空と海の向こうに
マシンがコースを駆け抜けていくと、レーストラックにこびりついたタイヤのラバーがかすかに舞い上がる。
フランツ・ハイネルは先ほどから厳しい顔をしてモニターと向き合っていた。もともと整った顔をしているが、こんな時には本当に血が通っているのかを疑いたくなるような、厳しく、それでいて人の目を引きつける表情をみせる青年だった。
全60周を予定しているマシンテストの、今は2/3ほどまで消化したところである。
『グーデリアン、シケインへの侵入角度が深すぎるぞ。今のでコンマ1のタイムロスだ』
よくできた彫刻のように整った薄い唇から、容赦のない叱責が飛ぶ。テストが始まったばかりならグーデリアンにも言い返すだけの気力があるのだが、すでにかなりの体力を消耗してしまっている彼には、余分な力は残っていないようだった。短く呪詛のような言葉を吐き捨てただけで、またドライビングに集中していく。
それでなくてもシュティールは普通よりも体力を必要とするマシンだった。加えてシュトロゼックはまだ新興チームのため、何につけてもまだ未知数な点が多く、手探り状態だ。
少しでも勝利に近づくため、今できるありとあらゆることをすべてこなしていかなくてはならない時期だった。
『くそっ』
『そんなところで縁石に乗り上げていては、コンマ3は失うぞ!』
グーデリアン自身も苦々しく思っていたところに、またハイネルの厳しい声が飛んだ。モニターから目を離さず、隣でひかえていたメカニックチーフのグレンに声をかける。
「プログラムβの用意を」
「ですが監督、βの方はまだ未完成なのですが・・・」
「そんなことは分かっている。マシンテスト終了後、私がβプログラムを完成させる。準備をしておいてくれ」
「そんなムチャな!監督、明日の夜にはカナダGPに向けてこちらをたたなくてはならないんですよ!?それでなくとも監督はここ3日ほど、ロクに寝てないじゃないですか!ただでさえいろいろあった直後だと言うのに」
だが、ハイネルはほんのわずかグレンに視線を投げかけただけで、またモニタの方に目を転じてしまった。
『グーデリアン!何度言ったら分かるんだ!最後まで気をぬくな、何だそのハンドリングは!まだ残り周回は7周も残っているんだぞ!』
「監督!!」
まるで自分の話を聞いてくれていないようなハイネルに、わずかにグレンが声を荒げる。彼の上司は若く有能であり、人望もあるすばらしい人物ではあったが、自分の身を省みないで突っ走ってしまうという欠点をもっていた。
そして、チームに所属するすべての人間が、そんなハイネルのことを心から心配している。だが、ハイネルはそんなスタッフたちの憂慮に気づいてもいないようだった。
「監督。・・・シュティールはよく仕上がっています。ジャッキーの調子だっていい。十分じゃないですか。あとは次のグランプリにむけて、あなたは少し休養をとらなくては・・・」
「”十分”?」
ようやくモニターから一時目を離したハイネルが、まっすぐグレンと視線を合わせた。もちろん恋愛感情とは次元の違う世界の話だが、怜悧に整ったハイネルの、とりわけ美しく深い緑の瞳にじっと見つめられると、グレンはいつも心が落ち着かなくなる思いを味わうのだった。
人形や彫刻のように整ったハイネルの唇が動き、視線がさらに厳しいものとなる。
「・・・十分?・・・グレン、他にできることがまだ山ほど残っていると言うのに、何をもって十分だなどと言えるんだ。私はまだできる。シュティールを向上させる余地はまだまだ残っている。『十分』だなんていう言葉、口にするのは死ぬ時だけでたくさんだ」
それだけを淡々とした口調で述べると、彼の目はまたモニターの方に戻ってしまった。
何も言い返せなくなってしまったグレンの肩を軽くたたいた者がいる。メカニックのキースだ。
「オレたちの負けさ。何たってオレたちみんな、ハイネルさんのああいう所にホレちゃってるんだからな。オレたちにできるのは、ハイネルさんの負担を少しでも減らせるよう、自分たちにできることを一生懸命やることだけさ」
キースの言葉に、グレンも苦笑を浮かべてうなづき返す。確かに、キースの言う通りだった。沈着な印象を与えることの多いハイネルだが、彼には驚くほどのバイタリティと情熱がある。理路整然としたロジカルな思考と同時に、彼には周囲にいる人間をも巻き込んでしまうような、強い磁力を放つ行動力を持っていた。
時としてその行動力は、あのジャッキー・グーデリアンをも驚かすほどである。
