Gargoyle 14



 レーシングスーツのジッパーをきっちりと上まで閉め、ハイネルは鏡の中の己をにらむかのような鋭い瞳で見やった。そこにいるのは一人のレーサーである。マシンデザインを手がける技術者であり研究者、あるいはスーツに身を包むビジネスマンでもあるフランツ・ハイネルという青年も、レーシングスーツに身を包むと全ての肩書きやしがらみから放たれたただのレーサーになれる。
 こうして鏡の前で居住まいをただし、己の姿と対峙するのはフランツ・ハイネルというレーサーにとっての一種の儀式のようなものだった。こうして彼は鏡の中にデザイナーであり技術者でありビジネスマンである別の自分を置いていくのだ。

  燃えるような緑の瞳。自らに挑むかのような視線を鏡の中に投げかけた後、彼はそこから目をそらした。既に誰もが知るフランツ・ハイネルに戻っている。


 

「ハイネルさん、プログラムの書き換えは完了しました。が、セッティングにまだ時間がかかるので待機していて欲しいとのことです。完了次第改めてお呼びします」
「ああ、ありがとう」

 ピットの壁にもたれながら手にしたファイルに目を通していたハイネルは、ちらりと目をあげて声をかけてくれたスタッフにごく短く礼を述べるとまた視線を書類に戻した。わざわざ監督からの言を伝えに足を運んでくれた青年に対するにしてはあまりに熱のない態度であったが、それがいつもの彼の質であるせいか、あるいはそのわずかな視線と言葉でさえも彼にとっては報いに値するものであったのか、スタッフは更に表情を明るくして自分に一切の関心を無くした風に書面の文字を追っている自チームのレーサーの横顔を見つめている。その目には多分に憧憬の念が込められていた。

 レース初日。フリープラクティス。

 ある種の熱を含んだ眼差しが横顔にあてられているのも知らぬげに、ハイネルは数値と文字の羅列を無心に追っている。彼の精緻に整った横顔はそれだけに冷たく、寄せられる視線や想いにどれほどの熱が込められていようと容赦なくそれを断ち切ってしまう冷徹さに満ちていた。だが、その酷薄さや傲慢さえ彼の賛美者にとっては甘い蜜たりえるのだろう。
 無造作に壁に背中を預けた姿勢だというのに全くだらしなく見えず、むしろ緩みなく張られたピアノ線のように静謐な緊張感がみなぎっているのは彼自身がまとう大気のゆえだろう。レース場特有の熱のこもった雑多な空間にあって、彼の周囲だけがひやりと静まり、冴えている。
 アスファルトを揺るがせ、震わせて響きわたるマシン音。大気さえ歪める熱気。ざわめきに満ちたピット。彼だけが、彼の周囲だけが猥雑なそれらの空間から切り離され、全ての音が絶え、熱が死に、情が凍ったかのような大気が彼を包んでいる。
 透明な硝子ごしにのぞく緑の瞳は知性の光をたたえており、人の情など無縁であるかのように冴えていた。すっきりと通った鼻梁、肌の白さとあいまって、細心の注意を払った鑿(のみ)で石膏を削りあげたかのような端整な容貌は、時として血の脈動を見る者に感じさせない。
 レースという人の常を越えた極限の混沌の世界に身を置きながら、何故彼はこれほどまでに熱や情と無縁でいられるのだろう。彼がこの白い面を高潮させ、情に惑い、何かを欲して狂おしく思うことなどあるのだろうか・・・・・。

「・・・」
「後少しでマシンに乗り込む。先に向かっていてくれ」

 見ずとも足を止めたまま吸い込まれたように自分の横顔を見つめていたスタッフの存在に気がついていたのか、ファイルから目もあげずにハイネルが声をかけた。弾かれたようにスタッフの背筋が伸び上がる。

「は、はい!」

 慌ただしく走り去る靴音にも眉一筋動かさず、一通りコースのデータ等を記載したファイルに目を通し終えたハイネルは、マシンに乗り込むべく一歩を踏み出しかけた。が、その足が止まる。彼は空気の変化に聡い。
 案の定彼からは見えないピットの入り口付近でスタッフ数名がわずかにざわめき、やがて申し訳なさそうな顔をしたチーフに伴われ、サーキットではあまり見ない顔がこちらに近づいてきた。

「すみませんハイネルさん、集中したい時だとは思いますが、突然いらっしゃいまして・・・」

 今日はよくよく望まぬ客に恵まれる日だ。秩序と知性を好むハイネルは精緻に整った容貌とあいまり、平素より人を容易には寄せつけない近寄りがたい大気をまとっている。マシンに乗り込む直前ならば尚更だった。

 背後に伴う男からは自分の表情が見えないせいか、チームスタッフの顔にはあからさまな困惑が浮かんでいる。本来相手がフランツ・ハイネルではなくてもレーサーがマシンに乗り込む頃合いに突然顔を見せるなど非常識も甚だしいのだが、男は大口スポンサーであり、無下に扱うことも出来ぬ厄介な相手である。さりとてマシンに乗り込む直前になって自チームのレーサーの気分を害し、集中力を乱しかねないことなど望むはずもなく、チーフは男をどのように扱うべきものか図りかねているのだろう。

 狼狽した様子のスタッフにハイネルがわずかな視線を投げると、それだけで彼の意図を汲んだのかスタッフはほっとした様子でマシンの整備に戻っていった。
 壁から背を離し、真っ直ぐに相手に向き直ってきた長身のレーサーに対し、チーフスタッフに導かれてきたスポンサーの男は礼儀上差し出された手を挨拶にしては強く握り締め、意気込んで話し始めた。彼の目にはフランツ・ハイネル以外入らず、スタッフ達はいないものとして映っているのだろう。

 スポンサーの男。服飾メーカーの総帥。・・・スーツに包まれて見えぬ肩口には、今も癒えきらぬ深い傷が残されている筈だ。
 
「ハイネルくん。すまなかったね、突然押しかけて。このような時期に邪魔をしては悪いのは分かっていたのだが、私も仕事に忙殺されていてこれまで全く時間が取れなかったんだ。今日ようやく時間を半日分捻出できたと思ったら、矢も盾もたまらず君の顔を見たくなってね」
「いえ。レースウィーク中はとりわけ多忙ですので、十分な対応が出来ずに申し訳ありませんが、多少であれば」

 男の口調は表面上礼を失しないものであったが、その目が不躾なほど遠慮なく相手の姿を眺めやっている。
 男がレーシングスーツを身に纏ったフランツ・ハイネルを直接目にするのはこの時が初めてだった。
 オーダーメイドの、体にフィットしたスーツをそつなく着こなしてビジネスの話を進めていくフランツ・ハイネルの姿とは似ているようで異質な、レーシングスーツに包まれたしなやかな長身。
 ビジネスの場にいる時とは雰囲気が異なっているが、禁欲的で冷たい気はそのままだった。
 袖口からのぞく神経質な印象を与える手首や怜悧な印象を更に強めている細いフレームの眼鏡、その奥から相手を強く見返してくる緑の瞳。
 この緑。氷のように冷たく冴えているが、その奥を暴けば・・・。

 熱心な、という表現では足りぬ男の熱のこもった視線を、だがハイネルはまばたき一つで断ち切った。相手の目に見入っていた男は我を取り戻したように数度軽く頭を振り、改めて相手に向かった。

「そうそう、何よりこれをお伝えせねばと思ってたんだ。先日は、」

 男の声は奇妙に上ずっていた。

「・・・先日は、失礼いたしました。折角の食事の席で深酒をしたようで」

 男の表情には芝居じみた謝罪の色が浮かんでいる。だが視線は張り付いたようにハイネルの顔の上から離れない。
 ハイネルは眉さえ動かさなかった。
 口元に愛想のいい笑みを貼り付けながら、その実男の目は必死に相手の表情を探っていた。フランツ・ハイネルという青年の表情から、隠された彼の本性を読み取ろうとでもいうかのように。

「朝目覚めて気がつけば部屋は惨憺たるありさまでして、恥ずかしながら記憶も曖昧、よもやとんでもない失態をしでかしたのではないかと」
「疲労が蓄積している際は少しの酒でも過ぎるものです。ご多忙ですからね」

 ハイネルの声には相手に対する侮蔑や責める色はなかったが、さりとて想いやりや気遣いなど欠片も込められてはいなかった。
 立てられた髪。眼鏡の細いフレーム。全ての無駄をそぎ落としたかのような鋭利な頬のラインはどんな猥雑な憶測も問いかけも跳ね除ける。
 男の熱のこもった視線を完全に黙殺しているハイネルに、スタッフからの声がかけられた。

「ハイネルさん!セッティングが完了しました!」
「ありがとう。すぐ行く」

 簡潔な応(いら)えと共にふと緑の目がそらされ、その途端男はじわりとした焦燥感がたちあがってくるのを感じていた。声をかけてきたスタッフから再び戻された、相変わらず熱の宿らない瞳がこちらを認め、美しいが抑揚のない声が告げる。

「申し訳ありませんが、これからマシンに乗り込みデータをとらねばなりませんので」

 慇懃だが容赦なく相手を切り捨てる言葉を吐く薄い唇。人としての情など無縁であるかのように見える澄んだ緑の瞳。
 この薄い唇が快楽と苦痛のあわいで懇願の言葉を吐き、緑の瞳が情欲に潤んだなら。冷たい気をまとう白い体が貪欲に快楽を啜り、獣のように歓喜の叫びをあげたなら。どんなに淫猥な娼婦も恥じて逃げ出すだろう。
 
 男は夢と呼ぶにはあまりにも濃密な、無上の悦楽をともなう夢を一夜だけ見た。このフランツ・ハイネルが、今男の目の前に立ち、清新な面持ちでこちらを見返している冷たい男が、男を欲して狂う夢を。

