Something, anything, and all things.
新条宅を訪れるのは、グーデリアンもハイネルもその時が初めてだった。
今時探してもそうそう目にすることのない数寄屋造り、伝統的な日本家屋の新条家邸宅には、日本びいきのハイネルはもちろん、グーデリアンでさえ感嘆した。太い大黒柱、磨き上げられた床柱、重厚な瓦、鈍く輝く床。室礼ももちろん申し分なく、さりげなく置かれた階段箪笥に飾られた野の花の清楚さに、ハイネルは目を細め、床の間に飾られた豪放磊落な書をグーデリアンは『格好いい!』と絶賛した。
そしてこぢんまりとした佇まいながら、雅趣に満ちた茶室。
端然と正座したハイネルと、どうしようもなく長い足を折り曲げ、膝を抱えて小さくなっていたグーデリアンの前に、茶道家元、新条の祖母が目にも鮮やかな新緑の薄茶をたてて置いた茶碗は、ハイネルには無骨な備前、グーデリアンには赤みを滲ませた白い釉薬も柔らかな志野焼の茶碗。
「お手前、頂戴致します」
深々と頭を下げて押し頂いたハイネルと、おそるおそるながら茶碗を片手で掴み、一気に飲み干したグーデリアンに、新条の祖母はころころと鈴を転がす音色の笑みを零した。
干菓子を親指と人差し指で摘んで口に運び、行儀悪く指を舐めたグーデリアンに、呆れたのはハイネルだけではなく、実は茶道師範の資格を持つ新条もだった。
だから。
「なぁ、新条。さっきのカップ、どこで売ってるんだ」
などと言い出したグーデリアンに、新条は心底驚いたのだ。
「さっきのカップ…というのは、祖母が薄茶をたてた茶碗のこと、か?」
「俺にお茶を入れてくれたカップのこと。なぁ、どこで手に入んの?」
「…祖母に聞かねば解らないが…気に入ったのか?」
「うん、欲しい」
あっさり言い切ったグーデリアンに、こんどこそ新条は呆れかえった。
「ハイネルがコーヒーに牛乳を入れないんだ」
なぜこの茶碗が欲しいのかと問う祖母を前に、そんなことを言い出したグーデリアンに、本当に本当に新条はもう愛想もなにもかも尽き果てそうだった。
「それと茶碗に、なんの関係があるんだ?」
「あいつ、カップはマイセンの青タマネギって決めてるんだよ。で、それに俺がコーヒー牛乳を入れてベッドに持ってったら、あいつなんつった思う?」
聞きたくもない単語には目を瞑り、辛抱強く話を聞く新条に、いかにもなオーバーアクションを添えて、グーデリアンは訴えた。
「“美しくない”ってのよ」
「美しくない?」
「そ。マイセンって、真っ白だろ?模様は別にしてさ。で、その白に濁ったコーヒー牛乳の色が美しくない、マイセンにはブラック・コーヒーでなきゃだめだって、あいつ、そりゃーもう、頑固で」
「それは……」
ハイネルならばそう主張したところで不思議ではないな、と新条は嘆息してしまった。言われてみれば白磁に青で美しい文様の描かれたマイセンに、白濁した褐色のコーヒーは似合わないような気がする。
「でもあいつ、しょーっちゅう胃をやられるのよ。なのにブラック・コーヒー以外はとにかくアウト。俺としては朝一番に飲むモーニング・コーヒーだけでも、ミルクを入れて欲しい訳」
「それがあの茶碗を欲しい理由なのか?」
「あのカップなら、ミルク入りコーヒーでも綺麗でしょ?」
上目遣いに訴えられて、なるほど、と新条は納得した。柔らかな赤を帯びた白い茶碗は、新緑の薄茶も、濃深緑の濃茶も、褐色のカフェ・オレだって受け止めてくれるだろう。
だがしかし。
心底困りながらも、新条はグーデリアンの訴えを日本語に訳して祖母に訴えた。
と、話を聞いた祖母は深く頷いて。
「お話は解りました。ではこのお茶碗、グーデリアンさんにお譲りいたします」
