“Your eyes only”
  

 『忙しいから、しばらく帰宅できない』
 そう言ったハイネルに、グーデリアンは『しばらくって、どのくらい?』と一応は尋ねてみた。
 過去の話である。
 『さぁな』の一言で話を打ち切り、着替えと歯ブラシその他を詰めた小型トランクを提げて、『貴様は体力の強化に励んでおけ、私が帰ってきたときに体脂肪率が1%でも増えていたらクビだ』とだけ言い残した恋人に、グーデリアンは悄然とうなだれながらも『だったら体脂肪率が2%下がってたら、ご褒美を頂戴』と言うだけ言ってみたが、鼻で笑われた。
 これも過去の話である。
 そう、72時間ほど前にあった出来事だ。




 シェイク・ダウンを間近に控えた『シュピーゲルHP-22 Ver.Zに搭載する予定のサイバーシステム』が不調だとかなんとかで本社に出社して以来、ハイネルは帰宅はおろか電話さえよこさず、もちろんグーデリアンの方から携帯を鳴らしてみても応答もない。それでその間グーデリアンは為す術もなく、トレーニングに没頭しまくった日々を過ごしていた。朝、目が覚めたらロード・ワーク20q、スペシャル・ドリンク(ハイネル調合・内容不明・超酸っぱい)だけの朝食をとった後に、2時間のエクササイズと爆泳10q。昼食はハイネルが残していった物(一見オート・ミールだが、味は無いに等しく、食感はぬるぬるのねとねとのツブツブ、ハイネル手製でなければ腹ぺこのグーデリアンでさえ吐いた代物・もちろん内容不明)を電子レンジで解凍して食べて(正確には水で流し込んで)、昼からは自転車で爆走30qの後、ジムでウェイト・トレーニングとストレッチ。夕食はチームが契約した栄養士があれやこれやと届けてくれるお仕着せメニューで、今日は鶏ささみのソテー(とは名ばかりの脂が抜けきった蒸し鶏)とサラダと豆のスープ。
 連日繰り返されるトライアスロンにはめげないグーデリアンも、このメニューにはさすがに滅入っている。
 けれどもっと辛いのは、ハイネルに会えないこと、声さえも聞けないこと。
「まずいよ、ハイネル…」
 いや、夕食だけはまともな味なんだけど。
「食べたいよぉ〜、フランツ〜」
 ハイネルがこの台詞を聞けば、神経質に眉根を寄せつつ、言い放ったであろう。
 食欲と性欲がごっちゃになっているぞ、グーデリアン。




