もう一度キスしたかった
出逢ったその瞬間に落ちる、そんな恋もある。
眩しい真夏のぎらりとした陽射しにも似て、それは瞳に焼きついた。
名前くらいは、知っていた。
経歴だって、紙面に載っているくらいのことは頭に入っている。
下馬評を鵜呑みにして、ヨーロッパのどこかのボンボンが親の力で走っているのだと、馬鹿にすらしていた。
その走りを目の当たりにし、本人を直接目の前にして、その意識を根底から覆されるまで。
「フランツ・ハイネルぅ?ああ、ダメダメ。あんなお坊ちゃんなんて、お呼びじゃないんだよ」
最年少でインディをあっけなく覇した青年は、どかりと勢いよくソファへ身体を放り投げた。
新たにサイバーフォーミュラというカテゴリーへ足を踏み入れた、その最初の彼の仕事が、このインタビューに答えることだった。
鍛え上げられた堂々たる体躯はわずかな贅肉もなく、その黄金色の髪が長めに伸びて鬣に似ていることもあり、見る人に成長期にある若獅子を連想させる。
いまだ十代である彼の周囲にいる者は、むろん等しく彼よりも年長で、それでもなお、多を圧する雰囲気をまとう若者は、確かに王者の風格があった。
同じ年で、彼よりも一年早く走っているものの名前が出ると、ひらひらとその大きな手を振って、器用に肩をすくめて見せた。
「それでは誰が一番のライバルだと思いますか?」
年配の男の声が尋ねると同時に、両手の指で数えられないほどのカメラとフラッシュ、マイクの波が打ち寄せるように一斉に向けられる。
それに怖気づくでなく、むしろにやりと笑みすらその頬にのせて見せるだけの余裕が若者にはあり、一瞬だけ、考えるふりをした。
「いまのドライバーの中には、ライバルなんて、この俺にはいないね。むしろ、あんまりにも簡単に勝っちまったときに、がっかりしないだけの覚悟を決めとかなきゃいけないから、そういう意味では自分自身が一番のライバルかな」
大言壮語を、とざわめく大人たちに、悪巧みが成功したときのような悪戯っ子の笑顔を向けると、
「まあ、ハイネルってやつはともかく、大センパイのロペあたりには気をつけるとするよ」
おそらくはその名前が出ることを期待していただろう記者の群に、サービスのつもりかそう付け足し、その大きな体からは考えられないほどしなやかに立ち上がり、女性記者にウィンクを投げかけたのだった。
「あれは?」
テストランを重ねるマシンを、1台1台チェックする。
データとして知ってはいても、やはり、ドライバーとその走りのクセは、自分の目で確かめなければ、勘はつかめない。
だから、自分のマシンの準備ができるまで、マシンの外観と脳裏の名前を、その走りの特徴に照らし合わせる作業をずっとしていたのだが。
目の前を、音速でマシンが駆け抜けていく。
何台かを見送ったとき、ふと振り返り、近くにいたクルーに声をかけた。
「ああ、あれはハイネルさんですね。ZIPレーシングの」
わずかに耳を傾けるようにして小さくなってゆくエンジン音を確かめ、にっこりと笑って答えたクルーは、人好きのする笑みを向けた。
「確か、グーデリアンさんと同い年だって聞いてますよ」
「…へぇ」
サイバーフォーミュラのドライバーとして、初めてのグランプリレース。
映像の中で見てきたそれらが、現実に目の前にある。
緊張では、決してない。
だが、何事も、最初が肝心。
ここでしくじるわけにはいかない。
だから、ちょっとくらいの武者震いは、さすがにするってものだ。
「いい走り方、するんだな」
それがすとんと憑き物が落ちたようになくなったのは、たった1台のマシンの所為。
まっすぐに、計算し尽くされたようなラインをとっていた。
それだけならば、グーデリアンの目にはとまらなかったはず。
精密で、誇り高い貴族のような、グーデリアンにしてみれば面白味のない走り。
けれど、静かな表面とは逆に、その下面には熱いものが滾っているように見えた。
