「ヤドカリという生き物を知っているか?」
唐突に問われて、グーデリアンはうっかりうん、と応じてしまった。
巻き貝の殻を家にしていることでよく知られている、ユニークな海老だか蟹だかの仲間だ。
「彼らは家が狭くなると、新しい家に引っ越すそうだ」
きっぱりと告げられて、グーデリアンは『そうですか』と言いそうになって、あわててその言葉を飲み込み、代わりに「解った」
とだけ口にした。
ならば問題ない、と鷹揚に頷いて見せたのはもちろん、フランツ・ハイネル。
サイバーフォーミュラ・パイロット、ジャッキー・グーデリアンの所属する、チーム『シュトルムツェンダー』の監督兼マシンデザイナー、そして『炎の星条旗』こと『サーキットの種馬』と称されるグーデリアンの、唯一無二の恋人だったりする。
ジャッキー・グーデリアンもフランツ・ハイネルも、世界中を転戦するレーサーとして各国に別荘を所有している。特にアメリカはグーデリアンの母国だけあって、ケンタッキー州の実家とは別に、フロリダとハワイのビーチ・リゾート用の別荘にL.AとN.Yのコンドミニアムと、用途に応じていくつかの“家”を所有しており、その贅沢さは家族からでさえ呆れられるほどだ。
実はグーデリアンだって、本音を言えばホテルで十分なのに、と思っている。けれどハイネルがホテル住まいを嫌がるのだ。曰く『男二人でダブルに宿泊して、汚れたシーツをメイドに取り替えさせるなどと、冗談ではない!』と。そのくらいなら自分で炊事洗濯一切をすると言って聞かない恋人のために、グーデリアンは年に一度か二度、トータルして一ヶ月も滞在することがないと解っていながら、都心部にややこぢんまりとしたマンションを購入して今に至る。そしてそのことで不自由を感じたことはなかった。去年のハイネルの誕生日までは。
去年の冬、クリスマス前の十日間ばかりをN.Yで過ごしたのは、もちろん仕事のためだ。グーデリアンのパーソナル・スポンサーが春からの新商品販売戦略のイメージ・モデルにグーデリアンを起用したことに絡むCM撮影が主な仕事で、もちろんグーデリアンは仕事に追われる日々を過ごしたが、同行したハイネルはスポンサーへの挨拶まわりや、シュトロブラムスのアメリカ支社の会議に出席するなど、それなりに仕事はあったがそこそこ暇で、スミソニアン博物館まで足を伸ばしたりして彼なりに充実した時間を過ごしていた。
恋人の機嫌が麗しいと、もちろんグーデリアンだって嬉しい。
だから僅かな余暇に『散歩に行かないか?』と誘われて、一も二もなく応じてしまったのだ。
「実はシュトロブラムスのアメリカ支社の役員が教えてくれた店なのだが…」
その言葉になんだか不吉な物を感じながらも二人で肩を並べて赴いたその店は、骨董品店だった。五番街からは遠く離れた間口の狭い地味なその店には、ハイネルの気に入りそうな物など皆無に見えたのだが。
「古伊万里だ。素晴らしいと思わないか、グーデリアン」
ウィンドウに飾られた直系一七インチほどの皿は、素人のグーデリアンから見ても確かに美しかった。白磁に青一色で複雑な模様が描かれてあるだけだが、フリーハンドで描いた証拠にごくごくわずかなゆがみがある。
が、グーデリアンをして叫ばせたのは、その美しさではなかった。
「げぇっ、二〇万ドル?」
たかだか皿一枚、それもこんなショボイ店で売っている皿が、である。
だがハイネルはこの皿がいたく気に入っているらしく、グーデリアンの叫びも無視して、ただただうっとりとした眼差しでその皿を見つめ続けていた。