 そしてハイネルが出かけて72時間目。
 グーデリアンは『本日のトライアスロン』を終了させて、愛の巣(グーデリアン主張)へと帰ってきた。
「I'm home」
 なんて言っても、返事がないのは解りきっている。でも。
「…!」
 玄関に脱ぎ捨てられていたストレート・チップに、グーデリアンは目の色を変えた。少しばかりくたびれて心なしか色艶まで悪くなってはいるが、この『フランクフルト在住・老マイスターの手による一点物、メダリオン(穴飾り)の美しさが秀逸かつドレッシーな革靴(ハイネル談)』は、ハイネルが履いて出かけた靴だ。
「ハイネル!」
 ハイネルが帰ってきた、と思うだけでグーデリアンの気分は高揚した。ああ、やっと帰ってきた!やっと会える!やっと声が聞ける!んでもって、抱きしめて、チューして、んでもって、んでもって、んでもって…!!!
「ハイネル、ハイネル、ハイネル〜」
 歌うように名を呼びながらまずはリビングへと向かえば、ローテーブルの上に小型のトランクが置かれ、ソファにはネクタイとジャケットが無造作に放り出されていた。
「ハイネル?」
 痕跡は残されているものの、そこが無人であることを確認したグーデリアンは、次はキッチンへと向かった。ハイネルが夕食の支度をしている可能性に思い当たったのだ。
「ハ〜イ〜ネ〜ル〜」
 しかしダイニング・キッチンはやはり無人で、シンクに使用後と思われるグラスが置かれていた。帰宅したハイネルは、ここで水を飲んだらしい。
「ハ、ハイネル〜、どこだ〜?」
 残されたグラスの縁を舐めたい衝動を堪え、ほとんどナマハゲと化したグーデリアンが次に向かったのはバス・ルームだった。脱衣籠に汗染みのできたカッターシャツとアンダーシャツ、クリーニング屋が切なくなりそうな汚れ具合のスラックスに、靴下とパンツが一体化したままつっこまれているのを発見したグーデリアンは、欲望のままそれらにすりすりしそうになったが、本体がいないっ!という衝撃に変態じみた行為を放棄して、雄叫びをあげながら、とうとう寝室へと走り出した。
「ハイネル、ハイネル、ハイネル、ハイネルゥゥゥゥゥ〜」
 寝室でハイネルは、二人で抱き合ってもへっちゃら!な広さのベッドに、一人で安らかに横たわっていた。入浴後、びしょびしょの体にバスローブを巻き付けたそのままの姿で。
「ハイネルゥ〜、ハイネル〜、はいねる〜、フ〜ラ〜ン〜ツ〜〜〜〜〜!!」
 眠っていたハイネルは汗くさいグーデリアンに思い切り抱きつかれて、さらには伸びかけた固い鬚ですりすりされて、ああ、と目を開けた。
「グー…ただいま。すまな、かった…なかなか、帰れなくて…」
 夢うつつのハイネルの言葉に、首をブンブン左右に振ってみせたグーデリアンは、たったの3日で窶れてしまった恋人の両頬に音を立てて交互にキスを繰り返していたが、やがて湿った体をぎゅっと抱きしめて、唇に唇を重ねる。
「ん……したいのか?」
 唇を割って差し入れられる舌に応じて、ハイネルは唯一身につけていたローブをのろのろとした仕草で脱ぎ捨て、シーツの上で膝を立てて足を開いた。
「…いいぞ、ジャッキー」
 グーデリアンはもう、正気を保てなかった。
 むやみに合点合点を繰り返し、血色が悪いせいか常よりも白い肌にむしゃぶりついて、音をたてて吸い上げる。
「ハイネル、ハイネル、淋しかった、俺、お前がいないと」
 駄目になる。
 そう言いかけて、優しく額に張り付いた栗色の髪をかき上げてやって。
 ふいにグーデリアンは、腕の中の脱力した体に、突っ伏した。
 ハイネルはグーデリアンにところ構わず舐められながらも、すやすやと眠っていたのだ。




 3日間、着替えもしなかったのかねぇ、と思いながら勝手にハイネルのトランクを開けたグーデリアンは、乱雑に詰められていた汚れ物にがっくりと項垂れた。ハイネルはちゃんと着替えだけはしていたようだ。あの窶れようと衣類の汚れ具合から察するに、多分この3日間、眠りもせず、食べもせず、入浴もせず、ぎりぎりまで追い込まれた状況で働きづめだったのだろう、あの綺麗好きのハイネルが。そのことに思いを馳せたグーデリアンは、ハイネルがひたむきに眠っている傍らで、彼の睡眠を妨げないよう気を遣いながら温かなキルトで裸体を包んで、美しい寝顔をただ見つめていた。
 一晩中。









「Mornin' my sweet honey」
 甘ったるい単語に反射的に眉根を寄せながら、額や頬に柔らかい湿った感触を感じてなんとかかんとか重い瞼を開けたハイネルの視界に、当たり前の事だがグーデリアンが飛び込んできた。とびっきりの男前、という訳ではないが、愛嬌たっぷりに垂れた目尻にいつの間にか刻まれた笑い皺が優しい空色の瞳にふさわしく、精悍な顎のラインと相まって爽やかな男の魅力を振りまいている。
「大丈夫?起きられるか?」
「…今、何時だ?」
「午前11時。マネージャーから電話があった。午後2時から会議、だろ?」
「そうだ。手間をかけさせてしまったようだな、すまない」
 きっぱり言って体を起こしたハイネルは、自分が裸で眠っていたことに気付いたが、だからと裸体を隠そうともせず、まっすぐにバス・ルームへと向かった。
 北欧人種特有の色素の薄い肌に白い午前の光が投げかけられ、引き締まった肢体を明瞭に際だたせる。
 眩しそうに目を細めながらも、グーデリアンはハイネルを見つめていた。
 くしゃくしゃの栗色の髪が光を弾いて、金髪よりも金に見える。肌はどこまでも、指先まで白い。ちょっと頬がこけてしまって、ついでに肋も浮いてしまったりなんかして、ああ、また痩せちまったな、なんて思ってしまう。
「あまり、見るな」
 見つめすぎたのか、ハイネルが背中ごしに、一言素っ気なく吐き捨てる。
 でも。
「俺だけ、だろ?My dear cheese cake」
 グーデリアンの問いに、ハイネルは生硬な律儀さで応じた。
「お前だけだ」