その奥底にあった、『何か』がグーデリアンの心を鷲掴みにしたのだ。
焦燥にも似た、勝利を渇望する、例えれば、灼熱の氷。
焼け付く夏の陽射しのような、いやそれよりも、落雷のように強烈な………衝撃。
「…あれが?」
その声はたぶん、自分でも笑っちゃうくらいに間が抜けていたはずだ。
ふたつほど向こうのピットに入って来たマシンから降りてきたのは、想像とは全く違う外見をしていた。
もちろん、顔くらいは写真で見て知っている。
それでもなお、信じられなかったのは、その細さ。
北欧系の白い肌に奇抜に立てた髪型、細いフレームのインテリ然とした眼鏡。
顔写真から、線の細いやつだという印象はあったけれど、それでも半端でないGに堪え得るだけの体つきはしていると思っていたのだ。
それは、ロペ然り、グーデリアン然り。
表現力の乏しい者ならば、ごついとさえ言えるような体格を。
だが、マシンから降り、ピットの中へ向かうハイネルは、どう見ても細く、遠目でもそのレーシングスーツに包まれた肢体は、見慣れた自分の体と比べれば、華奢ですらあった。
ビジネススーツを着ていたほうがよほどしっくりとするような、グーデリアンからすればまるで女子供のようなあの細い体から、どうすれば、一瞬で見たものを熱くするようなドライビングができるというのだろう。
「おもしろいじゃん」
ピュウと軽く口笛を吹いて、グーデリアンはスタンバイしたマシンへと乗り込んだのだった。
それが恋だと気付くのに、たいして時間はかからなかった。
第1戦の予選中に、うっかりハイネルのファンからの差し入れを勝手に食べてしまったことで、思いっきりハイネルにどつかれた。
まさか、それくらいのことで怒るような人物だとは思っていなかったから驚き、一瞬反応が鈍ってしまったが、これはグーデリアンにとっては嬉しい誤算だった。
公の場での仮面のように変化に乏しい表情ばかり見ていたけれど、こんな人間らしい感情もあるのだと、知ることが出来たから。
さすがに、短気さにおいては想像よりもかなり低い沸点に、まるで子供のようだと、めまいがするほど驚愕してしまったけれど。
それでも、外見に似ず結構手が早いんだなぁと思ったら、なぜかわくわくするほど嬉しくなって、ことあるごとにちょっかいをかけては、秀麗な唇から飛んでくるとは思えないほどの悪口雑言を浴び、3回に2回は殴り合いの乱闘になった。
そのハイネルの、白くて細いのだろうと想像していた指先が、まるでメカニックのように黒く汚れていたのに気付いたのは、それほど早い時期ではなかったはずだ。
そして、意識をもって見ていれば、単なるドライバーとしてではなく、マシンの調整にも携っている姿も目に付くというもので。
大会社のボンボンが道楽で走っている。
そう思っていた自分が、自分には絶対に見せてはくれない、どこまでも真摯なその眼差しに、情けなくさえ感じたのだった。
今まで、自分の周りにはいなかったタイプ。
だから、気になるのだと、思い込もうとした。
自分が好きなのは、命のぎりぎりまでをかける戦いと、柔らかく包み込んでくれる女性なのだと、言い聞かせた。
恋の駆け引きなんて百戦錬磨、たった一人に夢中になるなんてことは、プレイボーイの名が廃る。
それでもいつのまにか視線が追ってしまうのは、凍結した炎を瞳に閉じ込めた白い人で。
女性ですら、こんなふうに特定の誰かだけを心に留めたりしたことは、今までになかった。
恋は駆け引きのゲームだと、そう思っていた自分を殴りつけたくなる。
駆け引きなんて出来ないくらいに余裕がなくなってしまうのが、恋なのだ。
相手が難攻不落であるからこそ、余計にその熱は霧消することなく、天井知らずに上がりつづける。
あの、しなやかな指先を己の手の中に捕まえたいと、切望する季節は、三巡りほどした。
「来年からハイネルさん、S.G.M.へ移籍するそうですよ」