 酒と血と精にまみれてベッドの上で目覚めた朝、男は混乱の極みにありながら再び手淫にふけった。肩がひどく痛んだが、その痛みさえも快楽のよすがとなった。


「それでは失礼いたします。お気をつけてお帰りを」

 フランツ・ハイネルは短く頭を垂れ、男の混乱に構わず背を向けて一歩を踏み出した。
 男が必死で追いすがる。
  
「もう一度!」

 足を止め、ハイネルは男の方を振り仰いだ。それだけの仕草もこの青年がすると優美である。男は勢い込んで続ける。

「もう一度同じホテルのレストランに予約を取る。侘びの意味を込めて。だから・・・・」

 緑の瞳が見つめている。

 男は不思議な感覚を味わっていた。それを何と表現すればいいのだろう。
 フランツ・ハイネルの目はこの上なく冷たく、同時に言葉に尽くせぬほどの熱をたたえている。この目に見つめられていると心が冷えるような思いを味わうが、身を内側から焼き尽くされてしまいそうな欲望の炎も広がっていくのだ。

 緑の瞳に見つめられている。

「前回のレースで、私はジャッキー・グーデリアンの駆るマシンと接触し、リタイヤしました」
「何?」
「単純なハンドリングミスです。当然己の未熟さを悔いましたが、それで結果がくつがえるわけではない」
「君は突然、一体何を・・・・・」

 白い面が全ての情や問いかけや熱を拒絶している。唇が薄い笑みをはいた。

「やり直しなどきかない、ということです」

 冷たい笑みだった。低く甘やかな声が冷然と告げる。スタッフの一部が視線を向けていたが、男の目も耳もフランツ・ハイネルに奪われたままだった。

「二度目などない。同じ夢は二度と見ないでしょう?どんなに甘い夢を見たとしても、・・・・」


 たとえどんなに強く望んだとしても・・・・。
 
 
「一度きりだ。同じ夢は二度と見ない」


 静かな口調だったが、それは男を貫くに足る鋭い槍だった。男は声も出せず、もう振り向きもせずに自分から去っていく青年の足を止めさせる術も持たず、ただその細身の剣のように研ぎ澄まされた背中を見送ることしか出来ずにいた。
 呆然と立ちすくむ男はまさしく部外者であり異邦人であった。

 しばらくして、ようやく男は言われた言葉の意味さえ呑み込めぬままに見えない何かに背を押されたようによろよろとピットから出て行った。
 スタッフの一人が、眉一筋動かしていないハイネルの元に歩み寄って行く。

「よかった。さすがハイネルさんですね。なんだかあの人、妙に執着心があるような目でハイネルさんのことを見てたから心配してたんですけど、見事なあしらいでした。あなたならどんな時も感情に押し流されるなんてことはないんだろうなあ」

 肩を落として去っていく男の背を見ながらかけられたスタッフの言葉に、冷静な筈のハイネルの表情が一瞬だけ揺らぐ。

 だが男を目線だけで見送ったままハイネルを見ていなかった彼がその表情を目にすることはなかった。










「ハイネルさんが出ます!」
「了解!そっちスタンバッてるか?」
「はい!オールクリア!」


 スタッフ達が慌ただしく走り回りにわかにピット内の緊張が高まる中、ハイネルは静かにヘルメットを身につけ、マシンに足をかけた。
 このサーキットは多彩なコース設定をサーカスのようだと揶揄されることさえあるサイバーフォーミュラにしてはスタンダードなレイアウトで、仕掛けや自然条件ではなく純粋にマシンの性能とドライバーの腕で速さが決まる要素が強い。
 己のドライビングはもちろんだが、マシンデザイナーとしても絶対の自負をもつハイネルにとっては自然と力が入るサーキットである。
 慌ただしくピットレーンを行きかうスタッフ達。セッティングを決めかねているのか、前方で自分のマシンをのぞきこんでいるレーサー。観客席から色とりどりのフラッグを振って声援を飛ばしている人々。これほどの多くの人間に支えられているレース。主催者、スポンサー、レーサー、スタッフ、観客達。どのピースが欠けてもレースという一つの夢世界をサーキットの上に描き出すことが出来ないのは理解している。

 だが、マシンに乗り込んだその瞬間、レーサーは一人となる。どれほどスタッフやマシンデザイナーを信頼していようとマシンを操るのはレーサーただ一人だ。

 ハイネルは胸の中で十字を切った。
 彼はマシンに乗り込んだ時に感じる絶対的な孤独を愛していた。穢れと雑音に満ちた、猥雑な現実世界、それがもたらす全ての煩雑さから切り離され、ただ純粋に速さのみが全てを決する世界を。



 狭いコクピットに体を押し込む。エンジンを稼動させ、マシンに命を吹き込む。かつてのフォーミュラカーとは機軸を全く異にするサイバーフォーミュラのマシンの中でもとりわけ異彩を放つハイネルのマシンは耳をつんざくようなエンジン音を放つことはないが、マシンが生きている証である細かな振動は伝わってくる。足元から伝わってくる力強いリズムはマシンの生命の息吹、脈動そのものだった。
 目を閉じ、ステアリングに手をかけ、深い息をつく。やがてハイネルとマシンの拍動が一つとなる。
 再びまぶたを押し上げると同時にアクセルを踏み込んだ。

「出ました!」

 緊張と興奮をはらんだスタッフの声も聞こえない。ハイネルはただアクセルを踏み込み、ステアリングを握る手に力を込めた。

 このサーキットはストレートが多い高速レイアウトとなっている。
 マシンデザインをも手がけるフランツ・ハイネルはさすがにマシンセッティングに関する能力も高く、他チームに先んじてタイムアタックやフリー走行に出走できることが多い。この時もサーキット上にあるマシンはまだ数少なく、理想的かつクリアなコンディションでマシンを走らせることが出来そうだった。





『左コーナー、バンクゼロ。フラットコンディション』

 素っ気無く平坦なマシンの電子音を耳にしながらピットレーンからメインストレートを抜け、第一コーナーに入っていく。

『どうだハイネル?マシンの印象は』
「悪くはありません」

 無線越しの監督の声に短く返し、彼は続く第二コーナーへと向かった。第一コーナーから第二コーナーまでは緩い角度のレイアウトなため、マシンへと十二分にスピードが乗っていく。そこからは長いストレートに。このサーキットはバックストレートが連続コーナー直後に配置されているためスピードが伸びず、ここがメインストリートに次ぐ最高速を記録するセクションだ。
 しとやかな淑女の顔をしていたマシンがその仮面を剥ぎ取り、荒々しい本性を剥き出しにするまでにはまだ時間がある。それでも、マシンから伝わる脈動そのものの振動を足元から全身に受けながら、それを操るハイネルもまた冷静な氷の面の下で、どこか体の奥深い場所から血がざわめき出すのを感じていた。

『オールクリア』

 全てのマシンへの搭載を義務づけられたサイバーシステムが常にマシンとドライバーのコンディションを正確な数値で割り出し、モニタや音声で伝える。
 マシンも、そしてフランツ・ハイネルの肉体的、精神的コンディションにも狂いはなかった。モニタ上の表示はオールグリーン。技術の粋を極めたサイバーフォーミュラマシンが誇るシステムも、ドライバーの心情の機微までは読み取れぬようだ。
 白い頬はまだ紅潮さえしていない。だが、マシンの振動でぶれ、容易には定まらない視界と共に意識は確実にレース時特有のものに塗り替えられていく。足元からざわりと血がざわめきたっていくのを感じる。コンディションは今もオールグリーン。だが体中を巡っていく拍動と、それに連動するこの喉の渇きはハイネルが通常感じ得ないものだ・・・・『あの時期』以外は。

「今回のレースは第四セクションが鍵になるはずです。データを頼みます」
『分かった。任せておけ!』

 体の内のざわめきなど感じさせぬ冷静な声で告げると、緊迫した声がかえってきた。コース脇を並走する緑深い森林の美しさに目をとらわれる間もなく、ハイネルは続くセクションに突入していく。
 バックストレート直後に位置する第四セクションは連続コーナーからなる、このサーキットでもっともテクニカルなレイアウトになっている部分である。ストレートが多く、最高速を出しやすいセッティングにマシンをもってくるチームが多いことが予想されるだけに、その高速セッティングでこのテクニカルな連続コーナーをどう攻めるかが今回のレースの重要な要素となるはずだった。

 第四セクションの第一コーナー。アウトから入ってインへ、クリッピングポイントからアウトへ。モニタ上の文字が目まぐるしく踊っている。路面温度の変化、バンクやコーナリング角度、シミュレーションタイムとのずれ・・・。迫りくるコーナー、後方、そしてモニタ表示を瞬時に追いながらハイネルはマシンをさばいていく。


 淑女は今や獰猛な牙をむこうとしていた。細かいアクセルワークとブレーキングを繰り返しながら、激しい振動でぶれるステアリングを力でねじ伏せ、意のままに操っていく。現在の心拍数は百六十八。レーサー達はレースの間中一般的な心機能限界の実に九十%に達する脈拍数を記録しつつマシンを駆っていくのだ。あまり汗をかかぬ体質のハイネルの白い額にじわりと汗がにじんだ。首筋に重いGがかかり、歯を食いしばってそれに耐える。

『心拍数百六十九。コンディションオールグリーン』

 抑揚のないサイバーシステムの声が彼の現在の状況を読み上げていく中彼はドライビングを続ける。
 フランツ・ハイネルの目はめまぐるしくマシンのモニタと迫りくるサーキット上を行き来し、膨大かつ雑多な情報を瞬時に蓄積し、適切に処理していく。彼の冷静かつ精緻な情報処理能力は、なるほど『精密機械』の名にふさわしい。