 ハイネルが入浴している間にグーデリアンが整えたハイネルのためのブランチ・メニューは、胃に優しいポーチドエッグと野菜がたくさん入った豆乳仕立てのクリームスープ、ハイネル好みにかりっと焼いたごく薄切りのトーストと濃いコーヒー。
「美味だ。料理の腕が上がったな」
 よほど空腹だったのかスープ皿を持ち上げて中身を流し込むように啜るハイネルに、グーデリアンは目眩した。
 薄い酷薄な形の唇に絡みつくクリームを桃色の舌先が舐めとり、トーストの上に溢れるポーチドエッグの黄味に吸い付く。
「ハイネル、ハムとチーズ…ミモレットとカマンベールでよかったか?」
 パンを咀嚼しながら頷いて、グーデリアンが差し出した皿を奪い取るようにして受け取り、2枚目のトーストにハムとチーズをのせて貪るハイネルに、グーデリアンはもはや言うべき言葉を何も思いつかなかった。黙って2杯目のスープをよそってハイネルの前に置いたグーデリアンの昼食は、もちろんハイネル特製・よくわからない変な物だ。
 ハイネルは寝起きにシャワーを浴びた後、グーデリアンのバスローブを羽織っているだけで(ハイネルのは現在洗濯中、もちろんグーデリアンがした)、髪からはまだ水滴がぽたぽたと溢れ、むきだしの太股にパンくずがぱらぱらと落ちて張り付いている。
 半ばやけくそで変な物を飲み込んで、グーデリアンはため息をついた。
 ああ、この悪魔。
 あっちもこっちも、人を欲求不満だらけにしておいて、美味しそうなご馳走は見せびらかせてくれるだけ。
 でも、ハイネルがなにもかもを見せてくれるのは、この世に俺ひとり。
 だらしなく脱いだままの靴も、汚れたシャツもグラスも、びしょ濡れのバスローブも、穏やかでとびきり可愛い寝顔も、スレンダーな肢体も、夢中でスープを貪る姿も。
「グーデリアン、まだ昼食が終わらないのか?」
 問われて、物思いにふけっていたグーデリアンは残ったそれを一気に飲み干し、咳き込む。
「今、終わった…うう…これ、一体なんなんだよ?」
「ラクトアルブミン(牛乳タンパク質)を中心に各種ビタミン、カルシウム、及びミネラルと大豆プロテインを加えた物だ」
 解んねーよ、とぼやくグーデリアンに、要するに脂肪燃焼促進剤だ、ときっぱりと言ったハイネルは、そっとグーデリアンの頬に両手を添えた。
「効果があったようだな…引き締まって精悍になっている」
「たった3日じゃねーか。そうそう、変わらないって」
「…たった3日、だがな。私には耐えられなかった。お前に会いたくて仕方なかった」
 会いたかったんだ、と囁いて、グーデリアンの胸の中に、ハイネルが身を投げ出す。
「抱きしめてくれ…私はそのために帰ってきた、ジャッキー」
 そのために72時間、一心不乱に働いてきたのだと、まだ充血したままの緑の瞳が訴える。
 恋人の腕の中で眠るために、ほんの少しの逢瀬のために。
「フランツ…嬉しい。すごく嬉しい。でも頼むから、無理はしないでくれ」
「そんなことは聞いてない。お前は3日間、どうだったんだ?」
「聞いてなかったのか?嬉しいって。でも…」
 ふいにグーデリアンの腕の中で、ハイネルがくすくすと声を上げて笑い出した。
「ジャッキー・グーデリアン。サーキットの種馬とも呼ばれた男が、随分と血の巡りの悪い言い方をするじゃないか?」
「本気だからだ。プレイ・ボーイもセックス・シンボルも、とうの昔に返上してるよ」
 恋人の目尻に浮かんだ笑い皺を指先で辿って、ハイネルは同じように微笑した。
 なんて笑い方をするようになったのか、この男は。
 若い頃の軽薄さは綺麗に拭われて、試練を駆け抜けた靱さが、深い思いやりに満ちた柔らかな微笑にさえにじみ出る。
 私が選んだ唯一の恋人。
 女性ならば当然、同性さえも惹かれる、逞しい男。
 現に今もグーデリアンに熱烈な恋情を寄せる女性は、引きも切らない。いや、かつて以上だ。めざとい女性たちは、この魅力的な男をたった一晩でも手元に引き寄せるためにならば、ありとあらゆる犠牲を払う。その彼女らのご機嫌を損なうことなく、巧くあしらって誰一人として深入りさせないのが、現在、世間に一番よく知られているジャッキー・グーデリアンの顔だ。
「私一人に貞節を捧げたからと言って、手練手管まで鈍った訳ではあるまいに」
 お前を追いかけ回す女性は掃いて捨てるほどいることだしな、といたずらっぽく言ってのけて。
「あと1時間だ、グーデリアン」
 やれやれ、と苦笑したグーデリアンは、軽々とハイネルを抱き上げて、シーツを取り替えたばかりのベッドへと運んだ。
「やたら急いで食ってるな、と思ったら…!」
 完敗だ、と呟いて唇を重ねたグーデリアンは、ハイネルの舌先に残された濃厚なチーズとスープの味に美味い、と口走ってしまい、額を弾かれた。




