「別にジャッキーを・・・お前たちを脅そうとか、そういうつもりじゃなかったんだ」
居間に通されたトムは、グーデリアンに問われる前に口を開いた。コーヒーを差し出すところだったグーデリアンは、目線だけをチラリとあげて男を見る。
その青い瞳からは彼の感情はうかがい知れず、もとよりトムはグーデリアンを見てはいなかった。
暗く沈んだように見える青灰色のトムの瞳は、今はテーブルの上に視線を落としている。まるでそこに見えない言葉が浮かんでいるかのように目線はふらふらと定まらなかった。恐らく、自分の心情をどのように説明したらいいのかを考えあぐねているのだろう。
そんな彼を見かねたのか、グーデリアンの方から口火を切った。
「じゃあオレの方から聞こうか。どこで見たんだ?オレたちのこと」
「モーターホームの影で、お前とハイネル監督がキスしてるのを偶然見かけたんだ・・・角度的によく見えなかったから最初は間違いじゃないかとも思ったんだが」
ふうん、とグーデリアンは興味なさそうに相槌を打つ。そうしながら脳裏ではその時のことを再生させていた。
グーデリアン自身は誰に何を見られようとまったく構わないと思っている。実際、ハイネルがあれほど強固に拒んでいなければ彼らの関係はとっくの昔に全世界中に知れ渡っていることになっていただろう。
少なくともジャッキー・グーデリアンという男は、人妻だろうが男だろうが、自分が好きになった相手を知られて動じるような人間ではない。彼らの秘密の関係は、相手がハイネルだったからこそ成り立っているのである。
たっぷりとした沈黙の後、今はわずかに波打つコーヒーの黒く艶やかな表面に目をさまよわせつつ、トムはようやく語り始めた。
「お、オレは・・・ケイティが好きなんだ」
「ケイティ?」
ケイティと言えばグーデリアンも知っている女性である。かつて婚約者としてすすめられたが、グーデリアンはそれを拒んだという経緯があった。
グーデリアンにとっては過去のことなので何の気なしに彼はその名を口にしたのだが、それがトムの気に障ったようだ。落ちつかなげだった視線をグーデリアンに真っ直ぐにあてて、挑むような表情になった。
「そうだ。オレはケイティが好きで、・・・でも彼女に振られた。彼女は以前お前に振られたが、それでもお前のことが好きなんだと言っていた。それで、・・・・この前ピット裏でお前とハイネル監督のキスシーンを見かけた時に、つい衝動に駆られたんだ。少し脅してやれって。他意はない。ただお前たちが少し慌てる姿を想像したかっただけなんだ!」
「それで自分の気は済むから?それだけなんだよな?別にオレたちの関係を周りに吹聴して脅そうとか、そういうつもりじゃないんだよな?」
「もちろんだ。お前は・・・・昔からの知人だ。ケイティのことは正直言ってまだ複雑だが、だからってお前を・・・お前たちのことを脅す気はない。信じて欲しい」
「・・・・だってさ、聞こえたか?ハイネル!!」
グーデリアンがソファから身をねじって声を張り上げると、続きのキッチンからハイネルが姿を現した。
トムはすらりと痩せた長身を目にし、一目で顔色が悪いな、と思った。もとより色が白いのだが、表情を無くしているせいもあってかほとんど幽鬼のようにさえ見える。
グーデリアンが予想していた通り、トム自身、一刻も早くグーデリアンにカードを出している相手が自分であることに気づいてくれればいいと願っていた。
少し脅かしてやろうという軽い気持ちでやってしまったことなのでそれほど深刻な事態に発展することを望んではいなかったのである。
何と言ってもフランツ・ハイネルの実家はEUにも影響力の大きいドイツ随一の自動車メーカーだし、ハイネルとグーデリアン自身の名声や知名度も大きい。そんな彼らを本気で脅すほどトムはグーデリアンのことを憎んではいなかったし、何より度胸も気力もなかった。
だが、憔悴しきったハイネルの顔を見て、初めてトムの脳裏に悪いことをしたかもしれない、という思いが浮かんだ。サーキットでは生き生きとしてグーデリアンとやりあっているハイネルの怜悧に整った顔が、今は緊張と不安に固く強張っている。そんな表情を目にしてしまっては罪悪感を感じずにはいられなかった。
まるで無邪気な子供がいたずらをし、その後でとんでもない結果を引き起こしてバツが悪い思いをしている時のような気分だ。
「聞こえただろ?トムの言葉。オレがヤツの好きなケイティを振ったから、その腹いせにちょっと脅かしてみたかっただけなんだってさ」
