『魔剣を抱えて踊る男』




「――――――Ave Maria
Mater Del
Ora, pro nobis peccatoribus
Ora, ora ori nobis
Ora, ora ori nobis peccatoribus
Nunc, et in hora mortis
In hora moritis nostrae
In hora mortis, mortis nostrae
In hora mortis nostrae…」
 静かな旋律が、沈黙の隙間から零れ落ちる。
 それと、何かが流れる音。
「Amen――――――」
その言葉とともに、気配は一切かき消えた。




 
新しくスルタンとして冊立された王子は、イスラムの伝統を破壊して顧みない。それどころか、列強の言いなりになっている節が見受けられる。
 そんな噂がアラムートの「山の長老」の元に届いたのは、バクダードで何代目かのハリーファと、イスタンブルのスルタンが即位してすぐのことだった。
 新しいスルタンの名はアブドュル=メズィト。オスマンがスルタンを遠いアナトリアの地で唱えてから、31代目の男だ。
人々の精神的支柱にであるハリーファのいますバクダードと、正しきムハンマドの血筋を伝えるパシャが治めるテヘラン双方から指呼の間にあるハッサン=ビン・サッバーが開いたアラムートは、スンナ派、シーア派ともに正統を主張する多数派から、忌み嫌われていた。
さらに双方を抑える形でヨーロッパとの掛け橋、イスタンブルに鎮座ましましけるスルタンの存在は、ハリーファとアラムートにとっても甚だ目障りな存在だった。
なれど、いつぞや十字架を胸に抱きて、「聖戦」の敵となりし者どもよりの防波堤ともなれば、簡単に排除することもかなわぬ。そのことを、誰もが良く知っていたがゆえに、この位置関係は長い間崩れることはなかった。
いわば、均衡の上の均衡を強いる形で、イスラムの世界は一応の安定をみていたのだ。
しかし、南下政策を強く推し進める、数代前のスルタンの唯一の后、ロッサーナの里ととも言えるロシアは、弱体化するトルコから領土をせしめ、不凍港を得んとして、いわれなき戦の準備を推し進めていた。

アラムート。
イスラムの言葉で、それは「鷲の巣」を意味する。
 それは、ムハンマドの血筋を唯一のものとし、多数派のスンナ派やペルシアで花開いたシーア派とも教義を違え、異端とも言えるイスマイリ派の教義を信奉する者らが、要塞とも言えるこの要害に拠って立っていたからに他ならない。
 さらに、このイスマイリ派が忌避される最大の理由は、暗殺者を飼っていたこと。
 この山の改組となったサッバーは若者をさらい、この世のありとあらゆる快楽を味あわせた後で、「再びこのような悦楽の園に住む資格を得たければ、若者よ」と、湾曲した小刀、ジャンビーヤを手渡した。
ゆえに、この山を根城とする者たちに、異称が与えられた。
 『暗殺者教国』と。
 ハシッシュという麻薬を暗殺者となる者に与え、この世の快楽を味合わせた後で、任務を与える。一度手に入れた悦楽の園に再び戻らんと、暗殺者は長老が得よと言い含めた者の首を落とす。
 名のある国の宰相や国公、そして武将が何人もこの「山の民」に害されてきた。過去に何度も討伐を受けているが、暗殺技術に長けているだけでなく、山の民はたとえ長期の消耗戦を強いられる蟻一匹這い出る隙間のない包囲網を敷いても、迎撃戦にも優れ、長く過酷な篭城戦にも良く耐えた。
 不穏を抱え、内にさまざまな民族と扮装の火種を有しながら、以後の帝国はこの深部に巣食う最大の敵を恐れ、腫れ物に触るがごとく遠巻きにしてきた。
 そんな折の、新たなスルタンの即位。
 アラムート山の者たちが動くかもしれないと、誰もが固唾を飲んでいた。

 山の中にも、ハシッシュに慰めを見出せぬ者がいる。山城の目立たぬ場所に立てられた書庫に、彼はいた。
 『告げよ、「これぞアッラー、唯一なる神、もの人の依りまつる神。
 子もなく親もなく、これとならぶもの絶えてなし。』
 彼は呟くように教典に記された文字をなぞる。山では長老が経典を説き、それを暗誦し、礼拝を行う。
 そして長老が命じるままハシッシュを摂り、獲物を狙う。
 「続けよ」
 しわがれた囁きのようなその声に、彼は振り返った。本を閉じて元の棚に戻して急ぎ平伏するが、慌しさは感じさせない。
 それは彼の持つ優雅さのせいか、翻った頭を覆うターキーヤの裾が、ふわりと肩を覆う様子が、山の斜面を白く埋め尽くす鴉片の花のようだ。
 「そなたには文字を教えた憶えがないというのに、いかほどの書物を読んだ」
 長老は、手近な椅子を引き寄せて腰を降ろす。声ほどに叱責の色がないのは、自らの元に配されたこの青年の資質を認めているからに他ならない。
 「既に棚一面は」
 彼は短く返す。幼い頃、北の国より攫われでもしたのか、バクダードの市場で長老はこの青年を銀貨1枚で買った。
 「先日は『聖書』も読んでいたらしいな」
 彼は、跪いたまま答えなかった。だが、無言の沈黙こそ雄弁な答えだった。
 しかも棚には、バクダッド読みのものからペルシャ読みの物、アルメニア、タジキスタン、遠くウイグルの文字で現された物や、ラテン語で表した物もあるが、彼はそれを母国語のように操ってみせる。文字を書くのも聞き取り話すことと同じくらい、随分と達者だ。
 「かように、ここが気に入ったか」
 彼は、少し考えるような顔をしてから頷いた。蜜蝋を溶かしたような白い肌をした、端整に整った顔立ちは、しかし表情を極限まで殺ぎ落としているせいか、人形じみた冷たさを浮かべている。
 「そうか」
 長老は、頷いた。ここには、バクダードやカイロなどの王立や官立図書館などからは、『異端』とされている本まで納められている。「アッラーの偉大なる教え」以外の本もあり、イエス唯一を崇める民や、経典の民の書も、同じように納められている。
今青年が無心に向けている興味は、華麗な装飾文字で綴られた紙片の上にあるようだ。
 北の地か、海を渡った西の地の者か判別はつかぬが、彼は日に焼けぬ白い肌と、沙漠に住む者が等しく憧れる宝石のような双眸をしていた。
 崇める神を違えていても、ほとんどの者が振り返るような美貌。
だが長老は、彼の麗質を認め、褒めはしたが名も与えられず、他の少年たちと同様、暗殺術を身につけさせ、何度も死地に赴かせた。
仕事を果たす者は多かったが、彼のように再び舞い戻り、次の任務に着くことができた人間は、ほとんどいない。
「仕事から戻ってきたばかりだと言うのに、済まぬな」
「いえ」
「されど、そなたほどの者が他にはおらぬのでな」
 そして、ハシッシュで身持ちを崩し、中毒患者となって幻覚に怯える者が続出するなか、彼一人はそのようなものに慰めを見出さず、一人孤高を保った。
 そのうち、彼へは難しい密やかな仕事が任されるようになった。並外れて高い遂行能力と、そしてそれを支える暗殺技術。
 「致しかたないことがある、頭が痛い問題だ」
 「何なりと」
 「スルタンの元に汝を送る。しばし、スルタンの意をかなえよ」
 長老は、己が見出した青年のできばえを知るたびに満足する。
 「近頃、西洋の列強による圧力により、我らイスラムの者が圧迫されておる」
 そして、めまぐるしく変わり行く下界の様子に、山の長老として生き残るための方策を採らねばならない悩みも同時に抱えていた。
 「我らは、本来イスタンブルのスルタンを正当とは認めず。バクダードにのさばるハリーファを名乗る者も、ムハンマドの正当な子孫にはあらず。
されど、異教の奴輩に好き勝手な真似をなさしめるわけにはゆくまいよ。アッラーの名にかけて」
 こつこつ、と、長老は突いた杖の先で何度も床を叩いた。
 「イズラフィール、汝に命ずる」
 彼は、平伏する。彼が『告死天使』の名で呼ばれる時は、新たな仕事を任命される時だけだ。
 「イスタンブルに赴き、そなたのジャンビーヤを染めよ」
 彼は平伏し、長老は背を向けた。
 再び長老が振り返った時、元の場所に青年の姿はなかった。





