I ask myself


その日、フランツ・ハイネルはファクトリーでヒステリーを起こした、らしい。
オフの真っ最中のことで、勿論個人的な研究や開発が暗礁に乗り上げたというわけじゃあないようだ。その予兆は少し前からあったという。
チームスタッフの見るところ、マシンのモデルチェンジの最終段階に入ったチームの監督業務に忙殺され、本社役員として決算期の準備の手伝いに駆り出され、そのままいつも通りの激務をこなしていたが、ある日本社からファクトリーに戻ってくるなり、いきなりぶっ壊れたようだ。
ごく短時間激烈なヒステリーを起こした後で、憑き物が落ちたようにがっくりと肩を落とした彼は、僅かな間部屋に引きこもったのち車で出掛けて行き、そのまま戻らないという。



その話を聞いたとき、俺、ジャッキー・グーデリアンはカリフォルニアにいた。
あるスポンサーに引っ張り出されて、俺は何の因果かモーターショーで愛想を売る羽目になっていた。こういうことははっきり言って向いていると思うし、得意でもある。俺はにこにこと営業用の笑顔を振り撒き、まつわりつく女の子達をきゃあきゃあ言わせながら記者のインタヴューなんかも受けた。スポンサーの社長だという小柄なオヤジが大満足そうに手を差し出すから握手もしてやって、じゃあ、と戻って来たホテルの部屋では、メッセージランプが小さくついていた。
「メッセージって、何?どっから?」
『はい、────様からお電話がありまして、何時でも結構ですのでご連絡戴きたいとのことでございました。お電話番号もお預かりしておりますが…』
フロントはチームマネジャーの名を挙げ、続けて桁数の多い一連の番号を告げた。とりあえず受話器を置いて俺は首を捻った。
「何時でもってなあ…この番号、ファクトリー直通だろ?」
一体今現在のドイツが何時頃なのか、考えたくもない。これでフロントの伝達ミスならマネジャーに俺は瞬殺されかねなかったが、とりあえず掛けてみるだけはやってみようとコールしてみた。
『…もしもし?』
「っ、マジかよっ?!」
相当待たされるか、もしくは出ないだろうと踏んでいたのに、2コール目で相手が出て俺は危うく受話器を取り落としそうになった。
『グーデリアンか?』
「おう、俺だけど……どしたの?」
『聞いてくれ、監督が、監督が…』
「……ハイネルが?」
慌てた様子のマネジャーから聞きいたのが、出て行ったハイネルが帰って来ない、という話だった。
「帰って来ないって、ガキじゃあるまいし、何かあいつ用事でもあったんじゃねえの?熱中して完徹するのなんて当たり前だし。だったらそのうち帰ってくるだろ。」
『…"チームを頼む"、って言い残してか?』
まあ確かにそれは尋常じゃない。
「…………それっていつの事だって?」
『一昨日の夕方…要するに62時間ほど前だ。』
妙な所で細かい時間に拘るマネジャーに呆れつつ、俺はちょっと考え込んだ。なんだか以前にもマネジャーとこんな会話をした覚えがある。
「………あいつ、前にもこんなのなかったっけ?」