「…お前がシュピーゲルをあと二、三台壊さずにシーズンを終えていたら、買えたのに…」
もしくはあと一、二勝してくれていたら、と呟くハイネルに、嵌められていることをもちろんグーデリアンだって悟ったけれど。
「んー、じゃあこれ、誕生日プレゼントってことでよけりゃあ…」
買ってやるよ、とまでグーデリアンは言えなかった。
「ありがとう!」
盛大に叫んだハイネルが、グーデリアンの首に両手をまきつけて飛びついてきたからだ。
すぐさまグーデリアンはその皿を購入した。もちろんそれだけの現金の持ち合わせはないから、小切手を切った。
ふらりとやってきて唐突にそれだけの買い物をする若造を訝しく思ったのか、店側も慎重で、どうやら銀行に照会してグーデリアンの預金残高を調べたらしい。散々待たされたあげくにその皿を紙に包み、布に包み、桐の箱に包み、さらに頑丈そうな鉄鋲で角を補強された木箱に収め、それを段ボールで梱包してからようやく最初から両手を出したまんまのハイネルに手渡した店主は、にっこりと笑って『陶磁器がお好きでしたら秘蔵のコレクションもご覧になられませんか?』と囁いた。
そんな怪しい店を信用するほど、グーデリアンは馬鹿ではない。だから父親の仕事のつてを辿って鑑定士を紹介してもらったのだが、それも裏目に出てしまった。
「すごい!重要文化財クラスの品ですよ、これは…」
まだ若いがその名はすでに知られているという日本人の鑑定士は件の皿を前に、一六五〇年頃の物で、牡丹唐草というこの模様は珍しくないものですが、と言いながらも、恍惚と皿に見入っていた。
「ほら、中央に十字の模様が描かれていますでしょう?裏面の“福”の字の中にも」
「ほんとうだ。十字架のように見える」
「これは仮託文様と呼ばれるもので、当時幕府に禁じられていたキリスト教の信者が、密かに神に祈るために作らせた皿なんですよ」
そのため殊の外大切にされていたのでしょう、表面はもちろん裏面にも傷一つなく、完成度も状態もすばらしい、と褒めちぎった鑑定士は、第二次世界大戦後に財閥解体が行われた際、地方の豪農辺りが手放した物がアメリカに渡ってきたのであろう
と推測し、二〇万ドルでも決して高くない買い物だと断言して、ハイネルの審美眼を讃えた。
「そのころ日本からアメリカに流出してしまった美術品は多いんですよ」
浮世絵など日本よりもアメリカに多くあるくらいですからね、と微笑した彼は、もし手放す気になったらぜひ自分に、と名刺を置いて帰った。
それでハイネルはその店をすっかり信用してしまったのだ。
しかもその店の『秘蔵コレクション』の規模と品の格は、店構えからは到底想像できないような代物ばかりだった。『一五世紀後期の備前焼の皿』に『一四世紀中期の景徳鎮の壺』『一八世紀初期の柿右衛門の茶碗』の三点のために、ハイネルが定期預金を解約したと知ったときには、ハイネルの人となりを熟知しているグーデリアンでさえも呆気にとられた。もちろんそれらの大作の他にも、ハイネルの小遣い(これまた一般人とは桁が違う)程度で購入可能な細々とした陶磁器の類も、毎日のように買い込んでくる。しかもハイネルはそれらを仕舞いこんでおくことをよしとしない。昨日まで『そこらへんのスーパーで買ったマグカップ・二客五ドル』でモーニング・コーヒーを飲んでいた筈が、ある朝唐突に『一八世紀ヘレンド中国風スモールカップ・二客一万ドル』に差し替えられた瞬間、グーデリアンは危機感を覚えた。
この時、すでに二LDKのマンションはカップ・ボードやコレクション・ボード等、陶磁器を収納するために購入された家具類で、壁という壁が埋められつつあった。
