その言葉にぴくりと揺れた薄い肩を抱きしめ、グーデリアンはもう一度しっかりと言った。
「何よりも、俺は、ハイネルが欲しい」
途端に暴れだす細くなった身体を、難なく押さえ込む。
「ドライバーとして、ライバルとして、監督として、マシンデザイナーとして」
抱きしめた、骨ばって硬い肩に唇をおとすように、グーデリアンは囁いた。
「だけど、そんな型にはめられたハイネルじゃなくて」
そのどれもが、ハイネルを形成するものだとはわかっているけれど。
「ハイネルそのものが、欲しいんだ」
その途端にすとんと力の抜けた身体をそっと離し、閉じられてしまった録玉の瞳を隠すまぶたにひとつ、キスをした。
「…いいだろう」
ややあってからハイネルの、形のよい唇が開かれ、息を吐き出すように、そう空気を震わせた。
「それで、お前が私のマシンで勝ってくれるというのなら、私の体など、好きにするがいい」
「ハイネル?」
どうも考えていたような反応をしないハイネルを、グーデリアンはまじまじと見つめた。
拒否されるか、それとも何を考えていると怒り出すか、もしも運がよければ、グーデリアンの姉妹とリサを喜ばす結果にもなろうが、ハイネルのとった行動は、その、どれでもなかった。
「お前は違うと思っていたが、それは私が甘かったのだろう。幸い、といっていいのか、私の身体はそういうことには慣れている」
そう言って、バスローブの紐を解き、すべらかな肌をグーデリアンの目の前にさらした。
「好きに、するがいい」
逸らされず、真っ直ぐにグーデリアンに向けられた瞳には何の意思もなく。
あれほどにほしいと思ったハイネルは、まるで感情のない人形のようだった。
そうじゃない、とグーデリアンはとっさに思った。
こんな風にハイネルを抱きたいわけじゃない。
「…俺は、違う」
だから、必死の思いで絞り出した声は、ちゃんと否定の言葉を紡ぎだしてくれた。
「何が、違う?」
精密機械と揶揄されるそのままの冷たい声に、グーデリアンの心までもが凍てつきそうになる。
「おまえが私のドライバーとなって勝利を掴む、その見返りとして私の身体をというのなら、それでもいいと言っているんだ」
もう散々汚されてはいるが、もし物好きにもそれでもいいのならば、と続けるハイネルの薄造りの唇を、グーデリアンは人差し指で触れることでそれ以上の言葉を止めさせた。
「そんなんじゃ、ないんだ」
どういえば、通じるのだろう。
「俺は、見返りの代償だなんて、思ってないし、もちろん慰みものとかにしようってんでも、ない」
それでもハイネルの視線の冷たさは、揺らぐことがなく。
「ハイネルが嫌だってんなら、何にもしない。約束する」
訳がわからないというようにその緑色の瞳が眇められるのを見、グーデリアンは、正直に言った。
「俺は、ハイネルが、好きだ。だから、ハイネルに、触れたい。ハイネルを、抱きたい」
だけど。
「だから、好きにするといいと、言っている」
こんな氷のような声で言われても、はいそうですかと出来はしない。
「だけど、身体だけじゃなくて、俺は、ハイネルの心がほしいんだ」
逸らされることのないハイネルの視線を真正面から受け止め、グーデリアンは告げた。
「私は、女性ではない」
髪の色よりもやや濃い目のハイネルのまつげが震えて白い頬に影をつくってから、ハイネルは冷たさこそないものの、それでも感情の読めない声で言った。
「うん」
グーデリアンは頷く。
「それでも?」
「それでも」
ハイネルが何を言いたいのかはわからないが、どんなことでも隠さずに心のうちを言おうとグーデリアンは思った。
「そうやって、今までも口説いてきたのか」
まるで吐息のようにそう言うから、グーデリアンは首を横に振った。
「私を、そのおまえを飾るステータスシンボルのひとつにしたいのなら、かまわない」
「そうじゃなくて!」
つい、声を荒げてしまい、びくりと震えた肩をそっと抱き起こした。
はだけたままのバスローブが肩から滑り落ち、消えかけている、嫌な記憶を呼び起こす跡があらわになった。
