二人が足を伸ばしたのは、アパートから少し足を伸ばしたところにある湖である。
 少し季節を外しているせいか、辺りには誰も見当たらなかった。
 古い、営業をしていない貸しボートが何台か、さみしそうに水面にゆらゆらと揺れているだけだ。

「ハイネル、これに乗ってみようぜ!」
「え・・・でも、管理人がいないようだし」
「大丈夫だいじょうぶ!ちょっと借りるだけだから!」

 グーデリアンはそう言い、さっさと乗り込んでしまっている。ハイネルはまだあきらめ悪く管理人らしき人影を探したが、見つかりそうにはなかった。

「早く乗れよ!そんで、向こう岸までどっちが早く着くか競争な!」
「なぜせっかくの休みに、そんなに疲れるコトをしなければならないんだ」
「あれ?ハイネル、オレに勝つ自信ないのー?腕も細っこいし、やっぱりハイネルじゃムリかな?」
「バカを言うな!こう見えても私は鍛えてるんだ。お前みたいな見かけ倒しの男とは違う!」

 リサが見ていたら呆れるほどいつもの言葉の応酬を経て、二人は湖にこぎだす。オールで大きく水をかくと、ボートは水の上をなめらかにすべっていった。
 相手に対する子供っぽい対抗心も手伝い、夢中になってしまう。

 湖面は柔らかな太陽の光を反射して、キラキラと輝いていた。ときおり水面をかすめるようにして吹きつける風が、優しくて気持ちがいい。

 湖の半分ほどまでくると、どちらともなくこぐのをやめてしまった。岸から見ていた時以上に湖が広かったこともあるが、何より、あまりにも気持ちがよくて、ただがむしゃらにボートをこいでいたのでは、もったいない気がしたのだ。
 この美しい景色と穏やかな時間を、もっと味わっていたかった。

「キレイだな、ハイネル」
「ああ、本当に」

 二人は静かに眼前の景色に見入っていた。空は優しい青い色をしており、湖面は美しいエメラルドグリーン。湖の奥に連なる山々はうっすらと雪をかぶっている。
 ゆらゆらとボートに揺られ、時折耳をかすめる鳥の声や、湖面をわたるさざ波を目にしていると、不意にグーデリアンが声をかけてきた。

「ハイネル、こっちのボートに移ってこいよ」
「イヤだ。第一、危ないじゃないか」
「大丈夫だよ。ハイネルの体くらい、オレがぜったい支えてやるって」

 何だかその何でもないようなセリフが妙に気恥ずかしく感じられて、ハイネルはわずかに頬を赤くすると聞こえなかったフリをしてオールを一漕ぎした。なめらかに水面をボートが移動する。


「待てよハイネル。・・・・あっ」

 ボートに乗っていたはずのグーデリアンの口からそんな言葉が漏れ、いきなり姿が消えた。彼が乗っていたボートがグラグラと揺れている。

「グ、グーデリアン?大丈夫かっ?」

 あわててハイネルが自分の船をグーデリアンの船に近づけ、船体をのぞきこむ。

 見ると、グーデリアンはうつぶせの形でつっぷしていた。それで姿が見えなくなっていたのだ。激しい揺れの名残で、グーデリアンは体に少し水をかぶっているのだが、一向に動こうとはしない。
「グーデリアン、どうしたんだ!」
 ハイネルは焦り、グーデリアンのボートにオールをひっかけて自分のボートに引き寄せると、縁に手をかけてグーデリアンのボートの方に身を乗り出した。
 とたん、すごい勢いで引っ張られる。

「!!」

 急に手をひっぱられたので、ハイネルの体は大きくかしぐ。

 そのまますさまじい力で引きずられ、腰や足に手が回されて半ば抱きあげられるような格好になっていた。水の中に落ちてしまいそうな恐怖からハイネルは反射的に目を閉じる。・・・が、いつまでたってもその瞬間は訪れなかった。

