祈る人



 ときどき、・・・・・無意識のうちに視線を飛ばすと、ほんの時折、彼が静かに指を組んでいるのを目が捕らえる時がある。

 ピットの奥で、移動の機内で、偶然見つけたカフェテラスのテーブルで。

 眼鏡の奥の、綺麗な緑の瞳は静かに伏せられ、白いおもてに長いまつげが淡い影を落としている。鼻先で組まれた指で、その口元が何か言葉を刻んでいるのかどうかはうかがえない。ただ冷たく冴えたその頬が、かっちりとした弧を描いたいつもは勝気な眉が、ぴくりともせず組まれたままの指が、静かに、一心に、揺るぎなく、彼が心のうちで音にはならない言葉をつぶやいていることを示している。

 彼は、・・・・ハイネルはカトリックだと聞いた。ウソか本当かまでは知らないが、初恋の相手はギムナジウム時代に出会った年上のシスターだとも。

 もしそれが本当だとしたら、きっとハイネルのことだから気持ちを伝えることもなくただ見守っているだけだったんだろうな、と思う。あの、マシンに注ぐような、静かで透徹で、深い想いの込められた視線で。


 あの緑の瞳。眼鏡ごしでさえ見つめられると魂を素手で鷲づかみにされたような気がする、あの瞳。あの瞳のグリーンを思い出すたび、瞳を閉じ、一心に、何かに祈るかのように指を組んで微動だにしない白い頬のラインを思い出すたび、オレはわけもなくうろたえ、理由も分からず否定する。違う、そうじゃない、まだ引き返せる、と。何に対してかさえ分からないまま。

 クリスチャンとは名ばかりのオレには、ハイネルのあの仕草はあまりに清冽で物珍しく、目を引き寄せられずにはいられなかった。・・・視線を奪われるのはそのせいばかりではないと、薄々気づいてはいるが。


 そしてオレは答えの返らない問いを自問する。


 それならオレが、・・・・・オレが彼に向ける視線にはどんな熱が込められているのだろうかと。
 オレがまぶたを閉じてハイネルの姿を、声を、その仕草を脳裏に思い描いている時、他の人間からはオレがまるで何かに祈っているように見えるのだろうかと。









「よう、久しぶりだな。元気だったか?」

「グーデリアン?何故こんな所に?」

「ご挨拶だな。ここはアメリカ。オレのホームグラウンドだぜ。異邦人はお前の方だろ?」

 
 ウインクをしてそう言うと、ハイネルはいかにも不機嫌そうな表情を作って眉をきつく寄せた。ひそみに倣うとはよく言ったもので、さすが美人がやるとそんな仕草さえサマになる。
 でもオレには通じない。いつもと同じように振る舞っているつもりでも、ハイネルにはいつもの張り巡らされた緊張感がない。どこか危なっかしく、彼が虚勢を張っているのが分かる。
 辛さや弱さを見せまいと殊更尊大に振る舞うのはレーサーにとっては一種の職業病だが、オレにはハイネルが何を考えているのか、どんなことを感じているのかが手に取るように分かるのだった。


 それにしても、まさかここ、アメリカはマンハッタンで、オフにハイネルと出くわすとは思ってもみない偶然だった。


 ・・・・というのは建前だ。ハイネルの妹であるリサちゃんとオレは妙にウマが合い、ほとんど親友と言っていい親交を築いている。リサちゃんの兄君であるフランツ氏はそれが大層気に入らないようだが、兄に似ず奔放で自由闊達な気質のあの少女は、寄ると障るとケンカになることで有名なライバルレーサーであるオレが何げなく水を向けると、躊躇なく兄の情報をオレに流してくれるのだった。


『お兄ちゃん、明日から三日間マンハッタンだって』

 
 電話の向こうの彼女の明るい声。それから急にいつになく声のトーンが低くなった。




『ギムナジウム時代にお世話になったシスターの結婚式のパーティーに呼ばれたらしいよ』






 今目の前に立つハイネルは、相変わらず一分の隙もなくスーツを着こなしている。だが、仕事用のスーツでないことは一目で分かった。眼鏡は相変わらず綺麗な緑の瞳をブロックしていたが、今日は髪がたてられていなかった。甘いブラウンの髪が真っ直ぐに白い額を覆っている。

 シスターのお相手はアメリカ人だそうだ。誰でも彼でも気軽に声をかけるアメリカの結婚パーティーで、親戚ならともかく友人でビッチリとスーツを着込んでくるヤツなどいない。その不器用なほどの生真面目さがとても彼らしいと思う。


