"604800秒の孤独"


 味のつけられていない煮たワイルド・ライスとマッシュ・ポテト、茹でただけのパスタ、バターと砂糖を含まないライ麦パン。他には数種類の錠剤と粉末プロテイン、ハイネル調合の怪しいドリンク。
 それと水だけが、ここ数日グーデリアンが口にしている物の全てだ。
 アルコールも煙草も、大好物の肉も甘い菓子の類もないが、そのことに対して不満はない。
 体を作り込んでこその満足な成果が叩き出せるようになったここ数年、グーデリアンはハイネルや医師、栄養士の指示を忠実に守り、少しでも速くマシンを走らせることができる体作りに専念している。体をいじめて筋肉をつけられるだけつけて、絞られるだけ絞り、体脂肪率を目標数値まで下げた後は、当たり前のようにカーボ・ローディングがスタートする。
 そう、不満はない。
 たったひとつの事項を除けば。




「要するに、不摂生の賜です」
 そう言い切った主治医に、言葉の使い方が間違っている、とハイネルは訴えたかったが、言ったところで無駄、下手をすると倍返しになって跳ね返ってくる可能性が高いと判断して沈黙した。そんなハイネルの殊勝な態度に満足したのか、医者はそれ以上なにも言わず、薬を処方してくれた。
 ハイネルにつけられた病名は『ウィルス性結膜炎』、全治約一週間。たかが結膜炎、多少目が痛かったり痒かったりするが、命に関わるようなものでもなければ、安静にしなければならないようなものでもない。
 しかし処方箋に書き添えられた『感染のおそれあり、完治まで外出禁止』の文言は、ハイネルにとって"痛恨の一撃"だった。




 マネージャーから連絡を受けてさっそくハイネルを迎えにきたグーデリアンは、『そう落ち込むなよ』とハイネルの頭をなでなでして、すぐに治るよ、と優しく頬にキスしようとしたが。
「駄目だっ!」
 真剣な眼差しでキスを拒むハイネルに、グーデリアンは呆気にとられる。
「今、お前にこんなものをうつしたりしたら、テスト・ランの予定が狂う!」
 そう叫ぶハイネルに、今更だよ、とグーデリアンは笑って応じた。
「だって、今朝お前を送り出すときに、俺たちしっかりキスしたんだからさ」
 けれどハイネルは、駄目だの一点張り。
 結局『ハイネルが完治するまでは絶対に触れない』という条件と、カーボ・ローディングの必要性から、グーデリアンはなんとか同居生活の続行だけはハイネルに了承させることができた。そうでなければ即、適当なホテルに一人淋しく押し込められていたことだろう。
「絶対だぞ、指一本でも私に触れれば、その瞬間にたたき出すからな!」
 後部座席で身を縮こまらせて叫ぶハイネルに、グーデリアンは完治までの間どのような同居生活になるかを想像して、密かにため息をついた。




「あーあ…」
 午前5時、ロードワークのために起床したグーデリアンは、リビングをのぞき込んでがっくりと肩を落とした。
 煌々と明るい部屋のそこかしこにノート型パソコンやデスクトップ、液晶モニターが据え付けられ、それぞれがてんでばらばらな作業に励んでいる。電子メールを受信しているPC、受け取ったデータを解析しているPC、ファイルを解凍しているPC。それぞれが接続されたプリンターからは、ひっきりなしに何らかの数値がはき出されている。
 そしてそれらに囲まれて、ハイネルはソファでしわくちゃの毛布にくるまって眠っていた。
「全く…」
 あどけない顔で眠るハイネルをベッドに運んでやろうと、抱き上げた途端に、グーデリアンの腕の中で温かな体が身じろぐ。
「ん…グーデリアンか?何時だ?」
「いいから、もうちょっと寝てろよ。まだ…」
 グーデリアンが言い終えないうちに、ハイネルは乱暴にグーデリアンの腕を振り払った。
「私に触るな、グーデリアン!」
「触ってないよ。直接は」
 ほら、毛布越し、と毛布を広げて見せたグーデリアンを充血した目で睨みつけて、ハイネルはまっすぐにバス・ルームへと向かい、その後をグーデリアンがとことこ追いかける。
「ついてくるな、さっさと走ってこい」
「その前に目の保養くらいさせてくんない?」
 グーデリアンの台詞に眉根を寄せたハイネルは、目の前の男を顔をのぞき込み、しげしげと観察したあげくに、極めて健康そうな眼球だ、と断言した。
「即ち、保養の必要は全くない」
「健康だから必要なんでしょーが」
 にやにや笑ってバス・ルームまでくっついてきたグーデリアンに、ハイネルは無言のまま、愛用しているムースの缶を投げつけた。