明日が誕生日というその日、仕事を終えてグーデリアンに首根っこを押さえつけられた状態でドイツへと帰国する際も、ハイネルは『またN.Yへ来たい』としきりに訴えたが、『そうだな』と応じつつも今後N.Yへは決してハイネル一人では来させてはならないと、グーデリアンは心に誓ったのだった。
ちなみにグーデリアンが、『古伊万里』と『備前焼』、『景徳鎮』と『柿右衛門(有田焼)』をドイツに持って帰らなくてもいいのか?と問うたのに対し、『万が一飛行機が墜落した場合、これらの美術品が永遠に失われることになれば歴史に対しての冒涜となる』とハイネルが一説講じたために、これらはN.Yに置かれることとなった。
あれから一年半。
アメリカGPXのついでにN.Yに寄りたいと主張するハイネルに逆らえず、渋々とコンドミニアムへと足を踏み入れたグーデリアンは、もはやため息しか出てこなかった。
所狭しと並ぶ棚に、整然と陳列された陶磁器の数々。
壺やなんか、見るだけの物はともかく、コーヒーを一八世紀のヘレンドで、トーストを一九世紀のマイセンで供される生活は勘弁して欲しい、と心底思うグーデリアンだが、新しい陶磁器を手に入れた日のハイネルはすこぶるご機嫌で、それを言い出すことは難しい。
なにしろ件の古伊万里を手に入れた夜など、恋人歴ん年目にして史上初、ハイネルが自分から進んでお口でちゅっちゅしてくれた上に、乗っかってくれたりなんかしたのだ。
『こんなに嬉しいプレゼントは生まれて初めてだ…ありがとう、ジャッキー』
などと囁きながら、おずおずとした手つきでグーデリアンのパジャマを開き、露わになった胸板におそるおそる唇を押しつけてきたハイネルに、ハイネルのためなら二〇万ドルが一〇〇万ドルでも惜しくないと、告げた言葉に嘘偽りはない。
嘘偽りはないのだけれど。
「グーデリアン、お前、今、現金をどのくらい工面できる?」
今日も今日とて例の店から帰って来た途端そう尋ねるハイネルに、グーデリアンは半歩どころか二〇〇歩くらい退いた対応をしてしまう。
「現金で、か?」
とりあえず財布に入っているのは二千ドル程度だけれど、と応じたグーデリアンに、ハイネルは不吉なほどしおらしい瞳を向けた。
「じゃあ明日までに二〇〇万ドル、というのは無理か?」
「にひゃくまんどる〜っ?」
思わず叫んだグーデリアンに、ハイネルは一葉の写真を突きつけた。
「素晴らしいだろう?唐三彩の万年壺、八世紀中期の物だ」
とうさんさい〜っ、と心の中で叫んだグーデリアンは、口をぱくぱくさせただけで、その叫びを音にはしなかった。
唐三彩、それも八世紀に制作された品となればもはや美術品としての価値よりも、考古学の資料としての学術価値の方が遙かに高い、重要文化財級の代物だろう。二〇〇万ドルはおろか一〇〇〇万ドル積もうとも、個人が所有できる代物ではない。
どーして素人の俺にも解ることが、この賢いおつむには解んねーのかなぁ?とトホホな気持ちになりながらも、欲しいのか?とグーデリアンは一応尋ねてみた。
「うん!」
「…もう置くとこ、ねーぞ?」
「そうだな…」
そして冒頭の会話へと戻る。
部屋が狭いなら、引っ越せばいい。
グローバルな思考はグーデリアンの専売特許のように思われているが、北米大陸よりも広いユーラシア大陸生まれ、ハイネルのその精密な(はずの)頭脳による思考は、時としてグーデリアンさえも軽々と飛び越える。ただしそのことを知る者は家族と、家族よりも親密なおつきあいのグーデリアンくらいしかいない。