 世にいう「タンズィマート時代」を招聘したのは、第31代スルタン、アブドュル=メズィト。
 彼は即位した西暦1839年に発布した「ギュル=ハネのハットゥ=シェリフ」、もとい「タンズィマートの憲章」を現した。
 当代随一の改革政治者で、かつ開明的な自由主義者のムスタファ=レシト=パシャがスルタンを説いて発布した。
 施政方針を表したものだが、スルタン専制の放棄を宣言し、立法の最高性を認め、全国民に市民的平等を承認し、裁判や課税の公正を約束した。この憲章はいわば、オスマン=トルコを近代国家として踏み出し、新しい社会の建設を高らかに歌い上げた。
 澱のように沈んだ悪弊を、近代化することによって払おうと、若いスルタンと、彼を取り巻く理想主義者たちは考えていた。
 そうせねば、近年『産業革命』の名で躍進の激しい、そして他人のものを奪うことにかけては悪魔よりも知恵の回る西の国々に勝てなくなった。
 だが、既得権を手放せずにいる者ほど権力を握っている者で、次第にこの精神は骨抜きにされていった。

 「――――――おまえの国も、これだけの国を敵に回してよくする。オレの耳は正確なところで行き届いていないかもしれないが、モルダビアとワラキアに派兵するという噂だが?」
 「…相変わらず、忌々しいことだ。機密情報だぞ、それは」
 ガラタ橋を挟んで雑駁な喧騒が包むバザルの中にある、極平凡な茶屋。そこで日付も特に決めずとも、よく男たちは顔をあわせることがあった。
 この時も、無骨な印象の男が渋面を作るのを、正面に座り茶菓子を摘みながら笑う。
「うちの国にとっては死活問題だ、折角の船も氷で舳先が折れてはどうにもならない。子供が洗面器でする水遊びのほうが、よほど建設的になるだろうよ」
 小さく肩を竦めたのは、旧知の仲の相手だった。留学先で知り合い、イスタンブルで再会した。
 「…先日も、厳重な警備を施された公邸の一番奥の部屋に、半ば自主的に軟禁状態だったってのに、それでも殺されたんだろう? 背中にグッサリ、ジャンビーヤが刺さっていたって言うじゃないか。しかも、賛美歌が聞こえたというが」
 「…地獄耳だな」
 「そうでなけりゃ、生きていけないからな。それにしてもおまえんトコの書記官、『魔剣を抱えた男』に狙われるだなんて、どんなあくどいことをやらかしたんだ? その前は確か、イギリスのあこぎで知られた駐留軍の大佐だろう? 素っ裸で首掻っ切られてたって」
 「…少なくとも、どちらにも殺されるに足ることだろうさ。賛美歌を唱えたところで、天上の門を安らかに通れたかどうか知らぬがな」
 「存外、冷たいな」
 「殺されたのでなければ、早晩更迭されていた者に払う義理もない身でな。良くて財産没収の上で国外退去か、シベリア送りになっていたことが確実だったからな。関わる前に死んでくれて恩の字だ」
 仮にも同僚に対して、男は冷たい。
 「どうやら、『山』に睨まれたらしい」
 グーデリアンは行儀悪く、口笛を吹く。
 「芥子の匂いがあったのはともかくとして、現場から聞こえていたのは、ラテン語の歌だそうだ」
 「それで、今売り出し中の『魔剣を抱えて踊る男』だと?」
「金勘定と横流しと私服を肥やすことに関しては一人前だったが、ヤツがラテン語で歌えるほど、敬虔で教養豊かだったと思えない。
キャビアの缶詰横流し程度で済ませておけば、死なずに済んだろうに。それにしても、随分と有名どころに狙われたものだ。それほどの価値があった者とも思えぬが」
 グーデリアンは、くくくと喉を鳴らした。
 「ましてやおまえの国は、ヴァチカンとは仲が悪いしな」
 彼の国は、今、彼らが立つこの足元で派生した神の一派を国の教えとしている。1900年前の始祖の一番弟子が死んだ場所に立てた古い一派とは、根は同じながらも違うものだ。
 「…全く、どこから情報が洩れているのやら。うかうかと秘密を抱え込むこともできやしない。そのうち、おまえの腹にも物騒なメシの種が刺さるかもしれぬだろうが、それすら、おまえは楽しみそうな手合いだしな」
 グーデリアンは、男臭い顔に笑みを浮かべた。
 「ああそうさ、物騒なのは、メシのタネだ。
奉職する時にいっそ、履歴書(レジュメ)に余程書いてしまおうかと思ったさ。『特技、綱渡りと盗み聞き』」
 「書いてくれりゃ、こっちもおまえの通った後をくっついて歩いて、『情報収集した』って名目が立つのにな。こっちも時々メシを奢ってやれば、経費で落せる」
 「ケバブ喰うのに領収書切んな。黒海の水で顔濡らして、エカテリーナばぁさんのペチコートでふきやがれ」
 「ポチョムキンのじいさんに殺されたくないから、遠慮する。オレはシベリアに赴任なぞしたくない。死んだ親父から受け継いだ家訓でな、ウラルから東へは行くなと」
 互いに、使命を帯びての滞在で、その仮面を外せば気の良い男だと知りつつも、それを許されない自分たちの立場を知っているからこその、きわどい言葉を双方が偽悪的に楽しんでいた。
 「――――――それに、つけ込む隙はあると思うがな。どこの国のヤツであろうと」
 「ほう?」
 金髪の男は、水煙管の管を、まるで生まれながらにしてイスタンブルに住まう者のように、見事な手裁きで扱った。
 「百合は地面を掘りたくて仕方なくて、金をじゃんじゃんばらまくのに忙しい。猫はそれを邪魔したくてたまらなくて、とうとう鉄道に手を出すらしい。
 鷲たちは足元の問題で頭が痛く、靴の爪先はともすれば自分の立つ場所も奪われそうだ」
 「アフリカとアメリカに見切りをつけて、インドシナか?」
 「北アフリカには、相変わらず食指を伸ばしているが、既得権が少ないところに乗り込むほうが、余程楽だろう。黄金と同じ目方の胡椒しか手に入らぬのでは、採算が合わない。綿や香料、それに珍しい東方の好奇心を満足させる、諸々だよ」
 もっともと、ブーツホルツは笑う。
 「国外に、視線をそらしてしまいたいのだろうな。あんなバカでかい派手な宮殿を美術館にして解放したり、塔をおったてたり万博を開催して建物をやたら建てたのは良いが、維持費もバカにならない。50年ほど前のように国王をギロチンにかけたところで問題は解決しないだろうが、借金はきちんと取り立てようとし、回収できなくばできるところからむしろうとする逞しさに脱帽だ」
 物は言いようだと、金髪の男はふかふかのクッションに身を埋めていた。涼しい顔で、トルコ風コーヒー、カフヴェを啜る焦げ茶の髪をした男は、そ知らぬ顔ですする。
 「おまえのことが昔から気に入らないことは、見えなくても良いことまで、見えることを隠さないことだ」
 「そうでなければ、」
 焦げ茶色の髪をした青年は、左右で色の違う瞳をなごませた。
 「この年で、ろくな門地もなしにこんなところまで追いやられるような人生を送ってはおらぬさ。
これでも冷遇されてるんだぜ? ドイツ系オランダ人移民の息子ってのは。ガチガチの宗教主義に凝り固まった、メイフラワー号に乗っていた連中の子孫ばかりだ、偉そうなのは」
 「…やはり、おまえみたいな切れすぎる人間は、」
 「上はかなり邪魔らしいな。ほら、オレって身分に関わりなくモテるしー? せめて、ドンパチ始める理由になるくらいの役には立って欲しいらしいが、さて、どうしたものかと悩んでいるところさ」
 まとう洒脱な雰囲気を裏切るような、脆い彼の立場とやらに、金髪の男はさすがに同情しそうになった。
 「国益を考えれば、俺個人の感情や考え方など、どうにもならぬ」
 男は、一国の大使と同じ権限を与えられている。だがその実情と言えば、ブーツホルツが「ライオン」と呼んだ国からつい50年ほど前に、正式な独立を果たしたばかりの新興国でしかない。
できるかぎりこの旧大陸で騒動を起こし、旧主国に新大陸から目をそらしてもらいたいがために、攪乱させるのが本当の任務だった。
 「まぁ、そうとも言うな」
 金髪の男も、来たくてこんなヨーロッパのさらに先にある街に来たのではなかった。エキゾチックな文物に対する興味はないわけではないが、己の仕事を理解した時、生半可な好奇心は故郷に捨ててきた。
 「俺の国が南に行こうと思うのは、半ば本能のようなものだ」
 ブーツホルツの大学での専攻も、本来ならばオリエントにおける文化の融合だったはずだ。言葉がなまじできたがために、研究から遠ざけられ、こうして思いがけぬ場所で再会を果たすハメになった。
 「冬でも凍らない、大洋に抜ける港が欲しい。確かにそうだ。資源や軍備を整えても、運び出す港がなければ無用の長物だ。もう一つの鷲たちは、貪欲だ。東に伸びていけば良いだろう?」
 「おまえの国が、100ドルで買った東の果ての海を渡った土地を買ってしまったせいで、あとは南に行くしかない」
 「冬場に凍りつくのが嫌なんだろう? ならば他人のせいにするなよ。東の港も未だに国境線が決めていないのであれば、整備のしようもないしな」
「――――――貪欲なのは、白い頭の鷲も一緒であるらしいな」
「一緒だろ? 金色の羊が飛んだ半島が欲しい黒い鷲さん」
 懐中の時計で時刻を確かめると、焦げ茶色の髪をした青年は、帽子を目深にかぶりなおし、しばしの別れを告げた。
 金髪の青年は、帝政ロシアの外交官でもある旧友が店から完全にその気配を消してから、つい先ほどまで向かいの席を暖めていた男と同じカフヴェを注文した。
 遠いイギリスの学校で、彼とは出会った。人間的な円熟さを若くして発露していたが、故郷の国に帰ってから、同じくらい剣呑で投げやりな雰囲気も、旧友はまとっていた。
 南へ、南へ。
 彼の生まれた国は、世界中のどこよりも広い面積を持つ国だ。だが、富める者と貧しい者との格差が激しく、耕作地を広げる余地などもうどこにもない。
 『本能だ』
 旧友はそう言った。
 あの凍てついた大地に住む者は、気持ちがほころぶような春や夏を愛している。同じくらい、それを享受する南の国へ行くことを渇望している。
 その通りだ。
 だが、金髪の男が生まれた国は、それを認めるわけにはいかなかった。
 男が生まれ育った国も、膨張につぐ膨張を一台命題とし、かの地に元から住まう者たちを迫害して土地を奪い、西へ北へ南へと版図を広げている。反対側の大洋に辿り着けば、さらにその先に海にその手を伸ばすだろう。
 貪欲だといわれても、破壊して収奪する手を止めれば、あの国は滅ぶ。貪欲に飲み込み、広がることで、あの国は生きている。
 そして何より、そんな我が儘で他人の迷惑すら顧みずに自らの力をはた迷惑にも誇らしげに誇る故国を、グーデリアンはどうしようもないほど愛していた。
 「面倒臭くてかなわない」
 甘い砂糖菓子を口に放り込み、ポロポロと落ちたくずを掌で払って、男は立ち上がった。





