“April shower brings May flower"
身を切るほどに冷たい、雷を伴った早春の俄雨。
サーキットへ出ようとした瞬間に降り出した雨に、ついてないぜ、とジャッキー・グーデリアンが零したのも無理はなく、この日は彼のサイバー・デビューの日だった。C.F.GPX.開幕早々の、予選第1日目。少しでもサーキットを走って、マシンとの一体感を掴んでおきたいグーデリアンの思いをあざ笑うかのように、雨は容赦なくスタンピードRSのコクピットを叩く。
仕方ないのでグーデリアンはマシンを降り、傘をさしてサーキットを歩いた。
サーキットの状態を、走る前に確かめておくのは基本だ。勿論サーキット入りした昨日のうちに、グーデリアンは固いアスファルトをたどってコースを確認している。だがウェットとなるとまた状況は変わる。そして本戦の天候がレインか否か、今の時点では誰も確信を持って判断することはできない。
もっともそんな小難しい理屈は抜きに、グーデリアンはサーキットを歩くのが好きだった。本当はグラスの部分を踏んで歩きたいが、そんなわけにもいかないので、縁石を幾つかおきにたどってみたりする。予選初日の段階でウェットな路面を走りたい酔狂なレーサーなんていないから、サーキットはあわただしくコース整備に励む係員以外には誰もおらず、サーキットを独り占めだ、とその瞬間までグーデリアンはご機嫌だったのだけれど。
ふいに視界をかすめた、グリーンのマシン。
トンボの羽をしっぽの先にくっつけたみたいな、そのなんとも表現しがたい形状は、初めて目にしたとき呆気にとられたものだ。
ゼッケンナンバーを確かめるまでもない、S.G.M.のサイレント・スクリーマー。
降りしきる雨の中、寸分の狂いもなく最速のラインを残して駆け抜けたマシンを、グーデリアンは瞠目の眼差しで見送った。
ラインは完璧だった。
なのにサイレント・スクリーマーβは第3コーナーを立ち上がることができず、そこでコースアウト、タイヤバリアに側面を擦ってしまった。もちろん進入角度にも、スピードにも問題はない。路面がウェットではあったが、摩擦係数も計算した上でのスピン。
コクピットで安否を問う無線に答えながら、フランツ・ハイネルは聞こえぬよう嘆息しつつサイバー・システムに目を走らせる。ドライバー・コンディションはオール・グリーンだが、マシン・コンディションに数個のイエロー・シグナル。ピットまで移動できないほどではないが、それでも迂闊な真似は避けた方が無難だろうと判断したハイネルはピットに牽引を依頼し、マシンを降りた。
ハイネルにはすでにスピンの原因が解っていた。
サイレント・スクリーマーβ最大の特徴であり、最大の泣き所である単結晶太陽電池。太陽光が得られない悪天候下であっても、バッテリーにそれなりの電力が蓄えられていれさえすれば、立ち上がりのパワー不足でラインをはずれてしまうなどという無様な真似も晒さないですむのだが、生憎サーキット入り早々の雨では仕方ない。勿論この場合、問題となるのは事態に対応できていなかった、サイバー・システムのプログラム・ミスである。
単結晶太陽電池の弱点など、今更だ。それをサイバー・システムとパイロットの力量でカバーすることができないというのならば、GPX.への参戦さえ不可能になる。
『即ち、私の力量不足ということだ』
自嘲に一瞬唇を歪めたものの、ハイネルはすぐさま表情を引き締め、駆けつけたオフィシャルにマシンを託してピットへと向かった。
縁石の上を飛び跳ねている人物が誰であるか気付いた瞬間、ハイネルは無意識に細い眉根を寄せ、眉間に深い皺を刻んだ。
子供か、あの男。
目立つことこの上ない、赤と紺を基調としたスーツに、鮮やかなイエローの星が、黒い蝙蝠傘の下で無邪気に縁石を辿っている。あまつさえコーナー入り口の水たまりに駆け寄り、散々雨水を蹴散らしたあげくに、手をつっこみ…。
呆れた精神年齢の低さだと、ハイネルは視線を逸らせかけたが。
唐突に気付いた事実が、ハイネルを引き留めた。
冷え切った雨水に素手を差し入れる行為が、幼稚さから来るものであろうはずがない。水の深さを、己の手で測っているのだ、あの男は。
サーキットに水たまりができるなどと、本来、あってはならないことだ。だがサーキットを走行するすべてのマシンがほぼ同じラインを辿るのだ、自然、コーナー入り口のアウト、コーナーのイン、出口のアウトはアスファルトが削られ、薄くとも水たまりができる。超高速で走行するサイバーのマシンがそうと知らずに水たまりに乗れば、ハイドロ・プレーニング現象さえ引き起す。