決然とした祖母の言葉に、誰よりも驚いたのは他ならぬ新条自身だった。
なにしろこの茶碗、現人間国宝がそうとなる前に手がけた茶碗の中でも指折りの逸品、浅ましい話ではあるが、300万円はくだらないという物の上、祖母がことのほか気に入っており、滅多な客には供さない茶碗でもある。
だが祖母はそれを潔く布に包み、桐箱に収めて、どうぞ、と頭を下げてグーデリアンへと差し出した。
「だたひとつ…そのような使い方をされるのでしたらば、使われる前に必ず湯に浸してください。それも全体を、少なくとも20分は。そして使われた後はすぐに濯いでください。たっぷりのお湯を使って」
「O.K. アリガトー、グランマ。Thank you very
very much!」
にこにこ笑ってそれを受け取ったグーデリアンの背後に、めちゃくちゃになった茶碗が見えるようで、新条はどうしてもため息を吐かずにはおれなかった。
こうしてグーデリアンは上機嫌で茶碗を抱えて帰り、後日、新条の祖母に翡翠のブローチを贈ってきた。青みを帯びた鮮やかなエメラルド・グリーンが美しい大粒の翡翠を、帯留めに丁度よいと新条の祖母は愛用し、彼女亡きあとは和服には全く縁がない孫の妻へと贈られた。
グーデリアンが彼女に感謝を込めて贈ったその翡翠が琅かんと呼ばれる極めて珍しいもので、件の茶碗とほぼ同等の極上品であることを、知る人は新条の祖母ただ一人(グーデリアンは茶碗の価値を知らない)である。
そんな些細な出来事を、誰もが忘れてしまった頃。。
日本の片田舎ながら、名の通った窯元に突然尋ねてきた紳士は、シルバー・フレームの眼鏡に手入れの行き届いた薄茶色の髪、エルメネジルド・ゼニアのフル・オーダーであるシックなモスグリーンの三揃えをかちりと着こなした端然とした佇まいから、かなりの上流階級に属する人物であろうと思われた。
そしてその両手には、ずいぶんと古ぼけて痛んだ桐箱。
「申し訳ない、こちらならば修理が可能かもしれないと、矢も楯もたまらず、ご連絡もなしに伺ってしまいました」
流暢な日本語で語り、深々と頭を下げてから、差し出した箱の中には豪快に割れた志野焼の茶碗。
それを受け取って桐箱から破片を取り出した青年は、ふ、と唇に笑みを掃いた。
「これは…毎日使われてたんですね?」
「ほぼ、毎日…転戦する際も、可能な限り手荷物に入れていたので……」
使い込んだ跡もあからさまな、作られてからもう一〇〇年も二〇〇年も経たかのような風格のにじみ出る、けれどたった今、清水で拭われたばかりのように瑞々しい二つの破片を手にとって、長い間眺めていたまだ若い青年は、ふいににっこりと笑った。
「惜しかったなぁ。爺ちゃんが生きてたら、喜んだのに」
「お爺さん?」
「はい、これを作ったのは、俺の祖父です。これは一番脂の乗った時期に焼いた、傑作の一つですね」
「そんな貴重な物を……」
「陶器は割れる物です。この茶碗は、毎日毎日、とても丁寧に使われていたことがよくわかる…格別の貴重品です」
これだけ使い込んでいるのに、染み込みがほとんどない、と目を細めて。
「茶道のお師匠さん方はそりゃあ大事にはしてくれますが、日の目を見るのは年に数えるほど。それじゃ茶碗は育たない。爺ちゃんが生きていたら、よくここまで育ててくれたと、泣いて喜びましたよ」
「…私、ではありません。私の伴侶が、私のために、毎朝カフェ・オレを入れてくれるのです」
苦笑した紳士に、青年が呆気にとられる。
「カフェ・オレ?この茶碗に?」
「はい」
「コーヒーを、毎朝……」
しばらくの間、青年は呆気にとられていたけれど。
「大丈夫、俺、繕い物、得意なんです」