 ちぇっ、ちぇっ、ちぇっ、と毒づきながら走るグーデリアンは、欲求不満もいいところ、もう爆発寸前だった。
 ハイネルと24時間いっしょ、寝ても覚めてもハイネルが側にいる生活。
 なのに、なのに、なのに!
 目の病気のせいで、ハイネルに指一本触れられない!(病気だから自宅に居るのだが。)
 ならばせめてそのスレンダーな肢体を拝ませて、と懇願しても、ハイネルは冷たい。
『たまっているなら、もう一段きついスケジュールを組んでやろうか?』
 などと言う始末。
 体はもちろん、極限まで疲れている。毎日最低でも3000キロカロリーの消費を強いられているのだ、疲れていないはずがない。
 ああ、でも男の生理というやつは、本当にままならない。
 疲れているのに、それとも疲れているからこそなのか、反応してしまう下半身。
 その上自宅にいる気安さからか、ハイネルはいつものつんつん頭じゃなくって、サラサラふわふわの猫っ毛をおろしたまんまで、さらにはジップ・アップのコットンシャツにチノパンツなどという、いかにも脱がせ易そうな格好でうろうろしてくれたりなんかして、今朝なんて寝てたからだろうけれど、思いっきりルーズなボートネックのTシャツにハーフパンツ、しかも裸足。
 ハイネルは目の病気で、なのにシェイクダウンを控えててめちゃくちゃ忙しくて、労ってやらなきゃいけないと頭では解っているのに、可愛くって可愛くって、もひとつ可愛くって、そりゃあもう、とびっきり美味しそうで…。
 贅沢を言っていると、自分でも思う。
 会えないよりは会える方がマシで、会話さえできなかった3日間を思えば、ただ触れられないだけで側に居られる方がずっといい、筈だ。理屈では。
 なのにこの胸を掻きむしられるような切なさは、もはや耐え難い。
『やりてぇよ〜、すっげぇ、やりてぇよ〜ぅ、ハイネル〜』
 眠っていた凶悪に可愛いハイネルを思い出して、むせび泣きながら走るグーデリアンだった。




 関係者以外立ち入り禁止の厳重な警戒の下で行われたテスト・ランは、ハイネルをこれ以上なく満足させる結果となった。
 新型シュピーゲルもサイバー・システムも、時間がなかった割には順当な完成度を見せたし、快晴に恵まれただけあって路面の状態も申し分なく、必要なデータを十分に集めることができた。
 だが何よりもハイネルを満足させたのは、グーデリアンの走りだ。
 グーデリアンはテスト・ドライバーやルイザらがそろって20周足らずで音をあげたハードなセッティングを物ともせず、淡々と周を重ね、レース・スタンディングを軽々と走りきって見せたのだ。しかもコース・レコードを叩き出すという快挙つきで。
「よくやった!グーデリアン」
 上機嫌で叫んだハイネルに当然、とウィンクつきの笑顔で応じたグーデリアンは、しかしさすがに疲れているらしく、どこか精彩に欠けた表情だった。
「俺、もう上がっていいかな?」
 レーシング・スーツの襟元をゆるめ、首まわりの汗を拭うグーデリアンに、ハイネルは笑顔で応じたが。
「少し待ってくれ」
 てきぱきとクリップ・ボードに挟んだ書類に何事かを書き込み、スタッフの一人に手渡して。
「では後は任せる。グーデリアン、疲れただろう?帰りは私が運転しよう」
「へ?」
「私も帰宅する、と言っているんだ。シャワーを浴びるのは家まで我慢しろ。すぐに連れて帰ってやるから」
「いいのか?」
「ああ、私も限界だ。このテスト・ランのために随分無理をしたからな」
 まだ少し赤い目を細めて笑うハイネルにグーデリアンも頷いて、帰りも俺が運転すると、半ば強引にポルシェのキーを奪い取った。