 この時、彼の意識は冴え、だが同時に体の奥底から、マシンの息吹が伝わってくる足元から沸々とした熱が湧き上がってくるのも感じる。
 奇妙な、相反する感覚。知覚は冴え研ぎ澄まされ、自分がマシンの、機械の一部となっていくような錯覚を得る。そしてそれと同時に、体の奥からはマシンから伝わるリズムと同調した熱い塊が生まれ、その熱で理性を食い破ろうとする。原初の獣の記憶そのままの、それは野生的で荒々しい衝動だった。

 体中を巡る血が沸騰しているかのように熱い。新機軸をうたうマシンには旧式のトルクなど使用されてはいなかったが、まるで最高速で回転を続けるその動きを模しているかのように心臓が激しく拍動を繰り返して熱い血を送り込んでくる。Gで視界がぶれる。喉が渇く。
 ステアリングを切る角度を二度修正。理想的なタイミングでマシンがアペックス(コーナーにある縁石などの頂点)に乗った。
 冷静な判断力がステアリングを握る手を、アクセルを踏み込む足を制すると同時に、百七十に達さんとする心拍から送り出される血ががなりたててくる。
 アクセルを踏み込め、1oでも深く。前を行くマシンがあれば喉笛に噛み付いて打ちのめしてやれ・・・・・。


 複合コーナーの最後のカーブを処理し終わり、ハイネルの駆るマシンは矢となって次のセクションへと駆けていく。

 喉がひどく渇き、無意識のうちにハイネルは舌で唇を潤していた。まるで獣が獲物を前に舌なめずりをする時のように。

『いいぞ!いいコーナーワークだった。これなら次あたりにベストタイムが更新出来るかもしれん!』
「セッティング変更はせず、このまま行ってみます」
『ああ、頼んだぞ、ハイネル!』

 興奮のにじみ出た監督の力強い口調とは対照的にあくまで冷静なトーンで返し、ハイネルは最終セクションに向けてコーナーを処理していく。理想的なラインを辿る、若さに似合わぬ老獪ささえうかがえる精密なドライビングである。ジャッキー・グーデリアンの時にラフで野生的な走りとは対極にある走り。

 揶揄と賞賛が入り混じった口調で『まるで機械のような』と走りを評されることは珍しくなかった。感性のドライビングの申し子とも言えるジャッキー・グーデリアンがサイバーフォーミュラへの移籍を果たしてから、その声は更に高まりさえした。フランツ・ハイネル自身は別段その評に対して反発も憤りも感じたことはない。異を唱える気もない。ただ、ハイネルは子供のような純粋な無垢さで思うのだった。

 彼らはみなサイバーシステムと同じ。彼らに見えているのは表面的な数値であり動きであり流れなのだ。
 彼らは冴えた水面の下で渦巻く激しい潮流を知らない。白い体の中を駆ける熱い脈動を知らない。そうでなければ、マシンを操っている時に感じるあの飢えと乾きにも似た衝動に突き動かされるままにマシンを操る姿を評して『機械のような』とはとても呼べないだろう。・・・・彼らは知らないのだ。フランツ・ハイネルというレーサーもまた、サーキットでは獣のような熱い疼きに支配されていることを。





「ハイネルさん、お疲れさまです。本当にいい走りでした。明日のクオリファイが楽しみですね!」

 マシンセッティングが完了した際も声をかけてきたスタッフが手渡してくれたタオルとドリンクを受け取りながら、ハイネルは常と変わらぬ抑揚で礼を告げた。さすがに白い頬は紅潮しその額や首筋は汗に濡れていたが、それ以外に彼の熱や興奮を語るものはない。
 ハイネルの駆るマシンはメインストリートを再び駆け抜け、コントロールラインを通過してそのまま周回を重ねていた。サーキットに早い段階で出ることが出来たせいでクリアなコンディションでタイムアタックを重ねられ、申し分のない集積データと自信を得た。本戦直前であってもフランツ・ハイネルは時間の許す際(きわ)までデータを積み、マシンの状態を高める努力を怠らぬレーサーである。開催直前までレースを実施するサーキットを公表しないスタイルをとっているサイバーフォーミュラにあっては、実際にサーキット入りしてから得られるデータの有用性、重要性は他のカテゴリーの比ではない。

 彼にとって、レース初日のフリープラクティスはなすべきことを全て消化し、最高の形で終わらせることが出来たと言っていいはずだった。 ただ一つ、マシンを降りた後もまだ体の奥で熾火のようにくすぶり続けている熱がわだかまっていることをのぞけば。

 理由は分かっていた。・・・・ジャッキー・グーデリアンを擁するチームのマシンがまたエンジントラブルを抱え、結局満足なアタックをすることなく初日を終えていたからである。マシンに乗り込んでいる時に高まるあの獣のようなハイネルの熱は、ジャッキー・グーデリアンのマシンと激しい争いを繰り広げ、互いにしのぎを削ることによってのみ昇華されるのであった。


 急激に冷えた飲み物をとった際の体への負担を考慮してあえて外気温に近い状態に整えられているドリンクを口にすると、生ぬるいそれが乾いた喉を通り、多量の水分を失して補給を訴える体に染み渡っていった。ドライビングでどれほど飢えと渇きに苦しもうと、一度コクピットから身を起こせばこうして簡単に喉を潤すことが出来る。だが、水分を体内に取り込めば取り込むほど、それだけでは癒せない別の渇きが体中に巣食っていることを意識せずにはいられなかった。
 じわりと、体の奥底でよく知った嫌な感覚が頭をもたげたのが分かった。
 グーデリアンとの交情を覚えてから、レースの渇きと定期的に訪れるあの渇きの境界が混沌としつつある。


「本当にお疲れさまでした!マシンの整備は任せて、まずはゆっくり体を休めて下さい」
「ああ、ありがとう。データ解析が終了してから分析結果に目を通すつもりだが、それまではそうさせてもらうつもりだ」
「最低でも三時間は休息をとって下さい!それもレーサーの努めです!」
「ありがとう」

 体を休めるのもレーサーの努めのうち、というのはハイネルの己の体をも厭わぬレースへの打ち込みに気をもむことの多い監督の口癖である。いつの間にかチームスタッフの多くが二言目には口にすることになってしまった言葉だ。
 わずかな苦笑さえにじませてハイネルが礼を言うと、スタッフは望む答えが返ってきたことに満足したのか必ず休んで下さい、と嬉しそうに笑み返して念を押し、早速マシンのチェックと整備に走っていった。
 ここからしばらくの間ピットはメカニック達の聖域となる。データやマシンの状態が気になるが、彼が言う通り休養をとるのも必要なのは理解していた。クリアな思考でデータと向き合うためにも、一度体を休めて全てをリセットせねばならない。・・・この疼くように火照る体をもてあまし、果たして安らかさなど得ることが出来るかどうかは別にしても。





 スタッフ達の元を離れ、彼はモーターホームに戻る前にピットレーンから少し離れた場所にある医療スペースに併設されているホスピタリティーブースに足を運ぶことにした。ここではレーサーやスタッフ、メディアなどのレース関係者向けに飲み物等のサービスを行っている。マシンを走らせた後の、疼くような精神の高揚を抱えたままの体。このままモーターホームでシャワーを浴び、ベッドに横たわったところで体が休まることなどないのは分かっていたので、レース期間中に不謹慎だと思いはしたものの、軽くアルコールを流し込んで眠りの波を引き寄せてしまおうと思ったのである。
 まだ初日のフリープラクティスを終えて人のざわめきを迎える前の、医療ブースに続く金網沿いの道を歩いていく。入り口に差し掛かろうとしたところで、彼の名を呼んで足を止めさせるものがいた。振り返るまでもなく相手は分かっていた。

「グーデリアン」
「調子いいみたいだな、音が違う」
「ああ。・・・そちらは大変だったな」
「これもレースの一部さ。オレは動いている間はマシンを走らせる。それだけだ」

  グーデリアンもフリー走行の区切りがついたところなのだろう。マシンセッティングに手間取ってコースインが遅れ、ようやく走行を始めた矢先にエンジントラブルに見舞われた彼のチームは、ハイネルのチームに比べて走行距離は短いはずだ。しかしグーデリアンの駆るマシンは旧式のシステムを組み込んでいる部分が多く通常よりも体力を消耗する。その上卓越した膂力と身体能力でマシンを御するタイプのドライバーであるグーデリアンは既に汗を滴らせていた。
 上半身のジッパーを下げ、右手にドリンク、首からはタオルを提げている。粗い金髪が汗を吸って色を変えていた。口元にはいつもと変わらぬ気安い笑みが浮かんでいたが、マシンを走らせた直後だけは隠し切れぬ野生の気配をその身からほとぼらせている。人好きのする青い双眸がマシンを駆っている時にはどれほど獰猛な光をよぎらせているのか、実際目にすることは叶わずともハイネルにはよく分かっていた。

 恐らくグーデリアンの方も、緻密な計算に基づいた精密な走りを評価されているフランツ・ハイネルが、その実マシンを走らせている時には氷で出来た彫塑のような仮面をかなぐり捨て、白い体の内面で熱い血をほとぼらせているのを知っているだろう。ジャッキー・グーデリアンにとってのフランツ・ハイネル、逆にフランツ・ハイネルにとってのジャッキー・グーデリアンも、『レース』が具象化したかのような存在である。

 ハイネルは努めて平静を装い、・・・事実動揺する理由などない筈であったが、自分の横に立つグーデリアンを目線が合わぬように忍び見た。

 男は汗に濡れている。はだけたレーシングスーツの下には薄い耐火性のアンダーウェアを身につけていたが、汗で張り付いて男の逞しく盛り上がった胸筋をくっきりと浮き上がらせていた。浅黒く日に焼けた首筋に一筋の汗が伝うのを目にし、ハイネルはにわかにいっとき忘れていたはずの喉の渇きを覚えて狼狽した。ドリンクなどでは癒せない種の渇きを。
 男が手にしていたドリンクに口をつけて飲み干していく。荒削りなラインの男らしい顎から続く太い首。そのそらされたライン。男がドリンクを口にするたびに喉仏が生々しく上下する。無造作にドリンクをつかんでいる手の甲に浮かぶ筋、節太い指、綺麗に続く筋肉のうねり。ラフな仕草に含み切れなかった水が唇から零れ落ち、顎から喉を伝っていく。
 この、野生的で放埓な気を放つ逞しい男が・・・。

