あと数時間もすれば、隣にいる人の声さえ聞こえないほどの喧騒につつまれるここも、朝日の昇りきらない薄ぼんやりとした明かりの中では、静寂が空気の微粒の中をたゆたっている。
各チームのピットもまだシャッターがおりたままで、乾いた風だけがまだ冷たいアスファルトの上を動いてゆく。
そんななかで、ハイネルはひとり、コースを歩いていた。
まだドライバーであった頃は、路面の状態を見ることも兼ねてウォーミングアップのためにジョギングをしたものだが、今はただ、コースの隅々までを脳裏に叩き込むことに専念する。
小さな破片ひとつが命取りになりかねないスピードで走るから、どんな些細な見逃しも許されない。
まして、自分がデザインし、設計した車に、自分以外の命を乗せるのだ。
どれほど万全を期してもしすぎることはない。
路面やコーナーの角度、ストレートの長さ。
そんなものだけでなく、目に見えない風の存在を示してくれる木々やフェンスの隅でつつましく咲いた小さな花など、コースから見える景色すべてを、ハイネルは覚える。
平均時速300キロを超えるマシンからは、一瞬にも満たない景色。
だがそうすることで、ハイネルもまた、ハイネルの夢をマシンに乗せて走るドライバーが見る風景を思い描くことができるのだ。
あと少しで、気温が急上昇をはじめる。
おろしたままの髪を、乾いた大気がすり抜けてゆく。
姿をほとんどあらわした太陽の破片が、蒼白いハイネルの肌を暖かい色に染める。
わずかに白くなる呼気を、ハイネルはゆっくりと吐き出した。
「ハイネルぅ〜」
ハイネルが最後のコーナーを曲がり、チェッカーフラッグが振られる位置まで何にも遮られずに見えるところまで来たとき、間延びした声が聞こえた。
それも、ハイネルが今まで歩いて来ていた、後方から。
そのあまりにも聞き覚えのありすぎる声に、わざと歩みを止めずに無視していたら、思ったよりも早く耳元でもう一度呼ばれた。
「こんな早くから何してンだよ」
昨夜ベッドをともにした男は、下はスウェットパンツに上は素肌にパーカーを羽織っただけの恰好だ。
ハイネルが喉から手が出るほどに欲した筋肉の鎧を惜しげもなく外気に曝し、理想的なラインを形づくる体躯は、車輪の上にあった。
道理で速いはずである。
「おまえ、それっ…」
「あ、これ?乗りやすいなぁ、俺気に入ったよ」
彼の体の大きさに比してかなり小さく見えるそれは、昨日届いたばかりのハイネルの自転車だった。
『車ばかりでは、身体によろしくないでしょ』
と、妹の笑みを髣髴されるカードとともに送られてきたのだ。
ハイネルの父親の会社シュトロブラムスは、世界に名立たる4輪車のメーカーであり、その高性能さと安全性は高く評価されている。
そのシュトロブラムス社が、アウトドアブームと環境保護の両方をうたい文句として作ったのが、この自転車だった。
まだ開発途中の試作品とはいえ、その完成度はすばらしく、シンプルなラインでありながら品の高さをさりげなく醸し出し、走行音はほとんどない。
何よりも他の自転車と違うのが、そのグリップ部分だ。
さすがシュトロブラムス、と届いたそれを見たチームクルーが口を揃えて言ったその形状は、自転車のグリップというよりも車のステアリングと言った方が近く、どんな走行スタイルや道路状況でも安全な運転ができるように設計されていた。
ただエンジンがついてないだけで、これまでの車と掲げるものは同じと言わしめただけはある、斬新なモデルだ。
サイバーの方にかかりきりだったハイネルはこの自転車の製造には何ら寄与しておらず、だからこそ、乗る前にデザインや細部の形状等を見ようとわざと置いておいたものを、ちゃっかりと乗られてしまったのだ。
「なぜ貴様がそれに乗っている!?」
「なんでって、もちろんコースの下見のため」
噛み合っているのか合っていないのかよく分からない返答をしゃあしゃあとする相手を睨みつけようとして、だがハイネルはそのまま何も言わずに踵を返し、視線を合わさないようにしたまま急いで歩を進めた。
「あ、ハイネル!」
ハイネルが怒ったと思ったのか、いくらかうろたえた声で呼ばれても、ハイネルは振り返らなかった。
なぜならば。
もう、肌を合わせるようになってからずいぶんと経つのに、ハイネルはいまだに、朝、ゆっくりと彼が起きるのを待つことが出来ない。