チーフメカニックが、コーヒーブレイクのときにグーデリアンに声をかけてきたのは、今年のグランプリが1戦を残すのみとなった時期である。
寄ると触ると喧嘩するふたりではあるが、少なくともグーデリアンのいるスタースタンピードでは、それは一種のレクリエーションであると見るようになっていたし、また、一見ちゃらんぽらんなグーデリアンではあるが、それはグーデリアンが作った『見せかけ』の『スタイル』であり、対人関係にかなり神経を使っていることも知られていた。
だから、そんなグーデリアンがハイネルを構うのは、それなりに彼を評価しているからだと思われているし、当然、ハイネルに関する情報は、入ってくると同時にグーデリアンにも伝えられる。
「S.G.M.?」
「ええ、彼の父親がオーナーだそうで」
ドライバーが走るためによりよい条件を求めて移籍することは、珍しいことではない。
もとより、ハイネルの走りの底にあるものを、言葉で表現できないまでも感じているグーデリアンではあるから、おそらくはZIPレーシングでは成し得なかったことがS.G.M.ではできるとハイネルがみたととって間違いではないと思う。
だが、他の者はそうは思わない。
「やっぱり父親の七光りを利用しようとしてんですかね」
明らかに落胆の色を滲ませて言ったチーフメカニックは、同時に肩で息をついた。
有名すぎる父親を持ったハイネルは、例えそれが己の力で進んできた道であっても、父親の威光を背景にしていると思われている。
それなのに、噂をわざわざ肯定するようなことを、ハイネルがするはずはない。
「きっとなんか考えてのことなんだろ」
詳しい理由はわからないなりに、いやだからこそ、グーデリアンはチーフメカニックの肩を叩いてそれ以上の詮索を止めさせた。
「あれ、ハイネル?」
偶然というものが存在するのなら、こんな出会いもいいと思う。
最終レース開催地であった日本でのシーズンエンドパーティも終わり、数日間観光を楽しんだグーデリアンが、明日には本国アメリカへ向けて発つという、その日の午後。
たいして嵩のない衣類と、買った土産をそれでもさすがに整理しなくてはとホテルへ戻る途中、見慣れた男の見慣れぬ姿を見つけたのだ。
湿度の高い空気が曇天に閉じ込められ、高層ビルの立ち並ぶ通りは灰色に沈み、肩を触れずに歩くことが困難なほどの人込みでありながら、暗い色の髪と服装が多い所為で、寂しい雰囲気がまとわりついている。
その中に、いつもは何でと思うほど奇抜に立てた髪をおろし、レーシングスーツではなくビジネススーツを着た総天然色のハイネルがいた。
「…グーデリアン」
呟いただけのつもりが、声になっていたらしい。
ウィンドーを眺めていたハイネルが気付いて振り返り、眼鏡すらないその瞳を瞠らせた。
「もうとっくにドイツへ帰ったと思ってたよ」
グーデリアンの泊まっているホテルのラウンジ兼喫茶スペースで、コーヒーの芳香を胸に満たす。
ゆったりとしたソファに腰を下ろし、低いテーブルをはさんでくつろぐなんて、想像もしていなかったことだった。
「私は、日本が好きなのだ」
いつもならすぐに喧嘩腰になるのに、穏やかなホテルの雰囲気の所為だろうか、ハイネルも落ち着いてゆっくりとした話し方をした。
独自の文化を築いた歴史の長い国は、ハイネルにとって、どれほどいても飽きることがないほどの魅力を感じるのだという。
できればこんな都会の真ん中ではなく、昔からの暮らしを今でも続けているような小さな村などにも行きたいらしいが、それにはさすがに時間が足りないと、苦笑した。
いつもと違う格好だからか、その笑みはとても柔らかくて。
他の人よりもたくさんハイネルの違う表情を見てきたと自負しているグーデリアンにとっても、それは初めて見る、暖かさを含んだもので。
「俺、さ」
だから、抑えていた心が暴れだしてしまったのも、仕方がなかった。
「ハイネルのことが、好きなんだ」