「・・・っ」

 無意識のうちにハイネルは喉を鳴らしていた。 
 じわりと体の奥底に慣れ親しんだ感覚が這い上がってくる。確かに『あの時期』が迫ってはいたが、まだ猶予はある筈だった。だが、マシンを走らせていた時の興奮といつの間にすり代わったのか、月の律に縛られている彼を定期的に苛む、飢えを孕んだあの耐え難い衝動が腹の底からじりじりとせり上がりつつある。

 グーデリアンは一気にドリンクを飲み干すとハイネルを促すようにして先に立ち、医療ブースの入り口へと歩を差し向けていった。ホスピタリティーブースはここを抜けた先にある。内心の動揺と衝動を外に出すまいと必死におさえつけ、ハイネルも後に従った。感じ始めている体の火照りを散らすために一人になりたかったが、こう見えて人の感情の機微には聡い男のことだ、急に踵など返せば不審に思うだろう。戻ることもできない。

 医療及び隣接するホスピタリティーブースは、今回サイバーフォーミュラの開催が決定して急遽増設された施設とのことだった。そのため造りは極めて簡素である。通路の先にはそろそろ集まり始めたレース関係者達が散見されたが、医師や看護士が待機している部屋の手前で一度グーデリアンは足を止め、部屋のノブに手をかけた。そしてあの気安い口調でハイネルに向き直り、言った。

「仮の待機室があるんだ。先に寄ってもいいか?」
「ああ」

 自分の体内に溜まりつつある熱を何とか散らそうということにばかり意識を集中させていたハイネルは男の言っている内容の必然性などに思い至ることもなく、反射的に答えていた。
 グーデリアンはまずハイネルを部屋に入れ、自分も踏み込んでからドアに鍵をかけた。カチリ、という小さな金属音に散っていた意識を引き戻され、ハイネルがはっと顔をあげる。
 簡素で狭い部屋だった。医者の世話になる者が多い場合の予備室なのだろう。壁も床も天井も白く、窓もない。折りたたみ式の安物のベッドが一つ東向きに置かれているだけの素っ気無い部屋だった。
 グーデリアンは自分が鍵をかけた扉に背を預け、ハイネルを見つめていた。青い双眸はわずかに細められ、もう口元にあの気安い笑みは浮かんでいなかった。


「飢えてるんだろう?目を見れば分かる」


 その一言が合図となった。言葉の意味を理解するよりも早く、ハイネルは男の元に飛びつくようにして唇をふさいでいた。すぐに逞しい腕が彼の背に回され、二人の体が密着する。邪魔な素通しの眼鏡をグーデリアンが奪って床に投げ捨て、渇いた音を立てた。

 マシンを走らせていたばかりの体から立ち上る汗の匂い。野生の気配。それに包まれ、ハイネルの理性が一瞬にして溶かされた。レースで火種を抱えていた体に炎がまわるのは早い。

「んん・・っあ、ふ・・・・」

 舌を絡ませ、水音をたてながら男の唾液をすする。体の欲するままに。何度も顔の角度を変え、噛みつくようにして相手の唇をむさぼっていたハイネルは、不意に体を離し男から少し距離を取った。
 ・・・男がまとったレーシングスーツを脱がせるために。

「もう『その時期』なのか?」

 男のスーツのジッパーに手をかけていたハイネルからの返答はなかった。
 グーデリアンは無言で顔を落とし、上半身のみならず下半身のジッパーを下ろしているハイネルの栗色の髪を見つめている。汗でわずかに乱れているとは言え元は神経質に立ち上げられていた髪や、美しく冴えた、相手を射抜く鋭さに満ちたグリーンアイズ。

常に首筋までを覆うレーシングスーツ。禁欲的という言葉がそのまま人の形をとったかのような青年が、今男の身につけたものを取り去ろうとしている。己の欲を満たす、その為だけに。
 グーデリアンはわずかに口元に笑みをはいた。先ほどの問いの返答を促すように栗色の髪をなでつけながら名を呼ぶ。

「ハイネル?」
「・・・・まだ少し先だ。だがその前後にはレースもマシンテストもない」

 つまり、レースでのつながりしかないジャッキー・グーデリアンとの接触は不可能である。

「予防措置ってわけか?さすがだなハイネル。やることに無駄がない」
「不服か?」
「まさか!いつも言ってるだろう?オレにはもっともらしい理由も理性も必要ない。オレはただお前を抱きたいから抱くだけだ」


 
『こうすることに理由が必要なのはお前の方だろう?』


 男の声の響きはむしろ優しい。だが上から見下ろす青い瞳は相手を断罪するかのような射抜く鋭さを秘めていた。男が柔らかく乱れた栗色の髪をまたなでつけた。

「いつだってお前の方だろうハイネル。・・・獣の行為に人の理屈を持ち込みたがるのは」

 下半身のジッパーを引きおろすために体を屈めていたハイネルは、下から青い瞳をにらみつけたが言葉としては答えず、彼にしては乱暴に男の胸を押し返すような仕草をした。グーデリアンは逆らわず、押されるまま壁に背をつける。壁から少し離れた位置に立っていたグーデリアンが歩はそのままで背中を壁につけると、当然下半身が前に突き出す格好となる。

「私は、・・・・・」

 ハイネルは何かを言いかけ、だが言葉が続かなかったのかすぐに言い淀んだ。彼らしくない失態をまばたき一つで押しやり、再び口を開く。

「障害には対策が必要だろう。私はもっとも合理的な対処法を選んでいるに過ぎない」

 失態の上の失態だった。
 もっとも合理的な対処法?ならば敵チームのレーサーなどではなく、もっと後腐れのない、危険性の低い男を選ぶべきだった。・・・そう、例えば彼に心酔し、一夜だけの夢の酔いから醒められずにいるあの男のような。ジャッキー・グーデリアンはその立場も男自身も、都合よく利用するには危険すぎる存在である。

「そうか?」

 グーデリアンの青い瞳が好奇心の強い少年が相手をからかう時のような色を浮かべた。ハイネルはまるでその目と目が合うのを恐れるかのように視線を外し、うつむいて自分が乱したグーデリアンのスーツの合間に指を差し入れた。

「・・・私が誰に抱かれても、お前だけはその相手だとは思われまい。それに、・・・それに成り行き上お前は私のこの呪われた病を知っている。秘密を知る者は少ない方がいい」

 そうしていても、男の視線が上から注がれているのを感じる。それだけで気持ちが揺らぐのを感じ、それを紛らわすためにハイネルは事務的な作業に徹した。

「ハイネル、オレはお前の理屈を聞きたいわけじゃない。ただお前を抱きたいだけだ・・・いいから続けろよ」

 ハイネルはいつもの物堅い表情を崩さず、白い指を伸ばしてジッパーを引きおろしたレーシングスーツをかきわけ、男の肉を取り出す。さすがに平静ではいられなかったのだろう。ことさら無表情を繕っていた彼が、むき出しとなったそれを目にしてわずかにためらうように目をそらしたのに気付いていながら、グーデリアンは何も言わずに彼の目の縁を指でくすぐるように何度か愛撫した。優しい仕草ではあったが、彼はそうすることで自分からは動く気がないことをハイネルに教えたのである。これが一方的に与えられる行為ではなく互いに望んで奪い合う行為なのだと示威するために、何度か体を交わらせた際男が徹底的にハイネルに教え込んだ律だった。ハイネルに逆らう術などなかった。

「・・・」

 ハイネルの喉が畏れと、そして隠し切れぬ期待で再び小さく鳴った。
 マシンに乗り込み、アクセルを踏み込んだ時に感じる、あの細胞のひとつひとつがあわ立つような感覚がじわりと足元から立ちのぼってくる。
 白い指を伸ばして男の肉に絡みつかせると、まだうなだれたままの状態にも関わらず十二分に重みと存在感を返してきた。これがやがて猛り、凶器となって彼の内部を貫き、穿つのだ。
 指が男の存在を確かめるかのように先端や幹の部分をたどり、やがて絡みついて動き始める。ひどい渇きを潤すために男に唇を寄せるとすぐに舌を絡めとられた。片手で男の太い首に抱きつくと、それだけで太くよった筋肉のうねりを感じる。

「ふ・・・っ、・・・・ん、」

 鼻腔に流れ込む微かな汗の匂いにまた体の内部がじわりと熱くなり、ハイネルは夢中で男と唇を合わせ、絡めた指を上下させた。自分のつたない指の動きに、それでも男の欲に少しずつ血が凝っていくのに喜びを覚える。

「ん・・・あ、ああ、」

 ぴちゃ、と舌の絡む水音。

 グーデリアンは片手を彼の背に回してその体を支えながら別の手でレーシングスーツのジッパーを引きおろしていく。開いたスーツの下に着込んだシャツを乱暴に引き上げ、男はむきだしになった滑らかな胸に大きな手を這わせた。指が乳首をかすめただけでハイネルの体がびくりと震えた。

「あ、」

 冴えたハイネルの容貌は整いすぎている故か生々しい性や肉の匂いを感じさせない。濡らしたタオルで汗を拭ったハイネルの体からはマシンを駆っていた時の名残は拭い去られていたが、熱を感じさせない白い肌はまるでグーデリアンの愛撫を待ちかねていたようにしっとりと吸い付くような感触を返した。