だからこそシュトロゼックの面々は、『可能性』という名のわずかな、髪の先ほどの希望にしがみついていられるのだ。
「・・・ハイネル監督」
まだ何か言いたいことがあるのか、とでも言いたげにひそめられたハイネルの眉を目にして、グレンは苦い笑みを浮かべた。そして、言葉を続ける。
「・・・・βプログラム、私がお手伝いできると思います。私の仕事はミシェルとケンが片付けられると思いますし、何とか今日中に仕上げてしまいましょう。その代わり、来月の給料明細書を受け取る日を、楽しみにさせてもらいますから」
・・・その言葉に、ハイネルは何も言わなかった。ただ、かすかにうなづき、優しく静かな笑みがその口元に広がっただけだった。
だがもちろん、グレンたちにとって、その表情はなによりの報酬となるのである。
「ふーーっ。まっったく、相変わらず・・・というより、最近ハイネル、ますます人使い荒くなったよな」
ようやくマシンテストを終えてピットに戻ってきたグーデリアンは、全身汗だくの状態だった。湿った髪を乱雑にかきあげ、上半身のレーシングスーツを脱いで腰のあたりで結びつけている彼の視線は、明らかにハイネルを探している。
ジャッキー・グーデリアンというのはいつでも魅力的な男だが、とりわけ、マシンを走らせる直前と直後には、同性でさえも『カッコいい』と思わずにはいられないほど、男らしく、人をひきつける大気のようなものを身にまとっていた。
汗ではりついたシャツの下には無駄のない筋肉におおわれた体があり、グーデリアンがささいな動きをするたびに伸びやかにうねる。彼の動きは、荒く無駄があるかと思うと、すきがなく機能的であるようにも見え、ほとんど野生の獣のようにしなやかで優美でさえあった。
周囲の明るさや感情の機微によって色合いをかえていくブルーの瞳は、こういう時にはいつもよりもどこか挑戦的な鋭さを増し、それでいてとても深くキレイな色をしていた。
恐らく、彼ほど同じ男の目から見てさえうらやむような、男らしい魅力に満ちた男は少ないだろう。
そんな彼が、まるで迷子になった子供が母親を探すかのように、一生懸命に目でハイネルを探しているのだ。本人は態度には出していないつもりらしいが、目線がめまぐるしくピット内をさまよっているので、ハタから見ればすぐにわかる。
たまたまグーデリアンの近くにいた燃料係(すみません・・・CFにはいないかも)のニックが笑いをこらえながらクイと親指をピット奥の方に向けた。
「ハイネルさん、今は一人でPCルームにおこもりだよ。でも、プログラム組んでるところだから、邪魔しない方がいいと思うぜ」
だが、もちろんグーデリアンはそんなセリフにひるんだりはしない。
「気にすんなよ、オレは邪魔じゃなくて、お仕事が大変なんだけどがんばっちゃってるハイネルを、心をこめて激励しにいくだけなんだからさ」
そうして魅力的なウインクをひとつ残すと、さっそうとした足取りでハイネルがいるはずのPCルームへと足を向けるのであった。
「ハイネル」
「・・・・・何しにきた」
せっかく連日の激務をこなしていて大変なハイネルを励まそうと(表面上の理由は)足を向けたというのに、ハイネルの声と表情は限りなく冷たかった。
顔はグーデリアンの方に向けていても、指先はキーボードを叩いているままである。
グーデリアンはハイネルの態度にはかまわず、とっとと近くにあった椅子を引き寄せると、背もたれに腹を預ける、普通とは逆の体制でハイネルの隣に座りこんだ。
ハイネルは一瞬だけ眉をつりあげたが、とがめる時間も惜しいとでも思ったのか、そのままPCのモニターに視線が戻ってしまった。
何かと話し掛けられて邪魔されてしまうのではないかとハイネルが危惧していたのに反して、グーデリアンはただハイネルがキーボードを操る指先や、その冷たく整った顔を見つめていて、ときどき・・・思い出したようにハイネルの名を呼ぶだけだった。
「・・・・ハイネル」
また、何度めかの呼びかけがなされる。
「なんだ?」
ハイネルも同じ問いを返す。だが、しばらくすると、いつもグーデリアンはこう口にするのだった。
「・・・・いや・・・いい。なんでもないんだ」
そうしてまた、しばらくの間キーボードを打つ音だけが二人しかいないPCルームにかすかに響いていき、また同じやりとりが繰り返されるのだ。
何度か同じやりとりをした後また名を呼びかけ、今度はグーデリアンの左手が、そっとハイネルの右手首あたりに置かれた。
ハイネルは手をとめ、そこでようやく隣にいたグーデリアンを見上げた。