「なあハイネル、今時間あるか?」

「いや、私は・・・・」

「オレ、デートの約束をしてた相手にフラれたところなんだ。一人でいるのがなんとなく寂しいから、少しの間だけ付き合ってくれないか?」


 オレの予想通り、最初はきっぱりと断るつもりだったらしいハイネルがためらう素振りを見せた。いつもは強引なオレが引いて出ると、彼は強く出られないのだ。オレはそれをよく分かっていて利用している。
 こうなったら、あとほんの一押ししてやればいい。


「頼むよ、迷惑はかけないから」

「・・・・分かった。だが、少しだけだぞ」


 ビンゴ!こうなることは予測していても、やはりホッとして、オレは無意識のうちにジーンズを探って気づいた時には煙草を口元にくわえていた。途端にハイネルの眉間に皺が寄る。美人だからってこれみよがしにそんな表情ばかり造ってると、そのうち跡が残るぜ。


「グーデリアン、人のことに口出しはしたくないが、貴様はレーサーだろう」

「分かってるよ。でも我慢するストレスを考えたらいさぎよく吸う方が健康的だ」

「ならばせめてもっと軽いものにしたらどうだ。また戻したのか?」


 ハイネルが言った通り、オレはほんの一週間前、チームドクターに頼み込まれて軽いタイプの煙草に切り替えたのだった。
 結局、あまりに軽過ぎて満足出来ず、本数が増えたのでかえって逆効果であることをドクターも認め、晴れてオレはハイネルだったら一本吸っただけで涙が止まらなくなるだろう愛用の煙草と再会出来たのだった。オレは、嗜好品は少なく、心ゆくまで満足出来ればそれでいいタイプだ。

 もちろん、ライバルチームのレーサーであるハイネルがオレのチーム事情など知る由もない。それでも、自分は口にしない煙草の銘柄について言葉を挟んできた。ライバルだから、という注釈はつくだろうが、少なくとも彼はオレを少しは意識してくれているのだろう。


「グーデリアン、何を笑っている?」

 煙草をくわえたままのオレに、露骨に嫌そうな顔を向けながらハイネルが言った。


「悪い、・・・嬉しかったんだ。こんなことで嬉しくなる自分がおかしくて」

「確かにな。煙草一つでそれだけ喜べるなどめでたいことだ」


 すっかり煙草のことだと思っているらしいハイネルの誤解はあえて解かず、オレは彼を伴って場所を移動することにした。

 どこか静かな場所がいい。少しだけ弱っているハイネルの気に障らない、そんな場所が。


「ハイネル、どこか行きたい場所はあるか?何ならオレの行きつけの・・・・」

「グーデリアン、もし良ければ・・・・私に付き合ってもらえるだろうか?」



 そう言って彼が足を向けた先は、緑あふれる公園の一角だった。すぐそばにはカトリック系の教会がある。・・・・式があったのだろう、ライスシャワーの名残を掃き清めている神父の姿がうかがえた。



「喉が乾いただろう?飲めよ」

「昼間からビールか?」

「夜はワインにバーボン、ウイスキー。ビールを昼飲まなくていつ飲むんだよ?」

 
 そう言いながらプルトップをひくと、カシン、と乾いたいい音がして大気に響いた。文句を言ったわりにはハイネルは素直にオレが渡した缶を受け取り、オレより先に口をつけてビールを飲み始めている。
 一応ハイネルに遠慮してアルコールが高めのものを選んだのだが、アメリカのビールは薄くていかん、などと文句を言っているのがいかにも彼らしかった。

 スーツを着込んだハイネルと、Tシャツにジーンズのオレがベンチに隣あって腰掛け、屋台のホットドッグをつまみにビールを煽っている。こんな光景をレース関係の知り合いが見たら、きっと腰を抜かして驚くに違いない。


 瞬く間に公園のトラッシュボックスがビールの空き缶でいっぱいになり、いつになくマシンやレース絡みではなく饒舌なハイネルにせがまれ、オレはいろんな話をした。当たり障りのない、その場で笑って次の日にはすっかり忘れているような、そんな話を。