 小さく開いた薄い唇がかすかにわなないている。その唇の縁を男の舌がぞろりと舐めあげ、そのまま頬へ、それから耳元へと這い上がっていった。

「んっ・・・」

 更に胸へと愛撫を与えられることを待つ体に、しかし望む刺激は与えられなかった。代わりにグーデリアンの手が下に伸び、上だけではなくレーシングスーツの下肢の部分さえも乱していく。そして。

「っ!」

 ハイネルが緊張のあまり息を吸い込んだ。グーデリアンの人差し指がハイネルの入り口を辿り、そのまま浅く突き入れられたのである。まだそこは何の潤いも与えられてはいず、ほとんど愛撫を加えられていない体も高まっていない。男の節太い指を受け入れるには早すぎた。

「く・・・・っ、あ、」

 痛みはないが、ひどい異物感と圧迫感に胸が詰まるような心地がする。
 背中を壁に押し付けられている姿勢では上手く体に力が入れられず、グーデリアンを制止しようにも叶わない。

「グーデリアン・・・まだ、」

 体をひねることも出来ず、壁に押し付けられたままどうしていいか分からずにとまどっていたハイネルは、無理矢理押し入ってきた指がそのまま強引に狭い場所を上下に行き来し、少ししてグーデリアンの灼熱の塊がむきだしの自分の太股に触れた時点で心底動揺した。まだハイネルの指が絡められたままのグーデリアンの雄は、今や支えがなくとも十分なほどの硬度と角度で勃ちあがっている。

「グーデリアン、待、まだ・・・・・っ!」

 触れているそれがあまりに熱く、恐怖にも似た恐慌に駆られてハイネルは必死に相手の胸を押し返そうとした。だが厚い胸はびくともしない。それどころか男とつながるその場所を指で広げられ、さらに彼を焦らせた。

「せめてベッドに・・・!」

 狭い部屋の唯一の家具と言える簡易ベッドに目を走らせながらハイネルが必死の態で言った。男と何度も情を交わした体ではあるが、まだ立ったまま貫かれたことはない。
 割り切ったつもりでも行為に対するためらいは捨てきれていないというのに、ろくな慣らしもしていない状態で立ったまま男を受け入れることなどとても出来そうになかった。だが、グーデリアンからは彼が望む答えは得られなかった。

「いいのか?あのベッドでお前を抱いたら音を聞きつけてブース中の男が駆けつけるぜ」
「っ」

 確かに彼の言う通り、細いパイプを組み立てただけの簡素なベッドで行為に及べばひどくきしむに違いなかった。その上レース開催に合わせて急遽建設されたこの建物の壁は、不埒な闖入者があげる声などやすやすと通してしまうだろう。だが、だからと言ってこのままこの姿勢で抱かれることなど出来る筈もない。

「グーデリアン、分かったから、せめて少し待ってくれ・・・」
「足を上げるんだ」

 傍若無人な声。それにハイネルは無意識のうちに諾として従っていた。自分で男を招き入れることを体に教え込まれていたせいだろう。
 わずかに引き上げられた右足を男が左手で無造作につかみ、体が浮き上がりそうなほど引き上げ、押し開いた。呼吸を整える暇も与えずに男の体がぴたりと密着してくる。

「ああっ!」

 あまりにも唐突な挿入だった。
 抗議の間もなく両手で尻を掴まれ、熱い塊が奥めいた部分に押し付けられたかと思うと間を置かずに下からグーデリアンの雄が入ってくる。
 ひどい圧迫感と暴力的な熱。ハイネルの体がその存在に馴染まぬうちに激しい勢いで灼熱の塊が体の奥に突きいれられていく。

「ぅ・・・・・っ!」

 何度受け入れても慣れぬその感覚に、ハイネルは己の指を噛んで声を耐えねばならなかった。それでも全ての声を殺しきることは出来ず、甘さの入り混じった苦鳴が噛みしめた指の間から零れ落ちる。

「くぅ・・・・っ・・・・ん、」

 半ば以上を体の中に埋め込まれ、ハイネルの眦から涙が頬を伝った。無理に開かされた足と、壁に押し付けられた背中。不自然な体制で刺し貫かれ、喉もとから得体の知れぬ塊が込み上げてきそうな圧迫感を感じる。

「いや、いやだ、待っ・・・・・っ!」

 ハイネルの制止の声など聞こえていないかのように、グーデリアンは強引に屹立を押し込んできた。狭い場所を無理矢理押し開いて熱い楔が押し込まれ、引きずり出される。その生々しい感触。

「んぁっ」

 一度腰をひかれて揺さぶられただけでひどい圧迫感に襲われ、腹の底から圧し上がってくるような感覚に高い声が上がったが、すぐに男の手が伸びてきた。

「声を出したら聞こえるぜ」
「んんっんーっ、ん、」

 緩く何度か穿たれる。

「んっ」

 口元をふさがれ、体の奥から湧き上がってくる熱い熱を散らすことが出来ず、それは涙となってまなじりを伝った。
頬を伝うそれを舌で舐めあげ、グーデリアンはそのまま抽送を繰り返した。無造作に指が伸び、突然穿たれた痛みと衝撃に勢いを失っていたハイネルの雄に絡め、刺激を与えていく。節太い指で幹をこすりあげ、先端のくぼみに指の腹を押し付けると、ハイネルは首筋をそらせて甘い苦鳴をもらした。

「んんっ・・・!」

 すぐにそこに再び血が滾り、硬さを増していく。ハイネルが悦楽を感じたことで、グーデリアンの雄を迎えいれている部分もざわざわと収縮し、男を誘うように熱く絡み始めた。何度も抱かれ、貫かれた体はグーデリアンの前に従順に開かれる。

「っ・・・ふぁっ・・・んん、んっ」

 グーデリアンが腰を突き上げるたびに、ハイネルの背が押し付けられている壁とこすれて鈍い音を立てている。
 左足は爪先がわずかに床についているだけでほとんど彼の体を支える役には立っていない。今彼を支えているのは、壁に接している背とグーデリアンの腕だけだった。

「ふ、ん、ん、っっぁ!ゃっ・・・」
 熱い楔がハイネルの内部に突き入れられ、抉るようにして内壁を穿ち、完全に抜き去られないまま貫いてくる。硬く、隆々と勃ち上がったグーデリアンの逞しい屹立の切っ先が、ハイネルの狭い内壁を浅く深く何度も行き来する。
 望まぬ形で犯されているというのに、ハイネルの体はあまりにもグーデリアンに従順だった。小刻みに揺すりあげられ、頭が真っ白になるような快感が背筋をはしりぬける。
 既にグーデリアンの手の中のハイネルの欲は濡れ、男が指を滑らせるたびに湿った音を放っていた。
 彼の内部を犯すグーデリアンの雄の先端からにじみ出したもので動きが更に滑らかに、大胆になっていく。

「ぁあッ!ふ、ん、ん、あ、グーデ・・・」

 ハイネルの口をふさぎ、雄を擦りたてていたグーデリアンの両手がそこから去り、代わりに彼の小さな尻をつかみあげ、改めて何度か自分の方に引き付けて深く己の欲を突き立てた。散り散りになった理性の欠片をなんとかかき集め、声が漏れないように震える両手でハイネルは自分の口を覆っている。白い頬は紅潮し、潤んだ緑の瞳からは貫かれるリズムに合わせてひっきりなしに涙が零れ落ちていた。密着した体の間で擦られている彼の雄芯はグーデリアンの指が去っても勢いを失わず、今にも放ちそうにほどに濡れて震えていた。

「んぁッッ!んんっ・・・あっ、ん、グー・・・」

 震える手では声を抑えきることが出来ず、ハイネルは必死で両手を伸ばすと自分を犯している男の首にしがみついた。逞しく盛り上がった男の肩口に顔を埋め、唇を押し付けることで何とか声を抑えようとする。
 白い指がすがるよすがを求めて男の背をきつく掻き抱いた。自分の体さえきちんと支えられずにいるハイネルは、いつしか自分から男の抜き差しにリズムを合わせ、必死で男にしがみついてその荒々しい抽送を何とか受け止めていた。

「く・・・・・っ」

 きつく締めつけられ、小さくグーデリアンが声をあげた。ハイネルの内部は熱く、狭く潤っており、貫くたびにきつく締め付けてくる。絡みつく内壁を振り切り、限界までふくれあがった雄を叩きつけるかのように打ち付ける。

「くそっ・・・・!」

 男の精を絞りとろうとでもするかのように淫猥に締め付けてくるハイネルの内部を己の欲で犯しながら、グーデリアンが小さく吐き捨てた。
 少し苦しそうにも見える男の寄せられた眉。すでに額からは汗が噴き出し、精悍な頬や顎のラインに沿って流れ落ちている。
 いつもよりも余裕の見られない、荒々しい律動。これまで男がハイネルを抱いていた時は、放埓で傍若無人に振る舞っているようでいてどこか冷静に、抱かれているハイネルの反応をはかっている節があった。だが、今ハイネルを抱いている男はいつもとは少しだけ違う。
 野性味あふれる真剣な表情。流れ落ちる汗。荒く繰り返される呼気。

「ハイネル・・・」

 かすかに名を呼ばれ、背筋を這い上がる快感にも似た戦慄。濡れた緑の瞳を上げたハイネルは、荒々しい行為とは裏腹に真摯な表情で自分を見つめている男を見て唐突に気付いた。
男は、・・・グーデリアンはマシンを心ゆくまで駆ることが出来なかったことでわだかまった熱を、今ここで吐き出そうとしているのだ。彼もまた体の中で荒れ狂う別種の熱をもてあまし、飢えにも似たその衝動をハイネルの体に叩きつけることで満たそうとしている。