『…あったな。』
「んで、どこに向かったか分かってんのかよ?」
『監督の車はフランクフルトのエアポートパーキングにあった。フライトの方も調べさせた。』
そのとき、初めてマネジャーの背後がざわついていることに俺は気づいた。これはかなりの数のスタッフがこの時間にファクトリーに残っている。皆がハイネルを心配して。
「結構そっち人数いるのな。」
『ああ。皆いてもたってもいられないらしくてな。いや、実は今日本社のお偉いさんが抜き打ちで来たんだ…あの監督と仲の悪いあの方だよ。』
「あー、あの。」
本社の経営なんぞにはまるで疎い俺でも知っている、ハイネルと非常に仲の悪い取締役のことだった。何が気に入らないのか、何かと言えばハイネルにつっかかり、チームにいちゃもんをつけ、揚げ句の果てに本社のレースからの撤退を強く望んでいるという、俺たちにとっては疫病神以外の何者でもない人物だった。
「んで?」
『何を感づいたか急に来てな。監督に会わせろっていうからとりあえず出張に出てるって誤魔化しといたんだが、また来るなんぞと抜かしやがった。まずそれが一点。もう一点はな、悪いがグーデリアン、またマシンにシステムエラーと不具合が出た。』
「またかよ?」
『だから悪いと言ってるだろう。とりあえず各セクションで再計算をやらせてるが…デザイナーがいないと話にならないんだ。』
確かにマネジャーが頭を抱えているのはよく分かった。ハイネルは監督としてチームを強いリーダーシップで統括しているが、その上にマシンデザイナーとして深くマシンに係わっている。不具合が出たとき、エンジンやシャーシ等の再計算を各部署がやった後の、マシン全体のバランスを考えなければならない重要な仕事の一端が、デザイナーの肩にもかかっている。
『あの状態の監督にこれ以上負荷は掛けたくないんだがな…』
普段からハイネルのオーバーワークを心配して止まないマネジャーが、苦しそうに言葉を口にしている。俺は一つ息を吸って努めて明るい声を出した。
「んで、フライト先はどこだって?」
『行ってくれるか?…済まないな、手が空いてるのがお前さんしかいないんだ。今日でそっちの仕事は終わりだったな?』
「ああ。…場所は?」
『バルセロナだ。監督はフランクフルトからバルセロナに飛んでる。そこから国内線なり何なりにトランジットした様子はないらしいから、多分バルセロナ周辺にいるんじゃないかと思う。…そっちからの直行便はもう手配した。フライトカウンターに行って名前を言ってくれればいいようになってるから。』
「何時のフライト?」
『そっち発20時14分。』
俺は時計を見た。…もう2時間を切っている。座っていたベッドに俺は倒れ臥した。ベッドも軋んで一緒に文句を言う。
「……鬼かよ。ちこっとぐらい休ませてくれたって…」
『頼んだぞ。』
「…了解。」
さすがに常々ハイネルが留守の際にチームを預かるマネジャーだ。こういうところの押しの強さが我らが監督によく似ている。
「4日くれ。4日で連れて帰る。」
『必ず捕まえてくれ。……監督のことを頼む。』
受話器から聞こえる気弱な声を俺は笑い飛ばした。
「あれがチームを捨てたり自分をどうかしたりするタマかよ。心配すんな、俺に任せとけよ。」
そうだな、と言って電話は切れた。
一つ伸びをしてから、俺は鬼で心配性なマネジャーに応えるべく荷造りとチェックアウトを手早くこなした。フロントでついでにタクシーも手配させた。
空港に車が滑り込んだときには、俺が乗るべき便は既にファイナルコールが掛かっていて、俺はゲートまでダッシュする羽目になった。




実はハイネルは今までに二回同じようなことをやらかしている。それぞれもう大分昔のことだが。
最初はそれこそ俺もマネジャーも焦った。リサを通して本社セキュリティ課に招集を掛けて、ドイツ全土を隈無く行方を調べさせ、個人的怨恨や敵対社を洗わせ、警察に捜索願を出そうかというところまで行った。
エアポートパーキングに三日分の料金を払って駐車されているハイネルの車を見つけたのが、あいつが出て行って五日目。そこから俺の個人的なつてを辿ってフライトを調べさせ、フランクフルトから何とイスタンブールに飛んでいることが分かったのが六日目。そこから更に調査をさせて、俺とマネジャーと本社SPの三人で飛んだトルコで見つけたハイネルは、イスタンブールにある有名なブルーモスクのミナレットのてっぺんでぼんやりと晴れた空を見ていた。
『済まない、もう戻ろうと思っていた。』
ひどく申し訳なさそうなハイネルの表情に誰も何も言えず、皆で腫れ物に触るように連れて帰ったのが一回目。
ところが帰って来たあいつは、サボタージュの分を取り返すように普段にも増してバリバリと調子を出して働いていたから、チームスタッフは全員がその勢いに巻き込まれ、あっという間にその事件のことは忘れた。
次にそれが発生したのは、一回目から二年近く経った頃だ。前よりは少し小規模にはなったがやはりチームは大騒動を起こし、やっとのことで見つけたハイネルは、タイはチェンマイのドイステープ寺院の金色の建物に囲まれた中庭で、やはり晴れ上がった紺青の空をただ眺めていた。