 気がつくとハイネルはグーデリアンのボートの方に移動していた。ハイネルが乗っていたボートは今も大きな衝撃でゆらゆらと激しく揺れて水面をたたいている。

「な、何をするんだ、いきなり!」

 相手の行為をとがめようとして上半身を起こしたハイネルは、自分たちの体勢に気づいて赤面した。グーデリアンがボートの底に仰向けに横たわり、自分はその上に重なるようにして体を伸ばしている。
 しかも、グーデリアンの片手はハイネルの腰に回されていた。そんな状態で二人は互いの目を見つめあっている。まるでベッドで恋人たちが恋を語らうような体勢だ。

 あわてて起き上がろうとすると、グーデリアンがハイネルの腰に回していた手に力をこめ、自分の方に引き寄せた。お互いの胸がぴったりと重なり合う。
 ハイネルがもがくと、グーデリアンの力がますます強くなった。

「しばらくこのままでいて」

 子供のように無心に言われてしまい、ハイネルは突き放すこともできずに抵抗していた力を抜いた。それでも恥ずかしさはどうしようもなくて、ぎゅっと目をつぶってしまう。
 服を通して、グーデリアンのぬくもりが伝わってくる。ゆらゆらと揺れる湖面の上の船。それが不思議なリズムとなって二人の体を揺らしている。

 ハイネルの背中にはゆるくグーデリアンの腕が回されており、その腕を不快に思わない自分がハイネルには不思議だった。
 それどころか、あまりの心地よさに全てを相手にゆだねたくなってしまう。
 すぐ近くにいるグーデリアンが、ポツンとつぶやいた。

「なんだか、ずっと昔からいっしょにいるみたいだ」

 グーデリアンの声は、ハイネルの胸に染み渡るような響きだった。

 自分たちは二人とも記憶を失っており、実際に昔からいっしょにいるらしいから、そう感じるのもムリはない。
 理屈としてはそう分かっていたのだが、この感覚は理屈ではなかった。
 まるでお互いがお互いの隣にいることが最初から決められていたかのように、こうしていると心が安らぐ。
 そして、それとは逆に、心安らいでいたかと思うと、恋を覚えたての少年のように、手が触れただけでドキドキしてしまったりもするのだ。

 二人はしばらくそのままでボートの揺れと、小さなさざ波と、そして相手の体温を心ゆくまで味わっていた。





 二人の頭上を白くて大きな鳥が優雅なしぐさで飛び去っていくと、ハイネルはそれを合図にしたかのように体を起こした。今度はグーデリアンも引き留めはせず、自分も起き上がる。
 ハイネルは少しの間、無言で湖面を見つめていた。手をそっと水面にすべらせ、水の感触を楽しんでいる。
 グーデリアンはそんなハイネルの横顔を見つめた。

 改めて観察してみると、ハイネルはキレイな顔をしていた。伏せかげんのまぶたの下には、目も眩むような美しい色合いの緑の瞳がひそんでいる。
 ハイネルを見ていると、勝手に口が言葉をつむいでしまいそうだった。胸の中にせぐりあげてくるような思いがあって、気を張っていないとその思いが言葉となって表に出てきそうになってしまうのだ。

 ・・・でも、何て?自分はハイネルに何て言いたいんだろう?


 グーデリアンは、ひそかに深呼吸を一つした。

「オレ、タバコ吸っていい?」
「タバコ?」
 ハイネルは露骨にイヤそうな顔をしたが、口では何も言わなかった。
 グーデリアンは悪びれるでもなく後ろポケットから銀のシガレット・ケースを取り出す。シンプルだが、美しい細工のケースだった。

「なぜかは覚えてないんだけど、ふだんはほとんど吸わなくなってたんだ。けど、今みたいに緊張してるときに間をもたせるには、タバコってちょうどいいんだぜ」
 アッサリと自分が緊張しているなんて告げてしまうグーデリアンに、ハイネルはちょっと目を丸くする。
 ハイネルのその表情を目にすると、グーデリアンは苦く笑って肩をすくめた。グーデリアンお得意の、少しおどけたポーズだ。

