シュガー アンド スパイス
フランツ・ハイネルは常になく緊張した面もちで足早にモーターホームの間を歩きぬけていた。日ごろから無駄なくきびきびと歩く青年ではあるが、今日はやけに急いでいるように見える。急いでいるというよりは何かに追われているようだと言った方が正しいかもしれない。
CFはアメリカからペルーへと開催地を移しての第二戦が行われようとしていた。一種禍々しさを感じさせるほど赤く染まった大きな太陽は沈む直前なのか、かろうじて空の端にひっかかっている。背にその太陽を負い、ハイネルの足元には長い影が伸びていた。
その足が自チーム、S.G.Mのモーターホームの前まできて止まる。
「今日は無事だった・・・」
そんな独り言をつぶやきながらコードを入力し終え、束の間の休息を得るべくモーターホームに入ろうと扉に手をかけると、そのまま彼は硬直したように動けなくなってしまった。
数瞬の無言の攻防。
今度は今までとは逆の動きでモーターホームから去ろうとした彼は、だが何かに押されるようにして中に足を踏み入れることになっていた。
勢いづいてもう少しで床に倒れこむところだったハイネルは、驚いたために荒くなった呼吸を隠すべく胸元を手で押さえ、自分をモーターホームに押し込めた相手をきつくにらみつけて糾弾する。
「グーデリアン!貴様!!」
今更説明するまでもないだろうが、にらみ据える視線の先にいたのは、派手な外見とパフォーマンスが身上のアメリカンである。
「ハイ、ハイネル。会いたかったぜ。なんでオレを置いてさっさと帰ってきちまったんだい、ハニー?」
「貴様と顔を合わせたくないからに決まってるだろうが!」
ハイネルは本気でそう言ったのだが、言われたグーデリアンは母国語である英語が正確に理解できているのか疑いたくなるほどあっけらかんとした表情を浮かべている。
そして傍若無人なアメリカ人は、ハイネルがもっとも恐れていた言葉を実に楽しそうに言い放った。
「ハイネル。熱い夜を共に過ごしたこともある相手に対してそれはちょっと冷たいんじゃない?」
・・・・・と。
結局あれからモーターホームでハイネルはグーデリアンにキスをされた。それもかなり濃厚なヤツを。
たまたま呼び出し用の電子音が鳴り響いたために我にかえったハイネルはグーデリアンを殴って逃げてきたのだが、もしあのまま流されていたら・・・と想像すると、彼はとてつもない暗い底を縁からのぞきこんでいるかのような気分になってしまうのだった。
呼び出しに応じてハイネルが向かったのはレース関係者用に用意されたカフェテリアである。
呼び出した主はビリー・カーターというイギリス人で、腕のいいメカニックだ。マシンに関する知識が豊富にして正確であり、年も比較的近いことからハイネルも比較的懇意にしているスタッフの一人だった。
これから遅い昼食か早めの夕食をとるつもりらしいビリーは、ナポリタンを器用にフォークに巻きとっていた右手をとめ、左手の方を軽く振ってハイネルに合図してみせた。
「呼び出しちゃったりしてすみません。でも、食事がまだだったらご一緒して欲しいなと思いまして。ちょっとお話したいこともありましたしね」
「それは構わないのだが、ビリー・・・君はチーフと打ち合わせがあるんじゃなかったのか?」
「そのチーフなんですが、急な談合が入ったとかで分社に呼び出しくらったんですよ。1時間の休憩だとかで僕もヒマをもて余してるってわけです」
「そうか・・・」
ハイネルはしばし口をつぐみ、自分で運んできたコーヒーカップに口をつけた。レーサーやチームスタッフ、さらには記者たちや運営者側の人間など多くのレース関係者たちが訪れるこのカフェは、セルフサービスが基本なのだ。
空気が薄く沸点が下がるせいもあるのだろうが、コーヒーはやけに生ぬるく感じられる。舌をやけどしそうなほどに熱いコーヒーをゆっくりと時間をかけて楽しむのが好きなハイネルは、それだけで何となく気分を害されてしまうのだった。彼は外見から抱かれるイメージよりもずっと気性が激しい。
「で、ハイネルさん、一つ聞いてもいいですか?」
「ああ・・・なんだ?」
「ハイネルさん、最近なんというか・・・少し変ですよね。何か悩みでもあるんですか?みんな極力出さないようにしてるみたいだけど、内心心配してるんですよ。ハイネルさんがそういう内面的なことに深く立ち入られるのを好まない人だって分かってるから口には出してませんけどね。僕の場合、お節介なのが先にたっちゃうんです。気に障ったらすみませんが」