 スルタンが座す宮殿は、「大砲の城」とあだ名されている。
トプカピ・サラィユ。
未だ東ローマの帝国が存在し、コンスタンティノープルと称されていた時代、偉大なるスルタン、メフメット二世がこの城塞都市を包囲し、大砲を撃ち込んだ砲台の跡に建設されたためだ。
 もう一つの異名は「エメラルドの城」と言う。
 歴代のスルタンが、イスラムの神聖な色、緑色の宝石を数多く集めていたことに由来するのだが、中でも世界で一番大きいという評判の石を、スルタンは所有していた。
 「本日も、ご機嫌伺いに参りましたよ」
 この時のグーデリアンの格好と言えば、ビロードの腿まで裾がくるフロックコートに、同じ素材の幅広のリボンタイ。白いシャツに、長い後ろ髪をリボンタイと同じ布地でできた紐でくくっている。
 スルタンの入来に、グーデリアンは帽子を取って優雅に一揖した。所作こそ洗練されていたし、服装も抑えられていたが、彼の野性味はいささかの欠如もない。
 「来たか、待っていたぞ」
 白人の侍従の一人に導かれ、グーデリアンはトプカピ・サライの表宮にいた。
 そこで待っていたのは、即位して10年が経過した第31代スルタン、アブドュル=メズィドだ。
 即位した時の新進の躍動に満ちた施政概念は、在位10年の時を経て、そろそろ錆が浮かぼうとしていた。
 近年では、気鬱が嵩じてか後宮に籠もる日が続いている。
 無理もないだろう。足元のシリアで起きた叛乱は自力での鎮圧がかなわず、イギリスを盟主としたフランス、ロシアの援助でシリアを『解放』するのが精一杯だった。
挙句に、その時の手助けの代償として、フランスにシリアでの交易権と、アルジェリアでの足掛りとなる砦建設を許すハメになった。
 「アナトリアで馬を気ままに駆っていた、我が偉大なるオスマンの時代とは違うとは申せ、イスタンブルで大騒ぎが生じていると聞いた」
 「陛下の宸襟を騒がせたもう者にございますれば、お捨て置き下さいませ」
 「一国の書記官が殺されて、捨て置くわけにもいかぬ。そなたが先日も言っていた通り、かの大国の目をはばかりながらも、こちらでも調べさせてもらったよ。
鉄の密売をもしておったらしいな」
 さすがにスルタンも苦い笑みを浮かべる。
 「頭の痛いことだらけだ。『魔剣を抱えた男(タアッバタ・シャッラン)』だと? ふむ、無道時代(ジャーヒリーヤ)の詩人の名が出てくるあたり、存外教養は豊かな手合いらしい」
 「寡聞にして出典をわたくしめは存じ上げませぬ」
 「アブー・タンマームの『武勇詩集(アル・ハマーサ)』に収められた詩の作者だ。
 『サウルの下手の谷間に、血に渇きを訴えて止まぬ一個の屍がある。
 復讐の重荷は俺の双肩に残された、いそいそと俺はその荷を取り上げて肩に負う。
 叔父さんの血の報告の責は、よし俺が引き受けた。
 怖いもの知らずの俺のことだ。俺の結んだ結び瘤は誰にも解けるものじゃない。
 爛々たるまなこを地に伏せ、毒液を全身から染み出すさまは、猛毒を吐く蛇体のような、つまり蝮のような男さ、この俺は』
 …そういう詩だ」
 「復讐の詩にござりますな」
 政治の実権をスルタンが握っていられたのは、精々セリム二世までの時代だ。それ以降のスルタンは後宮での快楽に溺れるように仕向けられるか、無気力に怠惰な生活を送るか、それか文芸に血道を上げるしかなかった。
 このアブドュル=メズィトも、その一人だ。
 「死者の近親の課せられた神聖な復讐と、異教徒との聖戦は、イスラムの民のもっとも尊い義務だ」
 だが、グーデリアンが顔を出す日には、優雅な花押で装飾された書物から顔を上げ、スルタンも後宮の奥から出てくる。
 ずけずけとものを畏れずに言うグーデリアンとスルタンは、うまが合うというのか、政治的な話題を注意深く避けつつ、雑談の時を設けていた。
 イスラムの世界では酒は禁じられているが、歴代のスルタンにはどうしたことか、アルコールの毒にやられた者も少なくない。
 スルタンを傀儡とするために、側近の者たちは物も分からぬ幼い皇子の時代から、言葉巧みに勧めるためだ。
 この時もスルタンは、気さくに市井の噂をグーデリアンから聞き、かなり良い気分になっていた。
 グーデリアンと話すうち、やがて緩やかに船を漕いでしまうのを見計らったように、頻繁に訪れるグーデリアンが見たことのない傍使いの者が、スルタンを奥の寝室に運ぶようにとてきぱきと指示を出した。
 「…見たことがないな」
 小声で呟いたつもりだったのだが、聞きとがめてか、もしくは偶然、彼はグーデリアンを振り仰いだ。
 『生きたすばらしいエメラルドを、最近手に入れた』
 潰れる前にスルタンが言っていた台詞が、脳裏に響く。
 スルタンの深い寵愛を示してか、彼が纏うカフタンは深いエメラルド色の見事な絹でできており、金糸でみやびな花押をあしらった文様が織り込まれている。
 「奥向きのことを任されております者にございますれば、以後、お見知りおき下さいませ、グーデリアンさま」
 蝋細工でできたような、肌の色合いだった。
 「ほう」
 グーデリアンは、皮肉気に口の端を吊り上げて笑う。
 「オレを、知っているのか」
 高い鼻梁、淡く色の乗った形の良い唇。見上げる瞳は、極上の緑。
 「スルタンのお気に入りの、新大陸からいらした方にございましょう」
 長い睫毛と眉の色は、金色を帯びた色の薄い茶色。
 優雅に、彼はグーデリアンに礼を取ってみせた。しかも、英語で。このオスマン・トルコに来てから、英語で話しているのは同じアメリカの仮公舎に住む者、それかイギリスの者、あとはブーツホルツくらい。
 それを彼は、まるで母国語のように操っている。
 まるきり西欧人の顔を持つ人間など、宮廷内には珍しくない。
 デウジルメという制度により、バルカンの非イスラムの見目の良い少年たちを集め、改宗させた後に近侍として差し出す制度が、先頃まであった。
 大帝スレイマンの宰相も、そうした身からのし上がったことで知られている。