 そうして二人揃って自宅の玄関に足を踏み入れた、その瞬間だった。
「グーデリアン」
 ハイネルがそう囁きながら、グーデリアンの首に、両腕を巻き付けてきたのは。
「ハ、ハイネル?」
 眼鏡をかけたまま性急に唇を押しつけてくるハイネルを受け止めて、グーデリアンもとまどいながら唇を重ねる。
「お前が、欲しい」
「…って、お前、まだ目が……」
「お前にならば、うつったところで3日で治る」
 次のテスト・ランは3日後だ、と応じたハイネルに。
「んな心配、してねーよ」
 不機嫌に唇を尖らせたグーデリアンは、もう遠慮なくハイネルにキスを押しつけた。ついで眼鏡を外し、逆立てた髪の毛に両手を差し入れ、くしゃくしゃにかき混ぜる。
「お前が欲しくて、抱きたくて、気が狂いそうだったのは、俺の方だ。1週間」
 キスさえできなかった、1週間。
 たったの7日間、けれど168時間、10080分、604800秒。
 その時間を取り戻す勢いで、グーデリアンはハイネルに口づける。
 頬に、瞼に、薄く開いた唇に。
「…ハイネル、ハイネル…フランツ…」
 キスの合間に繰り返し名を呼ばれて、ハイネルは両腕を広げ、胸一杯にグーデリアンを抱きしめて、床の上に横たわった。
 グーデリアンは慌ただしくレーシング・スーツの前をはだけ、アンダーシャツを脱ぎ捨てながらハイネルに覆い被さり、監督服を慣れた手順で剥ぎ取る。
 露わになった肌をぴったりと重ねて、グーデリアンはようやく安堵のため息を吐いた。
 腕の中に、ハイネルがいる。
 たかがそれだけのことが、こんなに嬉しい。
 ハイネルの体は、女性との性交に慣れきったグーデリアンでさえ夢中にさせる。すらりと引き締まったしなやかな肢体に、クリームのような純白の肌は、抱きしめるととても心地よい。逆立てていない柔らかな薄茶色の髪は指に優しく、春の草原みたいな匂いがする。鮮やかな緑の瞳で見つめられればガキみたいに胸がどきどきするし、唇も胸の飾りもとても綺麗な淡い桃色で、ついついキスしてしまう。
 そしてグーデリアンに比べて体温のやや低い肌は、腕の中では涼しく感じるのに、内側はとても熱い。ハイネルの一見クールなくせに、本当は情熱的で一途な性格、そのままに。
 冷たい床にハイネルの細い腰や肩を押しつけることができず、自分が下になり、ハイネルを胸に引き寄せて、グーデリアンは意識せずに笑みを浮かべた。
 愛しい。
 愛しくて、愛しくて、たまらない。
「愛してる、フランツ…」
 溢れる思いを素直に告げたグーデリアンに、ハイネルも簡潔に応じた。
「私もだ」
 と。










 同じベッドで眠っていた恋人が離れてゆく気配に目を覚ましたハイネルは、そっと足音を忍ばせて寝室を出て行くグーデリアンを、眠ったふりで見送った。
 傍らの目覚まし時計は午前5時を示している。
「…帰宅してすぐに玄関で1回、バス・ルームで2回、ベッドで…」
 その後もう一度バス・ルームに移動して…と指折り数えていたハイネルは、しばらくの間は眉間に皺を寄せて考えていたが、すぐさま数えることを放棄してもう一度目を閉じた。
 タフな奴め、と微笑を浮かべながら。
 昨日のグーデリアンは、最高だった。
 アスリートにだって滅多にいないだろう、一切の無駄を省き、ただ走るためだけに磨き上げられた美しい肉体。苛烈なGにも耐えうる、強靱且つ柔軟な筋肉。
 そのグーデリアンにレーシング・スーツを着たまま抱かれ、濃厚な汗の匂いに包まれて、自分でも信じがたいほど昂ぶった。
 幾度挑まれても満足できず、独占を許された肉体を骨の髄まで貪りたくて、見られていることを知りながら唇を舐め、さりげなさを装って鍛え上げられた体に指を這わせ、もっと、と誘い続けた。
 さっぱり筋肉がついてくれない己の貧弱なヌードを見て喜ぶグーデリアンの気持ちは全く理解できないが、グーデリアンの引き締まった精悍なヌードに胸をときめかせる女性(及び一部の男性)の気持ちは十分理解できる、とハイネルは常日頃から思っている。言えば図に乗るだろうから、グーデリアンに告げたことはないが。
 そう、昨日のテスト・ランにマシンを無理矢理間に合わせたのは、グーデリアンの努力を水の泡にしないため。
 その瞬間のために、グーデリアンは自らの肉体を律する。
 鍛え、絞り、たったの一日分しか貯蔵できないグリコーゲンを限界まで肝臓と筋肉に貯えて、最高のコンディションでマシンを走らせられるように。
 本戦も予選も、テスト・ランも関係なく、疲れ切って目覚めただろう、こんな朝でさえも。
 プロだから、と言われればそれまでのことだが、それを実行できるレーサーが一体何人いることか。
 そしてこれほど真摯にハイネルのマシンを愛してくれるパイロットは、他に誰もいない。