要するにハイネルはその唐三彩に、そこまで入れ込んでしまっているのだ。これはもう反対しても駄目だ、と腹をくくったグーデリアンは、馬鹿だ、空っぽだ、と酷い言われようをされている割にはよく回転する頭脳を酷使した。
「手付けだけ払って押さえてもらっとくって訳にいかねーの?」
「それが他にも欲しがっている人物がいるとかで…特別に現金で明日までに支払いを済ませることができるなら、私を優先してくれるとのことなのだ」
幾ら私でも明日中に米ドルで二〇〇万というのは…と口ごもるハイネルに、グーデリアンはもう怪しさ全開じゃねぇかよ、と心の中でつっこみながらも、顔だけは笑って請け負った。
「解った。なんとかしてやるよ」
とたんにハイネルは明るい笑顔を浮かべた。が、ありがとう、と言いかけた唇を人差し指で塞いで、グーデリアンは条件をつけた。
「ただし、鑑定をしてからだ」
「鑑定?」
「二〇〇万ドルも出してまがい物をつかまされちゃたまんないからな。とりあえず例の兄ちゃんに写真だけでも見て貰ってくる」
不承不承頷いて、差し出された手に写真を預け、じゃ行ってくる、と言い残してマンションを出るグーデリアンを見送るハイネルは、そんな必要ないのに、と顔中に不満を描いていたが。
「…なぁ、フランツ。俺、今晩、期待していい?」
囁かれて耳朶まで赤く染めたハイネルは、けれど小さく頷いて、上機嫌で車のキーを指先で振り回しながら出かけるグーデリアンを見送った。
そして翌日。
ハイネルはもう、感激で胸がいっぱいだった。
グーデリアンはちゃんと約束を守ってくれた。紙幣のつまったアタッシュケースを手錠で手首につないだグーデリアンと例の鑑定士が、予定通りの時間に颯爽と店にやってきたとき、ハイネルはその一時間も前から壺に魅入っていた。だから青年がたっぷりと時間をかけて唐三彩を鑑定した後、『本物です』と断言した時、ハイネルは心の中で快哉の声を上げていたのだ。
これほど心が弾むことなど、滅多にない。もしあり得るとしたら、シュピーゲルがワールド・チャンプの座につくことくらいだろうか?
美しい緑の万年壺。丸みを帯びたボディにぴったりと隙間なく黄色い蓋が重ねられた技巧の卓抜さもさることながら、一〇〇〇年の時を経てなお鮮やかな色あせることのない色彩は、ハイネルの心をこれ以上なくときめかせる。
早く早く、と傍らのグーデリアンに売買契約書にサインするようせっつけば、解っているよ、と苦笑したグーデリアンの男臭さに、ハイネルはまた心をときめかせた。
ああ、私がどれほど嬉しいか、解ってくれているのだろうか、グーデリアンは?夕べはこの事を盾に、あんなことやそんなことや、あまつさえあのようなことまでさせられて恨めしく思ったりしたものだが、今日は私から、あれもそれもこれも、グーデリアンが望むことならばなんだって…。
半分(どころか九割九分九厘)いっちゃってるハイネルだったが、その瞬間。
まさしく一瞬にしてハイネルを現実に引き戻したのは、店になだれ込んできた複数の男たちだった。
「全員、手を挙げろ!動くな!」
手に手に拳銃を持った男たちの怒号に、強盗か?とハイネルは青ざめたが。
「I.C.P.O.だ!窃盗美術品の売買の現行犯により、この場に居る者全員を拘束する!」
英語で叫ばれたその台詞を、ハイネルは理解できなかった。
いや、ハイネルの超精密な頭脳が、アイデンティティの崩壊を防ぐために、理解を拒否したのだ。
窃盗美術品?
それって、なんだっけ……?