彼――――――メフメド・ソココル――――――は、クロアチアの習俗を守るほうが、無理に同化主グーデリアンを取るよりはるかに費用も手間がかからなくて良いという論理を押し通した。
その考えに従い、東ローマ帝国より続くクロアチア正教や同じくブルガリア正教、セルビア正教を『東方正教会』という名でイスタンブルに本拠を置く総主教の下に統一して残した。
彼は出世した後に故郷のインフラを整備し、急峻な谷に頑丈な石造りの橋をいくつも架けて街道を整備し、港湾施設を整え、家族をイスタンブルに呼び寄せ、弟をセルビア正教会総主教に推した。
何代か前のスルタンの母も、奴隷としてイスタンブルのハレムに入れられたフランス人女性であることが知られているし、『立法者』と異名があるスレイマン大帝の『皇后』は、ブーツホルツと同郷出身だ。
スルタンや後宮の者を世話する宦官も、黒人と白人が半々の比率を占めている。見目の良い者の中には、男を後宮に入れるわけにいかぬので、表宮に部屋を与えられて枕席に侍る者もいた。
だが――――――彼の容貌を見て、グーデリアンは心臓をわしづかみにされたような心地がした。
真白きイマーマで頭を覆ったその下の容貌には、スルタンが即位する時につける特別のターバン飾りもかくやという、見事なエメラルドが双眸にはめこまれていた。
「確かに――――――見ない顔だな」
グーデリアンはベネツィア風のイタリア語で応じる。
頻繁に出入りしているせいか、馴染みになっている者も多い。それとなく、グーデリアンに宮廷内の情報を教えてくれる間柄の者もある。
「こちらに最近参りましたもので」
同じように、彼も同じ言葉で返した。
だが、一度も彼をグーデリアンは見たことがない。これほどまでに目立つ容姿をしていながら、今までに噂にすら上ったことがないというのは、逆に不思議だった。
「今まで、エディルネの離宮におりました」
「なるほど、な」
ゆっくりと俯く細い顎に手をやり、小さく唇を親指で抑える。
そばに寄ると、淡い乳香の匂いがした。それと――――――どこかで嗅いだことのある、甘い香。
跪いたまま、うわべは恐縮した態だが、見上げる視線はとても――――――不遜だった。
「どこの出身だ?」
フランス語で問う。
やや考えるように、同じくフランス語で彼は応じた。
「テッサロニキでございます。わたくしは、アシュケナジムでございます、閣下」
そう呼ばれて、グーデリアンは自分がようやくそういった呼称もあったことに気づく。
「ドイツ系か――――――ユダヤ人にはとても見えないな」
父祖から教えられたオランダ語で呟くと、彼は今度はウィーン風のドイツ語で切り替えした。
「左様でございますか。血が混ざっておるのでしょうが、畏れながらわたくしは自らの出自を確とは知らぬ身ゆえ」
なるほど、これだけの語学力があれば、離宮に置いておくのはもったいない。
各国の大使はスルタンと会談を持つ時も、自前の通訳を帯同する。だが、内緒話まで聞き分けのできる者がいれば、どれほど心強いことか。
 彼は少しだけ困ったように、グーデリアンが触れた唇を意識しながら、綻ぶ花の風情で苦く笑った。
薄い唇は、触れるととても柔らかい。
言葉を紡ぐたび、微妙に揺れる感触にグーデリアンは久しく憶えなかった興味を刺激された。
名を聞こうとして、彼の元にまだ少年の近侍が走り寄り、何事かを耳打ちした。彼は一つ頷き――――――そうすることで、グーデリアンが触れる指を上手に遠ざけた。
「閣下、お目汚しを致しました」
去る時も優雅な一揖をし、彼は奥へと消えていった。
「あれは、誰だ?」
馴染みの者が、グーデリアンにカフヴェを振舞う。これを飲んだら、そろそろ大使館に戻らなければならないだろう。
だが、せめて名前くらい聞いておきたい。
「イズラフィールですか?」
グーデリアンは金色の眉宇に、微妙に翳を載せる。
「――――――随分と、物騒な名だ」
グーデリアンが知る限り、それは死を呼ぶ天使の名だ。肉体を離れた魂魄を、死者の国に導く、この世ならざる美貌の天使。
「本来、彼の年であれば文官か武官に振り分けされます。されど、『ラーレのようだ』とかの美貌をスルタンが愛で、いましばらく近侍せよとの命が下りました。かの者ほどの知識と頭脳があれば、属州の総督(ベグ)として立つこともあろうかという秀才にござります」
スルタンや、至高の座につけなかった失意の王子たちの周囲には、年若い近侍の少年や、見目麗しい宦官が多く侍る。
血筋を遺すことがスルタン第一の義務であり、それは後宮にて管理されている。だが表宮で近侍の者を寵愛するスルタンもあった。そして『鳥籠』という女性を一切近づけずに王位につけなかった皇子の欲を晴らすため、見目の良い者を選んでつけられた。
エディルネにも、そういう『鳥籠』がある。そこから引き上げられるほどの頭脳を持ち、末はベグともなろうかという切れ味を見せながら、ラーレに例えられる美貌のせいで、誰よりも近いところでスルタンに侍る。
まとう物は確かに、その寵愛の深さをうかがわせる。
「ラーレ、ね」
小さくグーデリアンは呟く。
白い涼しげな容貌に、すっくと立つ姿にも似た立居振舞い。
だが、他の雅趣に満ちた名をつけられた者の中に入り混じると、一層違和感を増す。
それに――――――。
「グーデリアンさま、彼がエディルネに留まることができなくなったのは、あの素晴らしいエメラルドの瞳と、あの容貌のせいでございますよ」
つまり、彼を巡って何がしかの騒動があったのだろう。
「緑は、魔性の色と申しますから」
小さなカップを干して立ち上がり、近日中にまた来ると言い置き、グーデリアンはふかふかなクッションから立ち上がった。
――――――あれは、ラーレのような綺麗なだけの花ではないだろう。
またぞろ、スルタンの気に入る土産を持ってくると、再来の挨拶を託け、帽子を金色の髪の上に載せた。
――――――どちらかと言えば、見る者を酔わせる、白い花に赤い斑点のある、芥子の花のようだ。
グーデリアンはそう思った。