どちらも俺は出先で一報を受けて、急いで用事を済ませてドイツに戻った。三回目にもなればマネジャーも俺も少しは対応に慣れて来たのか、今回は俺は出先から直接現場に行くことになる。しかも一人で。



バルセロナの空港には夜中に着いた。
辛うじて空いていた両替窓口の明かりだけが、薄暗いロビーに灯っている。この時代になっても未だにユーロはそれほど優勢ではなく、やはりペセタの方が使いやすいとマネジャーから聞いていた俺は迷わず窓口に向かった。
どこからハイネルを探そうかと思案に暮れながら両替を済ませた後、ふと思いついて俺は写真を二枚取り出して窓口の男に見せてみた。写っているのはハイネル。どちらも眼鏡を掛けているが、一枚は通常モードに髪を立てていて、もう一枚は髪を下ろしていた。…俺がどうしてこんな写真を持っているかについては、詮索しないでいてくれると有り難い。
「この男を見たことないか?」
黒髪に黒い目、黄色い肌の窓口の男は写真を見てにこりと笑った。
「見たよ。」
続けて何やらさらさらと男が喋った言葉は、俺には分からなかった。ちなみに俺が話しかけたのも、男が喋ったのも、どちらもスペイン語だ。この国じゃ英語は通じない。ブラジルやその近辺で毎年レースが開かれるお陰で、俺も挨拶程度にはスペイン語らしきものを喋ることができるが、問いを発することは出来ても答えを聞き取るのは苦手だ。勿論ハイネルはどちらも得意だった。

「彼は何か他に話したか?」
出発時のチェックインカウンターでなぜか手渡された(マネジャーが頼んでおいたらしい)、小さい会話本のちょうどよい文面を捜し出してつなぎ合わせると、男は更にさらさらと何やら言う。書いてくれ、と言うと彼はにこにこと頷いて何やら紙切れに書き付けて寄越し、空港の出口を指した。
「グラシャス」
「デ・ナダ」
礼を言って少し離れたロビーの椅子に座り込み、会話本と首っぴきでそのメモを見る。メモの内容はごく短かった。
『オテル・インフォルマシオン』
宿泊をまず手配する辺りがいかにもあいつらしい。ぶった切れた後でも、それでも計画的なハイネルに、俺はちょっと安心した。
窓口の男が指さした方向にあったツーリスト・インフォメーションに俺も向かったが、夜も遅いこととて既に窓口は閉められていた。だから、とりあえず今日のところは、と俺はマネジャーが手配したホテルに向かった。



翌日空港にとって返し、ツーリスト・インフォメーションで尋ねると、案の定ハイネルと思しき男にホテルの手配を頼まれたという。ついでに係はそのホテル名をメモにして俺に渡してくれた。一日の内にインフォメーションを利用する人間は多いだろうに、よくぞ覚えていてくれたものだと思う。
この土地で、真っ白い肌に明るい金茶の髪のゲルマン系の容貌(ましてあの顔だ)はどうやらやたらと目立ったらしい。この国で見かけるツーリズムにはフランス人が多いが、フランス人とドイツ人の姿形は似ているようでまるで非なるものだ。…似ていなくてよかった。

