うとおり、肉奴隷へと変えられていっているのを感じる。
 嫌悪と憎悪は変わらず、いや火に油を注ぐように強くなって行くが、それに反比例するように体の防壁が崩れていく。近頃では自ら秘所に腕を伸ばし、ピアニストのように繊細な指先が淫らに蠢くことに気がつくことがある。その時夢想しているのは、あの憎んでも憎み足らないあの男の感触。

 気がついたときには甘い喘ぎをあげ、自ら腰を振っている。
 もしかしたら、自分は普通の女の子ではないのかも知れない。

(わたし、どうなっちゃたの、かな)

 鏡に映る自分の顔を撫でながら、マユミは年齢不相応な重い溜息を吐く。
 父と母と、そして自分自身の仇なのに、妹を毒蛇のような目で狙う男なのに、無言で肩に手を乗せられるとそれだけで体が熱くなっていく。ほんの数分の愛撫で、直前の心構えが嘘だったように全身が痺れて濡れてしまう。
 馴染んでいる自分が無性に悲しく、嫌だった。
 憎い相手に犯され身悶えているという、自分の状況にどこか酔っていた。




 そして対外的には、あの男の娘としてそれにふさわしくなければならない。

 あの男を敬愛するふりをしなければならないなんて!

 どんなに公衆の面前で罵倒したいと思っても、大好きなお父さん。尊敬できるお父さんと言わなければならず、狂いたいと思っても周囲がそれを許さない。人の前で良くできた娘と褒められたとき、肩に手を乗せられたときどれほど叫びだしたかったことか。

 彼女は1人でいるときには、ますます本の世界に逃避するようになっていた。
 少なくともその時だけは自分という存在を忘れて本の中の登場人物になっている。
 しかし…。
 心の防壁を作っていても、その内心とは裏腹に体は肉欲に負けて、自分からあの男を求めるようになるのかも知れない。そして冷静な自分は、悶える自分をどこか遠くで見つめているのだ。本の中の登場人物を見るように。

(いやなの、人の心をのぞくのものぞかれるのも)

 この頃には、マユミは自分が他者にはない特異な能力を持っていることに気がついていた。こんな能力、無ければこんなにも苦しまなかったのに。

 その気がなくても人の感情が流れ込んでくる。
 知りたくもなかった黒い黒い、夜の森のような心も。

(自分も嫌なの)











 彼女が15歳、高等学校2年の冬―――

 運命の流転はあっけない。

 雲一つない寒々とした空が高くなったその日、いつになく胸騒ぎがした彼女は学校を早退していた。

 重要な仕事があり、2週間家を空けていたあの男が帰ってくる日だ。
 今日はハウスキーパーなどの使用人は一時休暇をもらっている。つまり、家の仕事やあの男の身の回りの世話は自分がしなければならない。
 あの男はシャワーを浴びるついでに自分を犯そうとするだろう。マユミの全身をスポンジ代わりに、自分の体を洗わせるのだ。

(やだな…帰りたくない)

 最初は義父の要求に最初は拒絶し、妹のことを言われてからは涙を飲んで唯々諾々と従っていただけだったが、今は義父の高ぶりに負けないくらい自分も高ぶるようになっている。
 興奮に色づく白い双丘を、染み一つない腹部や太股を泡まみれにして擦り付けたとき、その時の感触を思い出すだけで、知らず知らずに高ぶるマユミがいた。

 義父に対してはもちろんだが、今では自分自身に恐怖すら感じている。
 その内、体を擦り付けているだけで自分は軽く絶頂を迎えるかも知れない。

 憂鬱な気持ちは空とは対照的に晴れることはない。









 今日もまたそうして犯されるんだろう。
 しかし、その日はいつもと様子が違っていた。

 玄関をくぐったその時、マユミは異常を悟った。人気のない家の中で、よどんだ闇の熱気が感じられる。地獄の顎もかくあらん。
 紺のブレザーの下で体が震えた。
 空気の匂いが違う。ぞわぞわと背筋を虫が這いずるような嫌悪感がする。

(なにこれ、なんなの? なんなのこれ)

 暗い精神の奔流に意識が圧倒された。
 吐きそうな恐怖を必死に飲み込み、通学鞄を放り出し、靴を脱ぐ間も焦ってマユミは走った。指し示された道標があるかのように迷うことなくとある一室に向かう。
 それは…義父の書斎だ。
 意匠を施された重厚な扉の向こう。なにか声が聞こえてきた気がした。

(ちがう、ちがいますよね。違う…よね。だって、私は大人しく言うことを)

 どっどっどっと、痛いほどきつく心臓が高鳴り、気が遠くなりそうな寒気を感じているのに汗が止めどなく流れた。

『……%! #∨∽! おとなしく…』

『………Å÷℃¥&@*!! や、やめ…いや』

 廊下の端に到達したとき、彼女の耳にくぐもった少女の悲鳴と低い男の声が聞こえた。
 最悪の予想が当たってしまったことに、一瞬マユミの意識が遠くなる。しかし、ここで貧血を起こして倒れるわけにはいかない。
 ノブに手をかける。鍵は掛かっていなかった。
 瞬きする間もなく扉を壁に叩きつけるように押し開けた先には…。








「くそこのじゃじゃ馬め! 大人しくしてろ!
 また殴られたいのか!?」
「いや、いやっ! 嫌だって言ってるでしょう! 離して、こんなの! あっ、お姉ちゃん!」

 殴られたのか紫色に頬を腫らし、床に押し倒された妹が泣いていた。苦痛と恐怖で泣きじゃくりながらも、勝ち気な妹は必死の抵抗をやめようとしない。
 まだ11になったばかりの、華奢な妹の体が無下に押し倒され、まるで着せ替え人形のように見えた。制服が可愛いと喜んでいた中等学校のセーラー服は、見るも無惨な有様だった。
 そして妹の上からのし掛かり、どうにかスカートをまくり上げ、下着をむしり取ろうと奮闘する義父の姿があった。焦ったのか、脱ぎかけた途中のズボンが邪魔になり欲望を満たすことが困難になっている。
 妹が着せ替え人形なら、でっぷりと太ったあの男は不気味なハンプティ・ダンプティ人形だ。
 こんな時でなければさぞや滑稽な姿だっただろうに。

「なっ…なっ、なんで」

 あまりにも傍若無人で予想通りの光景にマユミは言葉を失った。魂を奪われるという物言いがあるが、今のマユミがまさにそれだった。よろよろとよろめき、扉に縋るようにして体を支える。何かきっかけがなければ、息を吸うこともできない。
 マユミの行動を促したのは妹の悲痛な叫びだった。

「お姉ちゃん助けてッ! おじさんが、おじさんがおかしくなったのよ!
 こんなのやだぁ!! やだやだぁ! やだってば!」

 妹の叫びが遠くから、街宣車の宣伝のように聞こえる。声だけは大きいが言っている意味は1%も脳に伝わらない。
 虚ろな目をしたまま絞り出すようにマユミは呟いた。

「…これは、なんなの」

 血を吐くような思いに引き裂かれ、なぜか両目から涙が止め処なくあふれ出す。なぜだろう。いつかきっとこうなる日が来るとわかっていたのに。
 胸が裂ける嘆きがマユミに自覚させた。
 自分は当の昔に奈落の底にいたと言うことを。間違っていた。
 義父の言いなりになり、奈落の底に落ちない努力をしたって無駄だった。
 彼に抵抗し、這い上がる戦いをしなければいけなかったのだ。

「なんで、なんでですか…?
 私は、大人しく、あなたの…お義父さんの成すがままだったのに。あなたの望むことは、どんなに恥ずかしいことでも…。
 これは、悪い…夢なの」

 義父の答えはまるで見当はずれなものだった。

「おぅ、マユミか。丁度良いところに来た。
 手伝え! はやくモモコの腕を押さえつけろ!」

(どうして?)