無論そんな事態にならぬよう、通常はコース・マーシャルが事前に雨水を除去するが、レースの最中に雨が降った際は対処のしようがない。雨水のたまりやすい部分を知っているか、知らないか、そんな些細なことが勝負の明暗を分ける。
そのことをあの男は、もはや経験として知っている。
インディの覇者という経歴は、伊達ではない。
ふいに全身を駆け抜けた歓喜に、ハイネルは震えた。
なんという僥倖。
そんな男と、戦うのだ。
私とサイレント・スクリーマーβは。
魂消る、という言葉そのままに。
視線を感じて振り向いたグーデリアンは、そこに佇んでいた存在を認めた瞬間、自分がどこに立っているのかさえ忘れた。
誰かということは言わずもがな、グリーンを基調とした他チームに比べて幾分大人しい印象を与えるレーシング・スーツは、フランツ・ハイネル以外にあり得ない。
だが雨の中、いつから傘もささずそこに居たのか、いつもは逆立ててある髪が濡れて頬や額に張り付き、水滴に曇った眼鏡も視界を遮るのだろう、今は所在なさげに手に持たれている。
戦う前から、性格も走り方も、生い立ちも容貌も、学歴を含めた経歴さえもが対照的だからと、本人に会う前にライバルだと書き立てられ、煽られるたびに、何を馬鹿なことを、と一笑に付してきた。
グーデリアンがライバルと認めるのは、サイド・バイ・サイドで同じサーキットを駆け抜けるパイロットとそのマシンのみ。
なのに。
なんてことだ、とグーデリアンは初めて間近にした青年の知的な容貌に、ひたすら魅入った。
こんな清冽な瞳を隠し持っていたのだ、この男は。
降り続く雨の中、濡れた新緑を思わせる瞳の、強い光。
いいとこのボンボン?
IQ180超のスーパー・インテリ?
あの妙な外観のマシン・デザイナー?
違う。
グーデリアンの直感が、告げる。
予感に、背筋がゾクゾクする。
嬉しくて、たまらない、叫びたい。
こいつは俺と同じ、レーサーだと。
視線が重なり合ったのは、刹那。
次の瞬間、ハイネルはだらしなく口を半開きにしたまま、言葉もない男に僅かに失笑にも似た笑みを見せて、背を向けた。
もちろん、自分のピットへと戻るために。
だが。
雨に濡れた後ろ姿をただ見送ることができず、グーデリアンは慌ててその背を追い越し、前に回って傘を差しだした。
すでに濡れそぼっているのだから、今更傘なんて、無意味かもしれない。
けれどこの冷たい雨の中、自分一人が傘の下にいるのは、フェアじゃない気がした。
無言のまま傘を差しだしたグーデリアンに、思ったとおりハイネルは、気遣いだけ頂いておく、と綺麗な英語で応じて、雨の中を歩く人とは思えぬほどまっすぐに背筋を伸ばし、立ち去った。
ハイネルを見送ったグーデリアンは、またもや縁石を辿りだした。
傘をその場に残し、雨に濡れながら。
寒冷前線が上空を通過する際、地上ではしばしば雷を伴った激しい驟雨に見舞われることがある。
そしてこの雨が上がった後、最も美しい季節が訪れる。
本当にすみません・・・・奪取キングの自分にカンパイ!(笑)
ありがたくも瀬名さんにお話をいただいてしまいました。
レーサーなグーハー!!
もちろんグーハーは元々レーサーなんですけど、こういう風にレースの雰囲気が前面に押し出されているお話を読むと特にそれを意識させられますよね。
瀬名さんに少しお伝えしたんですけど、水たまりに手を差し入れてその深さを測っているグーデリアンの姿がとても印象的でした。何ていうか・・・雨に濡れたアスファルトやそこに張った水、グーデリアンの感じたであろう水の温度までまざまざと連想させられる感じで。
グーデリアンの行為が論理や知識に基づいたものではなく経験則に基づいたものだという描写が、とてもサラリとしていたんですけどとてもグーらしく、かつそのことに気づくハイネルがまた非常にハイネルらしくてうっとりです。
雨の中傘も差さずに背筋をピンと伸ばして立ち去るハイネルの後ろ姿は、グーデリアンの目にどんなに凛然と映ったのだろうか、そしてさりげない仕草の中にレーサーとしての本能を潜ませているグーデリアンの本質に気づいた時のハイネルの歓喜はどれ程のものだったのだろうかと胸を騒がせながら読ませていただきました。
使い古されてる言葉ですが、雨が降った後の景色って鮮やかで瑞々しくて綺麗ですよね。このお話の読後感にピッタリな感覚です。
瀬名さん、素敵なお話を本当にありがとうございました!