トプカプ宮殿の中には、広大な植物園がある。今時分はラーレの花――――――別名、トルコ花(チューリップ)――――――が見事だ。
海から吹き寄せる風が、とても心地よい。グーデリアンは木陰で散策しながら、スルタンの訪れを待った。
世間話に重要な情報をほんのわずか、必要な話題を混ぜる手腕は、スルタンの元に日参する各国の外交官の中でも、グーデリアンのそれは他を圧する。
傍で聞いている分には、まるきり茶のみ話にしか思えないだけに、一層手が込んでいる。
今、広大な国境線を有し、うちの様々な民族を抱え込み、同じだけの火種を抱えた大国病という業病に罹かろうとしているオスマン・トルコにとって、欲しい情報はいくらでもある。
だが、有線順位が高いものは、そうはない。
ロシアの動向。
そして、キプロスをあい争うギリシャの情報。
グーデリアンが持ってくるのは、主に後者だ。
ブーツホルツの生まれた国に義理はないが、逆に彼とは近しい間柄ゆえ、うかつな情報をスルタンや側近の耳に入れるわけにはいかない。
その辺りの綱渡りはグーデリアンは本能でしてのける。ガチガチなプライドで固められた上層部の人間には素行や女癖の悪さもあってあまり受けはよろしくない。
それに――――――思っていたよりも、赴任先で良い目を見ることができていない手合いが多い。あれではモテねぇよと、下級書記官たちと一緒に笑う話題のタネにしていることも、睨まれる理由だ。
だが、総じて嫌味なくらいに仕事ができるとあっては、処分することもできず、かつスルタンが度々召し出す事情もあって、グーデリアンの立場は非常に微妙だった。
「来たか」
スルタンの本日の召し物は、メフメト2世も好んだラーレの絵柄が織り込まれたカフタン。
「お召しにより参上しました」
歴史の浅い新興国の人間ながら、イギリスやフランスの大使たちよりも優雅に、グーデリアンは一揖してみせる。
「ラーレがあまりに見事なので、見せてやろうと思ってな」
大きな傘が、スルタンの頭上には掲げられている。重たそうにその柄を持って従うのは、イマーマの上にかぶせたフェズ坊が赤い、グーデリアンも何度か見たことがある屈強な黒人の宦官だった。
「畏れ入ります」
再び、グーデリアンは頭を深く下げる。トプカプ宮殿の分厚い煉瓦で築かれし高台にしつらえられた広大な花壇は、宮殿を囲む高い城壁によって遮られることもなく、後宮の窓からも眺めることができるようにとの配慮がなされている。
だが、グーデリアンの目はラーレよりも他のことに視線が向く。
宮殿の高台にあるせいか、眼下にはボスポラス海峡が見下ろすことができる。ガラタ橋も市街地も何もかも。
「本当に、素晴らしい」
真意の読み取れぬ笑みは、グーデリアンの得意とするところだ。
だが人が良いスルタンは、グーデリアンが喜ぶ様子に気を良くした。
「また、話を聞かせて欲しいな。おまえの話は聞いていて面白いし、ためになることも多い」
閲兵や仰々しい行事以外では、スルタンはこの豪華な宮殿の憐れな囚われ人だ。下界の話題に餓えている。グーデリアンは彼に、面白おかしくイスンタンブルで経験したことや、学生時代に滞在したロンドンの話、任務で立ち寄った様々な街の話をする。
「そう言えば、ギリシャが船を用意しています」
さりげなく、必要な情報を織り交ぜることも忘れない。
「ほう、」
穏やかに聞いていたスルタンの容貌に、一瞬、真剣な表情が混じる。
「…スパルタの宮殿でも修復するつもりかもしれないな」
「イギリスがアクロポリスから大量の大理石でできた歴史的価値の高い彫像を、神殿から剥がして持ち出しておりますから、それを警戒しているのかもしれませんね」
後にギリシャに滞在した大使の名を冠して、『エルギン・マーブル』として称される一連の優れた彫像は、長年の風雨にも耐えていたが、近年のきなくさい空気を読んだ芸術と学術的な価値がわかると自称する連中によって、国外への流失が始まっていた。
それ以前にも、それらの神殿は略奪の対象ともなっていた。
オスマン・トルコは以前のようなイスラム国と違い、苛烈な弾圧を非イスラム教徒に課さなかった。人数的な寡占状態にあることをわきまえ、許容と同時に税や義務を課すことで、宗教や習俗を変えずに支配だけを要求した。
「なるほど、船か」
昨今では後宮に籠もりきりになっているが、元々英明を詠われたスルタンだ。グーデリアンの意図を、言葉によらず悟った。
イギリスへの義理もあるし、かの国から皇女も嫁いでいる。
「火薬はもとより、鉄鋼の値段が上がっております。ですが、陛下の足元にも買い付けの商人が、居を構えておりましょう。国籍を問わず」
「…アナトリアでは、良質の鉄が算出されている。確か先日殺されたロシアの者も、それを扱っていたな…ふむ。北にゆくゆくは流れるのであれば、いっそイギリスにと思うていたが、思案のしどころよな」
護衛の船団を出すこともやぶさかではないが、本当の狙いは――――――キプロスへの浸透だ。地中海への足がかりを強固にし、かの「レパント」の栄光を再び求めているらしい。
「それと、我が邦の商人に、色々と注文を出したとのことです」
「ほう?」
「もっとも、名義を貸しただけで、実際にはフランスやイギリスの者たちと契約を結んだらしいとのことです。ドイツからも傭兵が大量に流れ込み、ブルガリアやルーマニアからも職にあぶれた者が、『仕事』を求めて多く入ったと、小耳に挟みました。アゼルバイジャンやアルメニアは、今は叛乱も鎮圧され、コサックたちもそのまま駐屯する流れを取っています。
そちらにも勿論、利に聡い者たちは動いておりますよ。駐屯するとなれば必要な物資は大量に用意せねばなりますまい。小麦や大麦、からす麦やライ麦なども、徐々にではありますが、値が上がっております。それに釣られ、油も」
――――――つまるところ、大量に武器弾薬を手に入れ、傭兵を雇い、食料を蓄え、『その時』に備えているとのことだろう。
「同じように、我が国もフランスの援助を受け、昨今ではアイルランドのみならずポーランドからの軍人諸兄が、防衛に手を貸して頂いております。――――――わざわざイギリスを経由して高い茶を飲むのは、こりごりですので」
「――――――いつも、そなたの話には楽しませてもらっている」
「私が曲がりなりにもこのイスタンブルにおられますのも、スルタンの威光の賜物にございますれば。それに、わたくしめの下手なトルコ語が、スルタンのお耳汚しにならないかと、いつもお召しがあるたびにそればかりを考えてしまいますよ」
木陰の卓につき、東国渡りの紙のように薄い、青磁のカップで茶を喫する。
「そなたに、礼をせねばなるまい」
「畏れ入りますが、ご放念下さいますよう。いつも同僚に怒られておるのですよ。グーデリアンは、スルタンのわざわざのお召しに、茶のみ話しかしない、と」
男くさい容貌に本気で困ったような笑顔を浮かべるグーデリアンに、スルタンは声を立てて笑った。
「いや、世をこれほど楽しませておるのだ。そなたは充分に任を果たしておると、そなたの上官に申し伝えてやろう」
「恐れ多いことです」
スルタンが手を叩くと、侍従が金細工の施された見事な箱を持ってくる。蓋を開けると、中には唸るほどの宝石が入っていた。
「畏れながらスルタン」
グーデリアンは、その箱ごと気前良くグーデリアンに押し付けようとしたのを、押しとどめる。
「わたくしは、スルタンのお耳汚しをしているに過ぎませぬし、過分のご寵愛はその――――――」
グーデリアンは、わざと曖昧な笑みを浮かべてみせる。
「ただでさえ綱渡りをしている私の立場が、大使館内でさらに、」
「そうか」
スルタンは、不服そうに唇を尖らせる。
「ならば、別のものを申せ」
「畏れながら、こうして変わらず遇して頂くことも汗顔の至りでございますれば」
「いや、そなたには色々と楽しませてもらっている。受け取ってもらわねば、世の気が済まぬ」
グーデリアンの分析により、訓練と称して送り込んだカイロで未然に反乱を制することができたし、バクダッドで鬱屈した日々を送るだけならまだしも狂信者を煽るハリーファの気勢を制することもできた。
「何でも良い、申せ」
「それでは――――――」
あまり誇示しては、スルタンの憶えが悪くなる。そのぎりぎりのところを見透かしたように、グーデリアンは折れた。
「この宮にある、どのエメラルドよりも素晴らしい一対を頂戴したく存じます」
小さく、スルタンは小首を傾げた。
「イズラフィールを」
グーデリアンは、自分で言って小さく眉根を寄せた。
するりと、意識せずにその名を出してしまった。
「賜りたく」