 女の願いは神の願い…マユミは信じていたかった。
 こんな辛い目にあっていても、いつか、幸せに思える日が来るだろうと、本気で信じていた。自分がいて、妹がいて、仲良く助け合って生きていく。そのためなら、もしかしたら、義父を愛したって良いとさえ思っていたのに。

「お姉ちゃん…」

 妹が状況を忘れて息をのんだ。兎のように無垢な瞳が怯えて揺れる。
 見開かれたマユミの瞳の映る生の感情を敏感に察知して。

「裏切った…。嘘をついた…。みんなみんな私を裏切るの。
 期待させて、その気にさせて、最後にいつも私を裏切る。
 私はもう、信じない、希望なんて嘘なんだわ」
「何をブツブツ言ってる! 早く手伝え売女!」

 義父の腕が持ち上げられ、振り下ろされる。
 こめかみを堅い物がかすめていった。ごとんと重い音を立ててクリスタルグラスの灰皿が、レンズにひびが入った眼鏡が転がり落ちる。
 しかしマユミは血が流れたことにも眼鏡が外れたことも一切気にせず、虚ろな目をして再び義父と妹に目を向けた。義父が再び何かを叫んだが聞こえていない。聞こえていたが脳に意味が伝わらない。
 マユミの小さな手に、棚の上に置かれていた象牙のペーパーナイフが野獣の牙のように煌めいていた。いつ手に取ったのか全く記憶にはない。
 まるで最初からそうであったかのように、きつく、きつく柄が握りしめられる。そう、このナイフはこの時のためにあったのだ。そしてナイフは本当の目的を果たすことを望んでいる。
 血走った目とは対照的にマユミの心は澄んでいた。
 闇の滴のように。

 あの男は墓穴を掘った。
 今この家には、広く防音設備が完備されている家にはマユミ達しかいないのだ。


「あなたなんていらない」

 迷いはなかった。



















(う………ここ…は?)

 全身を包む心地よい温もりと、柔らかい刺激に包まれていた。見えない手に支えられてるような浮遊感は、まるで子宮の中で母の温もりに浸っていた時を思い出す。暖かい液体が周囲に漂い、傷ついた彼女の体を優しく愛撫し、癒していく。
 半分夢の世界に沈んだまま、ゆっくりとマユミは目を開けた。

 最初に飛び込んできたのは薄赤く染まった天井だった。

(血…!?)

 恐怖が蘇り、穏やかに動いていた心臓が急な負荷に抗議の声を上げる。
 想像を絶する恐怖は彼女の副腎を酷使し、大量のアドレナリンを分泌させた。
 しかし、アドレナリンがもたらす鎮静効果は全く効果を持たず、逆に彼女は心臓の鋭く小さい痛みに息を詰まらせた。
 蘇る悪夢の幻影にパニックになって手足が振り回され、断末魔に呻くように恐怖というエッセンスで満たされた指先が虚空を引っ掻いた。

「いやああああっ!? いやっ! いやっ! いや―――っ!!」

 あの生物が手を伸ばしてくる。
 腐った体を擦り付け、汚液をなすりつけてくる。
 舌は蛇のように全身に絡みつき、異形の生殖器が拒絶と抵抗を槍のように貫いて――。

「助けて、助けて! もう嫌、嫌です! こんな、こんなの嫌!
 あぁぁっ、し、シンジさん! 見ないで―――」

 いつしかあの生物の顔は義父…万田マサオミの顔になっていた。
 逃げても逃げても、前向きになって戦おうとしても、結局自分はあの男に囚われる定めだったのだ。手足は萎んだように力を失い、身動きできないまま蜘蛛のような指に囚われ弄ばれ、そして今度こそ逃げられない。
 マユミにとって、義父は恐怖の象徴だった。
 いや、過去形で語ることは出来ない。今も恐怖の存在なのだ。
 たとえその死を確認したとしても、彼女は暗闇に影を見ては恐怖にわななき続けるだろう。あの男は不死身なのだ、常に邪悪な欲望に身を浸し、毒蛇のようにのたうちながら彼女を不幸にし続ける。

 痛い―――。

 心も体もなにもかも。全てが視界と同じように赤く染まっていく。

 どこか遠くで耳鳴りがする。
 これが黄泉で吹き続ける風の音なのかも知れない。


『落ち着いて下さい山岸曹長』
「いやっ、いやいやっ! シンジさん助けて、助けて!」
『落ち着けって言ってるでしょうが』
「ふぇ?」

 第三者の声に我に返った。同時に適量注入された解毒剤がショック死寸前だった彼女の体を沈静化させた。

 戦慄く目が、ようやく正気の光を持って天井を見上げた。
 白く健康的な照明の光だけが目に飛び込んでくる。
 天井に奇怪な生物は張り付いてはいない。


「あ、あれ…わたし、まだ、生きてる」


 明るい照明がメディカルボックスの中に横たわっている自分の顔を照らし出していた。ほぅっと小さく息 ――― 肺に溜まったLCL ――― を吐き出し、マユミは再び目を閉じた。

(あ、わたし、確か…あの生き物を、銃で、撃って…。それから、どうしたの?)

 夢の記憶が蘇る。

 赤い闇が視界を覆い、血塗れた不浄の空気で息を詰まらせた。
 あの後、彼女は緊張と疲労のあまり気絶してしまった。実際、乱暴な生物の陵辱で著しく負傷していた。
 体はともかく、並の精神なら、そのまま数時間は意識がないままだったかも知れない。
 しかし、良い意味でも悪い意味でも不幸慣れした彼女はほんの数分で意識を取り戻した。
 その時の記憶はほとんどない。
 ゼリーのように固まりかけた体液の混合物を全身にドレスのように張り付かせ、医務室によろめきながらもたどり着いた。心が遊離したように、そんな自分を見ていた気がする。
 そして、最後の意志の力を振り絞ってMAGIを再起動させ、蓋が開いていたメディカルボックスに倒れ込んだ。そのとき痛打した膝の痛みを覚えている。

(ああ、そうだわ。思い出した)

 奇妙に澄んだ目をして、マユミは呟いた。

「MAGI…私の声が聞こえる?」
『聞こえます』
「そう。なにが…どうなったの? よく、覚えてないから…教えて欲しいんです」
『………』

 言い淀むMAGIを促すように、マユミは静かに目を閉じた。

『記録の検索結果を報告します。
 基準時154219に山岸曹長と敵生体が山岸曹長の私室で接近遭遇、交戦状態に入りました。
 基準時162542に山岸曹長が敵生体を撃破。
 基準時162759に敵生体の生命反応(キルリアン反応)の停止を確認。
 基準時163308、山岸曹長が医務室に到着。高次元検査の結果、負傷、生物汚染を確認。
 基準時163355、直ちに第三度医療プログラムを実行。
 基準時170534、山岸曹長の意識の覚醒を確認。
 現在に至ります。
 あなたはここにたどり着いてから31分39秒間意識がありませんでした。
 擦傷、いくつかの打撲、全身疲労などがありましたが、全身洗浄後のプラナ鳴動波照射、磁気振動治療、LCL透過、人工透析、活性化ウィルスの注射により既に完治しています。
 なお…体内の異物の除去、経口部、生殖器官全般、および胃の洗浄は完了しています。生物汚染の心配はありません』

 最後の一言にマユミは脱力した。常に最悪の事態を考えるネガティブな思考の彼女は、もっと酷いことになっていても驚かなかったが、生物汚染…つまりは妊娠の心配がないと聞かされてほっとしたのだ。
 そんなことは絶対にごめんだ。

「そうですか。なんでも、なかったんですね。良かった」

 高濃度のLCLの中でマユミはぎゅっと手を握りしめた。
 痛みはない。これなら…戦える。
 助けに行くことが出来る。

『…撤退する気はありませんか?
 先ほどの記録を分析しましたが、やはり山岸曹長が洞木隊員以下を救出できる可能性は1%もありません。今は情報を司令部に届けることが最優先だと判断します』

 言いにくいことをハッキリ言ってくれる。
 嘆息するとマユミは目を閉じた。

「治療が終わるまで、あとどれくらいですか?」

 小さなノイズが聞こえた気がした。もしかしたら、それがMAGIの溜息だったのかも知れない。
 隊員の中でもっとも気が弱く、幸薄く、自分の価値を低く見て、周囲に流されるように生きていると言われるマユミだが、どうしてどうしてかなり頑固だ。犠牲的な女性であるのは間違いないが、そのまま周囲に利用されるだけの都合のいい人間として押しつぶされなかったのは、この頑固さのおかげだったのかも知れない。どうしてどうして、見た目とは裏腹に強くハッキリとした芯を持つ女性なのだった。
 それはそれなりに長いつき合いでもあるMAGIにはよくわかった。傷が付きそうなほどハッキリとメモリーに書き込まれている。
 滅多に意見を言うことはないが、意見を言ったときの彼女は隊員随一の頑固者だと。

「どれくらい?」
『あと4分19秒で治療は終了します』
「そうですか。まだそんなに…。なら、それまでの間に神経加速剤を300単位で用意しておいて下さい。それからAレベルの活性化ウイルス注射、治療用ナノマシン注射を人数分」

 いずれも治療用の薬剤だが、骨まで達する切り傷を数十秒で塞いでしまうほどの治癒効果を持っている。効果は折り紙付きだが極めて高価であり、なおかつ使用者を著しく疲労させてしまう。