ハイネルはもう少しで口に含んだコーヒーを噴き出してしまうところだった。
その代わりにゆっくりとカップをソーサーに戻し、上品な仕草でナプキンをとると口元を拭う。突然の対応に弱い彼にしては上出来な対応だったと言えるだろう。
「いや、別に・・・何でもない。私は皆に心配をかけたのだろうか?」
「それは構わないんです。そんなことより・・・・ニセコが終わったあたりからですよね、ハイネルさんの様子が少しおかしくなったのは」
もしこの時ハイネルがコーヒーを口にしていたら、今度こそ噴き出してしまっていたことだろう。
『ニセコ』の三文字は今ハイネルが他人から最も聞きたくない言葉の一つである。
ニセコ。・・・・雨中でのレースとなったこのサーキットでハイネルはグーデリアンと思い返すのも腹立たしい大乱闘を起こし、そしていくら考えてもそのきっかけや理由がわからないのだが、その晩二人は一夜を共にしたのだった。・・・・同じベッドで。
あの時の自分たちの精神状態を考えると狂っていたとしか思えない、とハイネルは何度も思った。仲直りしようともちかけてきたグーデリアンに丸めこまれ、自分の部屋で酒を酌みかわすことになったのは事実である。酒で前後不覚に陥っていたから・・・・・と割り切ってしまえればいいのだが、その夜の記憶があまりにも鮮明に残っていることが彼を苦しめていた。
薄い闇に満たされた部屋で抱き合っていても、互いの体に互いがつけた跡が残っているのが分かった。あまりにも性急にグーデリアンが事を運ぼうとするので、意趣返しをしたくなったハイネルが彼の口元にあったすり傷を指でつねってみせると、グーデリアンは大げさに痛がってみせたものだ。
ハイネルの方はレース服を着ている状態ではあまり変化が見られなかったのだが、ダメージは見えない場所に色濃く残っていた。少し身動いただけで骨がきしむような痛みを与えた相手に組み敷かれ、抱き合っていた矛盾を不思議に思わなかった自分がハイネルには信じられない。
白い肌に残されていたあざに、グーデリアンは口づけた。とても神妙に。
そして、あの夜以来、自分の何かが変わってしまったような気がして、ハイネルは自分の感情を持て余していたのだった。
ニセコを発ってから次に彼らが顔を合わせたのはCF第一戦のアメリカGPでのことだったが、その時会ったグーデリアンにはどこも変わったところがなかったのが内心さらにハイネルを苦しめた。あの時のことを特別視しているのが自分だけのような気がして何だか悔しくもあり、妙に腹立たしくもあったのである。
だが、・・・・だがそんなことを、目の前のスタッフに話せるはずがない。そして、こういう時にうまくごまかすことのできない己の性分をハイネルは心から呪った。
それでも何か言わないわけにはいかず、彼はしどろもどろに言い訳を口にすることになる。
「そ、その・・・マシンの構想に行き詰まってしまって」
「マシンの構想に?でもハイネルさん、ニセコの時まではそんな様子なかったですよね。それより、グーデリアンさんとケンカしてからどうも様子が・・・グーデリアンさんに何かされたんですか?ひどいこと言われたとか、あの後さらに殴られたとか」
ニセコ。グーデリアン。もっとも聞きたくなかった地名に続いて、もっとも聞きたくなかった人名の登場である。絶壁に追いつめられた子犬か何かのような心持ちでハイネルが思わず神の名を口の中でつぶやくと、救いの形は思いもかけぬ形で現れた。いきなり第三者が現れて彼ら二人の会話を遮ったのである。
もっとも、神が使わせてくれたはずの救いの使者は悪魔の姿をしていたが。
「ハーイ、二人とも!なになに、オレの話?人気者はツライね!」
「グーデリアン!」
「悪魔の話をすれば、・・・ですね」
グーデリアンというのはよくよく唐突に現れる男である。しかもこちらが会いたくないと思っている時に限って。
向かい合って座っていたハイネルとビリーのテーブルまでやってきていた彼は、許可も得ずにハイネルの隣に腰を下ろした。ハイネルは無言だったが、怒りのあまり肩を震わせ憤怒の形相だ。後ろ暗いところさえなければ『貴様は私の亭主か何かのつもりか!?』と文句をつきつけていたところである。