そういうことをすること自体はかなり消極的ながらもハイネルだって望んだことであるし、あられもない恰好をさせられるのだって最後まで拒んだことはない。
それは、いいのだ。
欲情を含んだ蒼い瞳に見つめられ、熱に浮かされ快楽に翻弄されるのは、自分でも可笑しいと思うほどに気持ちがよかった。
だから、いいのだ、そのことは。
いいのだけれど。
その跡を色濃く残したベッドの上で、しかも明るくすがすがしい朝日の中で相手に己の姿を見られるのは、どうしても避けたかった。
彼が残した己の肌に残る花びらのような鬱血も、相手を受け入れ受け止めた名残で引きつる足の付け根も、太陽の元に曝されて見せ付けられるのは、たまらなく恥ずかしかった。
一度、うっかりハイネルが寝過ごしたときなど、『夕べは可愛かったよ、ハニー』などとキスをされながら言われてしまい、前後不覚に陥り、思いっきり相手をぶん殴ってしまったこともあったくらいだ。
だから、立たない腰を叱咤しながらも、ハイネルは相手が起きる前にシャワールームへ逃げ込むことにしていた。
できれば、すべての痕を洗い流し、いつもの自分の冷静沈着という名の仮面をつけるまでは、顔を合わせたくないのだ。
だから、今日のように外に出ることもしばしばで。
そして、実はそれと同じくらい、自分が相手に残してしまった跡を見るのは、恥ずかしかったのだ。
ふわりと風をはらんだパーカーがひるがえった、その逞しい彼のわき腹に近いところに、うっかり見えてしまった引っ掻き傷。
クラッシュの多い彼は、それこそ体中いたるところに傷跡があるのだが、それとは違う、自分の指先がつけてしまった、それ。
思わず、せっかく焼き付けたコースの景色も吹っ飛ぶくらいの勢いで昨夜の痴態を脳裏に再生し、一気に熱が体中を駆け巡る。
耳から首筋まで染まった朱に、彼は気付くだろうか。
朝日の所為だと、誤魔化せないだろうか。
足早に逃げるハイネルを、だが彼はあっさりと捕まえた。
当たり前だ。
「ハイネル?」
あのときのような、甘く囁くような声を耳元に注ぎ込まれ、ハイネルは硬直した。
「はっ、離せっ」
かろうじて抵抗して出した声は、だが持ち主の意思を裏切って、低く掠れた、弱いものでしかなくて。
「ごめん、先におろしちゃって」
こめかみから頬へ、キスが降りてくる。
その心地よさに、うっとりとしかけて、けれどくるりと回された身体に気付いて顔を上げれば。
「お詫びに、一緒に乗ろう?」
荷台のついていないその自転車に、大の男がふたりも乗れるわけはないのだが。
そう思う間もなく、彼の大きな両手がハイネルの腰をつかんでハンドルへ乗せた。
「なっ…」
そしてハイネルの腰を挟むようにグリップを掴んで彼は自転車をこぎ始める。
進行方向に背中を向けているハイネルに見えるのは、熱くなりそうな青空と高く上りつつある太陽、そしてそれよりもさらに深く蒼い彼の瞳と陽射し色の彼の髪だけ。
不安定な体を支えるために手を置いた彼の肩は、ぐんぐんと風を切っている。
それが、思いのほか、気持ちよくて。
だから、ハイネルは、告げた。
「下見を、するぞ」
そのために、来たのだからな。
後ろ向きに見える景色は、きっと今までと何か違う発見があるかもしれない。
そんなハイネルの言葉に、彼はちょっとだけ驚いて、それから朝日に負けないくらいの笑顔を、その瞳にのせた。
「オッケ」
自転車が、朝日の中を走る。
風よりも、速く。
サーキットでコースの下見をするグーやハイネルのお話をしていたら(しかも自転車や原チャリで!)、といきゃっとさんがこんなにステキなお話にして下さいました。
うーん、あっという間にステキなお話に変えて下さってビックリです。すごい!
自転車が走っている時に感じる頬に当たる風を、私もグーやハイネルと一緒に体験しているような気分にひたれました。ありがとうございます!
それにしても、ハンドルの上に座っちゃってるハイネルってめちゃくちゃかわいいですね。しかも後ろ向き!
そして、ハイネルをハンドルの上に乗せてもまったく意に介さずにぐいぐいと自転車をこいでいるグーも目に浮かびます。力強いグーもステキ・・・。
私は、最後の「オッケ」の一言がなぜかとてもとても好きなのでした。といきゃっとさんのグー、かっこよすぎです!
といきゃっとさん、思いもかけず自転車でコースをかける彼らが見られて本当にうれしかったです。ありがとうございました!