『…今期の部隊予算を使い果たしてしまいますが』
「かまいません。出し惜しみはなしです。足りないようなら私の個人用クレジットでも何でも使って下さい」
『それでも足りませんが了解しました』
「私は治療が終わり次第、装備品を用意します。10分以内にネルフに移動するから。そのつもりで準備して下さいね」

 恐怖と焦燥を抱きしめて飲み込むように自分で自分を抱きしめる。
 2つの感情がアンビバレントにせめぎ合い、マユミは様々な味にブレンドされた恐怖に震えるのを止められなかった。

 治療を待ってなんていられない。
 今すぐ飛び出して助けに行かないと。


 怖い、怖い。
 あんな恐ろしい体験はもう嫌だ。安全な所に…家に帰りたい。


 アスカ達を、友達を見捨てられない。


 自分に助けられるはずがない。


 見捨てたなんて知られたら、きっとあの人…碇シンジに軽蔑される。


 自分が大事。


 みんなのいない世界は灰色の死の世界。




『…プロセス終了しました』

 彼女の迷いに答えは出なかった。
 その前に治療が終了したからだ。
 20世紀の地球からは想像もできない技術は、骨折や著しい全身疲労なども30分ほどの治療でほぼ完治させてしまう。もっとも、治療の後きちんと休息をとるべきではあるのだが…。

(治療…終わった。き、きめ…なくちゃ)

 同時にLCLが排出され、替わって暖かい温水のシャワーが、マユミの体に吹き付けられ髪の毛一筋一筋までくまなくLCLを洗い流していく。肺に溜まったLCLを吐き戻しながら、マユミはアスカにも誰にも負けないと誇っている…艶やかで癖一つない髪の毛を撫でつけた。
 それが合図だったかのようにシャワーが止まり、続いて熱風が彼女の体から水滴を吹き飛ばし、最後の仕上げとして彼女の体を活性化させる。

「はぁ…。ケースを開けて下さい」

 空気の抜ける音と共に蓋が開いた。
 露出した肌に触れる空気の冷たさに訳もなくマユミは恐怖した。
 重たげに乳房を揺らしながらマユミは上体を起こし、肩に掛かった髪の毛を背中に流してからストレッチャーに置かれていた眼鏡を手に取った。伸ばされた手が恐怖に震える。

 フレームのないガラスの眼鏡。予備として用意しておいた物だ。
 顔を隠す役目はほとんど隠さないけれど、これをかけているときは不思議と落ち着いていられる。ある意味、彼女のペルソナ…。
 ナノマシンでとっとと遠視なんて治しちゃえ、とアスカ達はよく言うし実際に色々と不便なことも多い。
 しかし、この眼鏡は彼女の感情を隠してくれた。表に出すことを嫌悪していたイドの怪物を押さえ込んでくれる。2度とあの感情の爆発を起こしてはいけない…。
 たぶん一生彼女は眼鏡をかけ続けるだろう。
 そして、眼鏡をかけたときの彼女の意志は決まっている。

 …みんなを助けないと。

 そう、たとえ我が身を犠牲にしてもみんなを助けないといけない。
 かつてシンジが自分を救うためにそうしたように。
 マユミが自分自身であるために。


「いかなくちゃ…。助けに」


 壁から伸びる無骨な金属製の腕が、銀のトレイをもってマユミの横に音もなく差し出された。
 トレイの中には不気味に光る赤い液体が詰まった無針注射が置かれていた。

『XAION神経加速剤です。単位は300ml
 誤差5分以内で1時間、神経反応60%プラスの加速状態になると判断できます』

 とどのつまり、反射神経や動体視力などが通常の数倍増しになる薬だ。色々と意見もあるだろうが、素早く動けて反応が出来ると言うことは戦いにおいて極めて有効なことになる。
 しかし…。

『ですが投与は勧められません。
 ご存じの通り、苦痛やその他の感覚まで60%上昇します。しかも、肉体の加速が解けても、精神の加速は更に数時間持続します。その間、行動に致命的な障害が出ると言って過言ではありません』

「わかってます。わかってますよ、全部」

 言いながらマユミは首筋に注射器の先端を押し当てた。
 プシュッ と微かなガスの排出音がした直後、スポンジに水が吸い込まれる勢いで溶液がシリンダーの中から消えていく。
 痛みはないが液体が体内に流れ込む感覚に僅かにマユミは眉をひそめた。あまり愉快な感覚ではない、これっきりにしたい物だ。キスマークのように小さな痣があるであろう首を撫でさすった。
 ハッキリ言ってしまえばあまり愉快な感覚ではない。そしてこのあと来るであろう感覚を思い出すと…マユミは吐き気を覚える。

「うぐ…うぶっ」
『大丈夫ですか? まだ間に合いますよ』
「大丈夫、大丈夫です。なんでもないです、なんでもないから…。だからそんな気持ちが萎えるようなこと、言わないで下さい。
 はぁ、はぁ…。そ、それより、プラグスーツは?」

 マユミの言葉が終わらない内に、別のマニュピレータがプラグスーツを ――― 新品のプラグスーツを ――― 差し出していた。
 彼女はプラグスーツが好きではないが…選り好みはしていられない。

「…袖を通すのは2回目になるのかしら」

 色は白を基調にして、肩から先や太股から先、下腹部がピンク色になっていた。アスカの赤、レイの白、マナのオレンジ、ヒカリの黄緑もそうだが…この色使いはどうにかならないだろうか。

 外側は堅いゴムか革のような手触りを感じるが、内側、つまり素肌に直に触れる部分は寒天か何かのようにぷよぷよとした柔らかい物で薄く覆われている。その肌に吸い付くような感触にまたマユミは顔をしかめる。

「……………でも、迷ってなんて………いられない」

 大きく息を吸い込むと、躊躇わずにマユミは足を唯一の開口部、襟の部分から差し入れた。メディカルボックスの縁に腰掛けたまま、オーバーオールを着るようにまず右足を、次いで左足を差し入れる。

「ふぅ…」

 次にスーツをたくし上げ、肩に引っかけると右腕を袖に通し、指先まで差し入れてから左腕を袖に通した。場違いなことに、マユミは水泳の前に浴びるシャワーのような冷たさを思い出した。
 ただ、マユミは泳ぐのは嫌いではないため、水泳前後のシャワーに嫌悪感は抱いてはいないが。

「うう、つ、冷たいです…」

 きちんと指が動くことを確かめると、マユミは左手の手首 ――― 腕輪でもはめてるみたいに一際太くなった部分 ――― を握りしめた。
 刹那、使い古されたゴムのようにだらしなく垂れ下がっていたスーツが空気を抜かれた真空パックのようにマユミの全身に張り付いた。

「ふぅ、うぅん」

 胸を押さえつける息苦しさにマユミは微かに溜息をついた。アスカ達に比べても些か胸が強調されすぎてる気がするが…これくらいなら行動に支障はない。
 しかし、マユミは鏡に映る自分の姿に小さく溜息をついた。

(……やっぱりこの服、エッチです)

 医務室の中心で、艶めかしくも美しいマユミの体のラインがあらわになった。
 駄々っ子マナに『取ったな、かえせー』と言われるほど豊かな胸、柔らかだが引き締まった腹部、胸に比べれば小さい臀部、スラリと伸びた男好きのする足。
 見ている者は自分しかいないとわかっていても、羞恥にマユミは頬を赤く染める。穴があったら入りたい心境だった。
 スーツの特性上、それは体のラインに合わせて直に張り付けたように一部の隙無くボディラインをさらけ出している。男性隊員と女性隊員が共同任務を当たり前に行う時代、それ内気なマユミにとって耐えられる物ではないのだった。

『似合いますよ』
「…からかうのはやめて下さい」

 羞恥が彼女のプラグスーツ嫌いの理由であるわけだが、実は彼女は自分のスタイルに自信を持っていなかった。

 普段は地味な性格と服装の所為であまり知られてないが、彼女は葛城小隊の中でもトップと言って良いほどスタイルが良い。アスカやミサト、レイ達とドングリの背比べではあるのだが、いずれにしてもトップモデル顔負けのボディであることは間違いない。
 しかし自分に自信のない彼女はその事実に全く気づいていない。そうと知っていればもっと自分に自信を持つ…はずがない。前より恥ずかしがるだけだろう。たぶん。

 ともあれ、自分のスタイルが良いとか悪いとかが今の状況で重要なことであるわけもなく、直にマユミは格好を気にすることをやめた。
 徐々に薬が効いてくる感覚に戸惑いながらも、真っ直ぐに武器庫に向かった。
 そして無言のまま、自分にも扱える操作が簡単で、且つ尤も強力な武器を選ぶだした。