ふいに満面の笑顔を見せて、よくよく見ないと解らないくらいに継いでみせますから、と言ってのけて。
「でもこの割れ方なら、金かなにかで継ぐのも味が出ていいかもしれない。金色、嫌いですか?」
「金はとても好きな色です。修理の方法はお任せいたします。いつ頃、できあがりますか?」
「最低でも一週間。できれば暫く様子を見たいから、二、三週間」
「申し訳ないが、今日中に帰国しなければならないので…取りに来られるのは多分、二ヶ月以上先、最悪の場合は半年以上先に……」
「いつ取りに来ていただいても構いませんが、その間、代わりの器がないと不便ですね」
そう断言した青年は、紳士を手招きしてから先に立ってすたすた歩き。
「間に合わせにもなりませんけど…どれでも持って行ってください」
到着した小屋に並べられた長机の上、所狭しと並べられているのは、持ち込まれたそれにとてもよく似た志野焼の茶碗。
しばらくの間、紳士はあれこれと吟味していたが、一際柔らかな色合いのそれを選び、微笑とともに両手でそっと持ち上げた。
「目がいいですね。それ、俺が最近焼いたやつのなかでは、一番出来がいいんですよ」
「お借りして差し障りないのですか?」
「返して貰わなくて結構です。同じように使い込んでやってください」
棚の奥から真新しい桐箱を出してきて箱書きを確かめてから、さっさとそこに茶碗を納め、青年は紳士に向かってそれを差し出し、深々と頭を下げた。
紳士は暫時逡巡していたが、では、と同じように頭を下げてから、年齢を感じさせない鮮やかな緑の瞳を細めて穏やかに笑い、差し出された茶碗を受け取った。
「よかった!修理できたんだ!」
ハイネルの手によって桐箱から取り出された茶碗に、グーデリアンはとても喜んだけれど。
「馬鹿者。これはまったく別の茶碗だ」
きっぱりと告げられて、グーデリアンはちょっと眉根を寄せて、小さく嘆息し。
「ってことは、駄目だったのか」
そう言いながら、でもこのカップにもカフェ・オレが似合うや、と笑って新しい茶碗を両手で包んだ。
掌にすっぽり収まる、カフェオレ・ボウルとしては少し小さめだけれど、ぽってりとした土の感触がとても心地良いカップ。
「いや、割れてしまった茶碗もきちんと修理してくれるそうだ。が…」
ハイネルは少し首を傾げて、青年から最後に告げられた言葉を、言おう言うまいか、考えた挙げ句に沈黙した。
「ん?なに?」
「…お前も四六時中自宅にいるようになれば、カップが必要だろう?修理が終わって私の茶碗が戻ってきたら、それはお前が使うといい」
「そうだな。そうするよ」
言い置いて、さっそくカップを捧げ持ってキッチンへと向かったグーデリアンを見送り、ハイネルは密かに苦笑した。
どれほど高価なものでも、貴重な物でも、物は使いこなさなければ意味がないのだ。土の暖かさを掌に伝える茶碗であろうとも、この手で丹誠込めて設計した精密なマシンであろうとも。それが壊れても再生できる限りは繰り返し繰り返し修理し、幾度も壊れ、もはや修理の手だてさえなくなるまで。
そして物を使いこなそうと心を砕くうちに、人は成長する。なにしろあのがさつなグーデリアンが、窯元にその使い方を大絶賛されたくらいなのだから。
「お待たせ、フランツ」
真新しい茶碗はグーデリアンの手によってたっぷりの湯に浸され、水化粧をほどこされて、桐箱に収まっていた時の素朴さ、朴訥さを脱ぎ捨てて、瑞々しい美しさに満ちている。なみなみと注がれているのは、乳白色を帯びたカフェ・オレ。
「ありがとう」
礼を述べて茶碗を受け取ったハイネルは、グーデリアンには言わずじまいだった青年の言葉を思い出して、ついつい笑ってしまった。