ハイネルが投宿しているらしいホテルまでようやく辿り着き、フロントで会話本片手に尋ねると(フロントですらも英語が通じない!)、ハイネルは確かに宿泊しているが、今外出しているという。
「どこに行ったか、あんた知らないか?」
会話文をミックスしておおよそこういう意味のことを尋ねれば、フロントがにこやかに口にしたのは、俺でも知ってるようなバルセロナの名所が幾つかだった。
「カサ・ミラ、サグラダ・ファミリア、カサ・バトリョ、」
勿論その前後に何やら意味不明のスペイン語が付いている。俺はそれを途中で遮って聞いた。
「あんたはどこだと思う?」
フロントマンは小柄な体で頭を傾げ、そして一言即答した。サグラダ・ファミリア、と。



タクシーを降りて初めて見上げたサグラダ・ファミリアは、異様な偉大さだった。俺は思わずサングラスをずらしてそれを見上げた。
奇才ガウディの聖家族教会。ごく普通の町の中にどかんと建っている威容は、一面ごつごつとした生物的な線と装飾で隙間なく飾られ、晴れ渡って乾き切った空に何本もの灰色の塔を突き付けている。建設が始まってから今まで既に相当の年月が経っているというのに、まだ完成までは百年単位でかかるという、常識外れな建築物。凄まじく大きな物体が建っているが、未だ聖堂だの何だのはないのだという。何せ、手に入れたうすっぺらいパンフレットによると、完成しているのは塔を何本も備えた巨大な門が二つ、ただそれだけなのだから。
「ホントに工事中なんだな…」
気持ちばかりの入場料を支払って、門を潜り入っていく。門と門の間のだだっ広く日の差す明るい空間には、黄色いクレーンや建築資材、そして基礎やなにやらがうじゃうじゃと置かれていた。その場で足を止めて見上げれば、広い空が二つの門にある数本の尖塔で囲われているのに、見直すとやはりそれは門にすぎないのだ。
建築現場を避けるようにぐるりと迂回路が作られていて、抜ければ反対側の門に出る。こちら側の門がガウディの真骨頂だった。これでもかと言わんばかりに装飾過多な建築物。聖母子像、ヘロデ王の像、音楽を奏でる天使像、三博士の像、星、つらら、鳩。それらが透き間を作ることを恐れたかのように外壁を埋めている。門の前の小さな広場で、団体のツーリズムが俺と同じように口を開けて上を見上げていた。
「すげえ…。」
圧倒されて、危うく目的を忘れそうになった。それぐらいの威圧感と、込められた情念の重さを感じさせるような、それでいてやはり教会なのだと清らかさを感じさせるような、サグラダ・ファミリアはそんな建物だった。例え中には何一つ、礼拝堂も祭壇もまだ出来ていなくても。

唐突に我に返り、慌てて周囲を見回すがもちろんそこいらにハイネルはいない。いれば俺がここについた瞬間に見つけただろう。
案内板に従って行けば、地下にガウディのデッサン等を収めた博物館があったが、その少し薄暗い隅々まで見て回ってもハイネルを見つけることはできなかった。
地下にはいない。外にもいない。建物の中といえるほどの中身はまだ建築されていない。もうハイネルはとうの昔にサグラダ・ファミリアを後にして別のどこかへ向かったのかもしれない。そもそもここに来ていないかもしれないのだ。
いかにスペインでも早春のこととて、朝は肌寒かった。とはいえ日が高く登る今頃には、それなりに気温も高くなってくる。俺はジャケットを脱いで元来た道を戻ろうとした。

広場に散らばった団体にくっついたガイドが声を張り上げている。通りすがりながら耳を傾けてみれば、それは英語だった。
「…てっぺんまで上るのには二十分程度かかりますよ。」
「登れるのか?」
急に脇から話しかけられて、自分のツアー客相手に喋りまくっていたガイドは驚いたらしいが、それでも小柄な体で俺を見上げて登り階段の入り口を教えてくれた。サンキュ、と言って背を向けたその後ろで、"ジャッキー・グーデリアンだ"と騒ぐ声が聞こえたが…構うものか。