「ではグーデリアン、行ってくる。またしばらく帰られない」
 新しい下着やシャツを詰め込んだトランクを提げて、一分の隙もなくスーツを着込んだハイネルがそう言い放った時、さすがのグーデリアンも一瞬脱力しそうになったが。
「ん、解った。…なぁ、ハイネル、今度は電話ぐらい出てくれよ」
「馬鹿者。電話に出る時間があるなら、私は会いに戻ってくる方を選ぶ」
「そっか…嬉しいよ。でも、あんま無理すんなよ」
 うちゅうちゅっと玄関先でキスをして、車で迎えに来たマネージャーにハイネルを引き渡して、さて今度帰ってくるのは何時間後かね、とグーデリアンは苦笑したが。
 近い未来(それも数時間単位)、マネージャーからハイネルを迎えに来いと電話がかかってくることを、グーデリアンは知らない。
「ええっ?ケツまくれ?!」
『阿呆!ケツマクエンだ、結膜炎!監督の目、真っ赤っかじゃないか!!』
 うつるんだよ、あれは!と叫んだマネージャーに『治るまで監督を出勤させるな、ついでにうつらないようお前も接触するな!』と厳命されて、その後約1週間、ハイネルは在宅勤務を余儀なくされ、グーデリアンは禁欲を強いられることとなる。
 Eyes onlyに耐えきれなくなって、先に音を上げるのはどちらなのか。
 168時間耐久レースは、未だ始ってさえいない。




 瀬名さんのお話を何本か読ませていただいて今強く感じていることがあります。瀬名さんはさらっと「おお、カッコいい!」と思うような文を書かれますよね。この「さらっと」というのはすごいことだよなぁといつも感じ入ってしまうのでした。文章のテンポなんかも本当に巧みな方だなぁと思います。う、うらやましい・・・(笑)。
 出てくる食べ物は美味しそう。時折口にしてるグーのえーごがカッコいい(cheesecakeって、スタイルのいいかわいこちゃん的な意味があるそうです。瀬名さん教えて下さってありがとうございました!)。ハイネルが口にするセリフが知的。肌や食事の時の描写が色っぽい。
 食事って、人によってはとてもセクシャルなイメージになるそうですが、ハイネルの食事シーンも描写が艶やかで、グーといっしょにドキドキしてしまいました。本人まったく自覚なさそうなところがハイネルの素敵なところです。罪なヒトですね!

 瀬名さんのハイネルは男前です。カッコいいです!そして男っぽさとキュートさを同時に持ち得ているグーも素敵です。これもさりげない表現なんですけど、グーの笑い皺の描写のあたり、想像してうっとりしてしまいました。ハイネルの下着に思わずすりすりしそうになるグーも、この男っぽい笑顔を見せるグーも私は好きです。
 そんなグーを無意識でも意識的にも翻弄してしまうハイネルはすごいと思うのでした。

 あ、それから、私はちょっと前に角膜炎という目の病気になったんですけど、このお話はそれからしばらくして一度読ませていただいていたのでした。このお話に出てくるのは結膜炎。話題(うーん何と表現したらいいものかわからないのですが)をさらっとリンクできてしまうのもすごいなぁ。

 私は「結膜炎」を「ケツまくれ」と聞き間違えてしまう、ネイティブタング(母国語)は何ですか?なグーが大好きです瀬名さん!(笑)

 改めまして素敵なお話をありがとうございました!
 

元のページに戻る
HOMEに戻る