「聞くつもりはなかったんだが・・・すまなかった」
ハイネルは緊張のせいで尖った声でいい、トムからもグーデリアンからも離れた場所にぎこちなく腰を下ろした。
「いいんです。オレも悪いことをしたって思ってるから、ハイネル監督も聞いていてくれてかえって良かった。ジャッキーにも言ったように、ちょっとした出来心だったんです。ジャッキーならこんなこと大して気にもとめないだろうからと・・・。自分のホレた女が別の男にホレてたからって、みっともないことをしてしまいました」
「そんなことはありません。あんな場所であんな行為に耽っていたのは私たちの落ち度ですし、相手があなたで良かったと思っています。Mr.クランシー」
ハイネルが言えば、トムはホッとしたように息を吐き出した。やはり彼自身も緊張していたのだろう。
そこでようやく口につける心情的な余裕ができたコーヒーを手に取り、ぬるいそれを喉に流しこむ。
思っていたよりもずっ香ばしく苦いコーヒーはどちらかと言うとヨーロピアンテイストに近く、トムに意外な印象を与えた。
まだピリピリとした緊張感が漂っているが、それでも表面的には何の問題もないはずの奇妙な空間ができ上がっている。
何を語るべきか分からずに居心地悪そうにしているトムやハイネルを尻目に、グーデリアンは一人悠然と二杯目となるコーヒーを楽しんでいたが、それを飲み干してソーサーに戻すとおもむろに口を開いた。
どこか芝居がかった仕草と声である。
「これで万事丸くおさまった!・・・と言いたいとこだけど、ちょっといいかな」
顔をあげたトムとハイネルの表情を確認するかのように視線を流し、それからグーデリアンは視線をトムに固定した。
「トム。お前、当時何でオレが彼女を・・・ケイティを振ったのかを知りたがってたよな、せっかくだから今教えてやろうか?」
「それは・・・聞かなくても分かってる。ケイティが好みじゃなかったんだろう?女優やモデル、洗練された女性たちと付き合ってきたお前じゃ、ケイティのような田舎の娘じゃ物足りなかったんだろうよ。だが、それでもオレは・・・」
「ハイネルが好きだからだよ!」
突然の大声に驚いたのはトムだけではなかった。ハイネルも呆気にとられた表情でグーデリアンを見ている。
今までの偽りの静けさを一気に払拭する激しさでグーデリアンは言い募った。
「オレはハイネルが好きなんだ。トム、オレはハイネルが好きなんだ。お前がケイティを好きなように、オレはハイネルが好きなんだよ!」
「ジャッキー、お前・・・」
窓から斜めに差し込む午後の光が、ライトブラウンのテーブルの木目をさらに明るく見せている。
グーデリアンの褪せた色の金髪も日の光を吸い込んでとてもキレイに輝いていた。
太陽の化身のような明るくて誰からも愛される男が、声のトーンを落とし、皮肉な笑みを口元に刻んで続ける。
「トム。お前がなんであんなカードをオレたちに出したのかあててみせようか?お前は自分が好きなケイティをオレが振ったことを面白く思ってなかった。それはそうだよな、オレだって同じ男としてその気持ちはよくわかる」
「だ、だから、少しだけジャッキーのことを困らせようと思って・・・」
トムが口を挟んだが、グーデリアンはそれ以上彼が何か言うのを許さずに自分の言葉を続けた。
「お前はこう思ったのさ。ちょっと脅せばケツが軽いオレのことだ、ビビッてすぐハイネルと別れるだろう。すぐに別の女を見つけるだろうが、それでも少しはオレに意趣返しができるかもってな」
「ジャッキー、オレはそんなことは・・・」
「思ってたんだろう?」
心の奥を容赦なく暴く青い瞳に凝然と見つめられ、トムは反論を封じられた。どんなに綺麗事で取りつくろうとしても、グーデリアンの言葉は真実だったからである。
「トム。オレはよく分かってる。お前はそんなに真剣にひどいことをしようとしたわけじゃないんだってな。ただ、オレに非はなかったと言え、お前は以前オレにイヤな思いをさせられてたから、ほんの少しだけ意趣返しをしてやろうって思っただけなんだって。よく分かってるよ」
「ジャッキー・・・」
グーデリアンはソファから腰をあげた。大柄だが、こんな時の動作にも少しも重たげな様子がない。
長い足の先でテーブルの足をひっかけると、彼はそのまま少しテーブルを自分の方に引き寄せた。トムとテーブルの間に空間ができる。
「帰れよ」
突然言われた言葉の意味が理解できず、トムはしばらくの間動きを止めた。