階段の入り口は、これが本当に塔のてっぺんにまで通じているのかと疑うほど小さかった。身を屈めてそれを潜り、真っ暗な中を見上げたが中も狭く、全く上が見通せないくらいに隙間なく、階段がにじり登っているのが見えるだけだ。
「本当にこれなんだろうな、オイ。」
非常口だってもう少しマシな位だ。俺が両腕を広げたら余裕で両端に触れるほどの狭い直径で、螺旋階段が真っ暗な中を登って行く。時折小さな窓──というより人一人くらい入れるような壁の透き間──から外の光が入り、外部の装飾を少しだけ覗くことが出来る。だが、俺はそれを楽しんでいる余裕はなかった。
…狭い。
階段の幅はぎりぎり俺の身幅ぐらい。壁側の掌をそのひんやりした曲面に触れながら登れば、反対側の手には頼るものが何一つない。この螺旋階段にはその内側に手摺りがないのだ。螺旋の真ん中はそんなに大きく穴が空いているわけではなく、落ちたら真っ逆さま…と決まったわけではない。だけど勿論試す訳にもいかないので、壁に触れた手に力が入った。壁にもとっかかり一つないのだが。
実は階段の段差自体も非常に恐ろしい作りになっている。段差がごく浅く、幅も俺の足が少しはみ出すぐらいで、しかも踊り場一つなく単調にいつまでもいつまでも登っていく。不意に壁に空いた透き間から明るい外をちらりと眺めてしまった日には、当然に足元が眩んで次の一歩が全く見えなくなる。落とし穴なんぞあいてないだろうという、信頼一つで真っ暗な階段を登って行くのは結構恐ろしいものだ。
しかも左掌で壁に触れながら登っていた筈なのに、大分登った途中の通路を少し横に進んだら、次は回る向きが代わり右掌を頼りに登ったりすることになる。迷路のような登り階段をいくつもいくつも越えて登って行くうちに人は無言になる。

一方通行ではない、登りも降りもするその階段では、当然自分が登って行くと上から人が降りてくることだってある。他人の気配を感じたとたんに、誰もがうっと声を上げるのは、この階段には踊り場がないからだ。つまり、すれ違うことができない。
「……ええっと……どうも」
「こんにちは。」
上から降りて来たフランス人らしい美人と俺は、階段の途中で顔を突き合わせて、お互いに曖昧な笑顔を浮かべた。しばらく沈黙した後、彼女が上を指さしてゆっくり踵を返した。
「…ちょっと上にすれ違いのできるとこがあるわ。」
「……ゴメンね。」
彼女に従って登って行けば、階段を二周くらいしたところの壁に、人一人分ぐらいの窪みがあり、そこからは外が覗けた。彼女は先にそこに入って俺を待っていた。
「どうもありがとう。」
言ってウィンクをすれば、明るいところで俺の顔を見た彼女は驚いたように目を見開いたが、不意に納得したように上を指さした。
「まだまだあるわよ。頑張ってね。」
「ありがとう。」
そういうことを幾度か繰り返しながら俺は更に黙々と階段を登った。