「ふ・・・・っ、ん、っ、グーデリアン・・・・ッ」

 突き上げるリズムが激しくなり、ハイネルは白い喉をさらして喘いだ。激しい突き上げから無意識のうちに逃れようと、壁に沿わされた背中が伸び上がる。だが男はその動きさえ利用し、浮き上がったハイネルの体を彼の腰に回した両手で容赦なく引き戻し、己の楔を突き立てた。そのまま強引に彼の腰を掴んだ手を数度上下させ、狭い襞の奥めいた部分を穿つ。

「っ!」

 ハイネルの唇がわななき、声にならぬ叫びとなって空気を震わせた。哀れな獲物となった白い体を引き寄せ、荒々しく腰を叩きつける。

 グーデリアンもまた飢えた獣だった。体内を狂ったように駆け巡る熱い血の疼きをどこかに叩きつけ、注ぎ込み、その飢えを鎮めたいとの欲望に駆られている。

「っ・・・っ、・・・リ・・・ン・・・」

 そうしてこの男は自分の欲を満たすために自分を、フランツ・ハイネルを選んだのだ。例えその時最も手近にいたのが偶然彼だったからという理由だけだったとしても、男がフランツ・ハイネルで満たされることを一時でも望んだのは事実だった。

 そう悟った時、ハイネルの胸に瞬時に、そして唐突に熱い奔流が流れ込んできた。体中を駆け巡ったそれは同じような熱を孕んでいるが、飢えからくるものとは違う。飢えからくる熱とは違い、渇きをもたらすのではなく胸の中を暖かく潤していくような、これまでハイネルが知ることのなかった得体の知れない感情の渦。

「ハイネル、・・・」

 自分を犯し、貫き、揺さぶって声をあげさせながら、けしてその心根は見せない男。その男の素のままの心の一端に触れたような気がした。
 グーデリアンの大きな手がハイネルの尻を掴み、完全に彼の体を宙に浮かせてから乱暴に二、三度堅い楔を突き立ててきた。

「んぁ・・・・・っ!」

 高く上がった声を絡めとるかのように唇をふさがれる。熱くぬめった舌を音を立てて絡めあい、それでも足りずに唇に食い合うようにして顔の角度を何度も変えてむさぼりあった。濡れた音をたて、互いの舌と唇を夢中で吸いあう。
 揺さぶられるままに男の剛直を受け入れ、深く穿たれた衝撃で彼は限界までふくらんでいた欲望を弾けさせた。この場のことも声を殺すことも忘れ、自分を貫く男の肩を抱いて名を呼び続ける。

「グーデリアン・・・・あっ、ん、あ、あぁッ、グー・・・・ン、」
「ハイネル、」

 男もハイネルの狭い内部に精を放ち、熱い飛沫が勢いよく注ぎ込まれていった。立ったままのハイネルの太股から、受け止めきれなかった男の精が零れ落ちている。

「・・・ハイネル」

 青い目がハイネルを見た。それだけで放出を終えようとしていたハイネルの欲の先端からどくりと新たな雫が吐き出される。

 自然と唇を寄せ合い、再び舌を絡ませあう。自分の体さえもはや支えられず、崩れ落ちそうになるハイネルの背と腰を、男の手がしっかりと支えていた。





 精を放ち終わってもつながったまま、抱き合って荒い呼吸が整うのを待つ。直前までマシンを走らせていた上に不自然な体制で男を迎え入れ、貫かれていたために立っていられぬ程疲弊していたが、それでもつながりが解け、自分の中から暖かな体温が去っていってしまうのが惜しかった。

 ・・・・・今まで、どんな男の血を啜った後も、獣の所業をほどこしたその場から一刻も早く立ち去りたいとしか思ったことがないというのに。

「レースが終わっても数日は時間が取れるんだろう?」

 熱を吐き出したことで幾分穏やかになった声でグーデリアンが囁いた。彼の腕もまたハイネルの体の上から去らず、それどころか己に引き寄せるかのように細い腰を支えている。
 ハイネルはグーデリアンを見た。情事の後特有の倦怠と色香を薄く開かれた唇は放っていたが、彼の緑の瞳には冴えた理性の光がわずかに戻ってきている。
 これだけ男の精を受ければ、少なくとも当分の間飢えは治まるはずだった。例えまた飢えがやってきても気休めの薬で何とかなる程度だろう。思考力を取り戻しつつある彼の理性がそう教えてくる。・・・だが。

「会えるな?」

 そう問われ、否定の言葉をつむぐことが出来なかった。そうすべきだったにも関わらず。

 親指の腹でその目の縁に残っていた涙を拭き取ると、グーデリアンはたくしあげられたシャツの下で一際目を引く朱色の乳首に吸い付いた。突然刺激を与えられ、声を殺すことも忘れてハイネルの唇から甘い声が漏れる。

「あっ」

 間を置かず、グーデリアンは力を失った雄芯でゆっくりとハイネルの内部を掻きまわした。ゆるりとしたその動きに内部で放たれた体液が内壁と擦れあい、耳をふさぎたくなるような淫らな音を立てた。
 再び両手を腰に回して支え、少しずつ硬さを取り戻しつつある楔を浅く突き上げ、緩やかなリズムで律動を与えながら、赤く染まった唇を震わせて甘い吐息を零しつつ困惑しているハイネルの耳元に男は再び吹き込んだ。

「お前を抱きたいんだ、ハイネル」
「グーデリアン・・・・んっ」
「お前が飢える間もないほど・・・こうやって」
「んんっ」

 緩やかなリズムが、やがて滑らかで激しいものに変わっていった。形を成しかけていた理性が熱い炎に呑まれ、また輪郭を失って溶けていく。


 互いに再び精を放ち、やがて彼らはそれぞれのチームに戻っていった。次の飢えの周期がくるまではもう男に抱かれる必要はない。
 分かっていながらハイネルはその晩グーデリアンに告げられたホテルの部屋に向かい、彼に抱かれた。次の日も、そしてその次の日も。


 ハイネルの飢えの周期が過ぎ去っても彼らは逢瀬を重ねていた。何か理由があるわけではない。あくまで『予防措置』の名の下に。

 グーデリアンがかりそめの宿として滞在しているホテルの寝室は、たった一週間ほどで彼の好む煙草の香りが染み込み、足を踏み入れるハイネルを香りごと抱きしめるかのようだった。その部屋で彼は男に抱かれ、声をあげ、男の精を啜って自らも放つ。その日も互いに何度も絶頂に導かれ、体を清めるために足を踏み入れたバスルームでも体を繋げてようやく清潔なシーツの上で静かな時を迎えたところだった。

 簡素だが好ましい造りの寝室で体をつないだ後、ハイネルはいつも男に背を向けてベッドの上に横たわる。どんな声をあげ、どんな嬌態を見せても、心だけは明け渡さないと頑なに誓ってでもいるかのように。


「・・・何か原因が?」

 聞き返さずとも男がハイネルを苛む呪いの律について尋ねていることは分かる。白い背中がわずかに震えた。わずかな、しかし質量のある重い沈黙が室内にこもる。
 グーデリアンが核心に触れるようなことを聞いてくるのは初めてだった。男は自身が口にしている通り、ただハイネルの体を抱き寄せ、その体を暴くだけで、彼の口から何かを聞き出そうとしたことは一度もなかったのである。それがこの男なりにハイネルのことを思いやってなのか、或いは単に彼の体さえ手に入ればそれで良かったからなのかまではハイネルには分からない。男と同様に、ハイネルも何故男が自分を抱こうとするのか尋ねたことはなかった。尋ねたいとも思わない。

 この男のことだ、ハイネルが答えずにいればそのまま何事もなかったように振る舞い、そして二度と同じ問いを口に乗せないのは分かっていた。分かっていてあえて彼は口にしていた。

「多くの女は、」

「女?」

「そうだ。お前の専門分野だろう?グーデリアン。多くの女は月のものに左右され情緒や体に影響を受けるだろう。それと同じことだ。別に不思議なことではない」

 向けられた背中は男を拒絶するようでいて、それでいてなまめかしい白さを有し、滑らかでしなやかなそのラインは男を誘うようでもある。

「己の意思など関係ない。ただ月の呪いに縛られる」

 音楽的な響きを有するその声は常の知性が込められていたが、何度も情を交わし、甘い鳴き声をあげていたせいでわずかにかすれていた。
 緑の瞳は、まるで見えぬ月を見つめているかのように遠くに向けられていた。

「女と同じだ・・・」

 男をその身に受け入れ、精を注ぎ込まれて歓喜の声をあげるのも。

 ・・・荒唐無稽なお伽話などではない。ハイネルにとっては紛れもない現実だ。

 女という性をもつ者の多くが望むと望まざるとに関わらず定期的にその性の影響を受けずにはいられぬように、フランツ・ハイネルもまた己の意思とは無関係に己の精神と肉体を縛られる。ただそれだけのことだった。

 ホルモンバランス、脳と体の営みのアンバランス、バイオリズム、調べればいくらでも理屈はつけられるに違いない。だがそんなことをして何になる?理由が分かったとしてもフランツ・ハイネルにとっての現実は変わらない。時がくればまた男の血と精を欲するようになる、それだけだ。
 ハイネルは続ける。

「お前がよく揶揄するように私は生粋の『ハイネル家のお坊ちゃん』だ」

 今でこそ近代的な技術に支えられるコングロマリットとして成長した自動車メーカーの祖であるハイネル家だが、元を辿れば青い貴族の血に行き着く。
 古くから欧州に根付いた生粋のブルーブラッドの家系。華々しい栄華と成功に彩られたヨーロッパの血は、だが、自らの血に固執するあまり近親婚を繰り返した結果確かに淀み、濁っていったのだった。

 一族の者にかつて告げられたことがある。ハイネルの家系に連なる記録は幾つも存在する。輝かしいその系譜の中にあって、確かに異端と呼ばれ、無きものにされた書簡があった。そこに綴られていたのは華やかな光に打ち消された、連綿と続く影の道筋だった。
 それは驕りと背徳への代償。