嫌われたらどうしようとか、それよりも気持ち悪がられて話すら出来なくなったりしたら立ち直れないなとか。
驚いたようなハイネルの顔と、それでも慎重にコーヒーカップをソーサーに戻したときの小さな澄んだ音と。
まるで映画のワンシーンのようにざわめく音が消えた中で、どこか冷静な脳裏が考えていたことと、視界に入ってきたものが。
「…それは、奇遇だな」
ハイネルの唇がそう動くまで。
混同した。
ようやくつかまえたその指先を丁寧に愛し、ハイネル自身を余すところなく愛しむ。
お互いが一目惚れで、それでも言い出せなくて喧嘩ばかりしていたなんて、分かってしまえば、無駄に過ごした時間を勿体無かったと思う。
今まで抱いてきた女性など比べものにならないほど狂おしく口付け、壊れ物を扱うよりも丁寧にハイネルを抱いた。
慣れていないことが明らかにわかるハイネルは、けれど、グーデリアンの思いを必至に受けとめ、拙いながらも抱き返してくれ、泣きたいほどに心の中があたたかいもので満たされるのを感じた。
抑えていた心をぶつけあい、本気を賭けて恋に溺れた。
傷つくことを恐れていた互いの瞳が正面から絡み合い、熱に浮かされる。
たった、一晩。
それでも、気付かないままに離れてしまうよりはよっぽどマシだと、抱き合って過ごした数時間。
「行かなきゃ」
いつのまにか降り出した雨が、窓ガラスを叩くことで主張している。
午前中のフライトがとってあり、どれほどぎりぎりまでねばっても、6時にはチェックアウトをしなくてはならないのだ。
気だるさの残る身体がハイネルから離れることを拒否するのを宥め、ざっとシャワーを浴びる。
その間にハイネルも身支度を整えていた。
空港まで来ると言ってくれたハイネルを、そうするとそのまま掻っ攫ってアメリカまで連れて行きたくなるからと本音を冗談交じりに告げ、ホテルのロビーで別れた。
タクシーに乗り込めば、秋雨で冷えた外と暖まった車内は曇った窓で隔てられてしまう。
それでも、まっすぐに澄んだ瞳が、車が見えなくなるまでずっと包んでいてくれたのを、グーデリアンは視覚に寄らずに感じていた。
窓にあたる雨音と静かに流れるラジオの優しい響きがなぜか哀しくて、もう一度だけ抱きしめてキスをしたかったと、今は空っぽの両手をじっと眺めたのだった。
長いと思っていた会えない時間も、グランプリレースが始まれば過去へと変わる。
全日本グランプリへ招待された時、噂通り、ハイネルは今までとはデザインもロゴも違うレーシングスーツで、グーデリアンの前に現れた。
最後に会ったのも日本ならば、再会したのも日本という、たったそれだけのことでグーデリアンは日本が好きになれそうなくらいだった。
「このマシンは、私も製造に携っているのだ」
誇らしげなハイネルを前に、デザインだとかメカニズムだとか、グーデリアンにはよくわからないことではあったけれど、それでもハイネルが昨年までと違い、焦燥感が消えているのが嬉しくて、
「今年こそ、コテンパンにしてやるぜ」
にやりと不遜な笑みを刷けば、ハイネルも同様の笑みを返してきた。
「大言壮語、覚えておくぞ」
勿論レースの間はこれまでと何ら変わることなく、結局互いのマシンがクラッシュしてリタイア、しかもその後はお約束のように乱闘になったのは、ご愛嬌といえた。
互いがともに忙しく、電話連絡さえ取れない数ヶ月間は、たった一夜の関係を夢に変えてしまいそうで怖かったが、会って互いの瞳を見れば、それが杞憂であると確信できた。
そして相手の気持ちに対する迷いがすべて吹っ切れて臨んだ第10回のグランプリレースは、コース上では激戦を繰り返し、コース外では互いの心を寄せ合って過ごすことになる。
だからだろう、ハイネルがレース半ばから、屈託を抱えていることにグーデリアンが気付けたのは。
ノルウェー、アフリカ、スペインと、予選もいまいち振るわなければ、完走率の高さを誇るハイネルが3度も続けて決勝戦をリタイアするという事態が、グーデリアンの予想を裏付けした。