ハイネルは何でも出来る。
語学は文句なしに得意だし、マシン関係の力学の全てに詳しいし、チームの経営から経理学、会社間のパワーゲームにも明るい。何もかもが、それ一つだけを生業としている通常人よりも、遥かに頭抜けて、出来る。
ハイネルの不幸は何でもトップレベルの水準で出来ることだ。それも、他の人間では代わりが利かないくらいに。
だからあらゆるジャンルの人間がハイネルの才能を欲しがる。マシンデザイナーとして、監督として、会社役員として、語学のスペシャリストとして、大学の非常勤講師として、コンピュータ・プログラマーとして、外にも色々。
だけど当然のことながらハイネルは一人しかいない。一人の人間に出来ることはどんなに頑張ったって限られているのに、生真面目で根が素直な彼はその全ての期待に応えようとする。
通常は人間は持ち合わせた才能の方が限られていて、その人間が必要とされるシチュエーションを幾つかに制限する。だが、下手に多才な彼は、才能の限界に縛られることができない。何もかもが出来るから、何もかもに応えようとして、そして当然にそれをずっとこなして行くうちに無理が発生する。それなのにハイネルは自分を求める手のどれ一つとして捨てることが出来ない。
(そりゃ、いくらあいつでも潰れるわな…)
大の男を相手に、心配するだの何だのもおこがましいが、それでも気になる。
俺なんてドライバーという肩書の他には、親の会社の名のみの役員すら嫌って、あとは"あの親の息子"というのと"ハイネルの恋人"というぐらいの肩書しかもっていないというのに。
愛情だけであの男を救ってやれたらどんなにいいだろう。

もしハイネルがここを登ったなら、あいつは何を考えながらこの暗く長い階段を登ったのだろう。己の内側を深く掘り込んでいくような、このガウディの螺旋階段を。



不意に視界が開けた。これがてっぺんかと疑うほど呆気なく、短く狭い通路が開けている。塔と塔の先端を繋ぐような渡り通路が明るい光りに照らされている。空が
…空が見えた。
明るい、深すぎる青に満ちた、空が、一片の雲もなく頭上一面に広がっている。
眼下にはバルセロナの町並みが小さく見えた。

ひらり、と薄色の布地が強風を受けて、大天使の羽のように翻っていた。その主は、真っすぐな眼差しを仰のけて、空を見ていた。
バランスの良い長身は風にも微動だにせず、石とタイルとで固められた手摺りに真白い手を置き、厳しい横顔を見せてただ一向に天に視線を向けている。
声を掛けるのが惜しくて、俺は暫く声も掛けずにその姿を眺めていた。