『茶碗をここまで大事に使ってくれてありがとうございましたって、どうか奥さんにも伝えてください』
妻、などと告げた記憶は私にはないのだが、と内心苦笑しながら、ハイネルは温かなミルクたっぷりのコーヒーを一口飲んで、砂糖などまったく含まれていないはずのその甘さに目を細め、また笑った。
そしてグーデリアンは、どうしてハイネルが自分の顔を見る度にくすくす笑うのか解らず、心当たりのなさに幾度も首を傾げたのだった。
もったいなくも瀬名さんからお話をいただいてしまいました。
毎回そうなので心苦しいのですが、以下全く的外れかもしれない個人的感想を勝手に述べさせていただこうと思います。
このお話を拝読させていただいてまず最初に感じたことは、とにかくどの登場人物も粋で素敵だなあ、ということでした。
言葉にしてしまうとすごく俗っぽくなってしまうので残念ですし(私に表現力がないばかりに・・・)、みんな素敵なので誰が、そしてどこがどうとあげるのも大変なんですけど(笑)、新条のお祖母さんも、そして青年も、もちろんグーデリアンもハイネルも表面的なしきたりや固定観念にとらわれることのない、ある意味大胆なんだけれども全く肩に力が入っていない振る舞いをしているところが本当に素敵だなと感心させられることしきりなのでした。本当の物の価値が分かる人達、と書いてしまうとあまりに陳腐で申し訳ないんですけど、一番素直に表現すると、やはりそうなってしまいます。
特にグーはそうですよね。彼にとってはその茶碗の価値が金額にしていくらくらいか、そして通常どのように使用されるべく定められているかなんて全く関係なく、自分の大切な人のことを無心に思って行動しているだけであって、さらりと自然体でそういうことが出来てしまうところがまた瀬名さんのグーの魅力!瀬名さんのグーにはいい意味で無骨なところがあって、とてもまっすぐで素直な愛情が感じられるのでした。ハイネルめちゃくちゃ幸せ者ですよね!(笑)
そしてそんなグーのことをハイネルが心から理解しているのがよく伝わってきました。
しかし新条のお祖母さんカッコよすぎです!新条にもあれくらいの(ある種の)豪胆さがあれば・・・・いや、彼はあれだからこそ味があっていいんでしょうけど。アレって何?(笑)
うーん、自分が感じたことを相変わらず上手く表現出来なくてもどかしい限りなのですが、ものすごいなぁと思ったこと。それは、この長さのお話なのに時間の流れがムリなく組み込まれている点です。ちょっとしたところから(この「ちょっとしたところから」というのが難しいと思うんですけど)このお話の中ではけっこうな時間が経過しているのが読み取れて、しかもそれぞれが本当に実のある時を重ねてきたのだな、というのが伝わってきます。
名前は容易に推察できるけれど出してしまったらヤボになるであろう新条の奥さんも、義祖母とは全く違った方法で翡翠を大切に育てていくでしょうし、グーとハイネルの手にある茶碗もさらに使いこまれて彼らと共に時を経ていくんでしょうね・・・・。
ものすごーーーくガサツで破壊王の私もモノの大切さを考えさせられました(笑)。
グーデリアンもハイネルも、そして新条も新条のお祖母さんも器を作ったお爺さんもその孫の青年も、ものに対する接し方が、そのまま人に対する摂し方と同じなんだろうな、と思います。壊れてしまうことを恐れずに、けれどその対象が本当に引き立つように時間をかけて接していく人たち。素敵なのもうなづけます。
うーん、なんだか本当にまとまりがない文で情けないこと限りないのですが、こんなに素敵なお話を下さった瀬名さん、本当にありがとうございました!