グーデリアンはのんびりと大きなグラスに並々とつがれたアイスコーヒーの隣にあるハンバーガーのセットに手を伸ばした。彼に言わせるとこれはあくまでスナックなのだそうだ。
「で?オレが何だって?あんたなんて名前だっけ。マーク?ジェイク?」
「ビリーです、ビリー・カーター」
「ビリーかあ!悪ぃ悪ぃ、オレ、キュートな女の子の名前なら一発で覚える自信があるんだけど」
グーデリアンはそう言いながらハイネルの肩に腕を回した。がっちりとした腕に縫い止められるようにされたハイネルの体は動けない。
グーデリアンの腕は力強く、肩におかれている手のひらは暖かかった。
そんなところだけは器用らしいグーデリアンは、右手はハイネルの肩に回したまま左手だけでキレイにバーガーのラップをはがして口に運んでいる。
「そんなことより、オレの話してたろ。女の子絡みの話だったらこのジャッキー・グーデリアン様が相談にのってやるぜ!で?どの子がオレとつきあいたがってるんだって?」
「そういう話じゃないんですよ。ただハイネルさんがここの所ちょっと様子がおかしいから、またグーデリアンさんとケンカでもしたのかなあと」
「ビリー!!」
思わずハイネルが発していた制止の声は本人も驚くほど大きく、ほとんど悲痛でさえあった。グーデリアンはそれきり言葉を紡げずにいたハイネルを青い目でちらりと見やったが、すぐにビリーに視線を戻して口を開いた。いつもと全く変わることのない、明るく陽気な口調で。
「オレとハイネルがケンカ!?やめてくれよ、オレたちってとーっても仲良しなんだぜ。なんでそんな風に思ったんだ?」
「だって、あなたたちはニセコで派手なケンカをやらかしたじゃないですか。ハイネルさんが少しボーッとしたりするようになったの、その次のアメリカ戦からなんです。だから・・・」
ハイネルは今まさに身の置き所がない心持ちというものを体験していた。恥ずかしいやらバツが悪いやら腹立たしいやらでいたたまれないことこの上ない。
白い頬がわずかに染まり、グーデリアンに抱かれている肩がやけに意識されてきてハイネルがどうするべきか考えあぐねていると、当のグーデリアンは怯むどころか朗々とした声で宣言した。
「オレたち、ニセコの夜ケンカなんてしてないぜ。その晩はずっと一緒にいたくらいだからな」
「え?酒でも飲んだってことですか?仲直りの印に?」
「そうそう、ハイネルの部屋にオレが押しかけてさ。ケンカどころかめちゃくちゃ親睦を深めたんだぜ、オレたち。な?ハイネル!」
調子に乗ったのか、グーデリアンは赤くなっていたハイネルの頬に自分の唇を押し付けて盛大なキスをしてみせた。
幸いビリーはハイネルの赤面の理由を彼が怒っているからだと解してくれていたようだが、あまりにも派手なグーデリアンのパフォーマンスにはさすがに驚いたらしく、口を小さく開けたまま目を白黒させている。
「な?こうやって親愛のキスをかわすくらいオレとハイネルは・・・・・ハイネル?」
「っ?ハイネルさん?」
ガタン、とハイネルにしては乱暴に椅子をひく音がした。
急に立ち上がった彼をいぶかしんでビリーが声をかけたが、それも彼の耳には入っていなかっただろう。地球滅亡を宣告されても笑い飛ばしていそうなグーデリアンも、青い目を丸くしてハイネルを見上げている。
しばらく唇を噛んでいたハイネルは口を開くと何か言いかけたが、やがてその言葉を呑みこんでしまった。代わりに舌先にのった声はひどく乾き、常に凛としてしっかりとした話し方をする彼とは別人のようだった。
「・・・悪いが私は用事を思い出したのでこれで失礼する」
「は、ハイネルさん!?」
「ビリー、これオレとハイネルの分の勘定!もったいないからオレのバーガー全部食っちまえよ!」
突然立ち上がって席を立ってしまったハイネルにビリーが呆然としている間にとったグーデリアンの行動は迅速だった。ジーンズのポケットをごそごそと探ったかと思うと100ドル札をテーブルに一枚置き、自分もハイネルの後を追ったのである。
去り際、からかいの度が過ぎたハイネルは自分がなだめておくから、気にしないで自分の行くべき場に戻るように、といった忠告をすることも忘れずに。こういう時のグーデリアンの機転は目を見張るものがあるが、あいにくそれに気づいて感心してくれるほどの余裕がある者がこの場には誰もいなかった。