 エディルネの離宮にいたという経歴以外、彼の過去は茫として知れぬ。あれほどの美貌で、かつどの宰相も舌を巻く機知も持ち合わせている。
 もし今もデウジルメの制度さえあれば、末は宰相の地位を占めているだろうというのが、大勢の感想だった。
だが、その麗質と頭脳とに目が眩み、『エディルネ』時代の前、どこで何をしていたのか知る者は少ない。水を向けても、彼も困ったように微笑むだけだ。
 満足に読み書きもできぬ幼い時に、親元から離され、奴隷として売られる少年も多い。親が名づけた名も、洗礼して授かった名も知らぬ幼いうちに、イスラムに改宗し、去勢されて宮中に入る者も少なくない。
彼もまた、そういった身の上であろうと推察した者が多かった。
 「イズラフィール」
 東方、チィンの皇帝より送られたという当方の容貌をした同輩に声をかけられ、書庫の誇りっぽい空間から、彼は嫌々ながら浮上してきた。
 「またここに居たか、探しやすいな」
 イズラフィールのそばに寄ると、滅多に手に入らぬ高価な乳香と、何とも表現しがたい甘い匂いがするので、彼はイズラフィールのいる棚の場所を間違えなかった。
 「…ヨーロッパの本は、なかなか手に入らない。これだけ貴重な文献が揃っているにも関わらず、誰も訪れる者がないというのは、わたしには理解できない」
 あからさまにイズラフィールは不機嫌だった。貴重な写本が納められた図書館は、あまり人気もなく、イズラフィールお気に入りの場所だった。
 「…して、何用だ」
 普段、スルタンや大宰相に向けている愛想の良さを殺ぎ落としたかのように、彼の表情は険しい。
 「お召しだ」
 その一言に、彼は書架に読んでいた本を戻した。
 「スルタンのお気に入りの金髪の男がいるだろう?」
 たまにこの図書館ですら、姿が見えぬ時があるが、これだけ広大な宮だ。入れ違いになることもあるだろう。彼は、物事をあまり深く考える質ではなかった。
 「…先日、スルタンのお召しを受けた?」
 「ああ、アメリカ人だ。彼が、君を欲しいと言ったらしい。彼は、休息用にこの宮のうちに部屋を賜っている。その部屋づきにと」
 はっきりと、この宮殿に夥しいほどあるどのエメラルドよりも美しいと言われる双眸に、怒気が閃いた。
 「スルタンのお召しでは、参上せねばなりませぬ」
 優雅にカフタンの裾を翻し、イズラフィールは彼の隣から去った。
 「ああ、イズラフィール」
 黒人の宦官長が、やってきたイズラフィールの痩身を見つけてほっとした顔をした。
 「お召しと伺い参上致しましたが」
 「白い客人が無理を言い出した」
 「それも、先ほど伺いました」
 己の身柄の話をしていると言うのに、イズラフィールは落ち着き払っている。時々、彼には感情がないのではと噂される、陶器のような白い容貌には、さざなみ一つ立った様子もない。
 「それで、わたくしはこちらの宮でお暇を出されるのでございましょうや?」
 いやと、黒人長は大きなイマーマで覆った頭を左右に振った。
 「スルタンのお気に入りであるそなたを、スルタンとて易々とお渡しにはならぬよ。ただ、白い客人にこの宮に滞在する時の部屋を表宮に用意するゆえ、そこで世話をするということで話がついた」
 「左様でございますか」
 イズラフィールはいつも、表面上は穏やかな笑みを絶やしたことがない。だが、権謀術数渦巻く宮中での、自らの才覚でのし上がった宦官長は、誰もが渇望する素晴らしい色合いの瞳が、揺れたのを見たことがなかった。
 頭の回転も早いし、飲み込みも素晴らしい。これで彼が白人でなければ自分の後継に推してもと思ったことも、一再ではない。
 「それでは、仰せのままに」
 いつもの優雅な一揖をし、背を向ける。
 知らず詰めていた息を、宦官長はほどく。まるで、剥き身の大剣を首元に突きつけられているような心地だった。
 有能だが、何かと問題もあったと聞いている。彼本人が問題なのではなく、彼をめぐって様々な醜聞がそこかしこで上がる。
 ともかく、これで自分の手元を離れたことを、もったいないと思うと同時に彼は安堵することになる。