「・・・緊張してるんだ。オレ、今気づいたんだけど、どうやらハイネルのコトがすごく好きらしいから」
 しぐさや表情はおどけていたけれど、声音は真剣そのものだった。ハイネルは赤くなることも忘れてグーデリアンの青い瞳に見入っている。
 グーデリアンもまっすぐにハイネルの緑の目を見返していた。
 キレイな瞳だった。美しく透き通る、この湖面のグリーンよりも。


「・・・キスしていい?」

 シガレットケースを開けようとしていた手を止め、ささやくように、グーデリアンが問いかけた。
 ハイネルは何も言えず、けれどグーデリアンの青い目から視線をそらすことができないでいる。そうしていると、腕をとられ、どんどんとその青い瞳が近づいてきた。

 たえきれなくなって目をつぶったのと同時に、唇に何か暖かいものが押し当てられた気配がした。あわてて目を開けようとする前に一度それが離れ、また軽く押しつけられる。

 何度か優しく触れたあと、その感触は去っていった。グーデリアンが体を移動させるのにつられ、ボートもかしぐ。

 まぶたが開き、お互いの目が合う。それだけで、心が言いようのない暖かいもので満たされていく。まるで、今まで欠けていた部分に、やさしい液体が注ぎこまれたかのような感覚だった。


 グーデリアンは、ハイネルに対する自分の反応に驚いていた。自分の記憶の中にある自分自身は、ありとあらゆる美女と浮名を流し、あいさつ代わりにキスを送っていた。
 心地いいが、そこに何らかの感情が入る余地はない。

 けれど、ハイネルを前にしたときの自分は。

 少年のように、キスするだけで胸が震えた。
 実際、ハイネルを引き寄せる指先は震えていたかもしれない。


 それはグーデリアンにとって新鮮な驚きで、表面にこそ出ていなかったものの、彼は相当自分自身の内面に驚いていた。
 だが、その驚きは不快じゃない。むしろ、自分にこんなに瑞々しい感情を与えてくれるフランツ・ハイネルという人間に心底感謝したいくらいだった。


「オレ、いますごいドキドキしてるから、今度こそタバコ一本吸って落ち着くよ」

 笑って、今度こそ一服すべく、もう片方の後ろポケットに忍ばせていたライターを手にする。そのままもう片方の手で器用にシガレットケースを開けると、グーデリアンが『あ』と小さな驚きの声をあげて、手にしていたライターを落とした。

 カツン、とライターがボートの床にはねる小さな音がする。





 その時、二人は同時に奇妙な感覚に襲われた。

 自分たちを包んでいた世界が急速に変わっていく。

 レースマシンにのって空気を切り裂いていくときのように、みるみるうちに不透明なヴェールが剥がされ、真実が姿をあらわした。
 いきなり目の前のキリが晴れて視界がクリアーになったかのような、そんな感覚。事実、二人の頭の中に巣くい、記憶を不明瞭にしていたキリが、今まさに取り払われたのだった。

「・・・・・あ」


 何度かパチパチと目をしばたたいた後、彼らは顔をあげ、お互いを見合った。

 ・・・・覚えている。自分たちが誰で、どんな人間で、・・・・そして今、目の前にいる人間が、自分にとってどういう存在だったのかを。

 さらには、彼らは催眠状態から覚めたときの典型的なパターンとは異なり、自分たちが催眠状態にいたときのこと・・・つまり、つい先程までのことでさえ覚えているのだった。
「・・・・ハイネル、お前、思い出した?」
「ああ。グーデリアン、お前もだろう?」
「まあね。でも、いきなり何でだ?しかも、二人同時に」

 なぜいきなりすべてを思い出したのか分からずにグーデリアンが首をひねっていると、床を見つめていたハイネルが急に鋭い声を出した。

「・・・ライターだ」
「ライター?」
「ちょうど目を覚ますときに、ライターが床に落ちた音がしてただろう!あれがきっと催眠のオン・オフスイッチになってたんだ!」
「さすがハイネル、よく覚えてんなー、そんなコト」

 グーデリアンが感心したような声を出す。
 まさに、時として『何もそんなコトまで』とツッコミを入れたくなるようなコトまで記憶している『マン・コンピューター』の誉れも高いハイネルならではである。