「確かに俺は今までたくさんの女の子たちと寝てきたし、それをいまさら否定するつもりもないけど」
遠くに聞こえる潮騒が、なぜか耳に心地よかった。
「どうしてかな、こんなにも相手の心が欲しいと思ったことは、初めてなんだ」
ハイネルが、ほんの少し驚いたように目を見開いた。
「あの時、ハイネルの姿見て、俺はどうしても怒りを抑えられなかった。ハイネルをあんなふうにするやつ一人ひとりに、復讐してやりたいほどに腸が煮えくり返ったんだ」
知らず知らずのうちに握り締めた拳が震える。
「そして、あんな目にあったのに、よくあることだって笑ったおまえにも、腹が立った」
「…グーデリアン?」
「なんで笑うんだって、俺の前で心を隠すなよって、そう思ったんだ」
ハイネルの視線がグーデリアンからはずれ、その拳へと降りた。
「痛いんなら、泣けよって。つらいんなら、我慢することなんかないって」
色が変わってしまうほどにこめられた力が、ふ、と抜け、ゆるゆると開かれる。
「んで、気づいちまったんだ」
中途半端に開かれたグーデリアンの太い指がハイネルの頬へ向かう。
「俺だったら、ハイネルにそんな思いをさせねぇのになって」
瞬きすら忘れたようにグーデリアンの手を凝視するハイネルの瞳がその指先を追って閉じられる。
「もう、ハイネルがそんな風に我慢するのを見るのが嫌んなっちまうほど、ハイネルに惚れてたんだって」
その無骨な指が己の頬をたどるやわらかな奇跡を、ハイネルはただ感じていた。
「ホントはさ、うれしかったんだ、俺」
そう言いながら離れてしまった優しい感触を惜しむように、ハイネルはもう一度目をあけた。
かすかに揺れた瞳の奥で、冷たさが溶けかけている。
「いつもは取り繕った表情しかしないハイネルが、俺には、俺だけには、怒った顔、見せてくれたろ?」
だからつい、調子に乗ってちょっかいばっかかけちまったけど。
ハイネルの頬に触れた指先で、グーデリアンは自分の小麦色の頭をがしがしと掻いた。
「…私も、うれしかったのかも知れない」
ややあってから囁かれた甘いテノールにも、険のとれたその瞳にも、もう、冷たさの欠片も見受けられなかった。
「おまえが、はじめから私の肩書きや家柄を気にしないで接してくれたことが」
初対面で女に間違えてくれたことを除いてな。
そう言って、ハイネルは微苦笑した。
「女と見れば見境なく鼻の下を伸ばす不埒者なのに」
乱れた蜂蜜色の髪から、ほとりと指が落ちる。
「強引で大胆で、計算も何もない走りのくせに、それなのに悔しいほど速くて」
「ハイネル」
「馬鹿みたいに真っ直ぐで、太陽が似合って」
「ハ…」
「そんなやつがライバルだって言われるのがなぜかうれしくて、なのに、こんな薄汚れた私との違いを見せ付けられるたびに悔しくて…」
グーデリアンは、それ以上をハイネルに言わせないように、その形のよい唇にキスをした。
「汚れてなんか、いないさ」
そのままなめらかな頬をすべり、処女雪を溶かしたような欠片がこぼれそうになるのを、すばやく吸い取って。
「ハイネルを汚すことなんて、誰にも出来ない」
耳元で言えば、ハイネルは擽ったそうに身を捩った。
「ハイネルの心の綺麗さは、そのままだよ」
涙腺に負けそうになって寄せられる、しなやかなラインの柳眉にも触れて。
「それよりもさ、認めちまえよ、ハイネル」
そして、もう一度、唇にキスをした。
噛み付くように激しく、ハイネルの呼吸までもを奪うように。
「そんな風に思うくらい、俺のことが好きなんだって」
「グー、デリアン…」
男を受け入れる辛さを知っているが故にこわばる身体を解きほぐすように、グーデリアンはキスを落としつづけた。
「俺に、ハイネルを全部くれよ」
出来る限り優しく触れるグーデリアンの唇と指先を追うように、ハイネルの吐息に甘さが混じり、蒼白いほどの肌が桜色に染まりはじめる。
貶めるための手と、想いを込めた手の違いに、ハイネルは戸惑いつつもすべてをグーデリアンに委ねることにしたのだった。