グーデリアンは『続けていていいよ』と目で伝えた後、優しい笑顔をひらめかせた。
「・・・オレ、ただ、こう言いたかったんだ。”がんばれよ”って」
それだけを伝えて椅子から立ち上がり、部屋を出ていってしまいそうだったグーデリアンを押しとどめたのは、今度はハイネルの手だった。ハイネルの両手が、離れていこうとしていたグーデリアンの手を握りしめている。
グーデリアンが驚いて振り向くと、ハイネルはPCを操る手を完全に止め、グーデリアンと二人きりでいる時だけに見せる、どこか子供のように無防備な表情で彼を見上げていた。
とりあえずグーデリアンがまた椅子の上に座り込むと、ハイネルの整った白い手が、そっと握っていたままだったグーデリアンの左手をたどりはじめた。
「・・・すごいタコだな」
「そりゃまあ、どっかの誰かさんに毎日マシンドライブでしごかれてるからね」
感心したように言うハイネルに笑い、グーデリアンは逆にハイネルの手をとった。もちろんハイネルの手はきちんとした男性のものだが、指が細く長く、美しく整っている。
現役時代からドライバーにしては荒れていない手ではあったが、こうして監督業に専念している今、ますますその手はキレイに整い、美しく見えた。
だが・・・・グーデリアンはほんの少し、そのことをさびしく思う。ほんの少しだけ。絶対に口に出して言ったりはしないけれども。
その代わり、ハイネルの指や手のひらをたどっていたグーデリアンの手に、わずかに力がこもった。
ハイネルは長いまつげを伏せ、グーデリアンのしたいようにさせていたが、何かの儀式のようなその仕草が終わると目を開けてグーデリアンを見た。
グーデリアンの青い瞳と、ハイネルの緑の瞳の視線が絡みあう。グーデリアンから目をそらさず、ハイネルは再びグーデリアンの手をとった。
「グーデリアン」
グーデリアンは無言で、目線だけで返事をかえす。ハイネルは続けた。
「毎日キーボードばかりを打っている私の手は、とても頼りなく、骨っぽさだけが目につく指ばかりになってしまった。この手がかつてはステアリングを握り、マシンを操っていたとは信じがたいかもしれない。だが」
そして、ハイネルは静かに両手でグーデリアンの左手を持ち上げた。グーデリアンの目線の辺りにまで持ちあげると、また静かに言葉をつむぎだす。
「私は今自分の手ではなく、この手でマシンをドライブする。自分の手ではなくて、私はこの手を通してステアリングを握り、シュティールの息吹を感じ、サーキットを駆け抜ける。・・・私は今も、いつでもレースを感じていられるんだ。この手を通して。ジャッキー・グーデリアンの手。この手が、私に今もサーキットの風を届けてくれるんだ」
言い終えると、ハイネルは静かに目を閉じ、そっと両手でグーデリアンの手を引き寄せ、軽いキスを指先に落とした。春の雨のしずくのように、かろやかで一瞬だけの感触だったけれど、たしかにグーデリアンはそれを感じたはずである。
「そうだな」
グーデリアンは静かに言い、ハイネルの手を力をこめて握りかえしていた。ハイネルの手は、見る者が見れば頼りないほどに細く長い。
けれど、この手がシュティールを産み出し、努力と忍耐を積み重ね、これまでにありとあらゆる不可能を可能と変え、実現させてきたのだ。
グーデリアンにとっては、世界で一番愛しく、頼りがいのある手だった。
それから二人は自然にキスをかわすと、また互いの仕事に戻っていった。彼らに時間はほとんど残されていない。
そうして、少しでも時間が残されている限り、彼らにはまだまだできることがあるはずなのである。
今、シュトロゼックの一行は、次戦のカナダGPに向けて空路をいく途中だった。出発直前まで大わらわだったものの、何とかスケジュール通りの便に乗ることができ、スタッフたちの多くは疲れきって離陸直後に眠りこんでしまっている。
飛行機はほとんど音もなく、静かに夜の闇を切り裂き、目的地へと向かっていた。
ハイネルはグーデリアンの肩に頭をのせ、穏やかで深い眠りに入っている。
彼は普段、あまり飛行機の中で眠りこむタイプではない。その彼がこうして完全に意識を飛ばしているのだから、よほど疲れきっていたのだろう。ムリもなかった。
・・・・本当は。本当は昨日PCルームでハイネルと二人きりでいた時、グーデリアンはハイネルに『あまりムリをするな』と声をかけたかったのだ。『ムリをしないで、もっとその体を労わってくれ』と。何度その言葉が口元に出かかったかしれない。