 装甲歩兵用標準兵器であるAR−2SS(パルスライフル)、F5型火炎放射器、XF2000グレネード、そしてそれらの弾丸と燃料多数。使えるわけではないが超振動ナイフと上半身を覆うタイプの装甲服とヘルメットも用意した。
 邪魔にならないように髪の毛の先端を一括りにまとめると、重いヘルメットかぶった。

「…欲張りすぎたかしら」

 プラグスーツの補助と低重力の助けがあっても、さすがの彼女も重さによろめいた。
 しかし、これから先ほどのような生物が多数巣くっているであろうネルフに行き、仲間達を助けて戻るためには…これでもまだ足りないくらいだ。

「…待ってて下さいね」


















 ネルフの中心部と隔絶された区画にて。
 オペレーターに呼ばれて管制室に来た男は、戸惑ったように次々と消えていくマーカーを見ていた。マーカーが何を意味しているかはよくわかっている。
 アダムと呼ばれる生物が自らの分身をとりつかせた人間、それが転じた第1世代と呼ばれる生物だ。それが次々と消えていく。つまり、彼らが次々と破壊されている、つまり死を迎えている。

「そんな馬鹿な」

 先ほどエヴァンゲリオンから最後の乗組員がネルフに乗り込んできたことは知っている。
 捕らわれた仲間達を助けるためだろうが愚かだ…と思う反面、運がいい(?)とも思っていた。もし、仲間を見捨てて逃げ出せば、エヴァンゲリオンごと焦土砲で消し飛ばしていたはずだからだ。あるいはトラクタービームで捕らえてしまうか。

 いずれにしろ、健康な母体を1人追加できるわけだからこの計画にとって最も望ましい方向になった。運命には少々同情するが。
 資料によれば、実技の尽くが赤点ギリギリで、最も戦闘能力が低いオペレーターであるはずのマユミに、歴戦の勇士であるアスカさえも捕らえた生物達が負けるわけがない。そう思っていた。

「そんな、くそっ。このままだと俺の責任問題になるじゃないか」

 どういうカラクリになっているのか、確かめなければならない。彼は死を感じさせるぬめった汗を流しながら端末を操作するように命じた。
 しかし、マユミがいる辺りの監視カメラを作動させようとしても、無為な暗闇がせせら笑うようにモニターに映るだけだった。

 丁度、彼が動作させようとした監視システムは、偶然にも(?)流れ弾が直撃して完膚無きまでに破壊されていた。そしてそれが致命傷になったのか、それ以外の緊急装置、催眠ガスや自動攻撃システムも一切作動しない。











 絨毯爆撃の現場のような有様の通路を背中に、マユミは苦痛の悲鳴を上げてのたうつ生物にトドメの火炎を浴びせた。肉の焦げる匂いに顔をしかめつつ、マユミはどこかサディスティックな感情に身を委ねていた。
 虐げられてばかりの人生だったが、何かを蹂躙するのも、これはこれで楽しいかも知れない。

「N2弾はやりすぎだったかしら?」

 などと言いつつ、マユミは全く気にしていない。











「宇宙船内部でN2弾を使ったのか!? 銃殺モノのことをあっさりするなんて、正気かこの娘は!!」

 外壁まで穴が空かなかったのは、中枢に致命的な損傷が出来なかったのはまさに奇跡だ。
 分別がないぶん、ある意味あの男や生物以上に恐ろしい。

 責任者であるあの男…碇ゲンドウがいない今、なにか手違いがあったら責任をとらされるのは彼だ。死より恐ろしい運命が待っている。彼がああなるまいと胃に重い物を感じながら見守ってきたいくつもの消滅と誕生だ。

 すなわち、あれら第1世代と呼ばれる生物の素体にされること。
 ネルフ乗組員や拿捕した宇宙船の男性乗組員が、恐怖の悲鳴を上げながら脳を食らわれていく光景が目に浮かぶ。彼は犠牲者の意識をハッキリさせたまま寄生される光景を見ていた。

 絶対に嫌だ。


 そうこうしてる間にもマユミは的確に前進し、待ち伏せや不意打ちを行おうとする生物をまるで最初から知ってでもいるかのように射殺していった。すでに10体以上の生物が倒されていた。そしてアスカ達が捕らわれている場所へと進んでいく。

「いくらなんでも的確すぎる。そうだ、確か彼女は!」

 テレパシスト。

 せいぜい感情を読みとるレベルだが、強烈な悪意を持っている生物がどこにいるのか悟るくらいは出来る。
 そしてこれまでの戦闘記録から、生物達は不意打ちや奇襲などでは圧倒的な戦力を持っているが、それと知っている相手の場合、さほど手強い敵ではないのだ。力は強く異常に強い生命力を持っているとしても所詮は人間の体だ。
 銃器を用いれば簡単に倒すことが出来る。急所が知られているとなればなおさらだ。

「くそ、このままだと全部倒されちまう。いや、それはまだ良い。もしあいつらを助けられでもしたら!」

 第1世代の寿命は短い。ほっといてもあと1週間もすれば全員死亡してしまうだろう。だからこそ、損害を考えない物量戦が出来たのだ。だから生物達が全滅されたってどうでも良い。

 だが、アスカ達が救出される…そんなことになれば。
 そもそも、マユミがアスカ達のいるところに行くと言うことは、必然的にアダムに出会うことになる。完全体でないアダムはプラスチックのスプーンを持った5歳児にだって倒せるような弱々しい生物なのだ。ましてや銃を持った相手では、プリンを指で突き崩す以上に易々と核を打ち砕かれてしまう。

 結果として、彼はネルフを破壊する決断をしないといけないだろう。
 目的のためにはやむを得ない。
 しかし、この計画に関わる最高幹部4人が、それぞれ異常な執着を持っていた4人の娘を殺してしまうことになる。
 それは結局、彼の無惨な転生という形で贖われるだろう。
 彼は初めて神の存在を祈った。

「あと1日で完全体になるし、第2世代も育成が終わるのに!
 ああ、神よ! なんとか、あの娘をあの娘を!」

 神が聞いたら何を馬鹿なと笑うだろう。なにより犠牲者達には業腹というものだ。

「く、くそっ。どうすれば、どうしたら…」

 男は苛々と爪を噛む。そうこうする内にまた生物のマーカーが一つ消えた。残る生物はあと10体。
 マユミがどれくらいの装備を持っているかは知らないが、今となっては10体そこそこで彼女を倒せる可能性はかなり低い。
 着々と前進するマユミは、アダムのいる部屋へと通じる扉の前まで来ている。

「………うううっ、そうだ!」

 今マユミがいる近くの部屋には、ある実験の産物が眠っている。生物の限界を計るための実験を行ったが、その結果、目を背けるような怪物が生まれたのだ。それは完全にアダムの制御から外れ、強烈な本能に引きずられたまま蠢く。

 そいつに駄目にされた母体や生物の数は軽く10を越える。

 色々と興味深い存在だったが有益とは言い難い…そう判断されたそれは完全武装の戦闘部隊によって全身に麻酔をキロリットル打ち込まれ、意識がない内にネルフの一角に閉じこめられた。

「アレを…解き放て」

 その言葉を聞いたオペレーターの目が恐怖に見開かれる。彼も良く知っているのだ。アレの恐ろしさを。

「し、しかし…!」
「聞こえなかったのか? アレを解き放て」
「ですが、アレが彼女に出会ったら…殺されますよ!」
「あの女に他の女達を助けられたら、いや、アダムを殺されたら、俺達みんな殺される!」

 狂気に男の目は濁っていた。
 逆らったら今殺される…。
 それを悟ったオペレーターは震えながらガラスケースを叩き割り、中のボタンを押した。










「近い…近いと思う。きっと、もうすぐ近くにアスカさん達が…いる」

 荒い息を吐きながら、マユミはパルスライフルから空の弾倉を外し、床に投げ捨てた。最後の弾倉を装着すると、油断無く火炎放射器の燃料計に目を向ける。黄色い針は『F』の字から遙か遠く、『E』の向こう側に倒れ込んでいた。
 とどのつまり完全に空だ。試しに引き金を引いても、ライターの火より多少増しな程度の火しか噴き上がらない。

「……………ここまできて」

 異様に早口でそう呟くと、マユミは火炎放射器を捨てた。
 ここまで恐ろしいほど順調だったが、遂にここに来て武器が足りなくなってきたようだ。戻るべきか進むべきか判断をしなければならない。