「・・・結局、あの催眠術師、何だっけ?ジョン?あいつって、腕がよかったのか、悪かったのか、どっちなんだよ?」
「悪いに決まってるだろう!退行催眠をかけるはずが記憶障害を引き起こし、あげくのはてに術をかけた本人にも催眠の解き方が分からないとは!まったく、巻き込まれてしまった私の身にもなってくれ!・・・・そう言えば」
「何?」
「グーデリアン、お前、何に驚いてライターを落としたんだ?」

 考えてみれば、そのおかげで二人とも記憶を取り戻すことができたわけである。
 ハイネルに聞かれると、グーデリアンはニヤリと笑って開いたシガレット・ケースをハイネルに見せた。
 中には小さなアメ玉が幾つか入っており、あきらかにハイネルのものと思われる字で「口がさみしくなったらコレでもなめてるんだな、ボーイ」と書かれている。


「・・・・・これは」
「ずっと昔、ハイネルにやられたんだよな。ここのところタバコを吸う本数がめっきり減ってたし、記憶がおかしくなってたから忘れてたんだよ。んで、タバコ吸おうと思ってケースあけたらいきなりコレだろ?驚いちゃって」

 それを聞くと、ハイネルは何となくおかしくなって、笑い出してしまった。
 グーデリアンと二人きりでいるときのハイネルはリラックスしていてとても柔らかい雰囲気だが、笑うとほんとうに優しい面立ちになる。
 そのハイネルの鼻先に自分の鼻を合わせ、グーデリアンは至近距離で彼の顔をのぞきこんだ。

「もっかいキスしていい?」
「・・・・かえって恥ずかしいから、そういうコトをいちいち聞かないでくれないか」
「聞かないですると殴ったろ?・・・・最初のころは」
「・・・今はちがうだろう」

 あまりにもかわいらしい返答に、グーデリアンは笑ってしまう。
 記憶を無くす前も、無くしている間も、そしてこうしている今も、変わらずハイネルのことが愛しかった。

「オレたち結局、何度会っても恋に落ちちゃうってコトなんだな」

 ハイネルは赤くなりつつグーデリアンをにらんだが、グーデリアンはうれしそうに、ますます笑みを深くするだけだった。

「考えてみれば当然か。どんな記憶を無くしたとしたって、ハイネルがハイネルであるかぎり、オレはハイネルのコトを好きになるんだろうし」
「・・・・私もそうだ」

 聞きとれないほど小さな声で言ったハイネルの唇を、もう一度グーデリアンはふさいだ。
誰もいない湖で抱き合い、恋人としてのキスをかわしている。
 抱き合う腕を強くした拍子に、二人の記憶を取り戻してくれた恩人であるライターがグーデリアンの手からすべり落ち、きらめく湖面に吸い込まれていった。

 だが、恋人たちは気にせず、長い間キスを交わしつづけていた。



 TOY CATさん、いつもお世話になっております!2400番と2500番を連続してゲットして下さったんですよね!ありがとうございますー。
 そして、恩あるTOY CATさんに『記憶喪失ネタ、長くなりそうなんですけど、2400番と2500番の分、両方使っていいですか?』と聞いた鬼なオンナは私です!どうやら私は鬼でキチクらしいです(笑)。すみませんでした!とりあえず長さだけはちょうど二本分くらいはあるかと思われます。
 記憶喪失ネタ、私自身何本もステキなお話を読んだことがあるので、できれば書きたくありませんでした…過去の名作にかすんで、空気のように存在感がなくなってしまいそうだったので(笑)。
 とりあえず、『いい話は書けそうにないから、意表だけはつこう!』と思い立ち(笑)記憶を失うのはグーとハイネルの両方に決定!いくらなんでも、二人が同時に記憶を無くす話はあんまりないんじゃないかと思っただけなんですけど…。


 TOY CATさん、いつも本当にありがとうございます。恩返しもロクにできないような私ですが、懲りずにまたキリ番ねらってやって下さいますか?これからもよろしくお願いいたします!

                   


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