ノルウェー戦ではその責任の大半はグーデリアンに帰せられるとしても、だ。
何度かグーデリアンはハイネルに尋ねようとはしたが、そのたびにはぐらかされる。
それでも、幾度かベッドの中で交わした会話の断片から、ハイネルがドライバーとしてだけではなく、自分でマシンを作って走りたいのだと切望していることを察知したときは、とんでもないことだと呆れたものだ。
そのあたりから、グーデリアンはうすうす予感はしていたのだ。
おそらく、ただ走るだけの自分とハイネルとでは、いつまででもライバルではいられないのだと。
それぞれ違う場所でしか、叶えられない夢を持っているのだと。
だからこそ、ライバルでいられる時間はわずかしか残っていないと、グーデリアンだけは知っていたのだ。
その年、ハイネルは、その後もあまりぱっとした結果を残せず、結局表彰台に上ることなく終え、グーデリアンも、若い風見という少年がめきめきと成長してきたのに追いやられるように順位を下降気味にして、秋が扉をノックして訪れを告げるころに不本意な結果でシーズンは幕を下ろしたのだった。
どこか憔悴したハイネルの姿が気になってはいても、時間は無情に流れてゆく。
レースシーズンが終れば、それ以上同じ地にとどまる理由はない。
なのに、わずかに面窶れしたハイネルに自分の想いばかりを押し付けることはためらわれ、そうこうしているうちに、安らぎと、自分は例え会えなくても大丈夫だと虚勢を張った言葉ひとつ言えないまま、また離れ離れの日々が始まるのだ。
次に会う約束は、ない。
普通の恋人であれば、いつ会えるのだと、訊くこともできる。
せめて電話をと、頼むこともできる。
ドライバーだけのことをしていればいいグーデリアンと違い、S.G.M.でのハイネルの立場はマシンそのものにも関わっているというから、オフシーズンだからこそ、多忙を極めるだろう。
「1年中ずっと、レースがあればいい」
最後に会ったとき、グーデリアンはぽつりと言った。
そうすれば、わざわざ会う約束などしなくても、いつでも顔が見られるのだ。
けれど、それでもハイネルは言質をグーデリアンに与えることなく、努力して作った乾いた笑みを見せただけだった。
本国へ帰る飛行機の中で、グーデリアンは気を遣うフライトアテンダントをてきとうな笑顔で追い払い、読みかけの雑誌を顔の上にのせて溜息を漏らした。
1年前のちょうど今ごろ、交わしあった熱は、嘘ではなかった。
別れるときに少しだけふりかえったハイネルの瞳には、グーデリアンへの想いがまだちゃんと残っているのをみてとれた。
「ああ、やっぱりもう一回抱き寄せてキスしたかったな」
何度腕の中に閉じ込めてキスをかわしても、満足することなど決してない。
もう一度。
例えそれが叶ったとしても、やっぱり自分は『もう一度』と思うのだろうと、わかってはいたけれど。
「決断を」
深い緑色のハイネルの瞳は、ぎらりときつい夏の陽射しのままだった。
木枯らしが、大気からすべての温度を取り払い、過ぎ去ってゆく。
残されたものは、鉛色の重たげな雲と冷えた空気。
心身ともに塞ぎこみそうで、グーデリアンは底抜けに明るい陽射しを求めてハワイへと足を向けた。
からりと晴れた空と、色とりどりの女性たちに囲まれ、当り障りのない話に盛り上がる。
それでも、気分は晴れないままで。
こちらに来る時、時差を気にしながらも、一応ハイネルに居場所を告げようと電話をかけた。
返ってきたのは無機質な留守番電話の声だったけれど、一縷の望みをかけて、借りたコテージの詳細を残してきた。
『会いに来て』
俺をまだ愛してくれているのなら。
そんな、わがままめいた一言は、精一杯の強がりだったけれど。
それでも多忙だろうハイネルが来てくれるとは、期待してはいなかった。
来てくれたらいいなぁと、夢を見るくらいは許されるだろうと、自嘲気味な笑いを何度もしただけで。