「そのものが言うには、これは別にハイネルの系譜に限ったことではないそうだ。表には出ていないだけで、似たような狂いの血は数多く存在すると。名からするとお前の家系も欧州の出だな?お前の一族にもお前の知らぬ呪いがかかっているかもしれないぞ」

 ハイネルは笑いながら言ったが、そう語る彼の口調も表情も多分に自嘲を含んでいる。

 青い貴族の血を濃く持つハイネル家の男児。緑の目を有する男児には、月の律に縛られ男の血と精を欲して狂うものがある・・・・。

「馬鹿げた話だ」

 吐き捨てるような声だった。凍ったような冷たい光を浮かべている緑の瞳は初めから笑ってなどいなかった。

「馬鹿げた話だろう?笑いたければ笑うがいい。私とて荒唐なこんな話など完全に信じているわけではない。・・・だが信じようと信じまいと、私の身を蝕む呪いの律が存在していることは確かだ。だから私は、その呪いを昇華させるためだけに、こうしてお前に・・・」

 声はそこで途切れた。
 全てを拒否するかのような、頑なで冷たい声だった。
 熱が存在しないかのようなむき出しのその白い背中に、ふと暖かいものが触れた。グーデリアンの手だった。大きな彼の手のひらが背中のラインを辿り、そしてシーツの下にまで潜って先ほどまで男を受け入れ、まだ濡れそぼっている足の間に差し入れられた。

「んんっ」

 冷たさとは対照的な、熱く掠れた息がハイネルの唇から漏れる。

「あっ・・・グーデリアン、もう・・・」

 指が内部をほぐすように蠢き始め、体を引き寄せられ、ハイネルは男を止めるための言葉を口にした。だがその声には力がなく、すぐに甘い吐息にとって変わられてしまう。

「ハイネル、お前はいつまでたっても『人』のままでいようと足掻くんだな」

 熱いグーデリアンの息を背後から耳元に注ぎ込まれ、彼の体が震えた。緩やかにグーデリアンの雄が押し込まれていく。溢れるほどの精を注ぎ込まれたハイネルの内部が柔らかく屹立を締め付け、歓喜と共に迎え入れた。

「あっ・・・・あっ」

 ゆっくりとした突き上げにあわせて鼻にかかった甘い声をあげるハイネルの硬くなり始めた欲望に刺激を加えながら、グーデリアンが囁く。

「こうして・・・・」
「ああっ!」


 体が求めるまま、獣のように振る舞えばそれだけで楽になれるのに。


 男の言葉は、しかし強い突き上げと共に高い喜悦の叫びをあげていたハイネルに届くことはなかった。









 奇妙ではあるが、それからもいっそ平穏とさえ呼べる二人の関係は続いていた。
 月の律に乱されるハイネルはサーキットやレセプションでグーデリアンと顔を合わせるたびに彼に抱かれ、飢えと渇きからくる影響を忌避する。
 無論レース日程やスポンサー活動等で彼らが同じ地に立つタイミングが常にハイネルの飢えの周期に合致するわけではなかったが、同じレース界に身を置く二人は月に一度は必ず顔を合わせる。その度に濃密な情を交わすことによって、ハイネルが以前のようなひどい渇きに襲われることは無くなっているようだった。

 男が、・・・グーデリアンが何故ハイネルの業を昇華するために彼を抱いているのかは未だに分からない。稀代の色事師と呼ばれた男のこと、気紛れに女性ではなく同性であるハイネルにも『悦楽による現実からのひとときの乖離』を与えてやっている気になっているのかもしれないが、男の真意など彼は知りたくもなかった。


 男はいつもごく自然に彼を抱き寄せ、彼は男の腕の中で乱れながら何度も告げる。これは体内に澱のようにたまった穢れを浄化するための儀式なのだと。あるいは飢えた者が食す行為なのだと。それ以外に意味も意義も意趣もない。
 ハイネルの贖罪のようにも響くその告白に、男からのいらえが返ったことは一度もなかった。

 飢えの周期が近づくと、以前は何とか薬で意識を散らそうとしていた。彼がすがっていたのは叔父が口にしたことのある精神安定剤の一種だった。服用することで全般的に体機能が落ち、精神的及び肉体的倦怠、疲労感を引き起こすが故に性欲も抑制される。それでも強い飢えや渇きは凌ぎがたく、彼は理性と情動のあわいで激しい葛藤を強いられていた。


 しかし今は違う。彼は今や自分の宿業である飢えや渇きと折り合いをつける術を学び、潔癖な精神で己の呪いを拒絶するのではなく、割り切った理性で処することを選んだ。
 自らの情動と戦う無為な数日間を過ごすよりは、数時間獣のように己の欲望を開放する方が建設的だと考えたのだろう。執拗なほどグーデリアンに何度も抱かれ、放埓な快楽を教え込まれ、抱かれることを欲する自分の体を御することが更に困難になっていたせいもある。






「んんっ、ん、ふ、・・・・ン、んあ、」

 ホテルのベッドルームに、押し殺した甘い喘ぎが流れた。ベッドヘッドにけだるく背を預けているのはフランツ・ハイネルである。床からの間接照明が淡い灯りを投げかけている以外光はなく、部屋は薄い闇に支配されていた。閉ざされた厚いカーテンの向こうには、満ちるまでにはまだ間があり、欠けて奇妙な輪郭を得た月が白々とした光を放っている。

 ハイネルはしなやかな体を白いバスローブ一枚に包み、先ほどからベッドに足を伸ばしていた。軽くたてられた膝の間に右腕が忍び、淫らな上下運動を繰り返している。バスローブの合わせから覗くすらりと伸びた白い足と、その間に差し入れられた腕が落とす淡い影。その動きに合わせて足の上の影も淫らに躍っている。

「あ、あ、あ、・・んん・・・・」

 聞く者もいないと言うのにハイネルは額を膝頭に押し付け、薄く開いた唇を震わせてもれる声を殺そうとした。しんなりと下ろされた栗色の髪が白いローブの上に散り、波打っている。
 甘い刺激に耐えるために、右足の親指がきつくシーツを掻いた。シーツが乱されるそのわずかな音。手のひらの動きと共に生み出される淫らな水音。無理に押し殺した甘い声と、さらさらと髪がローブの布地にすれる音。渇きを無意識に癒やそうというのか、赤い舌がひらめいて唇を何度も辿り、熱い吐息が乱れたローブの合間からのぞく膝頭を湿らせていた。



  フランツ・ハイネルは技術提携を行っている音声デバイス企業との会合のために一人ホテルに滞在していた。
 次のレース開催までにはまだ一ヶ月以上あるが、明後日にはFICCYが主催するレギュレーション及び運営陣の異動発表が予定されており、レース関係者が招聘されていた。もちろんジャッキー・グーデリアンも出席者の一人として名を連ねている。
 ・・・ジャッキー・グーデリアン。彼の呪われた秘密を知り、彼を飢えから解き放てる唯一の男。記憶の中で鮮明に結ばれた男の像。濡れた己の欲を握るハイネルの手に力が込められた。




 抱かれる快感にあえぎ、意識を失いそうになりながらも、ハイネルは涙を零しながら繰り返す。これは本来の自分ではなく、彼の中に潜む飢えた異形の所業なのだと。

『お前が飢えに苦しむ必要はない・・・耐えなくていいんだ』

 あの青い瞳を持つ男はハイネルの耳元にそう囁いた。荒々しい律動で彼の体を支配しながら、首筋に唇を落とし、耳元に囁く声は優しかった。

『どんなに飢えても、渇いても、』

 そこで一瞬男は突き上げる動きを止め、忘我の境地に達しつつあるハイネルの紅潮した頬を撫でた。与えられていた刺激を不意に中断され、どんな男も魅了するであろう潤んだ緑の瞳をハイネルは差し向ける。

『・・・お前にはオレがいる』




「んんっ・・・・!」

 脳裏にひらめく青い瞳の残像。

 甘い戦慄がわきあがり、ハイネルは左手の指を噛んで叫び出しそうな衝動に耐えた。唾液に濡れた指がてらてらとした光を放っている。そのまま彼は指の先を口に含み、更に唾液を絡め始めた。男がかつてそうしたように。そして男にかつてそうさせられたように。
 自分自身を慰撫するだけでは足りず、十二分に滾った欲に伸ばされていた右手はいっときそこから離れ、そっとローブの胸の部分を割った。触れられる前からピンと立ちあがった乳首をねっとりとしたもので濡れた指先が弾く。

「んっ!」

 熟れた果実のように赤く染まった胸の尖りを押しつぶすようにして刺激を与えながら、彼は尚も口内の指を濡らしていく。乱暴なほど強く自らの乳首をつまみあげ、先端を弾いてから周囲を柔らかなタッチで刺激したのは、かつて男にそうされた記憶が残っていたからだった。

「あっ・・・んん、んあ、」



 熱に麻痺した思考の片隅をよぎっていくのは散漫な言葉の切れ端だった。記憶のグーデリアンが耳元に落としていく甘い毒の酔いを醒ますかのように冷たく冴えた、ハイネルの一族を呪う言葉が。フランツ・ハイネルがフランツ・ハイネルに投げかける血と精の呪いの言葉。


 体の飢えを満たすのはいい。この呪いを享けた者は自分の内に獣を住まわせている。醜く呪わしく、恐ろしい衝動を持つ獣。
 獣を内にもつ者は時折その獣を放ち、満足させ、飼い慣らす術を学ばねばならない。・・・だが。心の飢えは満たせない。飼いならすことも出来ない。