「ありました!日本のO美術館より盗難届がでていました、備前焼です!」
「こっちはI美術館から盗まれた柿右衛門の茶碗ですね…それにU美術館の景徳鎮…」
未だ立ち直れていないハイネルの目の前で、短い期間とはいえハイネルがこよなく愛した陶器が、磁器が、次々と捜査員らの手によって運びだされてゆく。
「この古伊万里は大丈夫なのか?」
「ええ。これだけは盗品じゃありません。だから堂々と飾ってあったのですよ」
のほほんと尋ねるグーデリアンに、やはり同じようにのほほんと応じたのは鑑定士だ。
突然に尋ねてきたグーデリアンに写真を見せられた鑑定士の驚きは、凄まじかった。第一級の文化財が、N.Yの名もない店で売買されるはずがない、サザビーで競売にかけられてしかるべき品なのに、と。
盗品であることが解るまでにさしたる時間もかからず、もしやと調べてみた他の陶磁器類も大方が盗品であることが解った時には、さすがのグーデリアンも顔面蒼白となった。
盗品と解っていながらその売買に携われば、買った方も犯罪者だ。
そうではなくハイネルは騙されただけ、詐欺の被害者でなければならない。
そのことを証明するために、二人はわざわざ店へと赴いたのだ。甲斐あって、次々と運び出される陶磁器に悲しみの眼差しを注ぐハイネルに対し、捜査員たちは同情溢れる態度で接してくれていた。
「…そのマイセンも盗品だったのか?」
食器棚から一八世紀マイセン・アラビア風絵付け大皿を持ち出す捜査員に、ハイネルが半ば焦点のあわない視線で尋ねれば、捜査員は気の毒そうな顔をしながらも、そうです、と応じる。盗難品を正しい所有者に返還することが彼らの仕事なのだ。騙されてこれらに大金を支払ったハイネル氏には気の毒だが、盗品であった陶磁器は全て没収、もちろん代金は返ってこない。
だが。
「…夕べその皿でパスタを食べてしまった………」
「パスタ?パスタって…あの、まさか…」
「アサリとイカと海老の入った、アマトリチャーナだ…私が作った…」
よりによってトマト・ソースを!と眦をつり上げる捜査員に気付いたグーデリアンは、慌ててハイネルを部屋から連れ出した。
「そう落ち込むなよ、ハイネル。あの古伊万里の皿だけは手元に残るんだからさ」
「備前…景徳鎮……柿右衛門………」
ああ、それよりもなによりも、唐三彩。今まで集めたどの壺よりも美しい、鮮やかな緑と黄色のコントラスト。
「今期は俺もシュピーゲルを壊さないように気をつけるからさ。それにあの壺ほどとまではいかなくても、掘り出し物が見つかったら買ってやるよ。お前が気に入りそうな奴を捜しといてくれって、頼んであるんだ」
ハイネルを宥めながらも、二〇〇万ドルを浪費しなくて済んだ上に、どうやら引っ越しもせずに済みそうな事の成り行きに、グーデリアンは機嫌がいい。
眦を下げっぱなしのグーデリアンに、ふとそのことに気付いたハイネルは、きゅっと唇を噛みしめた。
「お前は知っていたのだったな…あの唐三彩が盗品だと…その、前日には」
「うん?」
「つまりお前は…あの壺が決して私の物にはならないと知っておきながら、私にあのようなことをさせたのか?」
グーデリアンは賢く沈黙した。
そしてハイネルの八つ当たり同然のパンチを、甘んじて受けたのだった。
顔をパンダ模様にしたグーデリアンを後目に、ハイネルはご機嫌だった。
『ハイネルが気に入りそうな物がないか探しておいてくれ』とのグーデリアンの言葉を受けて、早速に件の鑑定士が持参した物は『一五世紀中期・李朝白磁の壺』。七インチほどの白磁につけられた値段は五万ドル。
「いいでしょう?簡素ながらも柔らかなフォルムに、少女の肌を思わせる温かな白さと滑らかさ…」
「同感だ。素晴らしい…」
うっとりとした眼差しで壺を受け取ったハイネルは、『買ってくれるって言った』
という台詞と上目遣いの視線だけで、グーデリアンに五万ドルを支出させた。まぁこの件に関しては、グーデリアンも仕方ないことと諦めがついたが。
「実はようやく、念願だった自分の店が持てることが決まりまして…」
「店、というと?」