「Good mornin' my sweet heart!」
 賑やかな声とともに寝室のドアが開かれて、コーヒーの満たされたマグカップを捧げ持ったグーデリアンが傍らへとやってくる。走り込みを終えたばかり、まだシャワーも浴びていない体は汗に濡れて、タンクトップと短パンをこんがり焼けた肌に張り付かせている。
「起きられるか?体、辛くないか?今日は何時から仕事なんだ?」
 矢継ぎ早に質問されて答える暇もなく、とりあえず口にしたコーヒーが濃く、熱いことに満足して、ハイネルは笑みを浮かべた。
「…今日はオフだ」
「げっ、マジ?」
「こんなことで嘘をついてどうする?」
「いや、そうじゃなくって…」
 知ってたら起こさなかったのに、と口の中で続けて、ふいにグーデリアンはハイネルの頬に手を添えた。
「目、治ったな」
「そうか?」
「うん。もう赤くない」
 屈託なく笑うグーデリアンに、ハイネルは苦笑した。
 結膜炎なんてとっくに治っていた。目が未だに赤かったのは睡眠不足、要するに不摂生の賜。
「よかった。俺、結構心配してたんだぜ。お前、無茶ばっかりするから」
 言葉の合間にキスを繰り返されて。
「駄目だ、グーデリアン…もう、できない。無理だっ!」
 唐突にグーデリアンの熱い肌に気付いたハイネルは、慌ててキスを拒んだ。
 睡眠時間は短かったが、深く眠ったためか軽い倦怠感は感じられても、疲労感はない。けれど肝心な場所は疼き、熱を持っている。慣れた行為だけに痛みはないが、今すぐもう一度受け入れるのは辛い。
 でももう、グーデリアンは止まらない。
「ハイネル…俺、お前が欲しくて、たまんないよ、フランツ」
 ハイネルが選んだ恋人兼専属レーサーに捧げられた『サーキットの種馬』の呼び名は、伊達ではない。1週間の禁欲の後の情事としては、たったの1晩では足りなかったのだろう。しかも昨夜はハイネルから誘ったりしたものだから、そりゃあもう、浮かれてしまっている。
「夕べはとっても素敵だったよ、My honey。でも明るい光の中で見るお前は、きっともっと綺麗だと思うんだ」
 のうのうと言うグーデリアンに、調子に乗るな、と手をあげかけて。
 うっかり見つけてしまった情事の痕跡に、ハイネルは硬直した。湿ったままの黄色い髪が絡みつくうなじの、流れるように美しい筋肉と張り切った肌に、夢中になったハイネルが吸い付いてできた薄紅の痣。
 くちゃくちゃのシーツに押しつけられて、ハイネルは小さくため息をついて目を閉じ、恋人の背中に両手を巡らせた。お気に入いりのマグカップを、安全な場所に避難させてから。
 オフと言ったところでせいぜい24時間、1440分、たったの86400秒。思う存分汗くさい男を堪能するのも、悪くない。
「…昨夜はお前も可愛かったぞ、グーデリアン」
 即座に思考を切り替え、両手でグーデリアンの頬を包み込んだハイネルにグーデリアンは極上の笑みを見せ、強く抱きしめた。
 1万分の1秒速く走るために耐えた604800秒の孤独を、二人で埋めるために。



 というわけで(?)瀬名さんに「Your eyes only」の続きもいただいていたのでした。前回書き忘れてしまったのですが、「Your eyes only」は007シリーズでご存知の方も多いかと思うのですが、「これはあなたの目だけに触れさせて下さい(=他の人に見せるな)」的な意味だそうです。瀬名さんも博識な方だ・・・。教えて下さってありがとうございます!カーボ・ローディングはcarbohydrate loading・・・でいいのでしょうか?炭水化物を運動前に蓄積しておくことかな、と字面から勝手に(まさに勝手に・・・)判断したんですけど違っていたらすみません!こういうさりげないところがすごくカッコいいです瀬名さんのお話。ビバグリコーゲン!(意味不明なこと言ってすみません)

 そ、それにしても。このお話のグーはぜひ生で拝見したいです!ムダなく引き締まった筋肉で覆われた敏捷な体をレーシングスーツで包んでルイザ達がネをあげたサーキットでマシンを疾走させるグー!か、カッコよすぎです。マシンを走らせる時も男っぽく、ハイネルを求める時にも男っぽいグー・・・ドキドキしてしまいました。
 ハイネルもしなやかな肢体を持っているので、こ、こんな二人が絡んで(いろんな意味で)いるところはめちゃくちゃ色っぽいですよね。
 情事に及んだ次の日にハイネルを口説くグーのセリフがいかにもCF界1のプレイボーイの名を冠していたであろう彼らしくて素敵でした。そういうグーに「お前が欲しい」ときっちりと口に出して伝えることのできるハイネルも凛としていますよね。

 お話の中にもキーワードとして散りばめられている時間描写がとても印象的でした。"604800秒の孤独"ってとても鮮烈なイメージで素敵な言葉であり、タイトルだと思います。まさにこのお話にぴったりです。

 瀬名さん、いつも素敵なお話を読ませて下さって本当にありがとうございます!
 


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