切り立った崖の向こうに見えていた夕日はすっかり姿を隠し、残照であたりは淡いオレンジ色に染まっていた。肌にあたる空気の粒子は粗く冷たく、夜気がひたひたと辺りを満たしつつあるのが分かる。
カフェテリアを飛び出したハイネルは一路自分がもともと向かうはずだったモーターホームに足を向けていた。一心に足を動かしているその背中は全てを拒絶する厳しさに満ちている。
「待てよ、なんで怒ってんだよ、ハイネル!」
後ろからグーデリアンの声が迫ってきていたが、ハイネルは構わずに大股で歩を進め続けていた。
モーターホームに戻ってから着替えるつもりだったのでレーシングスーツをまだ着込んだままの体は、汗がひいたせいですっかり冷えてしまっている。早く熱いシャワーを浴びて柔らかなベッドに潜り、明日の第ニヒートに備えたかった。
「おいハイネル!」
呼んでも反応しないハイネルに焦れたグーデリアンが彼の腕をとって強引に自分の方を向かせたが、ハイネルは手荒くその手を叩き落とした。グーデリアンをにらみつける緑の瞳が怒りに燃えている。こんな時だというのに、グーデリアンは強い感情に煌くその瞳をとてもキレイだと思った。
「私に近寄るな。貴様のような無神経な人間とは話もしたくない」
「無神経っていうのは何だよ!?ビリーにニセコでオレたちが一緒に過ごしたって言ったことか?あんなの何でもないことじゃ・・・いてっ!」
「私は貴様とは違う!」
渾身の力でグーデリアンの頬に平手打ちを叩きこんだハイネルは、荒い息に肩を上下させながら叫んだ。あまりの迫力に押されたのか、あのグーデリアンも息を呑んでハイネルの表情に見入っている。
「私は貴様のように、・・・誰かと一夜を過ごして、そのことを何でもないように他の人間に吹聴できるような人間とは違う!お前とは違うんだ、グーデリアン!」
「ハイネル・・・聞けよ、別にオレは」
「聞くものか!グーデリアン、お前の言うことはいつもその場限りのウソばかりだ。その場ではいつも適当なことばかり言って、私のことを好・・・だとか何とか言っておいて私をその気にさせて、後から平気でそのことを吹聴する。そんな奴の言い分をどうやったらまともに聞けるって言うんだ!?」
「誰も吹聴なんてしてないだろ!?オレはただオレたちがあの晩一緒にいたって言っただけじゃねえか。ヘタに隠すと余計人の興味をひくんだよ!ああいう時は変に隠したりしないでああやって適当にあしらっておくのがいいんだ。大体、ビリーだって全然勘繰ったりしてなかっただろ!?」
「悪かったな!貴様のように場数を踏んでなくてみっともなくうろたえて。お前からすれば先ほどの私なんて、さぞかし滑稽に映ったことだろうな!」
全てのチームが第一ヒートを終え、モーターホームが建ち並ぶ一帯は人影もなく静まりかえっている。恐らくみんなホテルに引き上げたか、防音のきいたモーターホーム内で束の間の休息を得ているのだろう。
そんな中大事なレースを控えた若手レーサーが二人、こんな場所で痴話ゲンカとしかいいようにないやりとりを交わしている姿などとても人に見せられたものではない。
だが、もちろん本人たちは必死である。
いつの間にかハイネルの体は半ばグーデリアンに抱き込まれるような形になり、二人はもみ合うようにして言い争いを続けていた。
グーデリアンの腕の中でもがいていたハイネルだが、ふとその動きが止まる。つられてグーデリアンも相手を押さえこもうと両手に込めていた力を抜いた。
「・・・・グーデリアン、聞こえるか?」
「足音だろ?あれは・・・コンファレンスセンターがある方からだよな。こっちに向かってる」
「誰か来る!隠れろ!!」
「あたた!ハイネル髪引っ張るなよ、ハゲたらどうすんだ!!」
「うるさい!こんなみっともないところを見られるわけにいかないだろう!」
容赦なく髪を引っ張られているグーデリアンが本気で痛がっている気配がしたが、それどころではなかったハイネルは彼をムリヤリモーターホームとモーターホームの合間に押し込めて自分もそこに入りこんだ。
身をすくめ、寿命が縮まる思いで近づいてくる足音に耳を澄ませる。
緊張のあまり身を固くしていたハイネルは、腰のあたりをグーデリアンに抱かれていることに気がついた。抗議をしてやりたくてもヘタに身動いたらそばを歩いている人に気づかれてしまいそうでそれもできない。