 残る武器はグレネードが一つ、弾が100入ったパルスライフル一つ、道に迷わないようにする携帯マイルストーンと超振動ナイフが一振り。
 邪魔になったので既にヘルメットは捨て、重くて仕方なかったからボディアーマーも脱ぎ捨てている。それはまだ良い。
 プラグスーツの左手首に仕込まれた時計を見るマユミの目は険しい。

(あと、5分も…ない)

 神経加速剤の効果が切れるのは時間の問題だ。
 そうなれば今まで一騎当千の戦いを繰り広げたマユミだが、別人のように惨めな動きしかできない。かえってマイナスの結果しか生み出さないだろう。

(駄目、戻ってる間に襲われるかもしれないし…薬の効果が完全に消えるのは数時間後だわ。でも数時間も無駄にするわけにはいかない。アスカさん達は、今も私の助けを待ってるから。怖いけど…進まないといけない)

 覚悟を決めてマユミは一歩踏み出した。
 5分以内にアスカ達を助け、そして大急ぎでネルフから脱出する。


 しかし。

 突然、側面の壁の奥から重い音が響いた。岩を切り崩すような鈍い音の直後、ガリガリと金属を擦り合わせる不快な音共に、壁が開き、闇の顎が虚無のような姿をさらけ出していく。

「隠し…部屋? なに、これ?」

 戸惑いながらマユミは新たな通路に目と銃口を向けた。
 奥から漂ってくる腐肉のような吐き気を催す匂いと、強烈な敵意と飢えに意識が、心が打ちのめされそうだ。

【【【うるるるるるるっ…!】】】

 不気味な唸り声が、陰に籠もって響いてきた。
 かつての任務で、すぐ側に甲冑熊がいたときに感じた以上の恐怖がマユミの肌を粟立たせる。ゴクリ…。無意識の内に唾を音を立てて飲み込むと、マユミは確認するように呟いた。

「な、なにか…いる」

 扉は開ききり、焼け付くような沈黙がその場を支配した。
 マユミは瞬きをすることも出来ず、凍り付いたように扉の向こうの闇を睨み付けていた。端から見ても病的なほど大量の汗が流れ落ちる。
 ネルフ船内が非常に暑いこともあるが、それ以上に物理的な圧迫感さえも感じさせる精神的抑圧が叩きつけられていたからだ。

(……………………なんなの、なんなのこれ!?)

 闇の奥で時折、赤い光が瞬いた。
 本能的にマユミは悟る。あれは、あの光は目だ。地獄で燃えさかる窯の炎のように苛烈な意志を湛えた悪意の塊。
 普通の人間でも、漠然とその悪意を感じ取り背筋が総毛立つぐらいはさせていただろう。
 しかし、マユミはテレパスだ。圧縮し、絞り込んだ水流のような悪意はまともにマユミの心を打ちのめした。

(ううううっ、気分が…悪い。あ、あれ?)

 狙いを付けたはずの筒先が揺れる。喉がカラカラに渇き、砂漠の砂を吸ったようにいがらっぽい。歯がカチカチとぶつかり、奇妙なスタッカートを刻んだ。
 足が、腰がガクガクと震えて止まらない。なぜ?

(こ、怖い、怖い…怖いわ)

 恐怖が抑えられない。
 大概の恐怖に対して耐性が出来たと思っていたのに。アスカ達を助けるためなら、たとえ猛獣が目の前にいても、決して動じないつもりだった。事実、今までは生物の襲撃を全て事前に察知し、3メートル以内に近づく前に射殺していた。
 邪悪ではあったが単純な肉欲を持つにすぎない生物の精神は、至極わかりやすく対処しやすい。そしてそう言った意識はマユミにとってなじみ深い物だ。受け流す術も良く心得ている。

 しかし、これは…。
 あまりにも違う。
 肉欲に似ているが、しかし強烈に凝集されたその意識は単なる欲望を越えてしまっている。肉欲、食欲、睡眠欲、ありとあらゆる欲求が溶岩のように混じり合いグツグツと煮たぎっている。ガラスの破片が脳に突き刺さり、ギリギリと軋み音を立てているようだ。

(違う、これは…違う。違う。ああ、体中、蜂に刺されてるみたい)

 胃の奥底から込み上げる感覚を、血を呑む思いで必死に堪える。ほんの少しでも意識を逸らした瞬間全てが終わってしまう。

 その時、再びマユミは自分自身に裏切られた。
 動悸で震えた拍子に、玉の滴となっていた汗が瞼の下に流れ落ちた。

(こんな時に!)

 反射的にマユミは目を閉じてしまう。神経加速剤の効果もあり、その痛みは思いの外強く、そして長く彼女を捕らえた。
 時間にしたら1秒にも満たないわずかな時間…だが、悪意の塊、暗黒の王子にはそれでも十分すぎる時間だった。

「はぐっ!?」

 いきなり手首を捻られる鋭い痛みが走り、マユミは体を硬直させ、息を詰まらせた。手首と指の痛みが、体を串刺しにされたようにマユミをその場に縫い止める。
 ガシャリと重く乾いた金属同士がぶつかる音が響いた。

「あ、ああ、う、嘘…なにが、起きたんですか」

 千々に乱れた息と心を整えることも出来ず、マユミは遠くに転がるパルスライフルを見つめた。刹那、ハンドガンを取るため腰に手を伸ばす。

 パシン

 再び乾いた音がし、マユミは空しく何もない空間を掴んだ。一瞬前までそこにあった金属の銃座を掴むように、ゆっくり握ってゆっくり開く。
 小馬鹿にするようにマユミの目の前で、闇の奥から伸びる「それ」はナイフと拳銃を振って見せた。頼りないが、爪も牙もないマユミに残されていたはずの最後の武器…。
 大きく弧を描いて廊下の角まで投げ捨てられた。床にぶつかり、傷を付けながら滑って行って見えなくなる。
 武器は―――ない。最後の武器の勇気も、もう…。

 ぐにゅ。

「きゃうぅ!?」

 硬直したマユミは肺から絞り出すように切ない息を漏らした。
 右のふとももをイヤらしく撫でつける感触、プラグスーツ越しに左の尻たぶをつかむ感触、ぶるぶると揺れる右の胸を搾乳するようにきつく掴まれる感触。そして抵抗を封じるように首を締め付ける感触。

「はぁ、はぁぁぁ…」

 わずかに上半身と首を仰け反らせ、痛みを堪えるようにマユミは呻いた。空気を求めて口を無防備に開き、舌を出して必死に喘ぐ。

 このままでは窒息してしまう!

 生存本能からくる原始的な反射でマユミは「それ」を必死に掴んだ。プラグスーツのゲインを最大に設定し、猛禽のようにきつく爪を立てるが重機タイヤのように固さと弾力を持った「それ」はびくともしない。ただ手の平に焼け付くような熱を感じた。
 マユミの抵抗を立て板に水と受け流し、「それ」は軽々と彼女の体を持ち上げた。

「う、ぐぐっ、うぐ――――っ! がっ、ぎゅ、ぅっっっ!」

 床に着かなくなった足を必死にばたくり、空気を求めてマユミは必死に暴れる。別の「それ」が無防備になったマユミの体を盛りのついた犬のように撫で回すが、パニックに陥ったマユミはそれどころではなかった。
 神経加速剤の所為で、普通なら数秒のことも何十秒と長い時間スケールで感じてしまう。生殺しと言うにはあまりにも酷い拷問にマユミはかけられたのだ。

「が、あ、ああ…………あっ」

 すぐに鬱血した顔は紫色に染まり、力を限界以上に込めた腕がビクビクと痙攣したようになる。華奢な喉骨が軋んだ。あとほんのちょっと力を込めれば、脆い舌骨が折れる。そして苦しいと思うこともなくなる。

(そ、そんな、そんなぁ! こんな、こんなことでっ、こんなところで!)