 例えそれがひとときの慰めでしかなくとも、体の飢えは情を交わせば満たされる。だが体ではなく心が飢えを覚えたらそれを満たす術はない・・・。


 ハイネルの脳裏に男の青い瞳が浮かんだ。海のような青い瞳。・・・あの目を思い浮かべると、溺れる者のように胸がふさがり、呼吸さえも忘れそうになる。あの男の声が、指が、熱が、抱かれるたびにハイネルの体に浸透し、時折こうして体の内部から疼かせるのだ。








「くっ・・・ん」

 乱暴なほど執拗に指先でこねあげられた乳首はこれ以上ない程堅く立ち上がり、欲の滴りを塗り込められてこの場にはいない男を誘うかのように隠微に濡れ光っている。ぴちゃり、と胸の尖りをいじっているのとは逆の指に舌が絡んで音をたてた。体の芯から蕩けそうな随喜が足元から立ち上ってくる。だがまだ足りない。

「ん、ん・・・・・・・ン・・・・」

 無意識のうちにベッドの上の足がわずかに開いた。白い足の奥は乱れたローブの裾に隠れており、艶めかしい陰影が落ちている。おざなりに腰の位置で結ばれたひも、そこから上に続くローブの襟元。彼が荒い呼気に薄い胸をあえがせるたび、朱色に熟れた乳首が布の合間から見え隠れする。空調で快適に整えられたはずのホテルの一室にこもる淫らな熱。

 明後日彼はまたジャッキー・グーデリアンと顔を合わせる。そこで彼はいつものようにあの男に身を任せることになるのだろう。通常ハイネルが狂おしい飢えに襲われるのは月に一度、月が満ちる前後である。叔父も同じ時期に渇きを覚えると述べていたので、恐らくハイネルの系譜に連なる者に科された呪いには一定の律があるのだろう。


 満月は一週間後である。
 次のレースまで間があるケースではグーデリアンに貫かれることで激しい情動を洗い流すことは出来ず、代わりに何度もこうして自分で欲を頂点に導くことで飢えと渇きを何とか凌いできていた。それでも、効きもせぬ錠剤と共に遣り切れない体と心の疼きを無理に呑み込んでいた頃に比べれば格段に『合理的』な処置を施していると言えるだろう。



 この獣を力で御そうと押さえつければ、いつか身を食い破られる。そうではなく、時折体内で暴れ出すそれを放ってやればいい。見えぬ鎖をつけたままで。そうすれば獣は満足し、またひとときの眠りにつくだろう。次の飢えの周期が訪れるその時まで。



 銀の光を放つあの天体は真円ではなく、縁を欠けさせ傷をさらしている。満ちるまで一週間の間がある今、彼はまだ渇きを覚えているわけではない。ただシャワーを浴び、疲れた体を横たえようと寝室に足を踏み入れた時にふと窓辺に歩み寄って漆黒の闇を彩る月を見上げた時に思ったのだ。

 明後日の二日後にはジャッキー・グーデリアンと顔を合わせる。きっと男は今回も来るだろう・・・この体を抱くために。

 何気なくそう思いを巡らせた途端、体の奥に熱い疼きを感じて彼はうろたえた。周期的に襲いくる飢えや渇きとは異なる疼きだった。彼にしては乱暴な手つきでカーテンを引き、歪んだ非対称な月を視界から追いやる。生じた熱が飢えの周期が来ると一気に押し寄せる圧倒的なものではなく、体の奥深い場所からじわじわと浸透してくる類のものであったのが彼を更に動揺させていた。
 ようやく己の中の異形を飼い慣らす術を手に入れ始めたというのに、この体には尚も貪欲に牙を剥こうとする得体の知れない獣が棲んでいるというのだろうか。


 その淡いが無視出来ない体の疼きは結局身を横たえてもアルコールを流し込んでも散らすことが出来ず、彼は宿業である飢えに襲われた時と同じ手法を選んだ。つまりグーデリアンがこの場にいない以上、自分で自分の体を慰めるのである。
 理性や道徳心に縛られ、何時間も無為な時間を過ごすのは愚かなことだ。それよりは例え自己を嫌悪する念に後で取り付かれようとも、わずかな時間理性には目をつぶって体の中に棲む獣を目覚めさせた方がいい。これも彼にとっては合理的な帰結に過ぎない。少なくとも彼自身はそう信じていた。






「あっ・・・・・く、ん、」

 彼のローブは半ば脱げ落ち、大きく膝が割り開いている。申し訳程度に張り付いたローブの裾からのぞく長い足が時折耐え兼ねるかのようにピクリと跳ね、勃ちあがった欲が雫をこぼしながら開放の時を待ちかねて震えていた。
 切なげに眉を引き絞り、やがてハイネルは十二分に唾液で潤した左の指を充血しきった己の欲望のその奥、何度もグーデリアンを受け入れた場所に忍ばせた。指先を狭い入り口に潜り込ませる。あれほどに逞しいグーデリアンの楔を貪欲に呑み込み、受け入れる場所だが、初めに内部に突き入れた時の衝撃は変わらず大きい。

「んっ!」

 優美な弧を描く眉がしなやかに寄る。痛みに耐える表情には、しかし確かに快感の萌芽も見られた。一本を奥まで埋め込み、そろそろと指の数を増やしていく。そこは熱く狭く浸入を拒むかのように指をきつく締めつけ、それでいて退く動きをすると逃すまいと絡みついてくる。グーデリアンの雄を受け入れている時も自分の内部がこんな動きをしているのかと思うといたたまれない思いがしたが、それよりも逸る気持ちにせかされ、彼は恐る恐るといったぎこちない動きで指を上下させ始めた。

 右手は再び自分自身の昂ぶりを慰撫している。そこはすぐにでも放てるほど育っていたが、放出の衝動がくるたびに根元を戒め、必死でそれをやり過ごしていた。グーデリアンに抱かれ、貫かれながら絶頂を迎える時のあの何もかもが白く塗りつぶされたような感覚を脳裏で再生させながら、段々と奥を穿つ指の動きも速くしていく。
 しきりに潤いを求めて舌が唇を這い回った。閃く赤い舌と白い歯。濡れた緑の瞳。

「あっ・・・んあっ」

 指では足りない。質量も熱も、あの逞しいもので貫かれる時の快感には程遠く、ハイネルは自分の奥を指で犯しながら前の欲望も荒々しくこすりあげた。

「くっ・・・・・んん、あ、」

 熱い。
 足の指にぎゅっと力が込められ、シーツが更に乱れた。
 長い睫に涙の雫がのり、彼の瞬きにあわせて紅潮した頬に零れ落ちていく。

「あっ・・はっ・・・はっ・・・・んっ・・・んん・・・・リアン・・・・リ・・・・ン!」

 手の中で欲望が弾け、熱い雫が白い指を汚した。声にならない叫びをあげた唇はわななき、白い喉元をさらした彼の体からやがて力が抜けていく。
 脱力した体をベッドに横たえ、彼は放心した態でしばらく荒い呼気を吐き出していた。




「はあはあ・・・・・は、」

 繰り返される呼吸の他に耳に届くのは微かな空調音のみである。あの欠けた月は今どこに位置しているのだろう、と横たわったまま彼はぼんやりと思った。もちろんベッドを立ち、窓辺に歩み寄るだけの気力も体力も今の彼には残されていない。
 吐き出した熱と共に熱病のような興奮も醒め、残されたのは泥のように重い体だけだった。少しずつ体は静まってきているが、それとは逆に冷静さが戻ってくるほどに心には嵐をもたらす暗雲が立ち込めていく。

 手と太股伝う愛液の感触が不快だったが、それよりももっと不快なのは体の奥底に熱い精が注ぎ込まれていないことを物足りなく思っている自分自身だった。

 体は行為で満たされた。代わりに心は行為の前よりももっと渇いている。


 今は呪われた体に飢えと渇きが訪れるとそれを満たしてくれる男の腕がある。だが、それは男が数多の女達に施している数ある睦みの一部に過ぎない。そんなことはハイネル自身にも分かっている。自分も、男を自分の飢えを満たすだけに利用している。・・・その筈だった。


 約束もなく、束縛もなく、もちろん愛の言葉などない。


 二人はただレースやマシンテストの開催地で、レセプションで、スポンサーとの折衝先で体を重ねる。どんな恋人達よりも密に、熱を込めて。

 何度も深く体を重ね、糾(あざ)わり、支配し、支配されてきた。
 そうしてハイネルは体の飢えを満たしてきた。満たされてきた。ジャッキー・グーデリアンという男の体を得ることで渇きを潤すことを覚えた。飢えが激しければ激しいほど、渇きが深ければ深いほど、男に穿たれ、体内に精を注ぎ込まれた時の充足感もまた大きかった。

 体の飢えを満たすことは簡単だ。体の中の獣をいっとき解き放ってやればいい。だが、


 ・・・だが、では体が満たされた後も一層乾きをいや増している心はどうやって満たせばいい?



『ハイネル。お前が飢えに苦しむ必要はない・・・耐えなくていいんだ』


 脳裏に甦る男の甘い声。フランツ・ハイネルが飼う獣の飢えを鎮め、代わりにフランツ・ハイネルの人の心を飢えさせる男の声。・・・・・・・ひどい男だ。
 不意に訪れた涙の衝動を何とか耐えると、ハイネルは力の入らぬ指でシーツを引き上げ、まぶたを閉じた。精神は冴えている気がしたが体は疲労を訴えている。遠くないうちに眠りの縁に引き込まれるだろう。
 明日目が覚めた時、己がしたことと体やシーツに残された跡を目にし、きっとひどい自己嫌悪に苛まれるに違いない。だがそれも今の自分にはふさわしい気がしていた。

 瑕瑾(かきん)の月。

 ベッドに入り込む前に目にした、一見美しい姿を有しながらもどこかが欠けた、歪な月。
 その月を思いながら、やがて彼は短い眠りへと入っていった。


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