まるでそれ自体が特別な重さを持つのではないかと疑いたくなるほど強い視線がグーデリアンから浴びせられ続けている。
文を書くことくらいしか取り柄がなく地味だったトム・クランシーのことを、恐らくジュニアハイ時代のグーデリアンはあまり覚えていないだろう。
だが、トムの方は彼をよく覚えている。彼のことを鮮明に思い出せないスクールメイトなどいないだろうと思う。
彼は常に闊達であり奔放であり、そして自由だった。
こんな目をしたジャッキー・グーデリアンを、トム・クランシーは見たことがなかった。どちらかと言えば凡庸で、グーデリアンのように輝く個性を持つことのないトムだが、記者としての目は確かである。
これは何かに、あるいは誰かに激しく捕われている者だけが持つ目だ。
「帰れよ、トム。そして二度とオレの前に姿を現すな」
「グーデリアン!彼は悪気があったわけではないと言ったではないか!彼は軽い気持ちでついあのカードを送ってしまったんだ。いくらなんでも・・・」
「お前は最後の最後で甘いんだよな、ハイネル。それがお前の優しさなんだろうけど。でもオレはお前を許さないぜ、トム。一生だ」
グーデリアンは少しだけ口調を和らげてそう言ったが、すぐにまた視線を厳しいものにした。
もはや言葉を無くしているトムに最後通牒を叩きつける。
低く静かで、抗うことを許さない声だった。
「お前はオレからハイネルを奪おうとした。軽い気持ちだったって?オレはお前のその下らない腹いせのせいで、悪くすればハイネルを失うところだったんだ。お前はどうせオレがハイネルにちょっかいを出すのもいつもの気まぐれの延長ぐらいにしか思ってないんだろう?あいにくだったな、お前のカードのせいで誰よりも不安に怯えてたのはハイネルじゃない。このオレなんだよ!」
「ジャッキー・・・・!」
「もう二度とオレの前に姿を現すな。・・・オレはオレからハイネルを奪おうとするヤツを許せない」
トムは息を呑み、自分がいかに大きな過ちを犯したのかに今更気がついていた。
軽い気持ちで彼らを脅したことではない。
グーデリアンの真摯な気持ちを軽んじ、それに全く気がついていなかった愚かさにである。
自分がいかに彼を無神経に傷つけていたのかをようやくトムは知ったのだった。
グーデリアンには合わせる顔がなかったので、ハイネルにだけ目礼をする。恐らくトムの心情を余さず汲んでくれているのであろうハイネルは、小さく一つうなづいた。
それだけで少しだけ心が軽くなるような思いになりつつ、トムは二度と再び訪れることはないであろうその家を後にしたのだった。
トムが去って部屋が沈黙に満たされると、先に動いたのはグーデリアンの方だった。
ぜんまいが切れたおもちゃのように力を無くし、再びソファに座り込む。両手を顔の前で深く息をついた彼からはいつもの不遜な態度の面影はまったく見られなかった。
疲れたように丸まった大きな背中がどことなくさびしく見える。
「・・・グーデリアン」
ためらいがちに名前を呼び、ハイネルが彼の隣に腰を下ろす。その体を抱きしめながらグーデリアンはささやくように言葉を紡いだ。
「オレはお前が好きなんだ、ハイネル」
「そんなことは・・・知ってる」
「そうだな、そうかもしれない。お前はオレのこと、ヘタしたらオレ以上に知ってるんだもんな」
グーデリアンはそう言って苦く笑い、ハイネルを抱きしめる腕に力を込めた。
「でも、そんなお前も知らないことがある」
それは何だ、とハイネルが問う前に、グーデリアンは彼の前髪を優しくかきあげて秀でた額にキスをした。
頬と頬を合わせるようにすると、互いの表情は読めなくなる。その体制のまま、グーデリアンは低く、同時に妙に穏やかな声で言った。
「ずっと前から、・・・いつも、オレとお前の関係を誰かに知られることを怖がってたのは、お前よりオレの方だ」
恐らくグーデリアンの表情を確かめようと思ったのだろう。ハイネルが身じろぐ気配があったが、グーデリアンは一層力を込めて彼の体を押さえこんだ。
表情を見ることはあきらめたらしいハイネルが、声にわずかな驚きの色をにじませて聞いてくる。
「だが、お前は・・・私と違って私たちの関係を知られても構わないと思っていただろう?怖がる必要なんか・・・」
「言ったろ?・・・・オレはお前が好きなんだ」
心に染みいるような声だった。
そして、そのたった一言でハイネルは彼の言いたかったことを理解した。
彼は、・・・グーデリアンが恐れていたのは、誰かに自分たちの関係を知られることじゃない。それでハイネルが自分から離れていくことを恐れていたのだ。