だから、叩かれたドアを開けた向こうにハイネルの姿を見つけたときには、驚愕に固まってしまったくらいだ。
「新チームを、発足することにしたのだ」
シュトロゼック・プロジェクトというそのチームは、ZIPレーシングでもS.G.M.でも叶わなかったハイネルの夢を実現させ得るものだと言う。
「己の手で、1から作ったマシンで勝利を。だが、それを叶えるためには、おまえの決断が必要なのだ」
初めて見たときに惹かれた、強い意思の力を秘めた眼差し。
「本音を言えば、自分でマシンに乗りたかった」
けれど、作り上げた『勝てる』マシンは、その怪物的なまでの力でもって、造形主であるハイネルを拒絶した。
「健闘を繰り返した結果、おまえなら勝てる。そう、結論が出たのだ」
そう言われても、グーデリアンにはすぐに納得できるはずがない。
ドライバーとして、最高のライバルであるハイネルが、コース上から消えるなんてことは。
「私だって、迷わなかったわけではない」
そう、ハイネルは葛藤の痕跡など見せずに穏やかに笑った。
「ドライバーとして、他人の作ったマシンを駆るか、自分でマシンを作って誰かにゆだねるか」
どちらがより『勝利』へ近いかなど、考えることすら必要ではないのだ。
この4年間、ドライバーとして他人の作ったマシンでは、栄冠を手にすることはなかったのだから。
ならば、自分の才能の限りを賭けて最速のマシンを作り、そのマシンを優勝させることができるドライバーを求めればいい。
自分の手で直に掴むことは出来なくとも、勝利がこの手の平の上に乗せることが可能ならば、もはや手段を選んでいるべきではないのだ。
「それを、お前なら、できるんだ」
お前なら、勝てる。
だから、決断を。
もともとスタースタンピードのマシンでは、勝てないことはわかっていた。
他の誰でもない、グーデリアンだからこそ、強引に上位に食い込むことが出来ていたのであって、他の者であったならば、グランプリレースに参加することすら出来ないくらいのマシンなのだ。
だから、グーデリアンだって先がないことくらい、わかっていた。
それでもなおとどまっていたのは、契約期間が残っていることも理由の一つだったが、他のどのチームのマシンにも展望が見出せなかったからに他ならない。
それが今、目の前に差し出されている。
この白い手を取れば、勝利をこの手で掴むことができる。
…唯一無二の、ライバルを失うことを引き換えに。
「違う場所でしか、夢は叶えられないのか」
ハイネルは監督として。
グーデリアンはドライバーとして。
ドライバーとして、ともにどこまでも夢を追いかけたかったというのは、決してグーデリアンだけの思い込みではなかったはず。
「確かに違う場所かもしれない」
ゆっくりとしたハイネルの声は、どこまでも穏やかだ。
「だが、それでもふたりで同じ夢を叶えることはできるだろう?」
勝利をその手にしたとき、喜びを分かち合うことはできるのだ。
「そうだな」
じわりと染み込んでくるハイネルの言葉に、グーデリアンの心は定まった。
「だぁってさぁ、一緒のチームになれば、オフシーズンに会えなくなるってことも、なくなるじゃん?」
勿論シーズン中は、当然のようにもっと一緒にいられるしね。
にやけるグーデリアンに、ハイネルの怒号が浴びせられる。
「貴様はそういう観点で物事を決めていたのかっ!?」
きらりと光る眼鏡の奥で、けれどハイネルの白いなめらかな頬がわずかに桜色に染まっているから、グーデリアンは怖くも何ともないどころか、嬉しくって笑っちゃうほどだ。
体力馬鹿と言われるグーデリアンですら宥められないじゃじゃ馬は、今日もグーデリアンから気力までもを根こそぎ奪い取ってゆく。
それでも、ハイネルを抱きしめる力だけはなぜかきちんと残っていて、クルーの目を盗んではキスを仕掛けている。
「お前と出会ったことを悔やむことはない」
ハワイでの夜、ハイネルはぽつりとそう言った。