 その日、時刻も遅いこととまたぞろ『魔剣を抱えた男』が出たということで、引き止められた。
 今度は、フランスの大使づき副官だ。やはりジャンビーヤで喉を掻き切られていた。しかも、外宮とは言え、トプカピの内で起きたことゆえ、禁足令が出た。
 晩餐に招かれ、宮中の料理を堪能し、早速与えられた部屋にグーデリアンは通された。
 勿論、グーデリアンが望んだ部屋づきとして、イズラフィールの姿もある。
 グーデリアンのために用意された部屋は、上等な乳香が焚き染められていた。
 「この宮で、英語で話せる相手が欲しくてな。スルタンに無理を頼んだ」
「左様でございますか」
イズラフィールは、たおやかな風情の容姿に笑みを浮かべ、運び込まれた寝具などを整えている。白い長袖の詰襟のシャツと、スルタンの前ではないからか、袖なしの上着と白い足通しという姿だった。
だがスルタンの肝いりを示すためか、上着には細かく砕かれた宝石の縫い取りがされており、一介の従者がまとうにはあまりに高価な物で、グーデリアンに対するスルタンの遠慮もまた控えめに示していた。
「少し無駄話に付き合え、眠るにはまだ早い時間だ」
夜半のことで、濃いカフヴェは用意されず、イスラムであるイズラフィールは酒は断った。グーデリアン一人、イギリスの大使が献上したという酒を嗜む。
「この宮でも『魔剣を抱えた男』は、話題になっているのか?」
グーデリアンはふかふかのクッションに腰を降ろし、イズラフィールは端然とした様子を崩さず、絨毯の上に腰を降ろしている。
「殺された者とは顔なじみで」
杯を勧めたのだが、頑なにイズラフィールは拒む。
「イエメンでの石油採掘の試掘を担当していた」
この年、トルコはイエメンへ進軍し、占拠していた。それに群がる利権を求める西洋人商人に対する視線は、当然冷ややかだ。
「左様でございますか」
「驚いた顔をしたほうが良い、本当に知らぬのなら」
初めて――――――イズラフィールの容貌に、怪訝そうな顔がのぞいた。
「湯を使い、乳香を焚き染めたところで、鴉片と血なまぐさい匂いは消えないぞ。この宮でもあちこちで炊かれているが、染み付いた血の匂いは、そうは簡単に隠すことはできない」
立ち上がろうとしたイズラフィールを制するように、グーデリアンはその華奢な肢体に組み付き、見事な文様が編みこまれた絨毯の上に引き倒した。
「スルタンの命か?」
「否」
短く、彼は答える。
喉に手を這わせ押さえ込み、体重をかけてのしかかる。
「だが、おまえが命じられた殺しの標的は、次はオレの番だったのか? スルタンの傍をうろうろと賢しげに入れ知恵をする、白い人間が余程、おまえに命じた者にとっては目障りだったのだろうな」
それまでの穏やかな表情が剥がれ落ち、今にも噛み付かんばかりの険しい顔に、グーデリアンは笑みを浮かべた。
「少し調べれば分かる。エディルネの先に、おまえが仕官したという記録はない。ならば、誰かが命じておまえを仕えさせた形にして、サライに入れたと見るのが妥当だろう」
スルタンのそばに侍る者からの訪問ならば、厳重な警備を敷いた中にいる標的も、まさかとも思うまい。
どうやって、それを為したのか――――――ほとんどの被害者が、あまりにも無防備に殺害されたことからして、その方法のほどが知れる。
「おまえが剣を振るうより、オレがおまえを撃つほうが恐らく早いだろう」
もがく時に触れたグーデリアンの懐に、銃の存在があることは恐らく気づいているに違いない。
グーデリアンにあまさず暴かれ、彼は怒りのあまり、眉尻をキリキリと吊り上げていた。だが、たとえ怒りの表情であっても、人形じみたところがすっかり剥がれ落ち、初めて生きた人間を相手にしているような感動があった。
綺麗なだけのチューリップより、彼はやはりグーデリアンが思ったような、荒地に雄々しく咲く、芥子花の風情のほうがやはり似合う。
ゆっくり――――――ゆっくりと強ばった肢体から力が抜け、それにあわせたようにグーデリアンも戒める力を弱めた。
「聞いたことがあった。『山の老人』のところに、この世の者と思えぬ美貌の暗殺者がいる、とな。その者は他の連中のように鴉片の快楽には決して酔わず、イスラム以外の異教徒を葬るとき、賛美歌を唱える、と」
組み敷いた時に緩んだのか、頭を覆うターキーやが外れ、ターバン止めが床の上に飛んでいた。ざらりと落ちたターキーやが崩れ、隠されていた髪があらわになる。
短く切り揃えられた、重たげに頭を垂れた麦穂のような、綺麗な色の髪。
たおやかなこの様子で近づかれては、警戒していても、悪魔ですらたやすくそれを解くだろうという風情だった。
「――――――わたしは、殺すことしか知らない。芥子の花を栽培し、収穫し、人を殺すことだけを教えられた」
静かな口調だった。
「殺した者にかけてやる言葉も、何も知らない」
「だから――――――アヴェ・マリアを?」
「子供の頃に聞いた。元は、ムスリムではないことは知っていたが、今はそれしか憶えていない。少なくとも、イスラムの誓言よりもアッラに魂の安らかなることを祈るより、死者も喜ぶに違いない」
「そんなさもしい感情など、ヤツラにあるとは思えないがな」
「…わたしは、アッラーの名も唱えることもできない。アッラーは偉大なり、ゆえに異教徒に手を下すのに、イスラムの者を使うにははばかりがある。ゆえにわたしはこうして飼われ、永らえてきた」
グーデリアンは襟を掴み、引き上げる。イズラフィールの肢体を探り、服と見た目華奢な肢体との隙間に隠されていた短剣やらを取り上げる。
だが、グーデリアンは油断せずに彼の肢体を探る。
「わたしは、『魔剣を抱えて踊る男』ではない」
魔剣に踊らされているのでもない。
ただの、悪魔のように切れ味が素晴らしく良い、意思を持たぬ剣だ。
「…アメリカは、今のところはオスマン・トルコをどうこうしようという意思はないし、さらにその奥のペルシャやアラムート、アフガンやインドのほうにまで、干渉できるほどの国力はない」
「だが将来、必ずそうなるだろう。遠からず。宗主はそう断言された。おまえはスルタンのお気に入りだろうが、つまるところ、我らのためにならない」
自らの手を汚さぬために、浴びる血を受ける存在としてだけ生かされた己に嫌悪を覚えながらも、彼の立つ地歩は、あの貧しく峻厳な山にしかない。
命じられれば、疑問を抱こうが殺さなければならない。ただ、山の老人の意に染まぬ。
それが、グーデリアンを害そうとした理由。だが『山で一番』と言われる彼をもってしても、それが簡単にいかなかったのは、グーデリアンが思っていたよりも上手に立ち回ったせいだ。
西洋列強の間を上手に泳ぎまわり、時にイギリスに肩入れしながら、そこで得た情報をトルコやその奥にある部族に密かに流す。
バクダードのハリーファを抱き込んだドイツを牽制し、カイロの近郊で運河を掘るフランスを攪乱し、インド航路を抑えたイギリスの妨害をする。
攪乱。それがグーデリアンの真の任務だった。
アメリカが望んでいるのは、ヨーロッパの宗主国と言われる列強が、新大陸への干渉どころではないような事態を演出することだ。
さぞ、判断に迷っただろう。
「名は?」
「…イズラフィールと、呼ばれている」
「そっちじゃない」
懐の銀むくのケースと取り出し、煙草に火をつける。
「生まれた時につけた名で、呼ぶ者はとうにいない」
『山の老人』の下にある者は、世俗の何もかもを捨て、もしくは何も持たぬ者を集めると言う。それか、彼のようにイスラムの者ではない、たとえ死んでもアッラーの名を唱える必要のない者。
彼も、そうして育ったのだろう。
「ならば、オレが呼んでやる」
『魔剣を抱えた男』などという、忌まわしい名でも、死を告げる天使でもなく。
エメラルドのような瞳を彼は瞠る。
「オレは正直なところ、どうでも良いんだ」
グーデリアンが吐き出した白い煙は、彼が見慣れた鴉片の幻惑を誘う煙よりも薄く、そして不確かな映像を取り結ばない。
「アジアやヨーロッパがどうなろうと、アフリカが搾取されても構わない。そういう我が儘な男なんだ、オレは。オレが育ったアメリカが、二度と誰にもアメリカ人以外の手で命運を決められるのでなければ」
あるのは、目の奥が痛くなるような、押し殺し続けた感情を揺さぶる声。
「そのためには、何だってする」
おまえのように、例え人を殺すことも躊躇わないだろう。汚名をかぶることすら、厭わない。
「だから、呼んでやる」
本当の名を、言え。
先日グーデリアンが触れた唇が、物言いたそうに震える。
妬ましいほどの逞しさを見せて、グーデリアンは言い放った。
「――――――フランツ」
「フランツ?」
「フランツ・ハイネル。生まれてすぐに私を売った親がつけたのは、その名だ。誰も呼ばなかった――――――本当の名だ」
その名前以外、彼は何も持たぬまま、人を殺す術を憶え、興味の赴くまま様々な言葉や文字を習得し自らの価値を高め、一つの殺しを請け負った後に命を奪われる『暗殺者教国』の中で生き延びてきた。
「ハイネル? ハイネルだな」
小さく、彼は俯き頷いた。
ゆっくりとグーデリアンはハイネルと自ら名乗った彼を抱きしめ、寝台の上に押し倒す。
「信じるか? ――――――実は一目惚れなんだ。全くタチが悪いぜ、よりによって自分の命を付けねらう相手に惚れちまうだなんて」
小さく、ハイネルは金褐色の睫毛を瞬かせ、うわべだけではない微笑を、ぎこちなく、それでも白い容貌に浮かべた。
「――――――わたしは、遠からず『仲間』に狙われるだろう」
優れた暗殺者であるがために、秘密を守るために。
「おまえを、長老の命令に従って殺すことができなかった」
「ならば」
グーデリアンは、ゆっくりとハイネルの服を暴く。
「来いよ、オレと一緒に」
怪訝そうに、ハイネルはグーデリアンを見上げる。
仮面じみた温和な表情が失せた代わりに、今まで覗かせたことがなかった、押し殺された子供のような生々しい感情が顔を見せている。
「オレのイスタンブルでの任期は、あと2ヶ月だ。それまで何とか生き延びろ」
そうしたら。
グーデリアンは、ハイネルの白い頬に触れる。まるで壊れ物を扱うように、そっと。
「アメリカにおまえを連れて行く。海を隔てた場所の裏切り者を、殺せる腕を持つ者は、山にいるか?」
「…わたしだけだ」
「だったら、おまえの命は安全だ」
ハイネルは、つぼみが開くように少しずつ固い表情をほころばせる。
移民の国で、誰もが平等だと言う。だが、その中でも目に見え辛いヒエラルキーがあり、グーデリアン自身も特権階級に属しているわけではない。
それでも。
「這い上がる手伝いくらいはしてやる」
「…わたしは、人を殺すことしかできない」
ハイネルに触れるグーデリアンを、抱きしめ返そうとして、ハイネルは思いとどまる。
この手は、血にあまりに浸りすぎている。
「それしか教えられなかったからなら、別のことを覚えたらら良いんだ」
「…できるだろうか」
白い手を、血に塗れて生きてきた手を、グーデリアンは取る。
「できるだろう。おまえはただの暗殺者で終るところを、『魔剣』を持って踊り狂って生きてきた。神の名を名乗って生きる必要は、もうないんだ」
上着とシャツを完全にはだけられ、蝋を溶かしたような色合いの肌に、グーデリアンは無遠慮に触れる。
「できるだろうか」
ハイネルは勇気を振り絞るように、ゆっくりと、グーデリアンの背に腕を回した。
「できるんじゃない、やるんだ」
あっさりとした答えに、ハイネルはくすぐったそうに笑い、やがてその声が違う響を帯びた。