 微かに痙攣するだけの足が力無く揺れた。壁時計の振り子のようにぶらぶらと。
 皮を剥かれた赤黒い蛇のような「それ」を掴んでいた手が、糸の切れた操り人形のように垂れ下がる。
 意識が暗黒に染まっていく。もう、どうでも良かった。
 ただ、アスカを、みんなを助けられなかったことが心残りだ。まさか、こんな所でこんな形で死ぬなんて。
 酸欠のおかげか、もう苦しくないのがせめてもの救いか。

(シンジさん。結局、言え…なかった…です……………ね)


 マユミの意識が慈悲深い闇に包まれる―――。











 再び彼女の意識は4年前に戻っていた。
 あの時、象牙のナイフをあの男の脇腹に突き立て、醜い轍のような傷を付けた。皮膚を突き破り、脂肪と肉をえぐる感触が気持ち悪い。幅の広い刃は肋骨にぶつかり、ガリガリと歯軋りするような音を奏でた。
 わずかばかりに血が噴きで、同時に豚を絞め殺すような悲鳴が響いた。豚を絞め殺した事なんて無いけれど。ただ、花に聞かせたら立ち枯れするような声だと思った。

(………うるさい)

 騒々しいのは好きじゃないが、絶対的な支配者だったはずのあの男が自分の足下に這い蹲っている。背筋がゾクゾクするような爽快感だ。

「お姉ちゃん…」

 怯えながらも雨に濡れた子犬みたいに妹がすり寄ってくる。腕を握られたとき、彼女の意識を感じた。

『それ以上は、駄目』

 勿論、これ以上するつもりはない。
 こんな奴でも殺したりすれば、自分達は重犯罪者だ。こんな奴のために人生棒に振るつもりはない。ただ、あともうちょっとだけ復讐はさせてもらおう。

 最後の仕上げは、あの男ご自慢の陶器の壺にしてもらった。
 万田の家に伝わる家宝とも言うべき壺だそうだが、あの男の頭と激しく接触事故を起こして木っ端微塵に砕け散った。生まれて初めて「ざまあみろ」なんて考えて、なおかつ口にしてしまった。
 破片が木の葉のように散らばる中、意識を失ったあの男が倒れ伏している。

「さよなら。もう会うことはないでしょうね」
「き、きさ…ま」

 最後の最後に、股間につま先を叩き込んだ。なにか堅い物が潰れるような湿った音がし、男は口から泡を吹いて悶絶した。

「……ふんっ」

 大人びた仕草で髪を掻き上げると、マユミは妹の手を引いて部屋を出た。
 荷物をまとめて外に出たとき、マユミは振り返らなかった。
 大分前からこの日が来ることを見越して準備はしておいた。幸い…と言って良いのか、あの男が渡した現金はかなりの額になっている。当分、少なくとも落ち着くまで困ることはないだろう。











 その二日後、妹と一緒に人気のない公園を逃げ回っていた。
 まともに休息をとることも出来ず、着のみ着のまま現金やカードの入った鞄も何もかも放り捨てて。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
「お姉ちゃん、もう、走れ…ない…わ。どこかで、休憩しないと」
「駄目よ。そんなことしたら、すぐ捕まる…」
「どうすれば良いってのよ」

 勝ち気な印象を与える妹のツインテールも力無く見える。
 無個性な黒服に身を包んだ男達が、つかず離れず猟犬のように追い立ててくる。あの男が個人的に雇っているボディーガードだ。用心棒と言うより、場合によっては非合法行為も行う忠実な私兵と言うべきだろう。
 駅もホテルも、主要幹線道路など至る所に監視の目を光らせた彼らによって、マユミ達は落ち着くどころか、町を出ることもできないでいた。サングラスに遮蔽された彼らの目は見えないが、何を考えているかはわかっている。小説みたいだが、秘密裏に彼女達を捕まえてあの男の前に引き立てるのだろう。

(そんなことは、絶対にさせない)

 いや、引き立てるのは妹だけで、マユミは用済みなのかも知れない。
 いずれにしろ2人は引き裂かれて、想像もできないような酷いことをされるのは間違いはないだろう。
 ぎゅっと握ってくる妹の手の温もり。もう絶対に離しはしない。

「でも、どこに逃げれば…」

 しかし、一体どこに逃げればいいのか。心当たりなんてない。なんどか奇跡的にやりこめ、虎口を逃れたこともあったが彼らも必死だ。失敗すればあの男の怒りは彼らに向けられるのだから、それも当然だろう。
 人目もはばからず男達は露骨な追跡を開始した。

「もう逃げられん。大人しく投降しろ」

「……絶対に嫌です!」

 男達の剣幕におそれをなしたのか、何かを言われる前に散歩途中の男性が逃げ出した。期待していたわけではないが、やはり辛い。世界中から見捨てられたように感じてしまう。

(周りが助けてくれないなら、自分で自分を助けないと。右…駄目、左…駄目、前…駄目。後ろは…行けるわ!)

 左右を挟まれ、意を決して藪の中に飛び込んだ。折れた枝が亡者の鈎爪のようにピシリピシリと肌を打って鋭く痛む。しかし、決して妹の手を離さず足も止めない。

 傷だらけになりながら必死に走った。というより丘を転げ落ちた。
 男達は驚きながらも、着実に、確実に包囲を縮めていく。囲んでいるのは間違いないのだ。もうマユミ達に逃げ場はない。あとは落ち着いて対処する。それで2人は掌中に落ちる。
 2人を待ち受ける運命を哀れに思うような輩はその場にいない。
 そんな柔弱でまともな精神の持ち主はあの男の部下足り得ないのだ。
 それに、マユミに関しては生きてさえいればそれで良いと言われている。引き立てるまでに何をしても自由だ。獣欲を満たせる。以前から色気を増していくマユミに目を付けていた男達を、醜悪極まる追跡の獣に変えるのに十分な理由だろう。



 マユミが藪を突っ切り、転がり込んだ先は周囲を小高い丘が取り囲んだ窪地だった。そこだけぽっかりと木々がなく、橙色の空が目玉焼きの黄身みたいに頭上に見える。
 頭に張り付いた落ち葉や木の枝を払うこともせず、マユミは眼鏡のズレを直すと慌てて周囲を見渡した。

「こ、こんなところが」

 よく見れば、落ち葉の向こうにトンネルが見えた。トンネルの向こうは明るい。よほどこの公園に詳しくないと知らないちょっとした穴場という奴だろう。黒服達のチェックからも逃れたのか、ここに追っ手の姿はない。

「あ、誰かいるわ!」

 妹に言われてそちらに目を向けると、驚いた顔をしている2人の男女がいた。それはまあ、驚くと思う。全身傷だらけにした2人の女の子が、転げながら藪の中から飛び出てくれば。

「き、君たち…大丈夫、何かあったの?」

 驚き慌てながらも静かに持っていた大きな楽器、チェロ(と言う楽器だと後に知った)を寝かせて少年が尋ねる。その声は女の子みたいに優しい響きで、聞いていてほっとさせてくれる。
 それで気が抜けてしまったのだろうか。急に体に力が入らなくなり、マユミはその場に座り込んでしまった。駆け寄ってくる少年の姿を見ながら、全てに投げやりになってしまう反面、彼らを巻き込まないようにしないと…と決意のような物もできる。

「ちょっとちょっと、何があったのよ、ねえ?」

 少年の隣にいた赤毛の少女も、緑色のワンピースの裾を揺らしながら近寄ってくる。綺麗な青い目が印象的だ。身なりや物腰から感じて、自分達のような偽物のお嬢様でなく、今まで苦労らしい苦労をしたことのない本物のお嬢様お坊ちゃんだ、そう思った。その時は。
 2人に心配されて、人の温かさを感じて…今まで必死に堪えていた涙が溢れてくるのを感じる。

「待て、もう逃げられんぞ!」

 追いついてきた黒服の声が遠くの雷みたいに感じる。

「お、お願いします。私はどうなっても良いから、妹だけでも、連れて…逃げて下さい」
「待ってよ、お姉ちゃんはどうする気!? まさか囮にでもなるつもりなの!?
 駄目よ、そんなの!」

 小さく呻きながら妹の髪の毛を撫でつける。
 この人達に賭けるしかない。妹を連れて、逃げて…。人が良さそうだから、もしかしたら妹の今後も助けてくれるかも。

「……って、ちょっと待ってよ。あいつら…警察には見えない…。君たちは何かあって、誰かに追われてるんだね」
「………なにを当たり前のこと言ってるのよ。どう見たってあいつらは悪人で、何か良からぬ事をするために、この子達を捕まえようとしてるんじゃない」

 意外なことに、2人は義憤に駆られた正義の志士といった表情で黒服の男達を睨み付けていた。ただのお嬢様お坊っちゃまと思ったが、そこまで正義感がしっかりしていたのだろうか。それとも見せかけだけの自己満足の正義感だろうか。
 自分も含めて助けてくれようとしている…のは嬉しいが、抵抗したって勝てるとは思えない、それより一刻も早く妹と一緒に逃げて欲しいのに。
 すぐ後ろから聞こえた枯れ葉を踏みにじる音に、マユミの体が硬直した。
 もう、間に合わない―――。

「君たち、何も聞かずにその2人を引き渡してほしい。これは高度に政治的な意味合いを持つことなんだ。じつは私たちは私服の警官でね、殺人未遂の容疑者を追っているのだよ」