ちらりと顔をあげるとバッチリ相手と目が合ってしまい、ハイネルは非常に困ることとなった。薄い暗闇の中でもグーデリアンの青い瞳はやけにくっきりと鮮やかだ。さっさとそらしたいのだが磁力を放ってでもいるかのように、一度目があうとこちらからそらすことは不可能だった。
頬に大きな手が伸びてきて、無骨な親指が口元をぬぐうような仕草をする。それでもハイネルは動けず、目をそらすこともできずにただにらむような視線をグーデリアンに投げつけていた。
その間にも足音は大きくなり、すぐ近くを歩いている気配がした。彼(歩き方からして男性らしいのはわかっていた)がその気になってほんの少し首をのぞかせればすぐにグーデリアンとハイネルに気づくことのできる距離だ。影になっているとは言え、間に遮蔽物があるわけではない。
「?声が聞こえたような気がしたんだけど、気のせいか・・・ハイネルさん、大丈夫かな。かなり怒ってたみたいだけど・・・グーデリアンさんもからかいすぎなんだよなあ」
・・・ビリーの声だった。
チーフとのミーティングを終えて、モーターホームに戻っている所に違いない。
思わず息を呑んで体を固くしていたハイネルは、いつの間にか自分とグーデリアンの間にあったはずの距離がほとんどゼロになっていたことにその時初めて気がついた。
そして、青い目が普通ではありえないほど近くまで迫ってきていたことにも。
キスされるのは分かりきっていたのにまったく逃げようとしなかったのは何故なんだろう。
しっかりと腰を抱かれて唇をふさがれながら、ハイネルはそんならちもないことをぼんやりと考えていた。いつもキスされる直前までは何とかしてその行為をやめさせるべくがんばるのだが、実際に唇をふさがれると唯々諾々とその行為を受け入れてしまう自分がいることを彼は不思議に思う。
それでも、いつもそのことについて深く考える前に意識をさらわれ、グーデリアンに与えられるキスに体と心の全てを委ねることになってしまうのだった。
今も自分でも無意識のうちにハイネルの両手はグーデリアンの腰あたりのスーツを握りしめている。
ペルーの高地に設置されたこのレース場は、当然のことだが空気が薄い。息苦しくて胸が痛むのはそのせいにして、ハイネルは何度も息を継ぎながらグーデリアンのキスを受けていた。
「もう行ったよ、ハイネル」
唇が一度離れた時に、グーデリアンはハイネルの耳元でそう囁いた。安堵のあまり半ばグーデリアンに抱きとめられる形になっていた彼の体からさらに力が抜ける。
「ビリーが・・・?」
「そう。ビリーはもうあっちに行っちまったぜ」
それなら、もうこんな所でこうしている必要はない。二人きりでいる所を見られたくなくて咄嗟にこんなところに入ってしまったが、そもそも自分たちが隠れる必要など最初からなかったのだ。
グーデリアンから体を離そうとしたハイネルは、だが抵抗を感じて伏せていた顔をあげた。いつの間にか両手をグーデリアンに取られ、青い目に見下ろされている。
モーターホームの影の中、その目は奇妙に真剣で澄んでいて優しくもあり、ハイネルにニセコで過ごした夜のことを思い起こさせた。
あの、互いの傷に神聖な思いと仕草で口付けた夜のことを。
「ビリーは行ったよ、・・・だから今ここにはオレたちしかいない」
そう言ってグーデリアンは再び唇を寄せてきた。先ほどの荒々しさはなく、ただ優しく甘い仕草で何度も唇をついばまれる。
この男は本当にキスが上手い。初めてベッドを共にした時にはとにかく無我夢中でよくわからなかったのだが、彼のキスが巧みなのはハイネルにもよくわかった。そして、実はこの男にキスをされるのがそれほどイヤではない自分の心情も。
「なあ、オレとお前があの夜一緒にいたことくらい知られたって、何てことないじゃないか」
キスの合間にグーデリアンはそんなことを唇に吹き込んでくる。腹が立つはずなのに、先ほどのからかうような軽い調子ではなく、こんな風に妙な真摯さをはらんだ熱っぽい声で囁かれると、ハイネルは素直にその言葉を耳にすることができた。
どこのチームのものとも知れないモーターホームにハイネルの体を押し付けるようにし、その耳元でグーデリアンは再び唇を開く。
「だって、あの夜お前とオレの間に何があったかなんて、知ってるのはオレたち二人だけだろ。オレがどんな風にお前の服を脱がせたのかとか、お前に触ったのかとか、」