結局、翌朝、ハイネルは戻る予定だった便を遅らせることになった。
その件についてはなぜか深い理解を示しつつ、グーデリアンの姉妹とリサが大きなバスケットに朝食を詰め込んで現れたとき、ふたりともまだベッドの中だった。
しかも、それぞれが一つずつ使っていれば何の問題もなかったのだろうが、片方はブランケットからシーツまですべてがぐちゃぐちゃで見る影もなく、もう一方に平均身長を軽く超える男がふたりでシェアしていれば、とっくにバレていると知っているグーデリアンでもやはり焦るものだし、ハイネルなどはかわいそうなほどに慌ててしまい、呼吸困難になるほどにパニックに陥っていた。
そのハイネルを何とかバスルームへ着替えとともに押し込め、急いでベッドを見苦しくないほどに整えて(といってもブランケットを広げて掛けただけだが)から、ドアをがんがんと蹴飛ばす女性陣を招き入れた。
「わざわざすまないね」
一応、リサに愛想笑いをしながら挨拶すれば、あっさりと『義兄になる方ですもの、これくらい当たり前ですわ』などと平然と言われ、これにはさすがのグーデリアンでも脱力した。
その時刻に、本当なら空港にいなければならないはずのハイネルがまだここにいることだけですべてを察していたリサは、手早くハイネルの荷物の中からチケットを取り出し、キャンセルする旨と別便の確保をあっさりと済ませた。
崩れる足腰を宥めすかしながら、それでもいつもどおりの髪型と眼鏡をかけたハイネルがバスルームから出てくる頃には、陽射しはすっかり強くなり、海風が部屋の中の空気を新鮮なものに入れ替えていた。
チェックアウトをして向かった別荘には、散乱していたはずのグーデリアンの荷物もきちんと整理されてスーツケースに入れられ、その代わりに女性陣の色に染めかえられていた。
「だって、帰るんでしょう?」
それがさも当然といわんばかりの姉に、グーデリアンは頬をゆがめて笑った。
多分、事情をリサから聞いたのであろう。
それでも、グーデリアンの行動をしっかりと読めるあたりはさすがである。
「伊達にあんたの姉をやってるわけじゃないからね」
それでも本人よりもその思考をわかっているというのはいかがなものか。
ふん、と鼻を鳴らせば、妹のはしゃぐ声が聞こえた。
「ふつつかな兄ですけど、どうぞよろしくお願いしますわね」
語尾に飛び交うハートマークにも気づかず、それをドライバーとしてととったらしいハイネルは穏やかにうなずいているが、ありゃ絶対夕べのことはバレているなとグーデリアンは肩を落とした。
シュトロゼック・プロジェクトのピットは、さぞかし華やかで賑やかしいものになるだろう。
ハイネルの歯軋りする音まで聞こえそうで、それはそれで楽しくていいかもしれない、なんて思ってしまった。

『俺もこっちをカタつけたらすぐに行くから』
そう言って派手にウィンクしたグーデリアンは、国内線の搭乗口へ消えていった。
『せっかくだから私はもう少しバカンスを楽しんでいきますわ』と、すっかりグーデリアンの姉妹と意気投合したリサとも空港で別れ、ハイネルはひとり、暗い機内でわずかなエンジンの振動にすら痛む腰を宥めすかしつつ、口の端をうっすらと上向きにした。
ハイネルを待っているのは、最速のマシンと、最高のドライバーと、優秀なチームメンバー。
これだけ揃えば、何も恐れるものはない。
何よりも、もう、ひとりで闘うわけではないのだ。
これからは、不用意に、または、悪辣な意図を持って近づいてくる『他人』に怯えることもないだろう。
血の繋がりすらもない他人であるはずの、あのお日さま色の頭と笑顔がハイネルの心の中を占拠している限り。
だから、今この数時間だけは、身体に残る気だるい重さにまかせて休むとしよう。
また、忙しい時間が始まるのだから。




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