 口調は丁寧だが高圧的に男は言った。ある意味嘘ではない。男の言葉には自信が満ちあふれている。
 そして暴力をちらつかせる。

「無意味な正義感をかざして、余計な怪我をする必要はないと思うね。犯罪者をかばって特になることはないだろう?」

 たとえどんなに正義感があっても、乱暴なことになれていない人間は、それだけで曖昧な笑いを浮かべて逃げ出す。とりあえず抵抗したという自己満足でお茶を濁すだろう。そして後で適当に自分の正義感に折り合いを付け、一つ賢くなる物だ。
 しかし、シンジ達の答えは実にシンプルだ。

「そんなこと出来るわけないだろ」
「シンジの言う通りよ。今この人たちを犯罪者とか言ったけどさ、それこそ信じられないわよ。
 どう見たってあんたら悪役! 正義の味方として見逃すわけには行かないわ!」

「なんだと? それはつまり、逆らうということかね」

 信じてもらえるとは思っていなかったが、さすがに鼻白んで男達は憤慨した。そこまで言われる筋合いはない! と鏡を見直すべき思考の果てに。

「…君後ろに下がって」
「は、はい」

 獲物であるマユミ達を背中に隠し、どう見ても上流階級の子息子女にしか見えない少年と少女は男達に立ちふさがった。

「そもそも、せっかくの2人っきりのデートだったのにそれを邪魔してくれるとはいい度胸ね、あんた達!」

 デートという言葉に、チクリとマユミの心が痛む…のは後の話である。
 今はシンジと呼ばれた中性的な雰囲気の少年が、驚き戸惑った顔をして赤毛の少女を振り返るだけだった。

「ええ!?」
「…一応聞くけどなによ?」
「これって、デートなの? ただこの公園でチェロの演奏を聴かせるってそれだけだと」

 全身全霊で戸惑う少年に苦虫をかみつぶしたような顔をする少女にかわり、マユミが小さな声でつっこんだ。

「世間一般ではそれをデートと言うと思います」
「そうなの?」

 いや、デートなんてしたこと無いけど。きっとそうだと思う。

 妹と一緒に大きく頷いた。
 鳩が豆鉄砲撃たれたみたいに目を大きく見開く少年に、この人も苦労してるんだな…と場違いな感想をマユミ達は持った。

「ええい、ともかく! あんた達にこの2人は渡さないわ!
 それは私の正義に反するから!
 喩えこの2人が何らかの犯罪者で、あんた達がそれを追う警官だったとしても!」
「なにをこの、小娘が…! 俺達の雇い主は大きな権力を持っているんだぞ!」

 もう馬脚を現したか。小さいな、とアスカは思う。
 ふん、と鼻で笑うと少女は蔑むように言い放った。

「だからなによ。権力なんかにこの惣流・アスカ・ラングレー様は怯まないわよ!」





 十数分後、呆然としながらマユミは普通の乗用車の倍以上長さがある車に乗っていた。あの2人がこの公園に乗り付けるのに使った車だそうだ。運転手だけでなく、給仕までいる車ってのは一体何事なんだろう。
 驚きは強く、「じゃあ僕は帰るよ。アスカ、彼女達のこと頼むよ」と言い残して、一人わかれたシンジに手を振るときも気がそぞろだった。
 世の中こんなでたらめがあっていいのだろうか。

「もう心配いらないわ。あんたの義理の親父なんかより、ずっと、ずっとパパの方が権力持ってるから」

 本来、親の名前を出すのは好きじゃないけど、相手が出してきたら有効に使ってやるまでよ、と笑いながらアスカは言った。
 はい…と小さく応え、マユミは俯いた。まだ戸惑いながらも、妹が元気づけるように手を握ってきた。
 偶然とはある物だなと、マユミは運命の皮肉に苦笑することもできなかった。まさか、あの絶体絶命の危機が、アスカが父親の名前を出しただけで解決してしまうなんて思いもしなかった。同時に世の中の不条理を感じる。

(今更…だとは思う)

 でも、少なくとも悪夢は終わりそうだ。今度こそ。
 少なくともこのお人好しのお嬢様は彼女のことを心底心配し、同情している。捨て犬を拾ったような感情なのかも知れないけれど。なら精々利用しよう…と妹以外の世の中全てを信じられなくなっているマユミは考える。
 アスカを信じていたいけど、今まで散々に踏みにじられてきたマユミだ。あの男に対する恐怖はとてつもなく強い。いつ、アスカが…アスカでなくとも彼女の父が自分達を見捨てて、あの男に差し出すかわかった物ではない。
 その時裏切られた…と思いたくない。

(そう、私は彼女を利用としているの。もっと同情を引いた方が良いかしら)

 アスカの自分を見る目は同情とあの男に対する怒り、そして好奇心が入り交じっている。わかりやすい人だ。
 何があったか全部話すべきか。聞けば自分を軽蔑するか、あの男への怒りを強くするかいずれかだろう。いずれにしても、アスカは自分を放り出しにくくなる。

「…あ、あの」
「なに?」
「……なんでも、ないです」

(あれ、変だわ。私、嫌いたくないって…思ってる)

 すぐに答えがわかった。
 明け透けのないアスカに自分は好意を抱いている。自分とはまるで正反対の明るい人間に、誘蛾灯に群がる蛾のような心境で惹かれている。憧れなのかもしれない。
 妹も好意を持っているようだ。いや、まるで崇拝のようにも見える。さっきから話しかける言葉の端々に『アスカお姉さま』という言葉が混じっているくらいだ。

(私、この人が…好きなんだ。初めて、お母さんとお父さん以外で私達の存在に気づいてくれて、助けてくれた人を)

 それにあの少年、碇シンジ。
 手を握られたとき、ささくれ立っていた心が穏やかな水面のような心に触れて落ち着くのを感じた。10年以上に渡って晴れることのなかった、恐怖の霧が晴れてしまった。
 優しさが嬉しかった。
 2人はまず、親がどうとか考える前に自分達を助けようとしてくれた。あの黒服がただの犯罪者だったら、親がどうとか言ってる間に殺されていたかも知れないのに。アスカのことを思うと心が暖かくなり、シンジのことを考えると心が穏やかになる。

(こんな人達もいるんだ…お父さんと、お母さんみたいに誰かを助けることを当たり前に考える人が)

「ありがとう、ございます」
「な、なにが? えっと、急にそんなこと言われても、しかも泣きながら言われても困るんだけど!?」
「う、ううっ、辛かった、辛かったです。ずっと、ずっとあの男に、あの男に…うわああああんっ」
「おわああああっ!?
 な、泣きやんでよぉ。私こういうの苦手なのよ!
 ちょっとあんた妹でしょ、なんとかしなさいよ。あぁん、加持さぁん!」

 しがみつかれてドレスがしわくちゃになることに困ってるのか、初めての経験に戸惑っているのかアスカの姿は滑稽ですらあった。泣きながらもクスッと小さく笑う。
 泣きじゃくりながらマユミは気づいた。自分はもう、あの男を義父とは思っていないことを。
 そしてアスカの狼狽えようが心の底から楽しくて笑ったことを。











 その後の成り行きは今思い返しても小説みたいだった。
 本やテレビでしか見たことのない様な大きな城がアスカの家だ。なんでも、わざわざ別の星で造られた城の建材を、宇宙船に積んで運んできたんだそうだ。凄まじいエネルギーと金の無駄遣い。
 そして城内の調度は外観の豪華絢爛さに勝るとも劣らない。
 宝石と水晶で作られたシャンデリアが夜を昼に変える。
 本物の水牛の皮で作られたソファー、天然記念物のテンノウヒノキで作られた食器入れや本棚など、調度でありながら芸術品である家具。銀で統一された食器や燭台。
 掃除の手が隅々まで行き届いた清潔な環境、絵に描いたような執事のおじさん、お揃いの衣服で身を包んだメイド達、学校の体育館ほどの広さがある台所には30人以上の料理人がいた。そして牧場か自然公園の間違いではないかと思うくらい広い庭。プールやテニスコートはまだ序の口で図書館や美術館があるってのは何事だろう。玄関くぐって母屋につくのが車で15分ってのは何かが間違ってる。

「………な、なん…なの?(冗談としか思えないわ)」
「うん、狭くて驚いたでしょ?」

 返事代わりに口をぱくぱくさせる。妹も似たような物だが、順応性が高いのかすぐに尻尾を振った犬みたいに興味深げに周囲を見ている。

「アスカお姉さま凄いわっ!」
「いやぁ、私が凄い訳じゃないし。それはともかく、自分の家だと思ってくつろいでよ」

 無理だと思う。

『お帰りなさいませ、お嬢様』
「ん、ただいま。みんな、この2人は私の友達のマユミと、その妹のモモコよ。しばらくこの家に滞在する予定だから」
『いらっしゃいませ、マユミ様、モモコ様』