「東洋系の陶磁器が専門ですので、やはりそちらをメインに…まだハイネルさんにお見せできるような物は、ほんの数点しか集まっていませんが」
差し出されたカードを受け取って、ハイネルの瞳がきらきらと輝きだす。
「ああ、ここから随分と近いじゃないか。オープンの暁には是非立ち寄らせてもらうとも!」
溌剌としたハイネルの声に、グーデリアンは悪夢のような既視感に襲われた。
部屋中に並べられた今は空っぽのコレクション・ボードが、あの日以前までそうであったように、ありとあらゆる色と形の陶磁器で埋まり尽くすのは、そう遠い日のことではあるまい。
引っ越しだ。
ハイネルがなんと言おうとも、引っ越しだ。それも出来るだけ早急に、出来る限り遠くへ。N.Yに家なんか持ってはいけない。まして骨董品屋の近くなんて、絶対に駄目だ。
鑑定士を見送って、二客五ドルのカップでコーヒーをすすりながら、グーデリアンは固く固く心に誓った。
が。
「ありがとう、ジャッキー」
『古伊万里の皿』の隣に『李朝白磁の壺』を並べたハイネルの笑顔に、グーデリアンの決心はあっさりと揺らぎだす。
「お前だけだ…私の趣味を理解しようとしてくれるのは」
いや、別に理解しようとしてる訳じゃないし、理解できる日が来るなんて全然思ってない。
でも、でも、でも。
年に数えるほどしかない『上機嫌のハイネルからのキス』を受けて、葛藤するグーデリアンの内心を知ってか知らずか、ハイネルは満ち足りた笑みを恋人へと向けるのだった。
瀬名さんに引っ越し祝い(?)のお話をいただきました。
・・・・わかってます、わかってますよ言いたいことは!「あんたどこまでヒトサマの作品を搾取すれば気が済むの!?」・・・・すみません!(笑)
まあそれはさておき(←反省の色ナシです)。
瀬名さんが書かれたグーハーのお話を今回初めて読ませていただいたのですが、やっぱり上手い!うーんグーハーを手がけられる方のこの異常なまでのレベルの高さはなんなんでしょうか。なんなんでしょうか。
私もグーハー界に微力ながら貢献しているなという気にもなろうというものです。こう・・・一人で平均点を下げる役目というかですね・・・そういう役割の人だって必要なんですよ!多分。多分・・・・(遠い目)。
ある意味失礼な感想になってしまったら申し訳ないんですけど、最近は「ちょっと変わったハイネル」ブームが訪れているのでしょうか?(笑)ちょっとズレたハイネルと、それに振り回される意外と良識的なグーのお話を目にする機会が多いような気がします。うーん最近あんまりグーハーサイト様もまわれていないので気のせいかもしれませんが。
でも、ハイネルの場合ズレていてもそこがまたかわいいですよね。
このお話のハイネルは無意識でありながらけっこうな小悪魔です。無意識な分だけタチが悪いのかもしれません。グーも自分がハイネルに振り回されている自覚は十二分にあるんだけど、そして振り回されていることに困ってもいるんだけど、でもやっぱりそんなところもカワイイ、と思ってるんだろうなぁと思います。どこか振り回されることさえうれしいというか。
すごく細かいところなんですけど、キュートでありながらも「人類の宝」という認識から骨董品を飛行機で移動させようとしないところがさすがハイネルだなぁなどと感心しちゃったりしたのでありました。
あと、これはご本人にもちらっとお伝えしたのですが、文章がとてもキレイで読みやすくて(しかしグーハーの方は皆さん本当に整った読みやすい文を書かれますね!それぞれおもむきは違いますが)、私のように骨董品の知識などまっっったくない者でもすんなり読むことができました。
専門的なモチーフを用いてサラリと読ませることができるのはやはり筆力のなせるワザなのだろうと思います。
瀬名さん、改めまして本当にありがとうございました。しかも、実はこのお話は私が引っ越ししたのでタイムリーにそれをお題にも取り入れてくださったんですよね。うーんすごいです。
あ!最後に大事なことを。瀬名さん・・・・ハイネルがしなければならなかった「あんなこととかこんなこと」って、具体的にどんなことですか?今度じっくり教えて下さい(笑)。