言葉を無くし、今度こそハイネルはグーデリアンの胸に手をついて彼の顔をのぞき込んだ。
グーデリアンは照れたような、それでいて老成した男のような不思議な表情を浮かべている。
何度も唇を開いていいあぐねたあと、ようやくハイネルは震える声を出すことができた。緑の瞳は驚きで何度もまたたきを繰り返している。
「お前が、・・・・グーデリアン、お前がそんなに私のことを好きでいてくれてたなんて、知らなかった」
「だろ?いっつも不満に思ってたんだよ。お前ってオレがどんなに好きだって言ってもホントにはオレの愛情を理解してくれてない!ってね」
笑いを含むいたずらっぽい声で相槌を打ち、グーデリアンは改めてハイネルの体を抱きしめる。ハイネルはまだ驚きから抜け出せていないようで目を見開いたままそのたくましい背を抱き返していた。
グーデリアンを抱きしめている自分の指先が、他人の指先のように感じられる。
「オレはお前を失うのが怖いんだ、ハイネル。その時が永遠に来なければいいといつも怯えてる」
今グーデリアンからこの言葉を引き出しているのが自分の存在なのだということが、ハイネルにはにわかには信じ難かった。
グーデリアンが言葉を発するたびに、わずかな振動が密着している体から伝わる。
「お前と離れたくないんだ。お前が好きなんだ。・・・オレはお前を失うのが怖い」
「グーデリアン、それは・・・・」
まだ自分に都合のいい夢を見ているような気分にさらされながら、ハイネルは細く息をつく。
息苦しさを感じるほどの強さで抱きしめられ、けれどその苦しささえも心地よかった。それがグーデリアンの思いの強さを表しているような気がするから。
「それは私も同じだ。私はお前が好きで離れたくないから、だから誰にも知られたくなかったんだ。知られてお前を失うことが怖かったから」
でも、とハイネルは続けた。
・・・でも。
「私が恐れることで、お前を傷つけてるのは知らなかった。でもグーデリアン、・・・お前も、私について知らないことが一つあるんだな」
「オレがハイネルのことで知らないことがあるって?オレはお前のこと何でも知ってるって言うのがウリなんだけどな」
わざと明るい調子で言ってみせた年下の恋人の頬に一つキスを落とし、ハイネルはそっと口にした。
「・・・私は、もう何があってもお前から離れられないくらいに、お前のことが好きなんだ。グーデリアン」
「そういうこと、四六時中聞かせてくれるとオレも不安にならなくて済むんだけどね」
「それも恋愛テクニックの一つなんじゃないのか?」
そう言いつつ、自分らしくないセリフだということが十二分に分かっているのだろう、ハイネルは苦笑いを口元に浮かべている。
そうやって冗談に紛らわせて伝わってくるハイネルの優しさはやはり不器用で、そして何よりもグーデリアンにはうれしかった。
「・・・ニューロンの反乱だ」
グーデリアンに聞こえないほどの声でそっとハイネルはつぶやく。
脳内の神経細胞ニューロンは電気刺激によって脳に感情と呼ばれるものを引き起こすと考えられている。
こんな時にそんな言葉がとっさに口をついて出てくるのがいかにも彼らしかった。
反乱を起こして恋に落ちることにないはずの相手に恋に落ちたニューロンの情動は、きっと彼らが死ぬまで、・・・死んでもおさまることはないに違いない。
このお話は、久しぶりにきた「どういう筋にしようか死ぬほど悩んだ話」でした!(笑)久しぶりでした・・・多分「らぶあんどへいとこらいど」という話以来くらいの感じ・・・。別れの危機(?)がちらついたお話を書こうとすると悩んじゃうのかもしれません。いかに私が書くグーハーが普段頭をつかって悩んでいないのかが如実にあらわれていますね!(笑)
みちるさん、キリ番ゲットとリクエストをありがとうございました。みちるさんがリクしてくださったおかげで、あのキリリク設定も報われました!
・・・・というのに、内容がこんなになってしまってすみません。いろいろアドバイスもいただいてたのに、全然生かせず・・・・。さらに間があいてしまったのも申し訳なかったです。リクいただいたの何年前・・・(遠い目)。
しかし、最初にどんな筋を考えていたのか、2週間前の自分に聞いてみたい話です、これ(笑)。ホントはどんなになるはずだったのでしょうか。ひとごとのようにキョーミシンシンです(笑)。
ちなみに、今回のタイトルも木村氏のフォトコラージュ作品の題名を拝借しております。音感と語感がとても好きなのでした。