 絶対に無理だと思う。





 仕事で不在気味というアスカの父には会えなかったが、細かい雑事は全て屋敷にいた加持と名乗る男性がしてくれた。正体は分からないが見た目に反してとても優しく、親切な人だと言うことはすぐわかった。実はアスカが啖呵を切ったときも側に隠れていたそうだが、いわゆる影から彼女を守るボディーガードなのだろう。ともあれ、財産の一部と、山岸という姓を取り戻すことが出来たのは全て彼のおかげだ。

 テーブルマナーも何もわからない美味しいけど味のわからない食事の後、アスカはこれまた何かの冗談みたいな部屋に案内して、ニコニコ笑いながら言った。

「ここがあなたの部屋よ。狭ッ苦しいかも知れないけどね。妹ちゃんも別の部屋用意してあげる」

 学校の教室よりも広い部屋が狭い…。またちょっと呆れた。
 あの男の家だって、ここまで大仰ではなかった。

「…どうして、偶然会っただけなのに、私にこんなに親切にしてくれるんですか?」
「うーん、なんとなく」
「とぼけないで…下さい。好意はとても嬉しいけど、でもただでこんなことするなんて、信じられません」

 マユミの視線に視線を絡め、天井を仰いで『うーん』と考えた後、アスカはあっけらかんと答えた。

「そうね、実際気まぐれとしか言いようがないけど、本音を言えば…友達になって欲しかったからかな」
「…友達、ですか。その、もしかして、友達…いないんですか?」
「ちょっとちょっとなによその思いっきり可哀想な物を見る目は!?
 違うわよ! いるわよ友達くらい! 世間一般で言う友達ってのはね。
 ただ、ね。あくまで私がパパの娘だから友達なのか、そうでないのかは、判断が出来ないのよ」

 そう言うアスカの目は寂しげだった。
 ああ、とマユミは悟った。ほんのわずかな時間しか接してないけど、アスカがとても聡明な女性だと言うことはわかっている。聡明な彼女は気づいているのだ。本当の自分を見てくれる人がいるのだろうか、と。父がいなくても自分の価値を認めてくれる人が。
 そういえばアスカは母親のことを口にしなかった。その事が関係しているのかも知れない。

「言いたいこと、わかるでしょ。私は友達が欲しいの。私がどうなっても私の友達でいてくれる…本当の友達が」
「……友達は、こんな風に恩を感じてる人がなる物ではないですよ」
「わかってる。でも友達になって。そうしてくれたら、私はあなたを守ってあげる」

 振り返ったアスカの目は、赤くなっていた。
 そしてとても深い悲しみが伝わってくる。裕福な人間にありがちな、物で満たされて愛に飢えている人間なんだ。そう思った。

(この人もそうなんだ。私と一緒で、どこか壊れてる)

 小さく頷くと、マユミはアスカの手を握った。ビクリとアスカの体が竦むが、構わずマユミはアスカを抱きしめる。更に強く、勢い良くアスカの心が流れ込んでくるが、マユミは構わずに受け入れた。

「マユミ…」
「わかりました。私で良ければ……でも、お願いがあります」
「な、なに!? 何でも言って」
「仕事を下さい。何でも良いです。何もできない私だけど、一生懸命頑張りますから」
「どういうこと? 私は友達になって欲しいのよ。別に仕事をして欲しい訳じゃないわ」
「ええ、ですから。
 友達であるために、妙にお互い気を使ったりしない方が良いと、思いますから」
「そ、そういうものなの? でも私はいつも側にいてくれる人が欲しいのよ。あなたが働いたりしたら、その間、側にいてくれないって事じゃないの」

 一言で言うと我が儘なアスカの言葉に、辛抱強くマユミは頷いた。子供っぽいところが抜けていない…多分母親のことで満足な愛情を注がれず、多分に幼児性を残しているのだろう。
 だから決して癇癪を起こさせないように、静かに、相手の言葉を肯定するように、妥協案を引き出すように話を進める。会話が得意なわけではないが、それくらいはマユミにもわかった。

「でも、そうしないと、友達にはなれません。きっと…私はどうしてもあなたに遠慮して控えめに接することになります。結局、他の方たちと同じになります。それでも良いんですか」
「うっ。確かに、あなたの言うとおり…かも知れないわね」

 苛々と爪を噛みながらアスカは考える。
 確かに、自分は捨て犬を飼うような気持ちでマユミに友達になってと言ったのかも知れない。結局、マユミは唯々諾々とアスカに付き従うだけだろう。アスカの気まぐれでいつでも放り出せる都合のいい友達だ。
 そんなのが欲しかったわけではない。アスカが欲しかったのは時には叱り、時には甘えさせ、時には喧嘩し、時には相談に乗ってくれる友達だ。半分、母親を重ねてるのかも知れないが、概ねそんなところだ。
 それなら、まだ立場を近づけることが出来るようにマユミの言葉に従った方が良い。
 奴隷の友達より、使用人の友達の方がまだしもだ。あくまで、使用人を雇うのはアスカではないのだから。

「交換条件。仕事は用意するわ。形を変えて雇ったのは私じゃないっていう風にする。だから私に気兼ねする必要はないわ。そして住む場所も、もっと別のを用意する。
 でも平日は私と一緒に学校に行って。同じ学校の同じクラスにね」
「アスカさんの学校って…その、どんな?」
「勿論、パパが理事長をしているお嬢様学校よ! みんなの口癖は『あらアスカ様、ご機嫌麗しゅう』とかなんとかそんなの」

 目に見えて戸惑うマユミを「あ、可愛い」とアスカは思う。しかし無理とか嫌だとは言わせない。
 マユミが何か言う前に一気にアスカは畳みかける。

「無理とは言わせないわよ。平日は私と同じ学校に行く!
 友達としてね!」
「は、はい…わかりました。ど、努力します。あ、あう〜でも私にそんな学校なんて」
「黙れ。
 そして学校以外の時間はあなたの仕事は私づきのメイド!
 適当に他のメイド達の手伝いをしながらも、基本的に私と一緒!
 良いわね!」

 うまく自分を騙したものだ、と感心した。ともあれ、一生懸命なアスカにほだされたようにマユミはにっこり笑ってアスカの手を握った。お嬢様学校にはまだ戸惑いが残っているけど…。

「不束者ですが、よろしくお願いします」
「お嫁さんが欲しい訳じゃないんだけど」





 数日後、黒いエプロンドレスを身に纏ったマユミが、丁寧にお辞儀をしていた。裾の長いスカートは白いロングソックスをはいたマユミの足の大半を隠している。その上で機能的でないフリルが多い前掛けを着けていると、本当に物語に登場するメイドになったような気がする。初めて着ける衣服、特にガーターベルトやガードルとかには面食らったが、これはこれで楽しいと思う。王子様と玉の輿とかあると良いな。
 とりあえずの保護者になってくれた加持が言うには、眼鏡のメイドというのはとても貴重で特別な存在らしい。意味を聞きたかったようなそうでないような。
 黒髪の間のフリルカチューシャが彼女の動きに合わせて揺れる。何の意味があるんだろう、とは思うが可愛いから良いや。

 寝起きでシルクの寝間着を寝崩したアスカが『似合いすぎ』と、ちょっと見惚れながらも困った顔をする。

「おはようございます、お嬢様」
「その、さあ。2人だけの時は普通にアスカって呼んで欲しいんだけど」
「わかりましたアスカ様」
「……ま、良いか。おはようマユミ」










そして話はそれぞれへと続く




後書き

 またマユタン編だ。

 でもまだ更に導入編って事でお楽しみは次回以降。
 残念でした。(=・w・=)
 次回はねっとりぐっとり色々します。つか、部分的にグロテスク描写のオンパレードだぜセニョール。今回の生物描写も十分グロテスクかも知れませんがスウィーニィ・トッド。
 あ、あとマユミが高校なのに年齢が足りない…と思う方もいると思いますが、未来世界なので幼児期に圧縮学習を行って、結果現代人より2年早く進学してます。
 つまり、4歳で小学校(6年)、10歳で中学(3年)、13歳で高校(3年)、16から大学(3年)って感じですね。そんでもって、今彼女達は19歳という設定です。
 で、あと引き気味さんにも言われましたが、マユミ母や妹の外見描写が少なかったかも知れません。後に書くつもりだったって事もあるんですが、確かに少なかったかな。
 当面、マユミ母は「とってもご機嫌斜めだわ」の人を適当に年を取らせたのを想像して、妹ちゃんは「目からビーム」の友達を想像して下さいな。
 引き続きネタ募集ナリ。

2003/12/06 Vol1.00