そう言えば、あの時もこんな満月の夜だった。
思い出をたどりながら夜道を歩く。
大きな満月が枝の向こうに出ていて桜が白くほんのり光るようで、
その下で、
桜吹雪の中で、
ご機嫌で花びらを撒いていた妹。
あの桜は確か、
確か、ここに。
あったはずなのだが。
どう見ても桜の木なんてない。
こんな小さな祠は見たことがない。
道を間違えたかと踵(きびす)を返した時、
「兄さん」
おりんの声がした。
振り向かなくても分かった。
駆け寄る足音がする。
背中にぶつかるように、
抱きついてくる。
そう、
鼻をぶつけて、笑うのだ。
「兄さん」
幼かった頃と同じように。
「おりん」
顔を見合わせて笑う。
笑いながら、
嬉しいような、
少し泣きたいような気持ちになった。
これまでずっと悩み憂え案じていたことが、
叶うとなれば、あまりにもあっけなくて。
なんだ。
こんなに簡単なことだったのか。
鈴も、
桜も、
何もなくても、
そう。
もしかしたら、桜吹雪も・・・
「ねえ、兄さん。ちょいと手ェ出しておくれな」
いたずらっこみたいな瞳を輝かせる、おりん。
出しておくれ、と言いながら、自分からもう手を取っていて。
手のひらの上で守り袋を軽く振る。
守り袋の先で揺れるのは、鈴の無くなった五色の糸。
「お前、鈴はどうしたンだい?誰かにあげたのかイ?」
あんなに大好きだったのに、
どうして手放したりしたのだろう。
「ウン・・・・・・私には、これがあるからサ」
「え?」
揺れる五色の糸の後を追うように、
ハラハラと。
ハラハラと、
薄紅色の花びらが手のひらへ舞い降りてくる。
これは、
「あの日、兄さんが捕まえてくれた桜だよ。この桜吹雪だけは忘れるな、って兄さん言うからサ、大事に大事にとっといたンだ」
綺麗なモンだろ?
驚いたかイ??
楽しそうに笑う妹に、素直に頷く。
驚いた。
幼い妹は、ただ無邪気に花びらを撒いて喜んでいるとばかり思っていた。
自分の言葉を聞いて、そんなことを考えついていたなんて。
「これを覚えていれば、いつか必ずまた会えるからって」
<おりんちゃんは毎日、兄さんが来るのを待っておりやすよ―――大好きだった桜吹雪を忘れずにねえ>
そうか。
そうだったのだな。
「どうしたの?兄さん。急に笑い出したりして」
たぶん自分でも分かっていたのだ。
こんなこともあろうかというコトは。
ああ、
いっそ晴れ晴れした。
「おりん、ちょっとこれをご覧」
薄紅色の花びらの積もった手のひらはそのままに、
ゆっくりと袖を引く。
小首をかしげて覗き込む、おりんの瞳が丸くなる。
「あらまア驚いた。綺麗だねエ」
冴えた月明かりに鮮やかに浮かぶ、桜吹雪。
「私も桜吹雪を忘れぬように、な」
はアあ、と感心した溜め息をつきながら頷いている妹が、
大きくなったとは言ってもまだまだあどけなさを感じさせて。
思わず顔がほころんだ、その時。
小枝を踏むような音が祠の陰から聞えて振り向くと、
そっとその場を離れようとしている男の後ろ姿が見えた。
誰だ?と問いただそうとしたら、
「佐吉さん」
今まで見たことのない笑顔で、
おりんが名を呼んで。
佐吉、と呼ばれたその男は立ち止まって、
こちらを向いて頭を下げた。
「手前は呉服屋の手代をしております、佐吉と申します」
実直そうな人相に似合いの穏やかな声で話すその若者は、
どことなく緊張しているようだった。
葡萄葛の袷なんて派手な格好をしている自分が、堅気に見えないからだろうか。
相手を不必要に脅かさないように、丁寧に頭を下げ微笑んで語りかける。
「おりんの兄、鶴松にござる。ゆえあって、今は稲垣右近という名を頂戴しております」
「あア!やっぱりお兄さんでしたかい、おりんちゃん良かったなア」
思わず歓声をあげてしまった、という感じで弾んだ笑顔を見せる佐吉。
それで勢いがついたのか、滑らかに話しだす。
「おりんちゃんが夜になっても帰って来ねえって左平次さんが心配なすってたンで、心当たりを探してたところで声がして・・・邪魔にならねえうちに退散しようと思ったンですが」
「帰ることないわよ、ちょうどいいわ。ねえ、兄さん」
おりんがクルリと正面に回って、佐吉と並んだ。
ふたりそろった姿を見た瞬間、おりんが何を言おうとするのか分かってしまった。
「いきなりだけど、私たち夫婦(めおと)になるの。兄さん、祝言には来てくれるわよね」
「もちろんだよ。日取りが決まったら教えておくれ」
さっきまで、あどけないと思って懐かしがっていた妹を、改めて大人になったのだと見直す。
晴れの門出の日を共に祝える幸せが、しみじみと湧いてくる。
「ホントは今日だったンだけど、雀庵さんに頼まれて日延べしたの」
「なに?」
ひとの大事な妹の一生に一度の晴れの日を勝手に日延べさせるなど、
言語道断!許せん!!
カッとなって走り出した自分に、おりんが後ろから何か一生懸命叫んでいたけれど、
それはもうあっというまに聞えなくなっていった。