岩に染み入る
レースの結果が不本意なものに終わり、ふて腐れながらどこへ向かってともなく歩いていたグーデリアンは、どういう巡り合わせか分からないが、ハイネルと街なかでぱったり出会い、こんな地方都市には不似合いな外のよく見える小洒落た店に相手を引っ張り込み、外の空気と涼しい空調の混ざったオープンテラスになりかけの明るい席を占拠して、ぶすっとした顔で何故だかアイスカフェモカなんてものを飲んでいた。
髪を下ろし眼鏡を外し、優しいアースカラーの麻の半袖シャツなんてものを着込み、サーキットで誰もが見慣れた姿からはさっぱりイメージチェンジしていたハイネルは、それでもグーデリアンに出合い頭の一発で看破されたのが余程悔しかったらしく、自棄のようにアイスキャラメルコーヒーフロートなる不審なものを注文し、一口啜るや、名前から容易に予想できるその甘さをどうしてか予想出来なかった自分にがっくりと項垂れながら、こちらもまた窓から外を見ながらふて腐れていた。
窓の外はぎらぎらした夏の日差し。ゆるい陽炎が外の街路樹の濃い緑を揺らめかせる。
お互いに不完全燃焼な、とある日の昼下がり。
天井から足元まで繋がったガラス窓は、彼らの少し横で、細く開いて熱い外の空気を取り入れている。こんな日光を向こうに回して全く冷房の効いた場所にいるよりは、僅かながら熱の気配を感じられる方が落ち着くようで、それでグーデリアンはその席を選んだのだった。
デビューしてまだ若干年、そこそこ華々しい戦果を上げているにしても、まだトップドライヴァーには手を掛けただけの彼らは、マスコミにもファンにも邪魔される事なく既に半時間ばかりここにいる。とはいっても、注文をした以外はどちらも殆ど言葉を発していなかった。
ひたすら行儀悪くストローを噛んでいたグーデリアンは、サングラス越しに窓の向こうをずっと見やっていたが、ふとぷつりと言葉を吐き出した。
「……煩せえな。何の音だよ、ったく」
アイスキャラメルコーヒーフロート、の事はとりあえず諦めて、ライムの香りづけのされた水を飲んでいたハイネルは、ややあって不機嫌な言葉を返した。
「…何だと?」
「音。さっきからジリジリ鳴っててさぁ、煩せえったらねえよ。」
一瞬きょとんとハイネルの顔が素に戻る。そこから微妙に綻んでいく様を、唸りながら窓の外を睨んでいたグーデリアンは見逃した。
「朝からずっとだぜ?マシン乗ってる間は流石に気になんなかったけど、どうしてFICCYのお偉方はんなとこでレースやんだよ、ったく」
憤懣やる方ない、といった様子でグーデリアンは派手な音を立てて一気にグラスを空けた。それに一瞬眉を顰めかけたハイネルだったが、相手の無知をつつくまたとないチャンスに負けたか、今回は大目に見ることにしたらしい。
「……音、か。」
グーデリアンの齧り付いたままのストローが、ぴこぴこと上下に動いて返事をする。
「……グーデリアン、その音、夜は聞こえないと思わないか?」
言われて初めてグーデリアンは相手に顔を向ける。笑いをこらえようとして失敗しつつあるハイネルの微妙な表情に少しびっくりして、軽く開いた口から、ぴたん、とストローがテーブルの面に落ちる。すかさず、チャイナカラーのコットンシャツを着た店員が、さりげなく空いたグラスとストローを回収していった。
「んん、聞こえない…か。……そうだな、聞こえねえな。」
「夕方にもだろう?」
「うん」
サングラスを下にずらして見せた蒼い目が、年相応の素直な顔を見せる。その顔に負けたらしく、あっさりとハイネルは答えを口にしてしまった。
「…蝉だ。」
「………セミ?」
しげしげとグーデリアンは窓の外を眺めた。呆気に取られたようにもう一度呟く。
「……セミ?」
「虫だ、虫の鳴き声…日本の夏にはこの音は付き物で……おい、アメリカにも蝉くらいいるだろう?」
「えー?」
本気で首を捻っているらしいグーデリアンに、ハイネルは水で指を濡らしてチーク材の机のつやつやした表面に綴りを書いて見せた。…cicada、と。
「スィキッド?ああ……けど、アメリカのはこんなに音でかくないと思うし、とりあえず俺ンちの周りにはいないぜ?」
「………いないのか?」
今度はハイネルの方がひどく幼い顔を見せ、そのまま傾げた首筋は酷く白かった。
「俺の知る限りじゃ、な。」