グーデリアンに会ったことで、ハイネルの人生は大きく軌道を違えた。
その存在がなければ、今でもドライバーとマシンデザインを両方こなしつつ、結局どちらも中途半端になっていただろう。
それよりもまず、強烈なライバルがいない場所で、ここまでのめりこむこともなかったかもしれない。
見惚れるほどに過不足なく鍛え上げられた身体をうらやむこともあるし、同時に、自分で作ったマシンすら制御できない自分の身体を恨めしくも思うけれど。
それでも、その己の作るマシンをあずけてもよいと思える人物にめぐり逢えたことを悔やむことは、決してない。
そしてそれは、勝利も、未来をも、共有したいと願う人物と同一なのだ。
そんな言葉の端々から、ハイネルの想いが見え隠れして。
痩せてしまったと思っていたふたりの灯が、消え去っていなかったことをグーデリアンは感謝した。
「これが、最後だ」
お前と、ドライバーとして、ともにグラスを開けるのは。
澄んだ音をたてて触れ合ったグラスに、ハイネルの笑みがさかさまに映っていた。
「ドイツに戻ったら、引退を発表する」
最高のマシンと、最高のドライバーを手に入れたからな。
わずかな時間だけ、さよならだ。
「お前がドイツへくるのを、待っているぞ」
空港へと向かうタクシーに乗り込むとき、ハイネルはそう言って綺麗な笑みをグーデリアンに放った。
それが、初めてハイネルが告げた『約束』だったとグーデリアンが気付くのは、数日後にドイツへのエアチケットを握り締め、空港で手持ち無沙汰に佇んでいるときだった。
「しまったな、やっぱあん時、もう一度キスしとくんだった」
何度も思ったそれは、けれど今回は後悔の響きは含んでいない。
なぜなら、これから何度でも、『もう一度』と思えば出来る距離にいられるのだ。
出逢ったその瞬間に落ちた恋は、白い息を吐き出すときですら、灼熱の温度を示し続けるのである。
といきゃっとさんに、とても読み応えのある素晴らしい作品をいただきました。・・・・・ぶんどりました(笑)。
私の勝手なイメージではといきゃっとさんの書くお話はやわらかくてかわいらしい印象を受けることが多いんですけど、このお話は文体の歯切れがよく硬質で、いつもとはまた違った印象を受けました。いろんなイメージのお話が書けるってすごいことですよね!私は自分のことはタナにあげて(笑)お話の内容自体ももちろんなんですけど、文章そのものがもつ味わいというのも大好きなのでした。
いつものかわいらしいお話も好き!でも今回みたいなカッコいいお話も好き!(笑)
しかし、ムダがなくてわかりやすく、かつ知的なといきゃっとさんの文を読んでから自分の文を読むとめ、メマイが・・・(笑)。
このお話は、グーデリアンを軸にして、二人の出会いからシュトロゼック結成までの流れを無理なく自然な流れで読ませてくれて、それがとてもうれしいです。この目でそれを見届けているみたいで。
といきゃっとさんはこのお話を長いと評していて、事実とても読み応えがあって長いお話なんですけど、でもこの長さでこれだけの時の流れを無理なくムダなく詰め込めるのって(私が言うのもえらそうなんですが。すみません)すごいことだと思います。
といきゃっとさんのグーデリアンは、心が広いなぁといつも思います。ハイネルのことをとても好きなのはもちろんなんですが、それでもその気持ちをハイネルに押しつけたりせず、ハイネルからのアクションを待つだけの余裕が感じられるというのか・・・うまく表現できないのが口惜しいんですけど。
そしてといきゃっとさんのハイネルは、線が細いような印象なのに、芯の部分はとても強いですよね。そこがとてもハイネルらしいと思います。
といきゃっとさんのグーデリアンとハイネルの歩んできた軌跡をこんな風に1つのお話でまとめて読むことができてとてもうれしかったです。
といきゃっとさん、素敵なお話を本当にありがとうございました!