それでも、グーデリアンはその言葉をのみこんだ。グーデリアンの心配を口に出せば、さらにハイネルはグーデリアンの心配をしかえしてくるだろう。厳しいように見えて、ハイネルは誰よりも優しい心を持っている。
それに、フランツ・ハイネルという人間の、一人の人間としての能力と人格を、グーデリアンは誰よりもかい、誇りに思っていた。だからこそ、『ムリをするな』とは言わなかった。・・・言えなかったのだ。
飛行機は夜を越え、夜明けに向かって空を飛ぶ。
グーデリアンは自分の肩で眠るハイネルに気をつかいながらも、そっと窓をあけてみた。
飛行機の窓の外に、雄大な景色が広がっている。朝の光が山の頂から斜めに差し込み、複雑な光と影のあやを描き出していた。
言葉を無くすほど美しい眺めだった。雪をいだいた山々、どこまでも続く大地、かすかに見てとれる川の流れ・・・。
どんな人間の心にも響く、重圧感さえ感じさせる圧倒的な景色が眼下に広がっていた。
自然のもつ美しさは、人の外見的なそれとはまったく異なる要素を持っている。人の心を打ち、見入らせながら、どこか突き放すような厳しさを有している。すべてを受け入れつつ、かつすべてを拒絶するような、息をのむほど広大で美しい自然のたたずまい。
たとえ人が滅びさろうと、どんな生物がこの世を去ろうと、その山々や、川や、森はそのままそこにあるだろう。
見る者がいなくなっても。今までと同じように、美しく、厳然と、ただそこに。
だが、その厳しさはグーデリアンにとって厭わしいものではなかった。むしろ新しい気分でこの新しく、大きすぎる世界に挑んでいこうという気持ちになれる。
そんな風に自分がいつも前向きな気持ちで突き進んでいけるのは、今自分の肩にもたれて眠っている人がいつもそばにいてくれるからかもしれない。
そんなことをグーデリアンは思い、ハイネルの寝顔を見つめた。髪先にかすかなキスを落とし、また外の景色に視線を移す。
ハイネルさえそばにいてくれれば、こんな自然を相手にしてさえ、勝負を挑んでいける。負けないはずだと信じていられる。
どんな長い夜にも夜明けはくる。どんなに高い山だってやがて頂にたどりつける。
明るい朝日が、グーデリアンの横顔を染めあげた。その顔に、ほがらかな笑みが浮かぶ。
ハイネルはもうすぐ眠りから覚めるだろう。そして、いつものあの戦いに挑んでいく瞳で、グーデリアンをまっすぐに見つめてくるに違いない。
鮮やかな朝日の中、飛行機は飛ぶ。刻一刻と、激しい戦いの場に向かって。
戦いの地は、もうすぐそこまで迫っていた。
ほとんどの皆さんがすでにご存知だと思うのですが、私は今カナダにいます(そんなに長期滞在ではないです。三ヶ月から六ヶ月の間くらいかな?)。そんな私の旅立ちの前に、タイムリー(?)ですばらしいお題をくださったといきゃっとさんに拍手ー!ぱちぱちぱち。ありがとうございました!←後日注:結局私のカナダ滞在は1年三ヶ月近くに及びました(笑)。
しかーし!現実はそう甘くはなかったのです。ごめんなさい・・・私・・・私・・・・窓際の席じゃなかったので、窓からの景色ぜんぜん見られなかったんです!!(笑)眠さのあまり頭がぼーっとしていたこともあって、もうホントにどんな景色が窓の外に広がっていたのか、ほとんどまったく覚えていないのでした・・・。
もともと私、体験したことをダイレクトに書くタイプではないので(あからさまに体験談を元にお話を書くのは、私にとって恥ずかしすぎることなのです・・・)、許してください・・・。大ウソを書いてしまいました(笑)。
えー・・・私の目論見としては、どなたか一人でも『そっかー。カナダに行く途中、こんな景色が見られるんだー』とカンチガイしてくださらないかと・・・だ、ダメですか、やっぱり(笑)。
なにはともあれ、やはりエッチな話よりは大分書きやすかったです(笑)。書きやすかったとは言え、こんな話になってしまって申し訳ないのですが・・・。といきゃっとさんに少しでも喜んでいただけたらなと思います。本当に、いつもとてもお世話になってしまっているのに、お返しにもならなくてごめんなさい。がんばりますね!
あ、あと、すみません!いつものことですが、『オフィシャル設定!?ナニソレ!?』的な話の展開でスミマセヌ・・・。はっきりキッパリ、私にはオフィシャル設定に沿ったお話はムリです!知りませんから!(笑)
といきゃっとさん、繰り返しになりますけど、いつもありがとうございます。よろしければ、これからもよろしくお付き合いのほど、お願いいたします。