そう言いつつグーデリアンの手はハイネルのレーシングスーツのジッパーを下ろし、そこから手を忍び込ませていた。冷たく鎮まっていた肌にいきなり暖かな手で触られたハイネルは思わず声を出しそうになったが、何とか唇を噛んでそれに耐えた。その表情を目にしたらしいグーデリアンがわずかに笑ったような気配がしてハイネルを悔しくさせる。
「それから、・・・どんな風にオレがお前にキスしたのかとか・・・」
キスはやはり優しかった。何度も音をたてて唇を合わせてから離れ、その代わりにグーデリアンはハイネルの体を引き寄せると強く抱きしめた。息苦しいほどの力が込められていたが、その拘束は甘い陶酔をハイネルにもたらした。
「・・・オレたちの他には誰も知らない、二人だけの秘密だ」
「グーデリアン・・・」
うっとりと緑の瞳を潤ませてハイネルが双手をグーデリアンの首に巻きつけると、でもまぁ、というやけに能天気な声がした。
「オレは別にハイネルとエッチしてるとこ人に見られたって平気だけどね。見られてるとスリルがあってコーフンしそうで良くない?・・・・・って、おい!髪引っ張るなって、痛えだろ!」
「お前が下品なことを言うからだ!」
こうなるともう甘ったるいムードは一気に霧散し、いつもの丁丁発止のやりとりが待っているだけである。お互い相手には一歩も引きたくないという意地とプライドがあるのでたちが悪い。
巻きこまれて迷惑する人々が周囲にいなかっただけまだマシだったと言えるだろう。
「単なる冗談だろ!?相変わらずジョークのわかんないヤツだよな!」
「こんなシチュエーションで笑えない冗談を言うヤツがあるか!」
「こんなシチュエーション?あれ?ハイネル、ひょっとしてここでエッチしたかった?それならそうと言ってくれればオレだって期待にこたえて・・・・って、髪引っ張ったら本気で痛いんだって!」
「当たり前だろう!痛くなかったら意味がないじゃないか!」
「お前さ、愛するダーリンにそういうことするか?ふつー!」
「誰が愛するダーリンだ、お前なんかダーリンじゃなくてノータリンだ!」
「ノータリン?何だよその古くせえ言い回し。お前いつの時代の生まれだよ、このクソジジイ!」
急速に夜が訪れつつあるモーターホームの一隅に延々と二人のやりとりがこだまする。
甘く、かつスパイスのきいた刺激的な彼らの関係は、まだまだ一筋縄でいきそうにはなかった。
というわけで(?)基本すぎる一作でした!(笑)
私は基本なグーハーがやっぱり大好きなのですが(基本のグーハーにもいろいろありますが、今回に限っては『ハタからみるとどーしよーもないことでバタバタしてるグーハー』です)、私が書く基本のグーハーは単にあほっぽいだけ、という気がひしひしとしています。読まされる方もたまったものではないのでは(笑)。
でももちろん基本なグーハーを書くのは楽しかったです。え、えーと・・・私にしてはこれは「基本のグーハー」なのですが、ひょっとしたら外してたりするでしょうか・・・?十二分にありえそうです。
そして、実は今回いただいた「秘密」というモチーフで書きたいお話があったのですが、シャレじゃなく長くなることがわかってましたので(完結してませんが、ぶらんにゅーの倍くらいになるのではないかと・・・)今回は無難に。
いつかそのお話も書き上げられたらいいなぁと思っています。休んでる間に手をつけてみようかな・・・。読んでいただけるようになるかは分かりませんが。
あられさん、ひとまず区切りとなるキリ番をとって下さって本当にありがとうございました。
5万・・・いただきものの功績をもちろん一番最初にあげなくてはなりませんが(あとカウンタがへぼいというのもありますが。笑)、それでも自分のサイトが2年足らずでそんなにカウンタが進んだなんて信じられない思いです。
驚くべきことでもあったし、うれしい出来事でもありました。
もちろんカウンタが全てではありませんが、目に見えない足跡に『見て下さってる方もいるんだ』と自分を励ましていたのは確かです。
特にこれまでご参加下さった方々には本当に感謝しています。ありがとうございました!
蛇足ですが、ビリーが口にしてる悪魔の話をすれば云々という言葉は、Speak
of the devil、噂をすれば影ってヤツです。
それにしても眠いです・・・。誤字も脱字もオニのようにありそうですけど、あ、あとでチェックしときます・・・ちょっとだけ(笑)。