漸くにこりと笑ってグーデリアンが指を振った。その直前までの膨れっ面との落差に、ハイネルが吹き出す。笑われたグーデリアンは自分の子供っぽさに気づいたのか、微かに赤くした顔を隠すように、英文の併記されたメニューを取り上げて覗き込む振りをした。
「……"静けさや岩に染み入る蝉の声"」
「…え?」
スマイル一つと"This one please"だけでベリーズカフェとアップルパイを頼んで、グーデリアンは目をぱちくりとさせる。少し硬いがまずは流暢な日本語で今度は無難にエスプレッソを頼んだハイネルは、それが運ばれてくるのを待ちながら、肩肘を突いて優しい顔で笑った。
「日本の詩だ。」
「げー、日本マニア」
にやにやとグーデリアンは笑ったが、早速やってきたグラスをストローでかき回し、大きく切り取ったアップルパイとバニラアイスを口に放り込む間も、続きを聞きたそうな顔をしていた。
「なあ、どういう意味、それ?」
「…お前が詩に興味を持つなんて、台風でも来るんじゃないか?」
エスプレッソを一口含んで、機嫌の良い顔でハイネルは相手を見返した。途端に唇を尖らせる相手に苦笑し、彼は説明してやるべく口を開いた。
「そうだな、状況としては………木や草や苔やいろんな緑がある庭に、岩が一つあって」
「岩、ねえ」
どんぐり眼をきょろりと回してグーデリアンは想像を巡らせる。案外とハイネルの奴、声はいいなあ、なんて思いつつ。
「そこに蝉の声がしてるんだ」
「セミの声…とねえ」
「他には何の音もなくて、ただ蝉の声だけが…こんなふうに、明るい空から降ってくるみたいで……」
こう、と目の高さに差し上げた、整った手のひらの白い肌に当たった日の光が、柔らかく反射して散る。
「不思議に静かさが際立つんだ。そこに蝉の声が、日差しと一緒に降ってくる……」
説明が上手いのだろう、グーデリアンにもありありとその様子を描き出すことができる。ハイネルが目を向けた表の街路樹の透き間から漏れる光が、それこそきらきらと天から降ってくるようだった。グーデリアンはふと目を細めた。
「岩に……染み込んでいくみたいに」
その瞬間、全ての音が遠ざかる。
濃い緑が広がる中で、岩とその傍らに立ち尽くす人物の上に、ひたすらに降る太陽のかけらと蝉時雨……
グーデリアンは、その静謐な光景の中に静かな優しい表情で立ち尽くすハイネルの満身に降り注ぐ光の雨を見る。…不意に心臓がことりと踊った。一瞬息苦しくなるほどの何かが押し寄せて、我に返ったグーデリアンは目を白黒させた。
(……あれ?)
そしてハイネルは、静かな世界の中で青い空の下、生命力に溢れた緑に囲まれて立つグーデリアンの、光が乱反射するような満面の笑顔を見る。何故だかやけに動揺して、ハイネルは視線をうろうろと彷徨わせた。
(…ええっと…)
そして全ての音が遠ざかる。
彼らはしばし何も言わずに座っていた。
私は句の世界はまったく詳しくないんですけど、よしのさんにいただいた今回のお話を読んでいてその素晴らしさが少しだけ分かったような気がしました。
うまく説明できないんですけど、どれだけ言葉を尽くしても表現しきれないような心を打つ光景を、十七音という短い音の中に凝縮して閉じ込めてしまった世界。
そのギリギリにまで圧縮された世界が、ハイネルの声を通して語られていくうちに、みるみるうちに血肉を持って広い広い世界に解き放たれていくようで、グーデリアンとともに日本の夏の一場面に心地よい清涼感に浸りながら入り込んでいくことができました。
ムリヤリ例えて言うなら、わかめを乾燥わかめにしたのが句の世界で、ハイネルの解説はそれを解きもどしてくれたという・・・・ムリヤリ例えんな!って感じですね(笑)。もっとキレイな表現できなかったんでしょうか・・・。
本当に、N●Kか何かで『フランツ・ハイネルの俳句講座』なんてやってくれないものでしょうか。そしたら日本に一大俳句ブームがわき起こるはずなのに!(笑)
よしのさんによると、実はこのお話は本当に『知り合い程度』のグーハーのお話のはずだったそうなんです。
うーん、なんだかそれを聞いて、『この二人は何があってもふとしたきっかけでお互い恋に落ちてしまうんだろうなぁ』なんて妙にしみじみしてしまいました(笑)。二人が恋に落ちるのは必然なんでしょうね!
よしのさん、いつもステキなお話を読ませて下さって本当にありがとうございます。日本の夏が、夏が恋しいです・・・暑いの死ぬほど苦手なのですが(笑)。