「……グーデリアン」
静かな面が俺を振り返る。地上に視線を戻したハイネルは、何から自分を護ろうというのか、髪も立て眼鏡も掛けた完全武装の姿だった。淡いベージュのコートの裾がひらひらと風に舞っている。
「…何、見てたんだ?」
ようやく足を踏み出してハイネルの隣に並び、にこりと笑い掛けてやると、ハイネルは微かに目を眇めた。
「空を。」
「落ち着く?」
「ああ。」
地上遠く離れた場所で、風に吹かれている。視界に入るのは空のほかにはせいぜい塔の先端だけだった。美しいタイルで飾られた塔は、もう手の届く場所にある。
「毎日ここに来てたのかよ?」
聞けばハイネルは小さく頷く。
「あのとんでもねえ階段登って?」
「朝食を食べたら登り、昼食を食べに降りて、また登ってずっと空を見ていた。日が暮れてしばらくしたら夕食を食べに降りる。」
珍しく規則正しいな、と言えばハイネルが軽くむくれて見せた。
「ちゃんと食事を取れと煩いのはお前だろう。」
煩いほど言わなければ、放って置けばハイネルは食事を取ることを忘れる。それが言わなくとも食事のことを思い出すということは、ここ数日仕事から解放されたハイネルはごく健康的な生活を送っていたということだ。
確かにこの男には、こんなふうに全てをリセットして何もかもから離れた生活が必要なのだろう。
「そんで、ここで何を考えてた?」
ハイネルが、マシンやコンピュータやチームや会社や語学が好きなのは間違いないのだ。好きでもない物のために自己犠牲的に頑張るほど、しおらしい男ではない。それでも、一時的にせよそれら全てを捨ててハイネルはここで空を見ている。
「……たまに不安になる。」
鮮やかな空を見上げて、ハイネルは一言言った。黙って聞いてやると、ぽろぽろと言葉が紡ぎ出されてきた。
「…あのチームには、私に楯突いて自分の意見を押し通そうとする人間がいない。会社でもそうだ。誰も私の意見に異を唱えない。私に意見をしない。皆私の言葉に頷いてそれを実行しようとする。…さすがに社長はそうじゃないが。」
会社でのことは俺は知らないが、確かにチームには、神のようにこいつを崇めて付き従っていくようなスタッフが沢山いる。そうでない人間を探す方が難しい。ましてハイネルの立てた計画や方針に対して、正面切って別の意見を出したり、その問題点を指摘したりする人間はごく少ない。
対立意見を出し、そして相手の意見を検討するには、相手に匹敵するだけの力量や意気込みや精神的強さが必要なのだ。力量のことだけを考えても、オールラウンドに能力を発揮するハイネルに対応するには、並の才能ではかなりの準備を必要とする。かくして、ハイネル本人には他者の意見を聞く耳が確かにあるのに、誰も意見を出さないという環境が成立してしまう。
「…まるでチームの独裁者になったような気がする。皆が私の言葉に納得して従ってくれているのか、私が他の意見を封じているのか、区別がつかないんだ。」
"独裁者"という言葉を、ハイネルは酷く忌ま忌ましそうに発音した。ああそういえばこいつの国の歴史には、世界史に残るような独裁者がいたな、と俺は思い出した。だからドイツ人はこの言葉にとても敏感だ。
「私がヒステリーを起こしても、八つ当たりをしても、誰も何も言わない。そんなチームじゃ、駄目だ。」
明るい天から降ってくる光は、くっきりとした陰を作る。その影の艶やかさに言葉を失う俺の前で、ハイネルの薄い唇がそっと動いて短い言葉を綴る。
"I ask myself"と。
「…だから、私はいつも自分の中を見て、問いかけなければならないんだ。他人に見当違いの何かや理不尽な何かを押し付けていないかどうかを。」
鮮やかな陰影の優しい面差しは、常に決然と天を、己の眼前を、見据えて退かない。落ち着いた声音を俺は聞く。
「こんな空を見ると何だか安心する。…この色はドイツの空にはないんだが。」
大丈夫、ハイネルはもうとっくに自力で立ち直っている。己の中に巣くう問題点に気づいても、絶対にこの男は一歩たりとも退かずに己の力で戦い抜く。もし立ち竦んでいればいつでも護って甘やかしてやろうと思うのに、俺の出番なんて作ってはくれない、つれない恋人。
「"空"ならここにあるだろ。」
俺が自分の目を指さしてにやにやと笑えば、ハイネルが意外に真剣な眼差しでそれを覗き込んできたので、俺は一瞬絶句した。
「その"空"は外出中だったんでな。同じ色の空を探したらこんなところまで来てしまった。」
また顔を返して鮮やかな天を見上げるハイネルの目が、光を受けて綺麗な緑に輝いている。
「…よその空も、代わりぐらいにはなるんだがな。」
サグラダ・ファミリアから見上げるスペインの空、ドイステープから見上げるタイの空、ブルーモスクから見上げるトルコの空。どこの空も申し分のない、鮮やかで一片の曇りもない深い色の空だ。
「やはり代替物は本物には敵わん、ということか。」
「………。」
穏やかに笑って、ハイネルは身を返した。ゆっくりと俺の脇を通り抜けざま、ぽんと肩を叩いて行く。
「降りよう。…………お前、顔が赤いぞ。」
自覚はあったから、俺は言い返すこともできなかった。