「で、オレはいたずらの罰として一週間便所掃除をさせられたよ。美人の先生の気をひきたかっただけだったのにあれは参ったぜ」

「お前でも幼い頃の、学生時代があるんだな」

「もちろん。今のお前がタイムマシンでその頃のオレを見たら、あまりのカワイサにときめくぜ」

「やはり問題児だったのか?」

「お前、人の話を聞けよ。・・・・普通だったぜ。大人しいもんだよ。いたずらして先生にちょっかい出して悪さをして・・・」

「全く普通ではないではないか!・・・・恋をしたことは?お前なら、さぞかし学生時代も浮名を流していたんだろう?」


 一瞬、どう話をそらすべきか迷い、反応が遅れたことに内心で舌を打つ。どうやらオレもビールで少し過ごしてしまったらしい。
 それでも強引に話をそらそうとも思ったのだが、ハイネルの発した静かな一言にオレは続くはずだった言葉を呑み込んだ。


「聞いてくれるか?グーデリアン」

「・・・・ああ、オレで良ければ」

「私は、ギムナジウムの学生だった時に恋をした。相手はずっと年上の、教区内にいたシスターだ」


 ハイネルはビールを煽っていた手を止め、視線を前に向けた。どこか遠く、記憶を探るような目をしながら。


「私はその頃から生意気で、・・・・自覚はあるんだ、笑うなよ。成績優秀、品行方正かつスポーツ万能。既にレーサー及びマシンデザイナーになるという確固たる夢を持っていて、怖いものなど何もなかった。それが・・・・」


 その頃のハイネルは、今よりきっと甘やかな面差しで、どこか少女めいていたことだろう。それでも目線はきつく、伸ばされた背筋が綺麗で、何かに挑むような意志をたたえた佇まいで真っ直ぐに立っていたに違いない。今と同じように。


「彼女を見ていると声が出て来ないんだ。頬が火照って、言葉が何も浮かんでこなくなる。言いたいことはたくさんあったはずなのに。・・・・・彼女は、きっと私のことを変わった子だと思っていたんだろうな」

「・・・・ハイネル、」

「遠くから見ているだけの恋だった。告白だなんて考えもしなかった。私にはその感情を何と呼ぶべきかさえ分かっていなかったのだから。そのうちレースで忙しくなり、ギムナジウムにもあまり通えなくなって、・・・・すっかり忘れたと思っていたんだ。今日、静かな気持ちで彼女を祝福出来ると思っていた。ほんの短いひととき、淡い想いをいだいただけの相手を」


 ハイネルの目は遠く、今は誰もいなくなった教会の庭に向けられている。ければ彼の意識はもっと遠い場所に向けられているに違いない。痛みにあえて向きあおうとするかのように、彼はきつく眉を寄せ、唇を噛んだ。


「・・・・行けなかったんだ。どうしても足が動かなかった。彼女の祝福を、ただ祈ってあげればそれで良かったのに」


 深い罪を懺悔する人のように、ハイネルは低くこうべを垂れた。オレは告解の神父じゃない。オレに出来るのは、ただハイネルの言葉を聞いてやることだけだ。

 オレはただ彼の言葉を聞き、明日になって忘れていればそれでいい。彼はきっと、オレにこんな弱さを見せた自分をオレに覚えていられたくはないだろう。

 長い沈黙があって、ハイネルはその間ずっと教会の庭を見つめ続けていた。そして、オレはそんな彼の白い横顔を見つめ続けていた。

 やがて意識が今に舞い戻ってきたらしい彼がオレの方を向き、小さな声で囁いた。


「・・・・ありがとう」

「ん?何か言ったか?」


 聞こえなかったふりをしてわざと軽い調子で言うと、ハイネルが一瞬眉をひそめた。まるで泣くのを耐えるような、そんな仕草だった。

「お前が今ここにいてくれて、・・・・・良かった」

「そうか」



 お前が良かったと思ってくれるのなら、今ここにオレがいることをオレ自身も良かったと思える。
 
 今ここで言葉もなく胸を痛めているお前のそばにいるのがオレで良かったと、心から。




 ハイネルはうつむいている。多分意識はしていないのだろう。細く長い指が引き寄せられ、自然に組まれた。組んだ指をうつむいた額にあて、彼はじっとしている。
 ただ波のように、うねるように押し寄せてくる何かに耐えるように。目を閉じ、口元を引き結んで。


 言葉にならない、真摯な祈り。


 祈りとして意識さえされていない、けれどそれは紛れもなく祈りだった。


 彼のそれは儀式じゃない。形式でもない。
 彼はただこうして、じっと何かに耐えているのだ。悲しみや、畏れや、いろんな想いを内に抱えながら。




 一際強く眉を寄せ、それからハイネルは組んでいた指をほどいてオレを見た。心もとなく揺らぐ緑の瞳に、オレは彼を強く抱き締めたい衝動と戦わねばならなかった。
 ためらいながら伸ばした手を、オレはハイネルではなく、ジーンズに向けて煙草を探った。火をつけ、思い切り吸い込んでから吐き出す。至近距離で煙を食らったハイネルが咳き込んだのを機に、一気にその体を引き寄せて背中に手を回した。もちろん口にしていた煙草は一吸いしただけで今はオレの靴底に踏まれている。