ひっそりと、スルタンのいますトプカピの宮殿から、一人の近侍が姿を消した。
探そうにも彼の身元を保証していた書類は全て偽造されたものであり、保証人として名の挙がっていた者も、いくばくかの金銭で名を売っただけだと後に調べられた。
彼が姿を消してしばらくの後、スルタンに惜しまれて一人の外交官資格を持つ男が、旧大陸から生まれ故郷に戻っていった。
彼が『魔剣』を携え、海を渡ったのかどうか、記録は残っていない。
ただ、恐ろしいまでの切れ味を誇った暗殺者の名だけが、イスタンブルの町にしばらく頻々と鳴り響き、やがては北のクリミアの半島で戦争がはじまると、その噂も消え失せこれより後、5人のスルタンが襲い70年後にヨーロッパ中を巻き込む戦争のはてにオスマン・トルコが滅びると、その名すらも完全に廃れた。
スルタンの命運と同時に、バクダードのハリーファも、そしてアラムートの伝説も、終焉を向かえ、時代は近世へと怒涛のように突き進むことになる。




 ※里見注:ここは作者でいらっしゃる川幡さんのつぶやきです。歴史的背景に関して少し言及してらっしゃるので残しておこました。

終っとけ…

里見さん、スミマセン、『砂』じゃなくなってしまいました(笑)
砂漠でも沙漠でもなく、岩です山ですアラムートです、イスタンブルです…。つか、目の前海じゃんよ。
ああ、三大文明展行きたかったなーという気持ちが、ワケ分からない時代に舞台を設定させてしまいました(1852年から3年頃。ちなみに1853年にクリミア戦争勃発)



 川幡さんのお話は、物語の世界観そのものもなのですが、本当に骨太ですよね。世界設定や文章そのもの、そういったものが重くしっかりとしていて、それでいてどこか艶やかさも感じられるように思います。
 今回のお話は拝読させていただいて勝手に知的遊戯的要素があるお話だなぁと感じていました。うーん、あほな私ではうまく説明できないんですけど、川幡さんのお話はそのまま普通に読んでももちろん知的興味や好奇心が満たされておもしろいんですけど、基礎となる知識が先にあればさらにいろいろなことが見えてきておもしろいんだろうなぁと。この「おもしろい」は「fun」ではなくて「interesting」なのですが。
 
 まっっったく知識はありませんが、私は不思議にトルコやイスタンブルに惹かれるところがあって、いつか必ず足を運んでみたいと思っている場所の一つです。
 憧れの場所で華麗に展開されるお話にただただうっとりでした。

 それにしても、月並みすぎる言葉になってしまって恥ずかしいんですけど、川幡さんのかかれるグーとハイネルはカッコいい!ハイネルは美しいですが脆弱なところが少しもなく、グーデリアンは野性的でありながら粗野なところが微塵もなく、闇夜に冴えた輝きを見せる月のようです・・・と気のきいた喩えのようでいてワケのわかんない喩えをするしかないあほさが哀れな私(笑)。川幡さんグーハーのカッコよさをうまく表現できればいいのに!
 じっくりと時間をかけてぜひ再読させていただきたいと思えるお話でした。

 こんな力作を読ませて下さり、本当にありがとうございました、川幡さん!


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