短い通路を擦り抜け、塔の中へと入って行ったハイネルの後から、暗い螺旋階段に足を踏み入れて、俺は口を開く。
「俺はお前の…」
「…うん?」
支えになってやりたいなんて、陳腐すぎてどうも口に出来なかった。それに、これほどまでに己の力で戦う男に、それは却って失礼な台詞だろう。何か言ってやりたかったのに、どうも上手いこと言葉にならなかった。ようやく出て来たのが、これだった。
「…たまには力抜いてろよ。俺は、お前に、何も求めないからさ。」
これは欺瞞だ。
誰より強く、俺が、ドライバーとしての俺が、デザイナーとしてプログラマーとして監督として、そしてライバルドライバーとしてのこいつを求めている。それだけ沢山のポジションにあることを要求しておいて、何が"何も求めない"だというのか。
だが、真っ暗な中をゆっくり降りて行くハイネルが、笑う気配がした。張り詰めていないこいつの後ろ姿も、ごく魅力的だった。
軽いトーンの笑い声をたてて、前を行く男はとんでもない言葉を口にした。
「………"カラダ以外は"?」
「………っ、馬鹿!」
階段を踏み外しそうになって、俺は喚いた。取っ捕まえようにも足場が悪すぎて、それに手も空かないしで、俺はひたすら必死に前を降りて行く背を追った。
「とりあえず食事にしよう。ワインビネガーとオリーブオイルで生野菜を食べるのは、結構美味いぞ。…お前の減量メニューに取り入れてもいいな。」
ハイネルは楽しそうにリズミカルに階段を降りて行く。
「それから、戻りのフライトを手配せねばな。…そういえばお前、仕事はちゃんとこなしてきたんだろうな?」
ここ数日、日に何度か上り下りしていたというから、ハイネルの足取りは軽い。
だが、降り始めて気づいたが、この階段…降りる方が登りの何倍も怖いのだ。本気で足元が見えないし、いつ足は踏み外してもおかしくないし、何より地の底に潜っていきそうな不安感が、じわじわと足先から立ちのぼってくる。頼りになるのは片手で触れている壁だけで、しかも壁にはとっかかりが全くないから、いざというときには何の役にも立ちそうにない。
そんなわけでひたすら階段に集中しながら俺は呪詛のように呟いた。
「くそっ、下に着いたら覚えてろよ……お望みどおり速攻ベッドの上でいやっていうほど泣かしてやるからな、このじゃじゃ馬っ」
「……そんな希望なんて出してないぞ。」
地面に近づけば近づくほど、本当にその場で何かされそうな気になったのか、ハイネルの声が不安気なものになる。
「やだねー、俺はやるっていったらやるぜ。」
「こらっ、グーデリアン!」
どんどん地面は近づいてくる。幸い誰も登ってくる人間はいないようで、俺たちはくすくす笑った。



世界中の人間よ、こいつを取り巻く人間たちよ。
頼むから自分自身に問いかけてくれ。
必要以上のことをこいつに求めてはいないかどうか。いつでも、どんなときでも。こいつが己に問いかけているように。
"I ask myself"と





 ふうー・・・・・。なんだか溜め息が出てしまうようなお話ですよね!あんまりうまく表現できないんですけど、よしのさんの描かれるグーデリアンとハイネルは、自分の意思をきちんと持っているんだけれど、その意思を大切にしつつ、周囲の人たちの意見をも素直に聞き入れて尊重することのできる人たちですよね。他人の意見に流されてしまうのではなくて、自分自身の生き方や考え方に自信を持っているからこそ、そういうスタンスを取ることができるんだろうな、と思います。カッコいいです・・・。

 それにしてもよしのさんのグーデリアンは知的で、読んでいるともうただひたすらうっとりですー。こういう人にスペインまで追いかけてきてもらえるだけの価値があるハイネルももちろんステキなのですが!

 しかも今回は舞台がスペインでしたよね!私はスペインというか、ヨーロッパに足を踏み入れたことが一度もないので、スペインの空気をも疑似体験して楽しませていただきました!ガウディの螺旋階段、ぜひ一度登ってみたいです。グーのような哲学的思索に耽りながら・・・といいたいところですが、私のことですから、よしのさんのグーハーのことを思い出して哲学とはかけ離れた締まりのない顔をしてしまっていることでしょう(笑)。

 よしのさん、いつも本当にありがとうございます!カッコいいグーハー、今回も堪能させていただきました!

          


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