「・・・・・っ!」

「悪ィ悪ィ、この煙草、キツイだろ?背中をさすってやるよ。・・・・昔、付き合ってた女の子がまともに煙を吸い込んで、涙を流してむせてたな」

「・・・・・」

「すごかったぜ?もうボロボロ泣いて、アレ宥めるのが大変だったなあ。こうやって、背中をさすってやったんだけど、涙が止まらなくて参ったよ。・・・・涙が出てくるだろ?煙が強すぎて」


 ハイネルの背中の震えがオレの腕に伝わった。肩口には熱く濡れた感触がある。何か明るい話を続けたかったのだが、自分の腕で抱き締めている腕の中の存在があまりに愛しくて切なく、オレはそれ以上何も言葉に出来なくなっていた。
 言葉の代わりに、抱き締めた腕に力を込める。

 そっと髪に触れてもハイネルは何も言わなかった。そのまま指を差しこみ、しなやかな髪をゆっくりとすきあげていく。ケンカしている時に嗅ぎ慣れた整髪料とは違う、甘く清涼な香りがした。



「グーデリアン・・・・」

「うん」


 オレの肩に強く顔を押し付けているせいでくぐもっているハイネルの声。その声で名を呼ばれ、信じられないほど優しい声でオレは応えた。


「グーデリアン・・・・・」

「うん・・・・」


 そっと頬に手を伸ばし、オレの肩口から彼の頭を引き離すと、彼は抵抗せずそのまま顔を離して涙に濡れた瞳でオレを見上げてきた。無防備な、オレに全てを明け渡した表情で。
 潤んだ緑の目に見つめられていると心の底から震えるような心地がする。オレは額に張りついた彼の前髪をそっと払い、現われた白い額に唇を落とした。それから、栗色の髪に。こめかみに。まぶたに。
 頬に残った涙を指で拭い、まなじりの雫を唇で吸って、再び彼を抱き締めた。


「今日は優しいんだな、グーデリアン。・・・・・お前もこういう想いをしたことがあるのか?お前のような男でも」


 わざと茶化すような声。オレはその声には惑わされず、真摯に告げる。



「そう。・・・・オレみたいな男にも、そういう想いを教えてくれた人がいるんだ」



 少しだけ、ハイネルには気づかれないように腕の力を強め、髪にもう一度唇を落とす。腕の中にいる彼がたまらなく愛おしく、そして切ない。



 いつか。



 オレは目を閉じ、腕の中の存在を噛み締める。その暖かさや、オレの腕の中にぴたりと収まる感触、髪の香りや頬の滑らかさを。
 そして強く思う。


 いつか、・・・・・・。


 言葉にさえならない、熱い奔流にも似た想いに突き動かされ、オレはただハイネルを抱き続けていた。


 ・・・・祈るような強さと真摯さで満たされた想いをかかえながら。

 




 いさぎよく白状しておきます。

 あのー、じ、実は・・・ハイネルが年上の女性に憧れてて、そんなハイネルにグーが憧れて(というか好きで)いる、という話を最近読みました!最近読んだというより最近読み返した、が正確なところですが、まあそんなことはどうでもよくて、明らかにパクリです!!ごめんなさい!!!(笑)
 いやもちろん設定なんかは違うんですけど(当たり前すぎです)、でも明らかに着想というか、その作品に影響を受けて書きたくなったのでどう考えてもパクリなのでした。・・・・・。

 すごく素敵な雰囲気のお話だったのですが、似たような設定で書いてみたら、自分のへぼさ加減が際立っただけでした(笑)。そりゃそうだ・・・。

 ヘタはヘタとして、これもやっぱり私にしては珍しい系統の話なのでキライではないのですが、何しろ明らかにパクリなので(笑)そんなに長い間アップしておくわけにはいかないかなあ、などと思っています。パクリはどこまで許されるものなのか・・・。

 こういうニセモノグーがおキライな方、申し訳ありませんでした。基本的には、私はニセモノグーはあんまり好きじゃありません。とりあえず、グーが顰に倣うなんて言葉を知ってるワケがないということだけは断言できます!(笑)

 この話もわりと好き、という方がいらして下さったらいいな、と一応私も祈っときます(笑)。



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